まだ暑い国際通りをふらつき、5時過ぎに泊の友人宅へ。もう一人の共通の友人が、座間味島にダイビングに行っていて、彼とここで合流して一杯やるというのが今晩の予定である。三名とも、もとの職場の同僚である。ダイビングの友人は小生よりまえに沖縄に来ていた。東京でその昔よく飲んでいたが、故郷が沖縄の友人のところで飲むという話がおたがい老年?になって実現したわけだ。
08年の夏、退職した年の夏、その夏の最後の、いい思い出になった。泡盛づけの那覇だった。
(詩人I氏の店)
(立法院あと)
エール大学を卒業後、彼はニューヨーク大学の法科の夜間に通いながら、保険会社を設立し起業する。そして余暇に作曲を行っていたのであるが、1906年にアイヴズは、二つの短いオーケストラのための小品を作曲している。その一つがこの「答えのない質問」である。アイヴズの革新的な創作の先駆けとなった作品といえる。弱音器を付けた弦楽器が“何も知らず、見ず、聞かない一預言者ドルイド僧の沈黙”を表す美しいコラールを奏でる中、ソロ・トランペットが7回“存在の永遠の質問”を繰り返すといった象徴的なドラマを描いている。この問答は激しく活発になり衝突するが、最後には平静な孤独の中に沈黙が訪れる。
ある写真家の死
少し前になる、テレビを見ていたら、老齢の、腰の曲がったアメリカ人が長崎の浦上天主堂の席に座りながら、嗚咽していた。彼は、Joe O’Donnelといって、被爆直後といってもいい、1945年の8月23日に、最初に長崎入ったアメリカ海兵隊所属のカメラマンだった。番組は、彼が当時撮影した瓦礫だらけの悲惨な長崎の街の写真をたどりながら、変遷した現在の街をさまよい歩いていく彼をルポしたものだった。番組の収録はいつ行われたものかは分からないが、この夏でないことは確かである。なぜなら、彼はこの8月、しかも、なんという因縁だろう、その9日にナッシュビルで亡くなったからである。85歳であった。
彼の名前は知らなくとも、死んだ弟をひもで背負いながら、歯を食いしばり、直立不動の姿で焼き場に佇む少年の写真を見た記憶のある人いるだろう。Joe O’Donnelの有名な写真である。番組では、この少年を探そうとしたが、結局は不明だった。でも灰燼に帰した小学校で、机に座り、まっすぐに先生を見つめている、おかっぱ頭の少女や、やせた少年たち、全部で10名にも満たないようなクラス風景があるが、そのなかの少女や少年たち、今は70過ぎの彼らとの再会は果たした。
その番組で、私が一番覚えているのは、爆風で飛ばされて、丘の中腹にまで落ちてきた、浦上天主堂で飾られていた聖人の巨大な頭部像の写真であり、それを修道女に見せながら、これは今どこにあるのだろうか?とオダネルが訊ねていた場面だった。その写真にある、聖人の頭部、その破壊された顔が凝固して動かない姿勢で見つめているものこそは、一面荒廃に帰した長崎の町なのだ。修道女が、これは見たことがある、平和祈念館に展示されているのではないかというようなことを答えたが、オダネルは、ああ、とため息をついて、それはいけない、ここに、そのままの状態で、この長崎の町全体を見つめてほしい、この神を恐れぬ蛮行の証言と証明のために、聖人はここにいなくてはならない、と語ったのである。
Joe O’Donnelという人から受ける印象は、静かで内省的、でもユーモアも忘れない、そして何よりも長崎・広島への原爆投下を深く反省し、核兵器に反対する人というものであった。
この人の名前は忘れないでおこうと思い、すぐに書き留めた。
彼の追悼記事がニューヨークタイムズに出たのは、8月14日であった。そして、それからJoe O’Donnelが撮影したという写真の数々に現在疑いの目が差し向けられていることを知るようになった。
Joe O’Donnelについて、nyt.comの死亡記事や、その後に出た批判記事などから、知ったことについて書いておこう。(”Joe O’Donnel, 85, Dies; Long a Leading Photographer”by Douglas Martin, August 14, “Known for Famous Photos, Not All of Them His”by Michael Wilson September 15)
