どうしてこう疲弊するのだろうか?辛気くさい、老人の繰り言か。
ベケットの「オハイオ即興劇」を読む。何故か知らんが、ベケットのことが最近いつも気にかかる。なにも知らないのに。極北のようなものか、あそこまで行けば文学も根絶やしだろうと思うからかもしれない。とにかく最近、「文学」が嫌になってきた。詩もそうかも。小説は読む体力がない。リョサも借りてきたけど、ほったらかし。
英語で読みたいけど、面倒くさい。アマゾンの古書の出品のなかに、ベスト・オブ・ベケット3(白水社)「しあわせな日々・芝居」があって、そのなかに「オハイオ即興劇」も入っていた。700円ぐらいだった。今日届いていた。読んだ。このわけのわからなさの快感。現実と虚構と芝居と分身と読むことと聴くことの、すべてが曖昧な影を帯び、画定できない境や閾が息づきはじめて、いやすべてが…、
最初に読み手は聞き手に向かって「語るべきべきことはもうほとんど残っていない。これを最後の…」と始まるテキストを読むのだが、これが舞台上の二人の役者(reader とlistenerという役柄)によって演じられる。この二人は区別不可能なほどに似ているという設定がある。聞き手は机の上をノックすることにより、朗読の部分を後退させたり進行させたりする。
そのテキストの内容は、聞き手に対する誰かからの(聞き手が愛して、別れた人)メッセージのようでもある。その話は聞き手の経験のすべてがそこに記録されたもののようでもある。しかし読み手もすべてを理解して読んでいる、一つの身ぶりは、これは間違いないな、と言いながら、本を覗き込むのだが、これは間違いないな、と書かれているそこを読んでいるのである、そういう身ぶりがある。自分が書いたものを確認することの、その文字が、そのとおりそのページに書かれていて、それを読んでいるという仕掛け。
その読まれるテキストの中の印象的な部分、
「川の二つの腕は、なんと喜ばしい渦を巻きながら相混じり、相抱いて流れ去ることか」、これには訳者(高橋康也)の注釈があって、「ベケットには珍しい抒情的エロティシズム」とある。
最後の部分で読まれるテキストの内容、それは読み手と聞き手の「今」を語るものでもある、
「そこで例の悲しい物語がもういちどこれを最後に読み直され、二人はまるで石に変じたかのように坐りつくしていた。ひとつしかない窓からは、夜明けの光も差さなかった。外の通りからは、ひとびとのめざめる物音も聞こえなかった。それとも、ゆえ知らぬ思いに耽っている二人の男にとって、それらのことはどうでもよかったということなのか?朝の光とか、めざめの物音などは。いかなる思いか、知るよしもない。思い?いや思いではない。心の深き淵だ。故しらぬ心の深き淵に沈んで。心呆けたる深き淵。いかなる光も届きえぬところ。いかなる物音も。かくして二人はまるで石に変じたかのように坐りつくしていた。例の悲しい物語がもういちどこれを最後に読み直された」、
注意、これはその読まれる物語であるということを忘れるな。この芝居の二人の訳者への言及とまがうこのテキスト、テキストと舞台上の区別が一気に混同される。
そして最後、もちろんこれもその読まれるものに書かれている内容を読み手が読む、
「語るべきことはもうなにも残っていない」、もう一回、この台詞がある。
そして最後のト書き、
―― 二人は同時に右手をテーブルにおろし、顔をあげ、互いに見つめあう。まばたきをしない。表情のない顔。十秒。 溶暗。――
「考え、いや、考えではない。こころの深み。どんな深みだか誰も知らないところに沈められ。こころの、ではない、こころのない深みに」(...profounds of mind. Of mindlessness.)
