去年のいつだったか、朝日新聞に掲載されている大江健三郎の連載コラム「定義集」で、Flannery O'Connorという名前だけは知っていたアメリカ南部の早逝した女流作家のことが書かれていて、読みたいなと思ったことがあった。大江の文脈では、簡単に言えば、同じカトリックの作家なのに、ここのSという功なり名遂げた女流と、アメリカはディープ・サウスの短編作家の切実な生を対比することで見えてくるものを迂回しつつ言おうというものであった。その回りくどさに、私は躓いたが、今ははっきりと私なりの言葉で言うことができそうだ。というのは、私はそれからオコナーの全短編を読んだからだ。
Sという作家は、沖縄の戦争中の「集団自決」を、「殉難」「殉教」というCatholic(普遍的な)的な「物語」のなかに回収し、だれも責任のとりようのないものとして、むしろ自発的な行為として「美化」する。オコナーはもちろん、このことには言及していないが、彼女の作品から私が想像するかぎりでは、どのような意味づけもたとえばこの「事実」には与えないであろう。その「悲惨」さにどれだけ接近できるか、というのが彼女の方法である。「事実」の動かし難い「悲惨」さに圧倒されること、そこからどうして生き延びるかということ、その生き延びる生のなかでの新たな「悲惨」を、その原因の事実の悲惨に対峙させる、彼女の方法はこれだけだ。愚痴や救いはここではタブーである。とくに解釈としての、メタフィジックなものははっきりと乖離される。ここに浮かび上がってくるのは、エホバの顔を避けて生きるしかない人間のとりうる「経験」の諸相に対する眼差しの差違であると私は思う。
オコナーの短編全集の訳者、横山貞子が鶴見俊輔の伴侶であるということを私は不覚にも最近まで知らなかった。鶴見の「期待と回想」(朝日文庫で今年再刊)を最近読んでいるのだが、ここにあるのは自らを「悪人」として自覚した人間の、「生き延びる」ための方法である。オコナーについて鶴見は次のように述べている。
― アメリカ人は、まだ、第二次世界大戦とヴェトナム戦争の二つをとらえるだけの力量をもっていないんです。今後、それは現れてくるかどうかはわかりません。日本の場合、大岡昇平の一連の作品『俘虜記』『野火』『ミンドロ島ふたたび』、その後に『レイテ戦記』がある。この四つはたいへんなものだと思いますね。アメリカ人はそれだけのものを第二次世界大戦について書いていない。しいていえば、オコナーの『善い人はなかなかいない』。これを読むと、アメリカ人はどうして原爆を日本に落としたのかがわかる寓話のような気がする。二十世紀のアメリカ作家の中でオコナーはずぬけていると思いますよ。―
オコナーの『善い人はなかなかいない』という短編は、祖母をまじえた車での家族旅行の最中に道に迷い、脱獄囚のグループに出会い、一家が射殺されるという悲惨な話である。Sのように「気品」の好きな祖母は、脱獄囚のリーダーとキリストの奇跡について問答する。その場面を横山訳で引用してみる。このリーダーの名前は、原文ではMisfitだが、その意味をとり、横山貞子は<はみ出しもの>と訳している。
― <はみ出しもの>は話を続ける。「死人をよみがえらせたのはイエス・キリストだけだよな。そんなことはしないほうがよかった。イエスはあらゆるものの釣り合いを取っ払ったんだ。イエスが言ったとおりのことをやったとすれば、おれたちはすべてを投げ出してイエスに従うほかない。もし、イエスが言ったとおりのことをやらなかったとすれば、おれたちとしては、残されたわずかな時間を、せいぜいしたいほうだいやって楽しむしかないだろう―殺しとか、放火とか、その他もろもろの悪事を。悪事だけが楽しみさ。」話すうちにだんだん声が大きくなる。
