2009年5月28日木曜日

マルティニックから

マルティニックに研究のために赴いた中村君から次のようなメールと写真が届いた。それと彼のblog(OMEROS)もリンクしておいた。これからカリブの強烈な日射しと詩の波を浴びることができる。



ご無沙汰しております。ご心配おかけしましたが、今月14日に無事にマルティニック島に到着しました。到着してから、すでに一週間以上が経過し、現在、島の生活スタイルに少しずつ適応しようとしている最中です。 いまは現地の親友の新居を貸してもらい、菜穂さんと一緒に、快適に暮らしています。ただ、物価はほんとうに高く、ストライキが起こる理由もよく分かります(マルティニックとグアドループでは、高い物価水準にたいする島民の怒りが大規模なデモに発展しました)。トイレットペーパーから住居費にいたるまで、東京の物価水準よりも高いことが多く(昨年秋のユーロ安があってもなお高いです)、その点は大変ですが、自然の豊かさはやはり目を見張るものがあります。 こちらではひとまず研究員として迎え入れてもらえましたが、生活環境の整備に手間取り、研究に本格的に着手するにはもう少し時間がかかりそうです。 ところで、マルティニックやグアドループにもやはり数多くの詩人たちがいます。まだそうした詩人たちに直接会う機会はありませんが、いくつもの詩のアンソロジーが出版されているのを見かけました。機会を見つけて、まだ知られていない詩人たちを紹介できればと思います。 島の写真をお送りします。主都フォール・ド・フランスの町並みを写したものです。 本日は近況報告まで。またご連絡いたします。

中村隆之


 
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2009年5月26日火曜日

枇杷 山桃 桑の実 石楠花

枇杷 山桃 桑の実 石楠花 
散歩の道すがら出会っているものたち
終わっているものもあるが
それはたんに次回の始まりのために終わっただけだ
心配は無用
終わりそうなものも
それゆえ愛しさが倍増する
石楠花 えごの花は終わりそうか、終わったかだ
卯の花や紫陽花は咲きそめたか、まだかだ
まだかだ、これらまだかだといえるものは希望に満ちている
希望とはまだかだが確実に咲くものの未来の完了に寄せる幻想だ
心配は無用
枇杷を思う 黄金色に熟する前のそれ
山桃はその木しか知らない 桃知らず
桑の実を思う 食べた幼い時 祖母の桑の実
山歩いて石楠花に遭遇する五月の山歩き
経験は少ない実だが
始まりや終わり、始終をどこかで教えてくれる
花だけがいいのではない、とくに
桜に狂うのは、そこで狂いが絶頂になるのが淋しい
桜の次は柳で、その次は牡丹で、その次は衣更え、お手討ちとか
いろいろ生きるかぎりは生きて
歌枕は各個人が作ればいいのであって
きみのとなりの人の歌枕を愛しなさいと
イエスも言った

2009年5月24日日曜日

卯の花

「首都大学東京 現代詩センター 」の『詩論へ①』という雑誌。なかなか読めないでいたが、藤井貞和の『詩学のために  文献学、時間、そして想起』と題されたものの半分ほどを読んだ。次第に藤井さんのものが読めるような気がしてきた。本居宣長批判や助動詞(彼は助動辞と呼ぶのだが)の体系化などへの歩みの動機が少しだが理解できたと思う。もっと藤井さんを読もうと思っている。

今朝、小雨のなかを一時間半ほどいつもの川沿いの道を散歩した。昨日は散歩の帰りに、もうひとふんばりと叱咤し、片倉城趾の山頂まで登った。だれもいない草原の縁を一周している途次、灌木の群れのなかから白い小花のそよぎが目に飛び込んできた。「卯の花」だった。先日、女房と二人で立川の昭和記念公園に行った折、「梅花ウツギ」の鉢植えを購入した。家に帰って小さな庭に植え替えて、その可憐な花を愛でていた。なぜか「卯の花・卯月の花」に惹かれていたのである。その野生の花が城趾公園の頂にひっそりと、しかし、かがやくように咲き誇っていたのを見たのだった。人がいないのを幸いに、一枝の一輪だけを折りとる。家に帰って、朝刊(朝日)を読むと、高橋睦郞さんのコラム「花をひろう」はまさに「卯の花」だった。
雨の朝の卯の花も見たかったのだが、今日の散歩の余力はなかった。