というような訳もある。こちらの訳のほうが好きだ。
2010年11月15日月曜日
2010年11月1日月曜日
佐藤泰志・国分寺・海炭市
11月3日(文化の日)、国分寺駅8階のエルホールというところで、『佐藤泰志ゆかりの国分寺で海炭市叙景に出会う』というタイトルのイベントが午後2時から開催されます。
佐藤泰志はご存じの方も多いと思いますが、すぐれた小説家で、痛みと歓び、無残さと救いが同居したようなすばらしい光と影に満ちた青春の小説を多く書きました。
かれの残した「海炭市叙景」という作品が、彼の故郷北海道函館の市民発のエネルギーの結集の賜物として映画化されたことはメディアなどの報道などにより耳目に新しいところです。佐藤が生前住んでいて、その作品の舞台にもしている国分寺で、この映画の応援を兼ねて、監督や出演者などのトークや朗読などを行います。詳しいプログラムは以下の通りです。あがた森魚さんはこの映画に出演しています。
プログラム
第1部/2時~2時45分
◆予告編の上映
◆俳優・キタイマコトさんによる
「まだ若い廃墟」の朗読
◆あがた森魚さんミニコンサート(赤色エレジー他)
☆休 憩/15分
第2部/3時~4時半
◆トークショー
出演/熊切和嘉監督
越川道夫プロデューサー
あがた森魚さん
岡崎武志さん(書評家)
◆観客からの質疑応答
(会費は千円ということです)
詳しいことは、この企画の中心である井田ゆき子さん(泰志の高校の後輩)に。
TEL;090-7724-6311
FAX;042-361-8728
ぼくは佐藤とは面識がありませんが、佐藤の友人たちの一人木村和史の知り合いです。また佐藤が現在のようにまとめられてはいない「海炭市叙景」の1、2、3すなわち「まだ若い廃墟」「青い空の下の海」「冬を裸足で」を1988年最初に発表した雑誌『防虫ダンス』(加藤健次編集)に書いたこともあります。佐藤の海炭市叙景と一緒の号だったかは定かではありませんが。かれの長編「きみの鳥は歌える」などをリアルタイムで読んだことを思い出します。
本来なら木村がこの会の司会をするはずでしたが、よんどころない事情でできないということで、ぼくが代わりにやることになりました。皆様のご来場をお待ちします。
佐藤泰志はご存じの方も多いと思いますが、すぐれた小説家で、痛みと歓び、無残さと救いが同居したようなすばらしい光と影に満ちた青春の小説を多く書きました。
かれの残した「海炭市叙景」という作品が、彼の故郷北海道函館の市民発のエネルギーの結集の賜物として映画化されたことはメディアなどの報道などにより耳目に新しいところです。佐藤が生前住んでいて、その作品の舞台にもしている国分寺で、この映画の応援を兼ねて、監督や出演者などのトークや朗読などを行います。詳しいプログラムは以下の通りです。あがた森魚さんはこの映画に出演しています。
プログラム
第1部/2時~2時45分
◆予告編の上映
◆俳優・キタイマコトさんによる
「まだ若い廃墟」の朗読
◆あがた森魚さんミニコンサート(赤色エレジー他)
☆休 憩/15分
第2部/3時~4時半
◆トークショー
出演/熊切和嘉監督
越川道夫プロデューサー
あがた森魚さん
岡崎武志さん(書評家)
◆観客からの質疑応答
(会費は千円ということです)
詳しいことは、この企画の中心である井田ゆき子さん(泰志の高校の後輩)に。
TEL;090-7724-6311
FAX;042-361-8728
ぼくは佐藤とは面識がありませんが、佐藤の友人たちの一人木村和史の知り合いです。また佐藤が現在のようにまとめられてはいない「海炭市叙景」の1、2、3すなわち「まだ若い廃墟」「青い空の下の海」「冬を裸足で」を1988年最初に発表した雑誌『防虫ダンス』(加藤健次編集)に書いたこともあります。佐藤の海炭市叙景と一緒の号だったかは定かではありませんが。かれの長編「きみの鳥は歌える」などをリアルタイムで読んだことを思い出します。
本来なら木村がこの会の司会をするはずでしたが、よんどころない事情でできないということで、ぼくが代わりにやることになりました。皆様のご来場をお待ちします。
2010年10月20日水曜日
「頓死」の頓死
…
…
どのみち世界で
厳粛な破壊の儀式が始まったら
押潰されたヒューマニズムの声など役に立たぬ
だがみよ ヒットラーは死んだんだ
ムッソリーニも死んだ
