鐘 杉本 徹(1962年生まれ。09年「ステーション・エデン」で歴程新鋭賞)
曇り空のクレマチスに
歌のうしろすがたを問う、と
あらゆる雑踏のどこかで人影がほそい
冬の、砂にまみれた膝も携帯も
心放つための野を
日々褪せてゆく野の色を
思いながら、道々の窓あかりに
……待ち望んでいた(ひたすら)
鳥の生涯に「なぜ」の音符がいくつ
灯されたとしても
聞こえない
ただ指の隙から不意打ちの軌跡が
陽の掟となってゆるくひとすじ
つたい落ちると
それが十二月の鐘の色――
バスのタラップを降りる音にも
振りかえってしまう
そう言って並木の葉が招いた
(……地球の夜を、許しなさい)
交錯する靴音は彗星をあこがれて
こうして、こんなに
空を人の胸のように抉り、消え去った
朝日新聞の12月12日の夕刊の「あるきだす言葉たち」という欄に掲載された詩。一度読んだとき、なぜか心に残った。今日、仕事が終わって(パソコンの画面との格闘で目はしょぼしょぼ、気力ゼロ)帰宅してから、気になっていたので新聞を探した。あった。この人の詩集「ステーション・エデン」は読んでいない。読みたいと思った。
この詩の私にとっての魅力について考えてみた。簡単に言えば、現代の万物照応とはこういうささやかなものだな、という感じ。「あらゆる雑踏のどこかで人影がほそい」ようにこの詩のなかでは、発話者(作中の語りの主体と言ってもいい)の影もほそくうすい。「膝や携帯」の擬人化もそんなにどぎつい感じがしない。好きなのは「心放つための野」という古くさそうで、そうでもない表現である。音符は灯されよ、鐘の色はつたい落ちよ。そういう中間部を経て、最後の部分の措辞。並木の葉のつぶやきと招きというこれも擬人法だ、(……地球の夜を、許しなさい)というつぶやきに意味があるわけではない、そうなのだが、読者にいろんな情感を抱かせる命令的な語法が最後まで小さく響くようでもある。交錯する靴音、というような措辞はどこか俳句的なイメージを生みだすが、それが彗星と照応して、地の音が空を赤くして一瞬のうちに消えゆく彗星の光芒となる。そして「空を人の胸のように抉り、消え去った」。もちろん、そこまでは行かない、「あこがれ」「こうして」「こんなに」。小さな、やさしい、光と音の世界すらも夢見られている……。
「曇り空のクレマチス」(このアリタレーションはうまい)の歌である。たぶん、そういうところにひかれたのであろう。
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