(A)
あらたうと青葉若葉の日の光 芭蕉
剃り捨てて黒髪山に衣更 曽良
しばらくは滝にこもるや夏の初め 芭蕉
(B)
かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良
夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな 芭蕉
啄木も庵は破らず夏木立
(C)
野を横に馬引き向けよほととぎす 芭蕉
田一枚植ゑて立ち去る柳かな
「おくのほそ道」の旅の、その「旅」にての句の初めが陰暦卯月朔日(今の暦に直すと5月19日)の「あらたうと青葉若葉の日の光」であることに迂闊なことに最近気づいた。この前に、周知のように冒頭の「草の戸も…」の表八句の発句と、「行く春や…」の留別の句があるが、これらは旅にての句ではない。「ほそ道」によれば、旅の第一夜は草加で明かした。しかし、ここで述べられているのは、旅へのあこがれ(「耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らばと…」)と携帯すべき旅のための物品などに対する感慨であり、実際の旅の土地・草加にまつわる記述はない。次の「室の八島」から「旅」は始まる。そのように読むように書かれている。しかし、ここには句はない。まだ、ないというのが正確であろう。なぜだろう。冒頭から草加宿までの張りつめた文体も一変する。その「室の八島」の記述は短くて、そっけない。
室の八島に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨世に伝ふ事も侍し。
この記事は「ほそ道」のなかで、どういう役割を持っているのだろうか?読むたびに不思議な気持になる。前の記述と全くというか、文体に関しても気分的にも異質だから。盛り上がっていた別れの情緒と旅へのあこがれがぷつりと切断される。ニニギに一夜の契りで、子を?と疑われたコノハナサクヤは自らの潔白を証明するために、あなたの子であったらどんな状況のなかでも生まれうるといい、わざと無戸室(戸のない大きな殿)を作り、燃えさかる火の中で子を産んだという。その神話がこの神社の、この「室の八島」の記述としてあるわけだが、なんかよくわからない。「このしろ」の話はまた別で、ここにつたわる説話のようなものを基にしている。前後するが、土で周りを塗り固めた室で子を産んだから、そこから煙は漏れ出る、それゆえ「煙を読習し侍もこの謂也」というわけだ。この神社(大神おおみわ神社・現、栃木市惣社町)にまつわる話が、神話と伝承の二つで紹介されている。しかも(神道に詳しい)曾良による、「曽良が曰く」という形で。そして、ここには句は記載されない。もっとも同行した曾良の書留によると、この「室の八島」で芭蕉は次の五句を作ったということである。
糸遊に結つきたる煙哉 翁
あなたふと木の下暗も日の光 翁
入かゝる日も糸遊の名残哉
鐘つかぬ里は何をか春の暮
入逢の鐘もきこえず春の暮
この五つの句のなかで、「室の八島」に関係するものは一句目と三句目だが、あとの句は全然関係がないのか?特に二句目の「あなたふと木の下暗も日の光」は、次の日光での「あらたうと青葉若葉の日の光」の初案とされ、こことは全く関係のないように言われている。どうだろうか。安東次男がこの「木の下暗」の句に「木の花さくや姫」の面影を指摘しているのはさすがだと思った。この「室の八島」の条が、次の日光の条の「仏五左右衛門」のエピソードとともに卯月朔日の「あらたうと青葉若葉の日の光」という「光」に至るための周到な「煙」であり、連句でいうならば「遣句」のような働きを仕掛けているのだろう。これらは安東の「芭蕉 奥の細道 日本の旅人6」(淡交社・昭和49年刊)を読み返しながら教えてもらい、考えたことでもある。