スターリンも死んだ
毛沢東も死んだ
なのに この世はさっぱりよくならない
はてさて 七十年代も終わりですか
あとに残っているのは小者ばかりだから
世界はやがて筋萎縮性の痙攣を起こし
まもなく頓死するだろう
(後略)
と鮎川信夫は「独白(1979年年十二月某夜)」という詩に書いている。これを読んで考えるのは、この世界はなかなか「頓死」などということをしないし、むしろ「死んだ」とか「頓死」とかいうことが死んだし、頓死するしかないような道を、われわれは最後まで歩いて行くことしかないのだろうということだ。最後のない最後へ、でも毅然として背筋を伸ばして歩くということは、そう簡単なことではないだろうが。
今日の「歩く」、8㌔。6時はもうすでに暗く、先ごろまでの感覚とは違う。背中が痛んでいたが、今日はゆっくり歩く、すこし痛みがやわらぐ。ハードすぎたのだ。
奄美で大雨。父に電話したら、徳之島でも大変な大雨で、海沿いの本川があふれていて、山のほうに迂回させられて、やっと亀津から喜念に帰ることができたということだ。母は風邪ぎみ、だった。
…
どのみち世界で
厳粛な破壊の儀式が始まったら
押潰されたヒューマニズムの声など役に立たぬ
だがみよ ヒットラーは死んだんだ
ムッソリーニも死んだ
スターリンも死んだ
毛沢東も死んだ
なのに この世はさっぱりよくならない
はてさて 七十年代も終わりですか
あとに残っているのは小者ばかりだから
世界はやがて筋萎縮性の痙攣を起こし
まもなく頓死するだろう
(後略)
と鮎川信夫は「独白(1979年年十二月某夜)」という詩に書いている。これを読んで考えるのは、この世界はなかなか「頓死」などということをしないし、むしろ「死んだ」とか「頓死」とかいうことが死んだし、頓死するしかないような道を、われわれは最後まで歩いて行くことしかないのだろうということだ。最後のない最後へ、でも毅然として背筋を伸ばして歩くということは、そう簡単なことではないだろうが。
今日の「歩く」、8㌔。6時はもうすでに暗く、先ごろまでの感覚とは違う。背中が痛んでいたが、今日はゆっくり歩く、すこし痛みがやわらぐ。ハードすぎたのだ。
奄美で大雨。父に電話したら、徳之島でも大変な大雨で、海沿いの本川があふれていて、山のほうに迂回させられて、やっと亀津から喜念に帰ることができたということだ。母は風邪ぎみ、だった。
2010年10月17日日曜日
私の病んでゐる生き物
昨日(10/15)の授業はプリントした詩が多かった。急いだが90分でも足りないくらいだった。反省。的確なコメントを寄せられると、作者は何も言えなくなる、そういう応酬があり、聞いていて面白かった。自作詩を発表させた後、作者にすぐコメントさせ、その後2、3名に批評させるやり方だと、作者の解説に縛られて、それですべてが終わってしまうという意見があったので、昨日は反対にしてみたのだった。でも両方のやり方で試みるのがいいと私は考えている。山村暮鳥、蔵原伸二郎、リルケ、ツェラン、(梶井基次郎、田村隆一)などの詩を紹介する。梶井は「ある心の風景」のなかの、
川の此方岸には高い欅の樹が葉を茂らせてゐる。喬は風に戦いでゐるその高い梢に心は惹かれた。稍々暫く凝視つているうちに、彼の心の裡のなにかがその梢に棲り、高い気流のなかで小さい葉と共に揺れ、青い枝と共に撓んでゐるのが感じられた。
「あゝこの気持」と喬は思つた。「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分或ひは全部がそれに乗り移ることなのだ」
喬はそんなことを思つた。毎夜のやうに彼の座る窓辺、その誘惑―病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、此処の高い梢にも感じられるのだった。
という大好きな部分をコピーして配布するつもりだったが忘れていた。こうして書き写していても、日本近代文学のなかで私小説が純粋詩に最も近づいた、いや最近のはやり言葉で言えば、クロスカップリングしたあとに生まれた未知の結晶体がここにあると言える。この感覚の切ないほどの凝集の頂上の不可視の部分に、女郎買いの陰惨な現実、性病の憂鬱が潜んでいる。(視ることと見えないことの対比、視ることの新しさの席捲と見えないこと、見ないこと即ち性の触れることの古さとの対比etc.)
