2009年5月12日火曜日

授業

山の上の学校、3時間。貧しきものは幸いなるかな、世界で一番有名な逆説。というようなことを一クラスで喋る。もう一クラスでは、クラスの皆で小説を定義するということをやってみる。「兎の楽隊」「兎の眼」「ハリーポッター」「泥流地帯」など、生徒が発言してくれた、自分が読んだ「小説」、どういう話?と訊くと、いろいろ言ってくれるから、それを黒板に書く。たとえば「兎の眼」は、心を閉ざした男の子が蛙を切り裂くことから始まる話、などと。こういうことをすぐにはっきりと言える生徒はすごい。それをそのまま黒板に書いてみせます。「小説」を辞書で調べてきていますから、その調べたことと自分の経験を重ね合わせるようにして、「小説」の定義を考えようと、ちょっと火をつけてやるのです。どういう定義ができるのでしょうか?
―いろんな話がある程度の量のある文章(散文)で書かれていて、それも作者が想像力を働かせて作った虚構で、とくに人間の経験が題材として取り上げられているもの― 
こういうような定義ができあがると、生徒たちもなかなかのものだなと思います。相互にやりとりする授業は普段はあまりできないのですが、たまには思いっきり羽目をはずして遊ぶのも精神衛生の上からも必要です。五月のさわやかな風がクラスを吹き抜けていく。

いちはつの幼き紫を愛づる日         蕃

 
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2009年5月11日月曜日

四季も他人も

久しぶりに山の上の学校。三年生は模擬試験だったので、5、6時限目の2時間続きの「小論文」の授業はカットだった。ラッキーというべきか。わかっていたことだが、うれしいですね。午前中3時間の授業を済ませて、帰宅。昼はどこかで食べてこいという女房どののお達しだった(家の周囲の草取りという恒例の仕事に専心彼女は取り組みたいので、お昼を二人で取る余裕なぞない、ということ)ので、駐車できる中華屋さんで、白ゴマ入り坦々麺を食べて帰った。2時半に帰宅すると、草取りは一段落ついていた。御苦労さまです。

そのあと一時間半散歩に出かける。散歩というよりwalkingというほうがいいのかもしれない。かなりハードに身体に負荷をかけるようにして歩く。とにかく体重を減らしたいのである。血圧を下げたいのである。あと少しでジョギングか。でも昔のようには走れない、悔しいが。8キロ余りを歩く。それでも減らないのだ。まだ、と書いておこう。

道の途中で眺める樹木、草花、畑、川の流れ、聞く鳥たちの声、行き交う散歩する同年代のおじさん、おばさんたち、これらすべてを深く抱擁したい気持ち。その気持ちが深まっていくことを痛切に感じる。なんですかね、これは。何回歩いても新鮮なんだ。今日はエゴの花の落花を踏みながら歩く、そのかぐわしい匂いがあたり一面に漂う。たぶんエゴだよね。この白い鈴のような花は。コデマリでもオオデマリでもない。匂い。流れの音。空気。光。

昨日は母の日。女房と一緒に立川の昭和記念公園に行く。母の日だから?「あなたを産んだ覚えはないよ」「いや、あなたはぼくを産んだのだよ、もうぼけて忘れたのか」などと話しながら強烈な日差しのなか、広大な公園を二人でさまよいましたね。日本庭園にも行きました。盆栽が展示されていたけど、三百年ものの「松」や何十年という「五葉の松」など、すばらしいものだった。若い時は、「ヘン!テヤンデー、ボンサイなん大嫌い」という調子で生きていたが、確かに生きてきたが、この素晴らしさに目を開かれたのは、いいことなんだろう、陽水さん。ポピーの乱舞、ポピーのコマーシャルを二人で歌いながら歩いていました。アイスランドポピーなど。これはケシですよね。アヘンの原材料。ハシッシュは大麻か、タイマーズは清志郎か。大きな樹木、水木の枝が湖面に垂れて花が散っている。昭和記念公園はすごい。年間パスポートを持っている友人もいるほどだ。季節、季節にまた来ようと、母ならぬ女房と誓った日。芭蕉先生も言っているではないか。「風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす」と。先日、キーン先生の番組を見たとき、先生が最後に色紙に書いていて披露したのも、この芭蕉の言葉から示唆を受けたものという説明だった。「四季も他人も友とすべきだ」これはまた、ドナルド・キーンでなくては書けない言葉である。なんてすてきなんだろう。