ABCと句を並べたのは、A日光、B黒羽、C黒羽からの出立途次の「殺生石」、葦野の「遊行柳」という旅の場所の各句ということだが、「句文一体」のスタイルの見事さを抜け出して、つまり「ほそ道」のあの文がなくても、強烈な印象を与えるのは「あらたうと青葉若葉の日の光」の句ではないだろうか。しかし、皮肉なことに「…今この御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ…憚なほ多くて、筆をさし置きぬ」などという「文」のあとにあるせいで、その文との「一体」のせいで、そうだろうと私は思うのだが、以下のように読まれてきたのである。いや、そういう読み取りに対する嘆きの言葉なのだが。
― 前文に「恩沢八荒(二荒と対照させている)にかがやきて」云々は、徳川家の威光を言ったのに違いないから、ここに芭蕉の幕府に対する卑屈な態度を読み取り、非難する評者もある。戦争中は、大権の簒奪者としての将軍に対する讃美のゆえに非難され、戦後は、封建的な圧制者としての将軍に対する讃仰のゆえに非難され、どう転んでもこの句は浮かばれないのだ。―(「芭蕉」・山本健吉)
「前文」の分析は抜きにして、この句はその前文があろうがなかろうが、この卯月、皐月という四時のなかの「かかやき」への絶後のオマージュたりえていると私は考える。こういう句に権力の威光への拝跪を読みとる心性!そういう意見の文脈で極論すれば、ここは「ほそ道」の「句文一体」の作者によるわざとした「破れ」ではないのか?そのあまりの「一体」ぶりを日の光はやさしく笑うのであろう。
ここまで書いて眠くなってきた。本当は「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」という芦野の西行さん伝説の「遊行柳」での句のさまざまな解釈について考えてみようと思って書き始めたのだが、絶対に目的のところまで行くはずがない。
でもなんといっても好きな句、たとえば、
かさねとは八重撫子の名なるべし
当然だが「文」がまたすてきだ。それにしても、こういうスタイルのエクリチュールを「発明」した男がいたとは!そして、この男の後は、途絶えたままなのだ。その「表現」の冒険においては。
14 件のコメント:
「(奥の細道 室の八島の段について)この記事は「ほそ道」のなかで、どういう役割を持っているのだろうか?読むたびに不思議な気持になる。」って、
あなたは1600年代の室の八島がどういう所であったか、ご存知ですか?当時の史料を調べたことはありますか?まずそれがわからなければ何もわかりません。
「読むたびに不思議な気持になる。」って、こんなものいくら繰り返して読んだからって
何が書いてあるかは全くわかりません。解説書もなんにも説明しておりません。
コメントありがとうございます。
いろいろご教示下さい。
「いろいろご教示下さい。」に甘えて。
芭蕉は曾良の話を半分は信じましたが、半分疑っていました。
<糸遊に結びつきたる煙哉>の句について
大神神社に来られた方は分かると思いますが、あそこは木々が鬱蒼とした鎮守の森で、とても陽炎が立つような場所ではありません。つまり<糸遊に>の句はこの場所を詠んだ句ではありません。
芭蕉が江戸の町で聞いていた室の八島とは「かつて栄えた室の八島の町も今では寂れて陽炎が立つような場所に変わってしまった。」というイメージです。
このかつて栄えた町のことを[本朝食鑑] (1697年)は、ずばり「昔・・・室の八島の市中に」と表現しています。
参考書は皆日光に行くついでに室の八島に立ち寄ったと書いていますが、大間違いです。
芭蕉時代の室の八島は、江戸の町で誰一人その名を知らぬ人がいないくらい超有名な名所でした。室の八島は下野国に二つと無い名所だったのです(下野風土記)。
芭蕉は日光を訪れたとは言えないのです。ただ東照宮を訪れただけです。当時日光を訪れる人たちの目的は二荒山神社をはじめとする寺社参拝ですが、芭蕉は東照宮以外の寺社を訪れていません。また当時東照宮は一般公開されておらず、名所ではなかったのです。
芭蕉の下野国における最大の目的地は室の八島です。
曾良の話とは?