「もしかすると、イエス様は死人をよみがえらせなかったかも。」なにを言っているかよくわからないまま、おばあちゃんはつぶやいた。目まいがして、堀の中にひざを折ってすわりこんだ。
「おれはそこにいたわけじゃないから、イエスが死人をよみがえらせなかったとは言い切れない。」<はみ出しもの>が言う。「おれはその場にいたかった。」彼はこぶしで地面を打った。「いられなくて残念だよ。もしいたら、はっきりわかったのに。そうだろうが。」声が高くなった。「もしその場にいたら、はっきりわかったのに。そうすればおれはこういう人間にならずにすんだんだ。」泣きわめく声に変わる寸前だった。
おばあちゃんはその一瞬、頭が澄みわたった。目の前に泣きださんばかりの男の顔がある。男に向っておばあちゃんはつぶやいた。「まあ、あんたは私の赤ちゃんだよ。私の実の子どもだよ!」おばあちゃんは手をのばして男の肩にふれた。
<はみ出しもの>は蛇にかまれたように後ろに飛びのいて、胸に三発撃ちこんだ。それから拳銃を置き、眼鏡をはずして拭きはじめた。 ―
悪人と、死を前にした人のいい祖母の会話を書き写しているうちに、鶴見が勉強したアメリカのプラグマティズムの考えが、この悪人にも徹底しているのだと思った。こういうふうに段階を踏んで攻められると、おばあちゃんのイエスばりのヒューマニズムの日和見主義がはっきりと区別される。
疑うこと、経験に即して疑うこと。この話が「アメリカ人はどうして原爆を日本に落としたのかがわかる寓話」という鶴見の評とどう関係するのかは私にはよく分からないが、このMisfitという人物の理詰めの仕方の書き方に、私は今ひかれる。どこにも<救い>はないが、<救われなさ>にとどまる自由というか、態度がある。要するに、これがオコナーの信仰だったのだ。
鶴見俊輔という人も、そういう人ではないか。
2008年4月27日日曜日
翡翠を見た。
午後5時15分。城址公園の池のなかの止まり木。憩うのか獲物を狙っているのかわからないが、初めて翡翠に遭遇した。いつもと異なり、カメラは一台のみ。その人と、犬を連れた女性が、息をつめて注視している方向を、散歩帰りの私も、足音を立てないようにして近づく。まさに宝玉のような色の鳥が静かに止まっているではないか。そのうち、低く飛翔して、沼杉の新緑の枝に乗り移る。静かに私も移動して、今度は、遠めにしか見えないが、約2分ほど見つめあっていた。池に向って飛び込んだように見えたが、もう消えていた。正確にいうと私の場所からは視認できななかった。生の最高の色合い。
○ 翡翠は一羽の生を午後に飛ぶ
○ 暗緑の姿を隠す空もなし
○ 生とうは飛翔の青に秘めし死ぞ
○ 翡翠にエメ・セゼールの死思う午後
○ 翡翠は一羽の生を午後に飛ぶ
○ 暗緑の姿を隠す空もなし
○ 生とうは飛翔の青に秘めし死ぞ
○ 翡翠にエメ・セゼールの死思う午後
2008年4月26日土曜日
お互いの体のぬくもり
恩師のような存在と一人で思っている大先輩から、今朝福井の酒が送られてきた。奥越前は勝山の「一本義」、もう一本は大野の「花垣」という大吟醸。越前は奥様の故郷だったと記憶している。吃驚し恐縮した。本来ならぼくこそ今まで受けた恩義のいささかなりともお返しするために、何かをしなければならないのに、いつもゆったりと自然に見守ってくださる。ぼくの人生の節目にあたって、元気付けるために贈ってくださったのだ。日本酒好きの友人たちが連休あけに集るから、そのときみんなで味わってみよう。先輩がどういう人か、その奥様がどんなに気品に満ちた美しい人であるか、話しながら。
福間健二が『夜』という詩で切ないことを書いている。表記の通りではないが(私はタグは使えないから)引用してみる。
体の一部が
いつまでもつめたいことが
(目覚めとあきらめが
いつまでも整理のつかない)
老いる事務の
はじまりだ
音楽のなかに
閉じ込められた永遠が
階段をおりてくる
どう立つ?