 
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2009年5月9日土曜日

第三回大江健三郎賞公開対談

「第三回大江健三郎賞公開対談」なるものに出かけた。先日、応募し、当たったからだ。
今回の受賞者は安藤礼二、はじめての評論部門からの受賞ということだった。対象になった本は『光の曼陀羅 日本文学論』(講談社)というもの。

場所は講談社のホール。14時半から入場、15時に開始ということだった。いつもの癖で13時ころには池袋から有楽町線に乗りかえて護国寺に着いてしまった。八王子の田舎から出かけるので、時間や距離の感覚がわからない。でも、暇があるのはよい。護国寺にお参りした。骨董市が開かれていた。三十年ぐらい前に一回ここに来たのを突然思い出した。そうだ、本堂の壁に掲げられていた明治の画家、原田直次郎の「騎龍観音」を拝みに来たことがあったのだ。原田は森鴎外の友人で滞独三部作の一つ『うたかたの記』の「画家」のモデルと言われる人物である。その画業のことはすっかり忘れられているが、ここの「騎龍観音」は有名である。30年前は実物を見たような気がするが、現在は国立近代美術館が保管しているということで、その冴えないコピーが掲げられていた。

まだ時間があったので、上島コーヒーでアイスコーヒーを飲んでいたら、中沢新一がやってきた。時間になったので講談社の前に行って驚いた。きれいなギャル風の娘さんたちが並んでいるではないか。これはなにかの間違いだと思ったが、よく聞くと、学生の方はこちらに並んでくださいと係りの人が言っている、まだわからない。すこし冷静になって、ああ、中沢も安藤も多摩美の教員だったのだ、それで学生たちが百名以上御来訪しているのだった。課題かなにかが出されているようで、対談が始ったら一斉にメモり出した。そのまえに、ぼくはなんとか自分の席を端っこに確保する、ぼくの内側の席が二個空いていた。祈る。しかし、かわいい小学生のような声でお喋りする女の子二人が座ってしまった。ひっきりなしにコロコロ笑い、手をうち、話すのだ。帰ろうかと一瞬思う。対談が始まってからは、さすがに大人しくしてくれた。

対談の内容はどうでもいいものだった。私は大江健三郎が元気であることに驚いた。ほとんどひとりで喋っていた。安藤礼二は全然偉ぶることのない人間だった。大江は安藤の折口信夫論をあたりまえだが掛け値なしに称賛していた。ポイントは「わかりやすい」というものだ。これはなるほど的確な批評である。折口の書いたものを、こんなにわかりやすく、しかもミステリー風に面白く読めるように解釈し、永遠の「謎」、つねに刺激的な「謎」としてある折口の思想を明快に開いてみせた人はあまりいなかっただろう。その神秘的、超越的思考を世界の空間と時間に位置づけてみせたことは確かに大した力量だと思う。それにしても大江のユーモアと元気、74歳過ぎだろうが、こっちも元気が出て結構笑った。隣の女子学生たちは笑わなかったけど。「ぼくはね、批評家とは仲が悪いのです。最初はとてもいいですよ。江藤淳とは最初の三ヶ月は蜜月だった、それが過ぎてから何十年彼が死ぬまで不倶戴天の敵、安藤さんとはどうかな」云々。
大江が言っていたので心に残った言葉がある。
対談が終わって、質問の時間。男の学生が「私たちの年齢は、天然自然に抱かれたという経験がない。それがなにか決定的に先生たちと違うような気がする。文学や表現において欠損としてある。どうしたらいいか。」というようなものだった。それに対して「私はあなたに反対です。私は森のなかで育ったが、自分が自然と共にあったという気はそのときは全然なかった。でもあるとき絶対に一本の樹木の美しさに気づくときがあります。自分がたとえば50年生きるということを考えたら、そのなかで自然に出会うことはいっぱいあります。この肉体そのものが自然なんですよ」というような答え方をしたことである。

それから加藤周一の素晴らしさ、その「空海」の捉え方の素晴らしさ、それは折口や安藤とも共通するというようなこと。「空海」がキーワードだったような対談だった。最後に安藤は分かっていても、話すときはオリグチ、ヤナギダになってしまう。それを大江が軽く揶揄した。人の名前は正確に覚えよう、オリクチ、ヤナギタですよね、私はオーエです。
大江をまた読もうと思った。今年の最後くらいに『水死』という長編を講談社から出すそうである。