授業を終えて、5号館から外に出たところで、千石先生に二年ぶりにばったりと遭った。
彼は今から授業。終わってから飲もうという話になって、私は図書館で時間をつぶした。ディープ池袋の片端を堪能した夜だった。それにしても千石さんのとびきり面白い話をサシで、しかもおいしくてチョウやすい居酒屋三福のホッピーや料理を堪能しながら、6時半から10時過ぎまで聴くことができたのは近来稀なる痛快事であった。そしてだ、私は千石先生の講義を来週から聴講することを許されたのである、というより私の方からそう決めたのである。講義が終わったあとの池袋居酒屋探訪の愉しみは言うまでもないが、次回はフォークナーの「八月の光」と小島信夫の「墓碑銘」を対比していろいろと考えるというのだから、その壮大さにまず眩暈がする。(千石さんによれば、その講義に出ている院生たちで、私の2008年の授業に出席していた連中が結構いるということだった。)
川の此方岸には高い欅の樹が葉を茂らせてゐる。喬は風に戦いでゐるその高い梢に心は惹かれた。稍々暫く凝視つているうちに、彼の心の裡のなにかがその梢に棲り、高い気流のなかで小さい葉と共に揺れ、青い枝と共に撓んでゐるのが感じられた。
「あゝこの気持」と喬は思つた。「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分或ひは全部がそれに乗り移ることなのだ」
喬はそんなことを思つた。毎夜のやうに彼の座る窓辺、その誘惑―病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、此処の高い梢にも感じられるのだった。
という大好きな部分をコピーして配布するつもりだったが忘れていた。こうして書き写していても、日本近代文学のなかで私小説が純粋詩に最も近づいた、いや最近のはやり言葉で言えば、クロスカップリングしたあとに生まれた未知の結晶体がここにあると言える。この感覚の切ないほどの凝集の頂上の不可視の部分に、女郎買いの陰惨な現実、性病の憂鬱が潜んでいる。(視ることと見えないことの対比、視ることの新しさの席捲と見えないこと、見ないこと即ち性の触れることの古さとの対比etc.)
授業を終えて、5号館から外に出たところで、千石先生に二年ぶりにばったりと遭った。
彼は今から授業。終わってから飲もうという話になって、私は図書館で時間をつぶした。ディープ池袋の片端を堪能した夜だった。それにしても千石さんのとびきり面白い話をサシで、しかもおいしくてチョウやすい居酒屋三福のホッピーや料理を堪能しながら、6時半から10時過ぎまで聴くことができたのは近来稀なる痛快事であった。そしてだ、私は千石先生の講義を来週から聴講することを許されたのである、というより私の方からそう決めたのである。講義が終わったあとの池袋居酒屋探訪の愉しみは言うまでもないが、次回はフォークナーの「八月の光」と小島信夫の「墓碑銘」を対比していろいろと考えるというのだから、その壮大さにまず眩暈がする。(千石さんによれば、その講義に出ている院生たちで、私の2008年の授業に出席していた連中が結構いるということだった。)
2010年10月11日月曜日
秋の多義性
書き終わって、直す余裕があまりないほど、最近追い込まれているのか?そうではないが、樹木や雲が秋を告げているのを立ち止まって見たり、思ったりする心の余裕がというか、あまり好きな言葉ではないが「感受性」がほとんど壊滅状態にあるのではないかなどと、自らを省みて最近思う。
まず、あらゆる書き物の、そのそこに秘めている「自己宣伝」に飽きた。
その欲望がいとわしいものに思えて、その匂いを嗅いだとたん読む気がしない。
古典はまだいい、しかし現実に生きている連中で、しかもしょっちゅう書いている、いわゆるプロと称するもので、宣伝の悪臭を放つもの、それには我慢がならないし、そういう予感(先入主でもいい)があるから、とにかくいやだ。
秋の多義性、
こころと欲望はよく入れ替わる。
昨日、西荻ブックマーク。古本屋、音羽館の広瀬さんとも会う。こういうイベントを今回で46回も地道に続けてきたその実践に敬意を表する。そして、この会の前半で佐藤泰志の文学と人間について講演した福間健二の細やかで強さをも兼ねた「観察」もすばらしかった。泰志の二十回目の命日の日の、人々のあつまり。映画もでき、文庫も出た、あの世から泰志はなんと言うだろうか? 和史よ、どう思いますか?
