2009年5月11日月曜日

四季も他人も

久しぶりに山の上の学校。三年生は模擬試験だったので、5、6時限目の2時間続きの「小論文」の授業はカットだった。ラッキーというべきか。わかっていたことだが、うれしいですね。午前中3時間の授業を済ませて、帰宅。昼はどこかで食べてこいという女房どののお達しだった(家の周囲の草取りという恒例の仕事に専心彼女は取り組みたいので、お昼を二人で取る余裕なぞない、ということ)ので、駐車できる中華屋さんで、白ゴマ入り坦々麺を食べて帰った。2時半に帰宅すると、草取りは一段落ついていた。御苦労さまです。

そのあと一時間半散歩に出かける。散歩というよりwalkingというほうがいいのかもしれない。かなりハードに身体に負荷をかけるようにして歩く。とにかく体重を減らしたいのである。血圧を下げたいのである。あと少しでジョギングか。でも昔のようには走れない、悔しいが。8キロ余りを歩く。それでも減らないのだ。まだ、と書いておこう。

道の途中で眺める樹木、草花、畑、川の流れ、聞く鳥たちの声、行き交う散歩する同年代のおじさん、おばさんたち、これらすべてを深く抱擁したい気持ち。その気持ちが深まっていくことを痛切に感じる。なんですかね、これは。何回歩いても新鮮なんだ。今日はエゴの花の落花を踏みながら歩く、そのかぐわしい匂いがあたり一面に漂う。たぶんエゴだよね。この白い鈴のような花は。コデマリでもオオデマリでもない。匂い。流れの音。空気。光。

昨日は母の日。女房と一緒に立川の昭和記念公園に行く。母の日だから?「あなたを産んだ覚えはないよ」「いや、あなたはぼくを産んだのだよ、もうぼけて忘れたのか」などと話しながら強烈な日差しのなか、広大な公園を二人でさまよいましたね。日本庭園にも行きました。盆栽が展示されていたけど、三百年ものの「松」や何十年という「五葉の松」など、すばらしいものだった。若い時は、「ヘン!テヤンデー、ボンサイなん大嫌い」という調子で生きていたが、確かに生きてきたが、この素晴らしさに目を開かれたのは、いいことなんだろう、陽水さん。ポピーの乱舞、ポピーのコマーシャルを二人で歌いながら歩いていました。アイスランドポピーなど。これはケシですよね。アヘンの原材料。ハシッシュは大麻か、タイマーズは清志郎か。大きな樹木、水木の枝が湖面に垂れて花が散っている。昭和記念公園はすごい。年間パスポートを持っている友人もいるほどだ。季節、季節にまた来ようと、母ならぬ女房と誓った日。芭蕉先生も言っているではないか。「風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす」と。先日、キーン先生の番組を見たとき、先生が最後に色紙に書いていて披露したのも、この芭蕉の言葉から示唆を受けたものという説明だった。「四季も他人も友とすべきだ」これはまた、ドナルド・キーンでなくては書けない言葉である。なんてすてきなんだろう。

 
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