「第三回大江健三郎賞公開対談」なるものに出かけた。先日、応募し、当たったからだ。
今回の受賞者は安藤礼二、はじめての評論部門からの受賞ということだった。対象になった本は『光の曼陀羅 日本文学論』(講談社)というもの。
場所は講談社のホール。14時半から入場、15時に開始ということだった。いつもの癖で13時ころには池袋から有楽町線に乗りかえて護国寺に着いてしまった。八王子の田舎から出かけるので、時間や距離の感覚がわからない。でも、暇があるのはよい。護国寺にお参りした。骨董市が開かれていた。三十年ぐらい前に一回ここに来たのを突然思い出した。そうだ、本堂の壁に掲げられていた明治の画家、原田直次郎の「騎龍観音」を拝みに来たことがあったのだ。原田は森鴎外の友人で滞独三部作の一つ『うたかたの記』の「画家」のモデルと言われる人物である。その画業のことはすっかり忘れられているが、ここの「騎龍観音」は有名である。30年前は実物を見たような気がするが、現在は国立近代美術館が保管しているということで、その冴えないコピーが掲げられていた。
まだ時間があったので、上島コーヒーでアイスコーヒーを飲んでいたら、中沢新一がやってきた。時間になったので講談社の前に行って驚いた。きれいなギャル風の娘さんたちが並んでいるではないか。これはなにかの間違いだと思ったが、よく聞くと、学生の方はこちらに並んでくださいと係りの人が言っている、まだわからない。すこし冷静になって、ああ、中沢も安藤も多摩美の教員だったのだ、それで学生たちが百名以上御来訪しているのだった。課題かなにかが出されているようで、対談が始ったら一斉にメモり出した。そのまえに、ぼくはなんとか自分の席を端っこに確保する、ぼくの内側の席が二個空いていた。祈る。しかし、かわいい小学生のような声でお喋りする女の子二人が座ってしまった。ひっきりなしにコロコロ笑い、手をうち、話すのだ。帰ろうかと一瞬思う。対談が始まってからは、さすがに大人しくしてくれた。
対談の内容はどうでもいいものだった。私は大江健三郎が元気であることに驚いた。ほとんどひとりで喋っていた。安藤礼二は全然偉ぶることのない人間だった。大江は安藤の折口信夫論をあたりまえだが掛け値なしに称賛していた。ポイントは「わかりやすい」というものだ。これはなるほど的確な批評である。折口の書いたものを、こんなにわかりやすく、しかもミステリー風に面白く読めるように解釈し、永遠の「謎」、つねに刺激的な「謎」としてある折口の思想を明快に開いてみせた人はあまりいなかっただろう。その神秘的、超越的思考を世界の空間と時間に位置づけてみせたことは確かに大した力量だと思う。それにしても大江のユーモアと元気、74歳過ぎだろうが、こっちも元気が出て結構笑った。隣の女子学生たちは笑わなかったけど。「ぼくはね、批評家とは仲が悪いのです。最初はとてもいいですよ。江藤淳とは最初の三ヶ月は蜜月だった、それが過ぎてから何十年彼が死ぬまで不倶戴天の敵、安藤さんとはどうかな」云々。
大江が言っていたので心に残った言葉がある。
対談が終わって、質問の時間。男の学生が「私たちの年齢は、天然自然に抱かれたという経験がない。それがなにか決定的に先生たちと違うような気がする。文学や表現において欠損としてある。どうしたらいいか。」というようなものだった。それに対して「私はあなたに反対です。私は森のなかで育ったが、自分が自然と共にあったという気はそのときは全然なかった。でもあるとき絶対に一本の樹木の美しさに気づくときがあります。自分がたとえば50年生きるということを考えたら、そのなかで自然に出会うことはいっぱいあります。この肉体そのものが自然なんですよ」というような答え方をしたことである。
それから加藤周一の素晴らしさ、その「空海」の捉え方の素晴らしさ、それは折口や安藤とも共通するというようなこと。「空海」がキーワードだったような対談だった。最後に安藤は分かっていても、話すときはオリグチ、ヤナギダになってしまう。それを大江が軽く揶揄した。人の名前は正確に覚えよう、オリクチ、ヤナギタですよね、私はオーエです。
大江をまた読もうと思った。今年の最後くらいに『水死』という長編を講談社から出すそうである。
(安藤の言う「光の曼荼羅」としての折口思想解釈を大江は評価しながらも、それが「大東亜共栄圏」思想などと重なるかのような扱い方をする部分には反対だと言っていた。それに対して安藤は、折口は単純化できない、その重層とした複雑性のありかを探ることが大切で、そのこと自体で彼の思想の政治化を否定できると自分は思っている、といった。このような部分が面白いといえば面白かったが、それ以上発展はしなかった。)
折口信夫、釋迢空。富岡多恵子もその評伝を書いていたな。富岡が探求し、光を当てた「藤無染」という人物の信夫への影響、これが一番大きかったのか。秘密が指すところは「無染」であるというような書き方が多いのも、この本のスタイルである。ぼくはあまりこういう思考のスタイルは好きではない。これも正直に書いておこう。
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