2008年4月25日金曜日

つつじの女王

湯殿川のいつもの散歩の道から少し外れると、ドトールがあることを発見した。そこで、コーヒーを飲み、道草を食う。散歩にならないのだが、無理することもない。

詩集のことを考えているのだが。ほっておけば、気力がなくなるのが目に見えている。「どうして、詩集を出そうと思うのか?」「出さないなら、出さないでもいいのではないか」「いや、これまで書いたものを単にまとめたいのだ」。その他、いろいろ考えて、そのうちに、山吹の花などを見ていると、忘れてしまう。

でも、出すだろう。というようなこと。でも、つつじの花をどれだけ「私」は描写できるだろうかということ。

○ 歩道に出ると、豊かなつつじの群れに圧倒された。色の波が庭を横切って白い家の正面に打ち寄せている。ピンクと緋色の波頭。色彩の豊かさが知らない間に喜びになって作用し、息も止まりそうだ。

○ 日没に近い光の中でつつじの色は濃くなり、古い家々を護るように枝を拡げた木々は葉ずれの音をたてた。

○ 「雨でつつじがすっかりやられたわ」

以上は、Flannery O'Connorの『パートリッジ祭The Partridge Festival』(横山訳)からの抜き書き。これらの描写がこの短編のなかで占める意味はさておき、こういうつつじのさりげない描写を、自分の詩の中に、私は入れてみたいと思う。

○ つつじいけてその陰に干鱈さく女 (芭蕉)
○ 近道へ出てうれし野のつつじかな (蕪村)

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

つつじの句、蕪村は判るが芭蕉のは一見判りやすそうで、でもこういうのはいちばん用心しなくちゃいけない判りにくさを持っているものです。なんでつつじなのか、なんでその陰なのか、なんで干鱈さく、なのか、実はこういうところに引っかかります。すると、安東次男に次の指摘がありました。(芭蕉発句新注)まず、つつじは春季であるけれど、夏つつじがあるように春夏にもまたがる。次に、卯の花陰にホトトギスという取り合わせが王朝時代からあること、そして、つつじの花陰にホトトギスならぬ、魚の乏しい春季の食べ物である干鱈を調理している女を見ることに、独特のひなびた惜春の情を観じている、というものです。banさん、いかがですか。

ban さんのコメント...

安東次男の解釈はいいですね。小学館の古典文学全集の「松尾芭蕉集」(井本農一、堀信夫 注解)から抜き出したのですが、それには、詞書が付いていて「昼の休らひとて旅店に腰を懸けて」とあります。注解を書いてみます。「燃えるようなつつじを、手桶か何かに、こぼれるばかり生けてある。その花の陰で宿の女は客の膳部の用意であろう、余念なく白い干鱈をさいている。旅中嘱目の景であり、いわゆる写生句であるという評が多い。以下略」。こう限定されても、それはそれでいいとも思いました。

― 一句は昔からよくある樹下美人、たとえば、「春の苑紅にほふ桃の花…」などの俳諧化か― というような註もおまけについていました。

貴兄の「深山なるつつじのしぶき密かにて」という好句を見て、付けたいなと一日愚案しています。