まず、あらゆる書き物の、そのそこに秘めている「自己宣伝」に飽きた。
その欲望がいとわしいものに思えて、その匂いを嗅いだとたん読む気がしない。
古典はまだいい、しかし現実に生きている連中で、しかもしょっちゅう書いている、いわゆるプロと称するもので、宣伝の悪臭を放つもの、それには我慢がならないし、そういう予感(先入主でもいい)があるから、とにかくいやだ。
秋の多義性、
こころと欲望はよく入れ替わる。
昨日、西荻ブックマーク。古本屋、音羽館の広瀬さんとも会う。こういうイベントを今回で46回も地道に続けてきたその実践に敬意を表する。そして、この会の前半で佐藤泰志の文学と人間について講演した福間健二の細やかで強さをも兼ねた「観察」もすばらしかった。泰志の二十回目の命日の日の、人々のあつまり。映画もでき、文庫も出た、あの世から泰志はなんと言うだろうか? 和史よ、どう思いますか?
2010年10月1日金曜日
グアドループに
返答と贈答の形式で
グアドループに。
風の吹く平坦な土地と森が生い茂る凸型の土地とを均等に隔てる境界に。
微笑がたわませる、その計り知れない気分に。
グランド=ヴィジ岬の断崖で風が浸食する灰色のマプー木に。
グアドループ住民のなかでおそらくもっともマルティニック的なデルグレスに。
潮が訪れない、数多くの隠れた入江(アンス)に。
双方の海岸で再開する、レザルド川とラマンタンに。
見事に生き抜いた、グランド=テールのヒンドゥーの民に。
絶対に涸れ尽きえない、ウアスー蟹に。
グアドループに、そして昔のライバルたちに。
ロランの若者たちが死んだように、ここで死んだ若者たちに。
シャトー岬の黄金の砂粒に。無限が君の踝を捉える、サン=タンヌに広がる遠大な海に。
農業労働者の最初の民族的組合に。
間違いなく憤死(マルモール)が叫んだ場所である、我慢の限界(マランデュール)と呼ばれる場所に。
ポール・ニジェールに。
クレオール語の詩人たちに、グオカ太鼓を叩く者たちに。
不思議なことに、蛇が一匹たりとも生き残らなかった島、グアドループに。
エドゥアール・グリッサン、Le discours antillaisより。(中村隆之 訳)
グアドループに。
風の吹く平坦な土地と森が生い茂る凸型の土地とを均等に隔てる境界に。
微笑がたわませる、その計り知れない気分に。
グランド=ヴィジ岬の断崖で風が浸食する灰色のマプー木に。
グアドループ住民のなかでおそらくもっともマルティニック的なデルグレスに。
潮が訪れない、数多くの隠れた入江(アンス)に。
双方の海岸で再開する、レザルド川とラマンタンに。
見事に生き抜いた、グランド=テールのヒンドゥーの民に。
絶対に涸れ尽きえない、ウアスー蟹に。
グアドループに、そして昔のライバルたちに。
ロランの若者たちが死んだように、ここで死んだ若者たちに。
シャトー岬の黄金の砂粒に。無限が君の踝を捉える、サン=タンヌに広がる遠大な海に。
農業労働者の最初の民族的組合に。
間違いなく憤死(マルモール)が叫んだ場所である、我慢の限界(マランデュール)と呼ばれる場所に。
ポール・ニジェールに。
クレオール語の詩人たちに、グオカ太鼓を叩く者たちに。
不思議なことに、蛇が一匹たりとも生き残らなかった島、グアドループに。
エドゥアール・グリッサン、Le discours antillaisより。(中村隆之 訳)
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