(目も耳もあまり自信がない)
この抒情詩の
かがんだ姿勢から
「お互いの体のぬくもり」を
表現として読む
私は私一人でこの詩行を切実に受け止めるのだが、それは「この抒情詩のかがんだ姿勢」という経験を私も共有するからだ。その姿勢で私たちは今いる、それ以外の姿勢はとりようがない。そこから「お互いの体のぬくもり」を読むこと。この詩も私にとって、かけがえのない贈り物になった。
福間健二が『夜』という詩で切ないことを書いている。表記の通りではないが(私はタグは使えないから)引用してみる。
体の一部が
いつまでもつめたいことが
(目覚めとあきらめが
いつまでも整理のつかない)
老いる事務の
はじまりだ
音楽のなかに
閉じ込められた永遠が
階段をおりてくる
どう立つ?
(目も耳もあまり自信がない)
この抒情詩の
かがんだ姿勢から
「お互いの体のぬくもり」を
表現として読む
私は私一人でこの詩行を切実に受け止めるのだが、それは「この抒情詩のかがんだ姿勢」という経験を私も共有するからだ。その姿勢で私たちは今いる、それ以外の姿勢はとりようがない。そこから「お互いの体のぬくもり」を読むこと。この詩も私にとって、かけがえのない贈り物になった。
2008年4月25日金曜日
つつじの女王
湯殿川のいつもの散歩の道から少し外れると、ドトールがあることを発見した。そこで、コーヒーを飲み、道草を食う。散歩にならないのだが、無理することもない。
詩集のことを考えているのだが。ほっておけば、気力がなくなるのが目に見えている。「どうして、詩集を出そうと思うのか?」「出さないなら、出さないでもいいのではないか」「いや、これまで書いたものを単にまとめたいのだ」。その他、いろいろ考えて、そのうちに、山吹の花などを見ていると、忘れてしまう。
でも、出すだろう。というようなこと。でも、つつじの花をどれだけ「私」は描写できるだろうかということ。
○ 歩道に出ると、豊かなつつじの群れに圧倒された。色の波が庭を横切って白い家の正面に打ち寄せている。ピンクと緋色の波頭。色彩の豊かさが知らない間に喜びになって作用し、息も止まりそうだ。
○ 日没に近い光の中でつつじの色は濃くなり、古い家々を護るように枝を拡げた木々は葉ずれの音をたてた。
○ 「雨でつつじがすっかりやられたわ」
以上は、Flannery O'Connorの『パートリッジ祭The Partridge Festival』(横山訳)からの抜き書き。これらの描写がこの短編のなかで占める意味はさておき、こういうつつじのさりげない描写を、自分の詩の中に、私は入れてみたいと思う。
○ つつじいけてその陰に干鱈さく女 (芭蕉)
○ 近道へ出てうれし野のつつじかな (蕪村)
詩集のことを考えているのだが。ほっておけば、気力がなくなるのが目に見えている。「どうして、詩集を出そうと思うのか?」「出さないなら、出さないでもいいのではないか」「いや、これまで書いたものを単にまとめたいのだ」。その他、いろいろ考えて、そのうちに、山吹の花などを見ていると、忘れてしまう。
でも、出すだろう。というようなこと。でも、つつじの花をどれだけ「私」は描写できるだろうかということ。
○ 歩道に出ると、豊かなつつじの群れに圧倒された。色の波が庭を横切って白い家の正面に打ち寄せている。ピンクと緋色の波頭。色彩の豊かさが知らない間に喜びになって作用し、息も止まりそうだ。
○ 日没に近い光の中でつつじの色は濃くなり、古い家々を護るように枝を拡げた木々は葉ずれの音をたてた。
○ 「雨でつつじがすっかりやられたわ」
以上は、Flannery O'Connorの『パートリッジ祭The Partridge Festival』(横山訳)からの抜き書き。これらの描写がこの短編のなかで占める意味はさておき、こういうつつじのさりげない描写を、自分の詩の中に、私は入れてみたいと思う。
○ つつじいけてその陰に干鱈さく女 (芭蕉)
○ 近道へ出てうれし野のつつじかな (蕪村)
2008年4月23日水曜日
2008年4月22日火曜日
This Is Just to Say
This Is Just to Say by William Carlos Williams(1883-1963)
I have eaten
the plums
that were in
the icebox
and which