もうひとつ、「紅花トチノキ」と、普通のトチノキがやはり城址公園にある。一対という形で並んでいる。結構な高木である。これは西洋名ではマロニエ。その花がとてもおもしろい形をしている。ソフトクリームのような形なのだ。赤いソフトクリームと白いソフトクリーム、この花ももう終わりである。この形を円錐花序というのだと、辞書で知る。

卯の花をかざしに朝の散歩せん     蕃
卯の花のえごの花より地に近き
蜜蜂は手折りて甘き卯の花に
なんとなく卯の花腐し若き日々
マロニエの紅花の散る城跡に

予め失われている恋人よ

You Who Never Arrived Rainer Maria Rilke

You who never arrived
in my arms, Beloved, who were lost
from the start,
I don't even know what songs
would please you. I have given up trying
to recognize you in the surging wave of
the next moment. All the immense
images in me -- the far-off, deeply-felt landscape,
cities, towers, and bridges, and un-
suspected turns in the path,
and those powerful lands that were once
pulsing with the life of the gods--
all rise within me to mean
you, who forever elude me.

You, Beloved, who are all
the gardens I have ever gazed at,
longing. An open window
in a country house-- , and you almost
stepped out, pensive, to meet me. Streets that I chanced
upon,--
you had just walked down them and vanished.
And sometimes, in a shop, the mirrors
were still dizzy with your presence and, startled, gave back
my too-sudden image. Who knows? Perhaps the same
bird echoed through both of us
yesterday, separate, in the evening...


--Translated by Stephen Mitchell


 
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Rainer Maria Rilke was born in Prague in 1875. He resided throughout Europe during his lifetime, including a 12-year residency is Paris, where he befriending the famed sculptor Auguste Rodin. His best known work includes his Duino Elegies and his Sonnets to Orpheus.

2009年5月23日土曜日

青葉若葉

(A)
あらたうと青葉若葉の日の光      芭蕉
剃り捨てて黒髪山に衣更        曽良
しばらくは滝にこもるや夏の初め    芭蕉

(B)
かさねとは八重撫子の名なるべし    曽良
夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな  芭蕉
啄木も庵は破らず夏木立

(C)
野を横に馬引き向けよほととぎす    芭蕉
田一枚植ゑて立ち去る柳かな

「おくのほそ道」の旅の、その「旅」にての句の初めが陰暦卯月朔日(今の暦に直すと5月19日)の「あらたうと青葉若葉の日の光」であることに迂闊なことに最近気づいた。この前に、周知のように冒頭の「草の戸も…」の表八句の発句と、「行く春や…」の留別の句があるが、これらは旅にての句ではない。「ほそ道」によれば、旅の第一夜は草加で明かした。しかし、ここで述べられているのは、旅へのあこがれ(「耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らばと…」)と携帯すべき旅のための物品などに対する感慨であり、実際の旅の土地・草加にまつわる記述はない。次の「室の八島」から「旅」は始まる。そのように読むように書かれている。しかし、ここには句はない。まだ、ないというのが正確であろう。なぜだろう。冒頭から草加宿までの張りつめた文体も一変する。その「室の八島」の記述は短くて、そっけない。