(安藤の言う「光の曼荼羅」としての折口思想解釈を大江は評価しながらも、それが「大東亜共栄圏」思想などと重なるかのような扱い方をする部分には反対だと言っていた。それに対して安藤は、折口は単純化できない、その重層とした複雑性のありかを探ることが大切で、そのこと自体で彼の思想の政治化を否定できると自分は思っている、といった。このような部分が面白いといえば面白かったが、それ以上発展はしなかった。)

折口信夫、釋迢空。富岡多恵子もその評伝を書いていたな。富岡が探求し、光を当てた「藤無染」という人物の信夫への影響、これが一番大きかったのか。秘密が指すところは「無染」であるというような書き方が多いのも、この本のスタイルである。ぼくはあまりこういう思考のスタイルは好きではない。これも正直に書いておこう。

2009年5月8日金曜日

Missing poet

―(CNN) 日米間の文化交流で日本に滞在している米ワイオミング大の学者が、鹿児島県の火山島、屋久島の西隣にある口永良部島(くちのえらぶじま)を訪れたまま行方不明となり、捜索活動が続いている。

行方が分からなくなっているのは、ワイオミング大のクレイグ・アーノルド助教(41)。国際文化会館などが共催する「日米芸術家交換プログラム」で、3月から半年間の予定で来日した。詩人としての業績で知られ、世界各地の火山地帯を題材とする散文詩の創作に取り組んでいる。

ワイオミング大によると、アーノルド氏は4月27日に1人で同島の火山を訪れた。日帰りの予定だったが帰らないため、宿泊施設が当局に通報した。

家族の話では、これまでに見つかったのは山に登り始めた足跡だけ。現場には約60人の捜索チームが、ヘリコプターや救助犬とともに出動。米大使館の要請で、沖縄の米空軍基地からもヘリが送り込まれた。

同大の学部責任者によると、アーノルド氏は火山登山の経験が豊富で、「危険な山はガイドと一緒に登っていたが、今回は単独で出かけたようだ」という。―

こういう記事があった。asahi.comの今晩の記事では、「消防などの捜索はすでに打ち切られ、アーノルドさんの家族や鹿児島大の米国人留学生が独自に捜索を続けている」ということだ。

Craig Arnold

Craig Arnold is the author of Shells, a Yale Younger Poets selection chosen by W.S. Merwin. A former winner of the Amy Lowell Travelling Scholarship and the Rome Prize, he was recently awarded a Fulbright to Colombia and a US-Japan Creative Artists Exchange Fellowship. He teaches at the University of Wyoming in Laramie.

 
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ずいぶん有能な人らしい。その詩も少し読んでみた。奇蹟を祈る。

2009年5月7日木曜日

精神的に向上心のないものは馬鹿だ

漱石「こころ」、「下」の第41節、「先生」が「K」を上野公園で、やっつけるところをYale大学のEdwin McClellan教授は次のように訳している。

I waited no longer to make my thrust. I turned to him with a solemn air. True, the solemnity was a part of my tactics, but it was certainly in keeping with the way I felt. And I was too tense to see anything comical or shameful in what I was doing. I said cruelly, “Anyone who has no spiritual aspiration is an idiot.” ……(中略)
…………………………………………………………………………………………………….
…… I said again:” Anyone who has no spiritual aspiration is an idiot.” I watched K closely. I wanted to see how my words were affecting him.
“ An idiot …”he said at last. “Yes, I’m an idiot.” (以下略)


「お嬢さん」をめぐって、親友同士が演じなければならない悲劇の始まりが見事な英語で訳されている。緊迫した感じもよくとらえられている。ところで、その訳者について、昨年話題になった『日本語が亡びるとき』の著者、水村美苗は次のように、その本の「あとがき」に書いていた。

言語について思考するのがいかに困難でありながら大切なことであるかを学んだのは、昔、イェール大学で仏文学を専攻していたときである。ポール・ド・マン、ショシャナ・フェルマン、マリア・パガニーニの諸先生に感謝する。また、当時、加藤周一氏、そして柄谷行人氏が日本文学を教えるために招かれていた。まったくちがった視点からだが、まだ二十代だった私がお二人から日本文学にかんする色々な話をじかに聞くことができたのは実に幸運だった。さらにそのころはエドウィン・マックレラン先生が日本近代文学を教えていた。日本近代文学をあそこまで愛し―漱石のこの部分がいいという話になると、ほとんど涙ぐまれたりした―くり返しくり返し読んでいた人物を私はほかに知らない。アメリカで育ったゆえの恵まれた出会いであった。