you were probably
saving
for breakfast
Forgive me
they were delicious
so sweet
and so cold

William Carlos Williams was born in Rutherford, New Jersey, in 1883. He was a practicing doctor, and a principal poet of the Imagist movement, which stressed precision of imagery, and clear, sharp language.(この簡潔な説明はhttp://poem-of-the-week.blogspot.com/というblogから借用しました。)
I have eaten
the plums
that were in
the icebox
and which
you were probably
saving
for breakfast
Forgive me
they were delicious
so sweet
and so cold

William Carlos Williams was born in Rutherford, New Jersey, in 1883. He was a practicing doctor, and a principal poet of the Imagist movement, which stressed precision of imagery, and clear, sharp language.(この簡潔な説明はhttp://poem-of-the-week.blogspot.com/というblogから借用しました。)
2008年4月21日月曜日
成熟すること、崩壊すること
丘をのぼる。
つぼみの桜と大きなメタセコイアの樹。
信と不信とをからませて花粉が飛び交う春を生きる。
斜面から富士が見える、
朧に。
高校生たちが腰を下ろしてお昼を食べている、
若さとともに。
のぼってきたのだ。
大丈夫?という声がときどき上滑りするのを
道の草は何回も聞いたことだろう。
「自然に匂うこと」と、生きる息たちに教えてくれた。
幽霊のように白い雪柳!
ものを言わないから言葉になって、
小さな鼓動が風のそよぎになった。
のぼっていることだけでいい。
終りのポイントはもう見えている。
おまえを送ることができなければ
おまえが送るのだ。
別れるまで
成熟すること、崩壊すること、
真昼のかすんだ富士の
分かち難さ。
斜面から湖が見える。
物語が波立ち、
渦を巻き、
若さとともに
道々の草がにおい立つ。
(註)タイトルはレイモンド・カーヴァーの文章のもの。村上春樹の訳を借りた。
この詩は、福間塾の「アンソロジー2008」に載せた詩です。小山さん、小峰さんはじめ、皆様ありがとうございます。今日拝受しました。すばらしい、粒そろいの詩篇がならんでいます。読むのが楽しみです。
つぼみの桜と大きなメタセコイアの樹。
信と不信とをからませて花粉が飛び交う春を生きる。
斜面から富士が見える、
朧に。
高校生たちが腰を下ろしてお昼を食べている、
若さとともに。
のぼってきたのだ。
大丈夫?という声がときどき上滑りするのを
道の草は何回も聞いたことだろう。
「自然に匂うこと」と、生きる息たちに教えてくれた。
幽霊のように白い雪柳!
ものを言わないから言葉になって、
小さな鼓動が風のそよぎになった。
のぼっていることだけでいい。
終りのポイントはもう見えている。
おまえを送ることができなければ
おまえが送るのだ。
別れるまで
成熟すること、崩壊すること、
真昼のかすんだ富士の
分かち難さ。
斜面から湖が見える。
物語が波立ち、
渦を巻き、
若さとともに
道々の草がにおい立つ。
(註)タイトルはレイモンド・カーヴァーの文章のもの。村上春樹の訳を借りた。
この詩は、福間塾の「アンソロジー2008」に載せた詩です。小山さん、小峰さんはじめ、皆様ありがとうございます。今日拝受しました。すばらしい、粒そろいの詩篇がならんでいます。読むのが楽しみです。
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