室の八島に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨世に伝ふ事も侍し。

この記事は「ほそ道」のなかで、どういう役割を持っているのだろうか?読むたびに不思議な気持になる。前の記述と全くというか、文体に関しても気分的にも異質だから。盛り上がっていた別れの情緒と旅へのあこがれがぷつりと切断される。ニニギに一夜の契りで、子を?と疑われたコノハナサクヤは自らの潔白を証明するために、あなたの子であったらどんな状況のなかでも生まれうるといい、わざと無戸室(戸のない大きな殿)を作り、燃えさかる火の中で子を産んだという。その神話がこの神社の、この「室の八島」の記述としてあるわけだが、なんかよくわからない。「このしろ」の話はまた別で、ここにつたわる説話のようなものを基にしている。前後するが、土で周りを塗り固めた室で子を産んだから、そこから煙は漏れ出る、それゆえ「煙を読習し侍もこの謂也」というわけだ。この神社(大神おおみわ神社・現、栃木市惣社町)にまつわる話が、神話と伝承の二つで紹介されている。しかも(神道に詳しい)曾良による、「曽良が曰く」という形で。そして、ここには句は記載されない。もっとも同行した曾良の書留によると、この「室の八島」で芭蕉は次の五句を作ったということである。

糸遊に結つきたる煙哉   翁

あなたふと木の下暗も日の光   翁

入かゝる日も糸遊の名残哉

鐘つかぬ里は何をか春の暮

入逢の鐘もきこえず春の暮

この五つの句のなかで、「室の八島」に関係するものは一句目と三句目だが、あとの句は全然関係がないのか?特に二句目の「あなたふと木の下暗も日の光」は、次の日光での「あらたうと青葉若葉の日の光」の初案とされ、こことは全く関係のないように言われている。どうだろうか。安東次男がこの「木の下暗」の句に「木の花さくや姫」の面影を指摘しているのはさすがだと思った。この「室の八島」の条が、次の日光の条の「仏五左右衛門」のエピソードとともに卯月朔日の「あらたうと青葉若葉の日の光」という「光」に至るための周到な「煙」であり、連句でいうならば「遣句」のような働きを仕掛けているのだろう。これらは安東の「芭蕉 奥の細道 日本の旅人6」(淡交社・昭和49年刊)を読み返しながら教えてもらい、考えたことでもある。

ABCと句を並べたのは、A日光、B黒羽、C黒羽からの出立途次の「殺生石」、葦野の「遊行柳」という旅の場所の各句ということだが、「句文一体」のスタイルの見事さを抜け出して、つまり「ほそ道」のあの文がなくても、強烈な印象を与えるのは「あらたうと青葉若葉の日の光」の句ではないだろうか。しかし、皮肉なことに「…今この御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ…憚なほ多くて、筆をさし置きぬ」などという「文」のあとにあるせいで、その文との「一体」のせいで、そうだろうと私は思うのだが、以下のように読まれてきたのである。いや、そういう読み取りに対する嘆きの言葉なのだが。

― 前文に「恩沢八荒(二荒と対照させている)にかがやきて」云々は、徳川家の威光を言ったのに違いないから、ここに芭蕉の幕府に対する卑屈な態度を読み取り、非難する評者もある。戦争中は、大権の簒奪者としての将軍に対する讃美のゆえに非難され、戦後は、封建的な圧制者としての将軍に対する讃仰のゆえに非難され、どう転んでもこの句は浮かばれないのだ。―(「芭蕉」・山本健吉)

「前文」の分析は抜きにして、この句はその前文があろうがなかろうが、この卯月、皐月という四時のなかの「かかやき」への絶後のオマージュたりえていると私は考える。こういう句に権力の威光への拝跪を読みとる心性!そういう意見の文脈で極論すれば、ここは「ほそ道」の「句文一体」の作者によるわざとした「破れ」ではないのか?そのあまりの「一体」ぶりを日の光はやさしく笑うのであろう。

ここまで書いて眠くなってきた。本当は「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」という芦野の西行さん伝説の「遊行柳」での句のさまざまな解釈について考えてみようと思って書き始めたのだが、絶対に目的のところまで行くはずがない。