「日本近代文学をあそこまで愛し―漱石のこの部分がいいという話になると、ほとんど涙ぐまれたりした―くり返しくり返し読んでいた人物を私はほかに知らない。」と水村が言うエドウィン・マックレラン先生の訃報を今日の朝日の夕刊で知った。それも引用してておこう。

【ニューヨーク=田中光】夏目漱石の「こころ」「道草」など日本文学を英訳した米エール大学名誉教授(日本学科)のエドウィン・マクレランさんが4月27日、肺がんのため、コネティカット州ハムデンで死去した。83歳だった。
 1925年、神戸市生まれの英国人。「こころ」のほか、志賀直哉の「暗夜行路」や吉川英治の「忘れ残りの記」を翻訳するなどして、94年に菊池寛賞、95年に野間文芸翻訳賞を受賞している。


そして今晩の8時から、NHKの番組で、ドナルド・キーン先生の特集を観る。梁石日(ヤン・ソギル)をわざわざニューヨークに派遣しての対談インタビューの形式である。このコンセプトがぼくは全然わからないし、番組自体も対談者二人が日本に対する異質な二人の他者というような考えで、日本文化や文学を相対化するということでもなかった。ただ、二人のたたずまいの違いはみょうに印象深かった。

私はキーン先生のすべての業績に通じているものではないが、しかし、その偉業を讃嘆する。そこから学びたいと思う。

マックレラン先生 83歳で死ぬ。
キーン先生、86歳でヤン・ソギルに誠実に話していた。マックレラン、キーンの二人、そのような日本文学の研究者に会いたいものである。とくに日本人の。

2009年5月6日水曜日

堤長くして

雨が降っていたが散歩に出かけた。昨日は、朝7時半から9時半までの2時間、その後雨が降り出した。今日は8時半から10時までの一時間半。

ハナミズキの花はすべて散ってしまった。稲畑が鋤かれて、田植えを待つのみになっている。稲荷社の前の欅の巨木の緑も、本格的な夏の色になっている。浅い緑からの変化を散歩のたびに気にかけていた。城址公園の黄菖蒲が鮮やかである。赤い蓮花が一輪ほど咲いていた。シャクナゲの大きな花も終わりそうだ。千切れたようになっている。今は川沿いの道ではツツジが我がもの顔である。鳥たちが鳴いている。何かと同定できないから書かない。歩いていると、自分が少年の時のような感覚を取り戻したいと思っていることに気がつく。8歳ほどの頃にもどってみたい。選択できるのなら、道と川があって、小さな山に抱かれている場所の少年である。日に二時間ほど、散歩でその白昼夢を見ている。

4月30日  国立新美術館「ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち」を観に行く。そのあと「東京ミッドタウン」に行き、そこから歩いて原宿まで出る。「表参道ヒルズ」なる所へも行く。すべて初体験の場所。

5月1日  国立「奏」22周年記念で300円一律という安さで供された数々の料理を楽しむ。口福の夜。福間さん、藤井さんと。ワインはポルトガルのダン。

5月2日  岩田さんと相原の立ち飲み屋「まいど」で飲む。談論風発。

5月5日  潮と郁さんと、ぼくたち4名で食べて飲む。楽しかった。



卯の花や暗き柳の及び腰     芭蕉


岩倉の狂女恋せよ子規      蕪村

山人は人也かんこどりは鳥なりけり

宵宵の雨に音なし杜若

2009年5月4日月曜日

五月の貴公子

五月の貴公子            萩原朔太郎

若草の上をあるいてゐるとき、
わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく、
ほそいすてつきの銀が草でみがかれ、
まるめてぬいだ手ぶくろが宙でをどつて居る、
ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして、
わたしは柔和の羊になりたい、
しつとりとした貴女のくびに手をかけて、
あたらしいあやめおしろいのにほひをかいで居たい、
若くさの上をあるいてゐるとき、
私は五月の貴公子である。


忌野清志郎が死んだ。58歳。
なぜか朔太郎の上記の詩が思い浮かんだ。忌野清志郎のイメージとどこがどうつながっているか、この詩を想起した私にもよく説明できないが、彼は永遠の貴公子であろう。
追善の気持で掲げておく。





好きなバラードも、


絶唱、