Joseph Roger O’Donnelは1922年5月7日にペンシルヴァニア州のジョンストンで生まれた。ハイスクール卒業後、海兵隊に入り、軍は彼を写真学校に行かせた。先述の1945年、8月23日、彼の所属部隊は最初に日本に上陸した部隊の一つになった。長崎から10マイルほどのところに送られ、上官の命令で長崎の写真を撮ることになる。歩いてそこに出向いた23歳の多感な海兵隊軍曹で写真家の若者の眼に映じたのは、”no bird, no wind blowing, nothing to make you think there had once been a real city here.”というものだった、これは後年の彼の述懐。長崎で彼は20箱の煙草を代償に馬を購入し、それにboyと名をつけ、荒廃した家に住む、その家の目印には瓦礫を使った。そこで寝泊りして、写真を撮ったが、カメラを2台使い、一つは軍隊用の公的なもののために使い、もう一台は全く私的な、彼自身の写真のために使った。そして後者のネガを自分のトランクの奥底に秘めて、帰国した。それから半世紀後にやっと、トランクを開けて、そのネガを現像した、あまりにも悲惨なゆえに、感情的に正視出来なかったからである。戦争中の後半もしくは帰ってからの彼は、大統領付の写真家として活躍したこともある(ここらあたりの彼のキャリアははっきりとしない、誇大妄想という批判が出されている)。しかし、例のテレビ番組でも、トルーマンと二人であるビーチを散歩していたときに、トルーマンが立ち止まって小便をした、そのとき思い切って自分は大統領に、あなたは日本に原爆を落とすことに迷いはなかったのですか?と訊いたところ、トルーマンが「あれは自分の決断ではない、ルーズベルトが決めたんだ」と叫んだ、という話を、このうえもなくリアルに報告していた。
彼が撮影したと、1999年のCNNでのインタビューで主張した有名な写真がある。![]()
これはケネディ・ジュニアが父の棺に敬礼する、あまりにも有名な写真であるが、実はこれを写したのは、彼ではなく、今アナポリスで結婚記念の写真家になっている72歳のStan Stearnsという人のものであるらしい。しかし、当時の報道写真はそのクレジットについて現在のようにうるさくはなかったので、これに類する写真は一杯あるということも確かで、オダネルがそこにいて、3歳のJohn―John(ジュニアのニックネーム)のこの可憐な写真を撮らなかったという理由にはならない、らしい。私は、このことの方を信じたい。うるさいほど、今、オダネル批判の記事が出ていて、今日のnytにもあった。これには違う事情もあるのではないか。
彼はそのトランクの底に秘めていた、長崎・広島のネガを現像して、1995年に日本で出版する。その後アメリカでも。しかし、アメリカでは当然のことながら、この被爆のありのままを伝えた写真は拒絶された。オダネルは、そこから核兵器にプロテストする運動に身を捧げるようになったと追悼記事は書いている。
1995年に彼の一連の被爆地の写真は論争のなかに巻き込まれた。その年に、スミソニアン航空宇宙博物館(NASM)で、広島に原爆を落とした飛行機エノラ・ゲイの展示が計画され、そのときの館長はオダネルの写真も展示する計画であったらしい。しかし、退役軍人たちの反対で、オダネルの写真の展示のプランは却下されざるをえなかった。その理由は、「彼の写真が一方的に原爆の悲惨さのみを強調することで、日本の残虐さと、戦争を終わらせ、アメリカ兵の命を救った原爆の役割を両方とも無視している」というものだった。これに対して、オダネルはラジオのインタビューで次のように強く主張した。「被爆直後に自分が見たことに鑑みれば、核ではなく、通常兵器で日本は敗れたにちがいない、日本本土への侵攻でアメリカ兵の死傷者が何十万も出るという予想などとは関係なしに」。彼は、こう主張することで、核兵器そのもののアンバランス、そのおそるべき非対称性を主張したのだと私は考える。
彼の写真で疑いが持たれているのは、1943年にテヘランで、スターリンとルーズベルト、チャーチルが会談したときのものとか、ヨットを操縦するケネディとか、フルシチョフの胸に指を突きつけている副大統領ニクソン、など結構あるらしい。でも、彼はそれらの写真を自分が撮影したと主張することで、そこから金を得ようとしたことはなかったと、批判記事の筆者Michael Wilsonも書いている。未亡人は日本人でKimikoさんという方だが、どこに金があるのか、と彼女も言っているほどだ。
未亡人などがいうことによると、オダネルはメンタルな病ということではないが、記憶に混濁が生じることがよくあったという。背骨には金属が入り、皮膚がん(これはおそらく長崎の滞在で放射能を浴びたせいでもあろう)にかかっていたという。彼は、被爆者であったのだ。
著作権の問題などは抜きにして、私はJoseph Roger O’Donnellという人間に深くひかれている。長崎の町を、深い祈りを湛え、沈思黙考して彷徨する老人の姿を私は忘れないだろう。
(1)
A slumber did my spirit seal;
I had no human fears:
She seemed a thing that could not feel
The touch of earthly years.