でもなんといっても好きな句、たとえば、

かさねとは八重撫子の名なるべし 

当然だが「文」がまたすてきだ。それにしても、こういうスタイルのエクリチュールを「発明」した男がいたとは!そして、この男の後は、途絶えたままなのだ。その「表現」の冒険においては。

2009年5月19日火曜日

お互い、死ぬまで

木曜日(14日)、和史と立川ルミネ8階でデート。

その日に21年ぶりの教え子からのメールを見る。五十名近いクラスが一学年十組もあった当時の高校の卒業生。驚きとなつかしさと。

土曜日(16日)、拓也と、養老の滝で飲み(といってもほとんどぼく一人でだが)、そのあと拓也を拙宅まで無理に連れ込む。ごめんなさい。大いなる間違いを犯していた。彼は今年就職したのだと思っていたが、修士の2年目だったのだ。いくつか蹴ったが(これが彼の力量)、行く先は決まったということである。日本を代表する有名なシンクタンクである。女房いわく、すばらしい教え子たち、それに比して?

土曜日の晩、日曜日に長駆北海道に軽トラでゆく和史に「気をつけて」とメールを送る。

日曜の朝、ぼくが今まで人からもらった手紙やメール類のなかで一番感激した(といえば大げさだが)短いメールを和史からもらった。忘れないために書いておく。

― お互い、死ぬまで、果敢に書き続けよう。―

2009年5月16日土曜日

五月十六日

「ことし、元禄二年にや、奥羽長途の行脚ただかりそめに思ひたちて」と、とうてい「かりそめ」ではない周到な推敲・斧鉞の末の作品『おくのほそ道』のための「行脚」に芭蕉が出立したのが、今日を遡ること丁度320年前であった。元禄2年、弥生も末の七日(陰暦の3月27日)は太陽暦では1689年の5月16日にあたる。日数百五十日、全行程6百里(2400キロ)の旅の始まりの日が今日である。芭蕉46歳、曽良41歳。終着地である大垣に着いたのは8月20日(10月3日)。
その出立の今日の日、見送りに来た門人たちとの別れの句として作品『おくのほそ道』に掲載されるのが、

行く春や鳥啼き魚の目は涙

今朝、散歩の途中で、この期日のことを思いうかべた。帰ってから、こうして記念に書きはじめたが、これ以上書くこともない、……

最近考えたのは、芭蕉という人間とその書きもののことだが、この二つが(切り離させないけど)もしなかったとしたら、日本の文学は今とは全く異なった景観を呈していることだろう、というようなこと。その強さと鮮やかな輪郭を今ぼくは勉強しているつもりだが、読んでいてこちらの頭がはっきりしてくる気がするほどだ。こんな長大な旅(これだけではない)をやってのける人だから、強さは当然かもしれないが、そのエクリチュールの輪郭線の広がりと深さとしなやかさと、ぼくの言語では言い尽くせないほどのフィギュールの多彩さなどの、要するに「自然」と「巧みさ」との渾然一体としたあり様に、その姿のただならぬ様にひかれる、というようなこと。

夏にアメリカに行く。7月の終わりに出発して、8月の終わりまで。その旅を、「おくのほそ道」のようなものに変えるエネルギーと知識はないけれど、なんとかアメリカを詩の世界からとらえてみたい。アメリカと芭蕉を結びつけて考えたい、というようなこと。

キーン先生は、芭蕉の旅日記について、次のようにまとめている。
「…芭蕉の日記に見られる情報の空白は、数々挙げられる。だがそれをいったところで、私たちが当初から知っていたこと、すなわちこれらの日記は、単なる旅の記録ではなく、文学作品として書かれたのだ、という事実を、それは証明するのみなのである。なぜ日記を書いたか、またいかなる読者を念頭に置いていたか、芭蕉はどこにも言っていない。だが、彼がそれに気づいていたにせよいなかったにせよ、芭蕉は、すべての時代、そしてすべての人のために書いていたのである。」(「百代の過客」)この「すべて」は、もちろん日本、日本人だけではないということだ。