曾良は江戸から持参したこの神社の縁起(由緒書き)のメモを芭蕉にただ読んで聞かせただけです。
この神社の縁起は、当時極めて強力な権力を持っていた神道組織(曾良の神道学の師匠はこの組織のトップの一人です)がでっち上げてこの神社に押し付けたものです。勿論史実とは全く関係有りません。そもそも木花咲耶
姫がこの神社に絡んでくるのは江戸時代です。
ということで曾良の話は全て出鱈目です。
先に「芭蕉が江戸の町で聞いていた室の八島とは「かつて栄えた室の八島の町も今では寂れて陽炎が立つような場所に変わってしまった。」というイメージです。」と書きましたが、
イメージではなく具体的な室の八島としては、この神社の前に有った八つの小島のある室の八島の池です。この池は江戸時代を代表する室の八島でした。ただしこの池は現在ありません。現在の大神神社の池よりずっと大きな池でした。
先に八つの小島の有る池を、江戸時代を代表する室の八島と言いましたが、実は江戸時代には室の八島は複数存在しました。実物とイメージとを含めて。
江戸時代、現在の大神神社のある惣社町の北に接して癸生村(けぶむら)がありましたが、この村名が室の八島の煙(けぶり)に関連付けられて室の八島であると考えられていました。この室の八島は下野国内では最もよく知られていましたが、下野国外までは知られていなかったようです。
唯一存在しなかったのが、曾良の言う神社(の境内一帯)の室の八島です。下野国の人たちは、神社が室の八島であるなどという馬鹿な話を誰も相手にしませんでした。
曾良は室の八島とは一般に知られている池のことではない、この神社の境内一帯のことであると言っているのです。
「(木花咲耶姫が富士山の神になる前に、木花咲耶姫の故郷である下野国の室の八島で)無戸室に入りて焼けたもう誓いのみ中に、火火出見の命生まれ給いしより(この神社の境内一帯を)室の八嶋と申す。又煙を読み習し侍るもこの謂なり。」
この神社の縁起をこういう内容にする必要があったので、つまり「木花咲耶姫の故郷は室の八島である」とこじつける必要があったので、室の八島が池では都合が悪かったのです。
「こんなものいくら繰り返して読んだからって何が書いてあるかは全くわかりません。解説書もなんにも説明しておりません。」でしょう。
室の八島の段の執筆意図
芭蕉は、室の八島という非常に有名な名所に来ているのです。ですから室の八島のことを何も書かなかったらおかしいでしょう。これが室の八島の段を書いた根本的な理由です。
芭蕉は曾良の話を半分信じました。だから曾良の話を[奥の細道]に書きました。しかし半分疑っていたので室の八島の印象を一言も書きませんでした。
本来の室の八島とは?
平安時代の史料から有る程度は推測できますが、本来の室の八島がどんな所であったかを表現しているのは「室の八島」という名称しかなさそうです。この名前からban様が想像されるそのとおりの場所だったと思われます。しかし1100年頃までには本来の景観を失い、1150年頃までには場所が移動してしまいます。その移動後の室の八島が「かつて栄えた室の八島の町」です。その後室の八島は何回も変貌を繰り返します。そしてあなたがご存知の室の八島はその成れの果ての姿なのです。
ありがとうございました。
田一枚植て立去る柳かな考
芭蕉独り言
この柳は、かつて西行がその木陰にたたずんで”清水ながるゝ柳陰”と詠んだと伝えられている木なのだなあ! -芭蕉も同じ柳陰に立ち、辺りを見回すと、農夫たちが並んで田植えをしている- ところで西行がここに来たのも夏のようだ、彼も農夫たちが田植えをしているのを見たのだろうか。歌によれば、彼はしばしの間ここにたたずんでいたようだが、それは田を一枚植えるくらいの間だったろうか、その間彼はどんなことを考えていたのだろう・・・・・・とにかく西行は、この木陰にしばしたたずんでから立ち去ったようだ。そこで一句 <田一枚植て立去る柳かな>
(続く)
立ち去るのは誰か?
『今日この柳のかげにこそ立より侍つれ』、芭蕉は「かつて西行もここにやって来たのだなあ」と感激している。そして、誰でも同じことをすると思いますが、芭蕉も柳陰に佇んでいた西行のことをあれこれ想像した。そしてそれを素直に俳句にした。「この柳は、かつて西行が、田一枚植えるくらいの間この木陰にたたずみ、そして立ち去ったであろう柳なのだなあ」、これを無理こやりこ17文字に圧縮したのが<田一枚植て立去る柳かな>ではないでしょうか?このように立ち去るのを西行とすると、前段の文と俳句との繋がりがすっきりするでしょう。これが正しい解釈であるなどとは言いませんが。「立ち去るのは誰か?」についていろんな説があるようですが、ここで押さえておかなければならない重要なことがあります。それは「遊行柳」の段は、俳句を含めてまとまった一つの文であるという事です。そして俳句はその中で重要な地位を占めているだろうということです。
(続く)
芭蕉は、西行がここで和歌を詠んだという事を疑っていたと思います。
[新古今集](1205年)262番 夏 題しらず
西行(1118-1190年)
<道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ>
つまりこの歌はどこで詠まれたものか判らない歌です。
だから[西行物語](鎌倉時代初期?)では、障子絵を見て詠んだ歌とこじつけることができたのです。
また謡曲[遊行柳](1514年初演?)
では、朽木の柳は白河の関の陸奥側に在ったとなっています。
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