No motion has she now, no force;
She neither hears nor sees;
Rolled round in earth’s diurnal course,
With rocks, and stones, and trees.
微睡(まどろみ)がわたしの心を封じ、
人の世の恐れは消えた。
あの女(ひと)はもはや感ずることもない、
この世の時の流れに触れて。
身じろぎひとつせず、力もなく、
聞く耳も見る目もなく、
日々廻る大地の動きのなかで
岩や、石や、木々と変わりなく。
(2)
She dwelt among the untrodden ways
Beside the springs of Dove,
A Maid whom there were none to praise
And very few to love.
A violet by a mossy stone
Half hidden from the eye!
-Fair as a star, when only one
Is shining in the sky.
She lived unknown, and few could know
When Lucy ceased to be;
But she is in her grave, and, oh,
The difference to me !
その女は人里離れて暮らした
鳩という名の流れの水源に近く。
その女を褒めそやす人はなく
愛する人とても数少なく。
苔むす岩かげの菫のごとく
人の目につくこともなく。
―星のごとくに麗しく、ただ一つ
輝く星のごとくに。
人知れず暮らし、知る人ぞ知る、
ルーシーが逝ったのはいつ。
地下に眠るルーシー、ああ、
かけがえのないルーシー。
The Road Not Taken
Two roads diverged in a yellow wood,
And sorry I could not travel both
And be one traveler, long I stood
And looked down one as far as I could
To where it bent in the undergrowth;
Then took the other, as just as fair,
And having perhaps the better claim,
Because it was grassy and wanted wear;
Though as for that the passing there
Had worn them really about the same,
And both that morning equally lay
In leaves no step had trodden black.
Oh, I kept the first for another day!
Yet knowing how way leads on to way,
I doubted if I should ever come back.
I shall be telling this with a sigh
Somewhere ages and ages hence:
Two roads diverged in a wood, and I-
I took the one less traveled by,
And that has made all the difference.
行かなかった道 ロバート・フロスト
黄ばんだ森の中で道がふたつに分かれていた。
口惜しいが、私はひとりの旅人、
両方の道を行くことはできない。長く立ち止って
目のとどく限り見渡すと、ひとつの道は
下生えの中に曲がりこんでいた。
そこで私はもう一方の道を選んだ。同じように美しく、
草が深くて、踏みごたえがあるので
ずっとましだと思われたのだ。
もっともその点は、そこにも通った跡があり
実際は同じ程度に踏みならされていたが。
そして、あの朝は、両方とも同じように
まだ踏みしだかれぬ落ち葉の中に埋まっていたのだ。
そうだ、最初眺めた道はまたの日のためにと取っておいたのだ!
だが、道が道にと通じることは分かってはいても、
再び戻ってくるかどうかは心許なかった。
今から何年も何年もあと、どこかで
ため息まじりに私はこう話すだろう。
森の中で道が二つに分かれていて、私は―
私は通る人の少ない道を選んだのだったが、
それがすべてを変えてしまったのだ、と。
(場所) 音楽茶屋 奏
国立市東1-17-20サンライズ21 B1F
Tel 042-574-1569
JR 国立駅南口旭通りへ徒歩5分、右側地下1階
(料金) オーダー+出演者へのカンパ
久しぶりのFARMの登場です。「全力疾走」で、この蒸し暑さを吹き飛ばしたいと思っています。