2008年10月31日金曜日

詩集『楽府』刊行

 
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うまく、スキャンできず、あまり鮮明ではないが私の詩集『楽府』FOLK SONGの表紙です。なんとか今年度中に間に合いました。出航の知らせまで。

2008年10月28日火曜日

こんなにも

こんなにも、
なにもこんなにも、
うしなう、そういう機微だけで、
詩は季節や家族や国家などを巡ったのかしら?

自家中毒のひとでなく、この言語は、
自らと、そうでないものの、模倣に尽きる、
あたらしさは古さを抱く一瞬? それとも忘れる今?
そこここにわたしは付箋を貼る、よせばいいのに。

やがて やかれゆく熱の
しらじらと
むいみ

ここから普遍まで
帝国まで
ジャンプできるかしら?

2008年10月27日月曜日

萩1


萩尾花五つを忘れ風立ちぬ
夏の盛りに白毫寺をたずねた、沈黙の葉のような汗を思い出す。
芽に子、あるいは芽だけ、萩をそう書く理由はあるのだろう、
すすきを尾花と言い換えるのと、似ているが違う。

あやまって秋となる。白秋の白の罅割れ
女郎花、をみなを思ふ、ふふ。
あらましを語れば厭世の人の千人斬り、
ますらをの醜のますらをの片恋さ、

人はみな、ええい、ままよ、よし!
言うぞ、言うぞ、秋と
湯殿川のこのススキの穂先を。

秋萩の咲きて散りぬる、ほへと!
くそっ、この
愛するひとにこひをする快楽!


―参照歌―
○人皆は萩を秋といふよしわれは尾花が末を秋と言はむ(万葉V10.2110)
○吾妹児に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを(万葉V2.120 弓削皇子の紀皇女を思へる御歌4首、より)


萩は絶対、白と!
どうして、きみはいうのか?
秋の草花の色をかすめて、白がそこに座ると、
風はすでに冬岸にむけて無数のはねを飛ばしている。

女郎花咲く野の萩
遠く呼ばれる
肩の荷を暗い背から降ろした
きみのために川が しとねのようにながれゆく

玉梓は折るだろう、玉梓は織られるだろう、
野の果てに秋の手紙、
萩は見れども飽かぬかも。

白露、白萩、散る、
行き逢う少女ら
いまだ飽かなくに、

―参照歌―
万葉集V10  2107~2118 など。

2008年10月25日土曜日

秋の道

二時から、東大和市中央図書館。

図書館友の会という、いろんな活動をしている会、しかも年期の入った会から招かれて話をする。市の文化祭という行事の一環らしい。「ことばとの出会い」と題して、2時間近く。最近の自分自身のテーマである、フロストとブレヒトの二つの詩を基盤に、さまざまなことを喋った。

疲れて八王子。久しぶりに「多摩一」に寄る。生ビール2杯、吉乃川の冷(これをついでくれるときに、グラスを受ける枡も一杯になるように零しつつ注ぐ、したがって一杯が約二杯に相当するといってよい)1杯。冷奴とサバの塩焼き。さすがに、いつもの「養老の滝」より数段美味でした。

2008年10月24日金曜日

あいしてます

 池袋駅から大学までの道でびしょ濡れになってしまった。授業のためのコピー(学生たちの、その時の優秀作品)。控え室の機械でひたすら各種とりまぜ合計600枚ほど、毎週やっていることだが。とにかく早く行って、誰よりも早くコピー機の前にいることを心がけている。湿っているときは、こういう機械はあまりうまく稼動しないものだが、なんとかやりとげた。ほぼ80名近い受講者のうち、今日は70名近く出席か。こんな雨の日は、私の時代には、たぶん授業はなかっただろう。それよりも、私自身が出席しなかったことだけは確かだ。

十名の作品を選び、作者のコメント、それについての数名の出席者の感想、批評。今日で五回目、そのうち作品の提出は3回、三本ということになる。なるべく同一の人の作品は選ばないようにしようと思ったが、それをやめて、私がいいと思った作品を選ぶことにした。当然だぶる人が出てくる。その人の名前も当然覚え、みんなも覚えることになる。わたしの授業のなかでの、スター詩人が出てもいいのだ。

来週は休みだから、課題をうんと自由にして、ロードムーヴィー?からビジュアルな?詩までということで、形式の冒険から、なにか新しい「ことば」を出現させるようなことをやってみてほしいと言った。アクロステイックでもアナグラムでも。再来週が楽しみである。

あくびがでるわ
いやけがさすわ
しにたいくらい
てんでたいくつ
まぬけなあなた
すべってころべ
        (谷川俊太郎)

2008年10月18日土曜日

Reeferなど

こんなものもあります。ちょっとけだるくて、つらそうな歌だけど、それもいい。
ぼくは今の若いというか、こういう音楽に取り組んでいる相応の年代の人たちのことはよくわからないが、この曲の感じはよくわかる。

どこかに60年代以降のカウンター・カルチュアのまっとうな香がするからだ。息子たちの音楽も、これとは違うが、そういう香がする。

なんか、ぼくたち老人やそのつぎの世代ではなくて、つながりがありながらも新しさを切り開く音楽や映像が、こういう世代から出てきて欲しい。出そうな気配もある。


2008年10月17日金曜日

elmentalな自然物

大学4回目の授業。課題詩の合評、今回は8編選んだ。テーマはsomething only I know about.

あまり、特筆すべき傑作はなかった。

授業では、「出会い」の②ということで、ル・クレジオと岩佐なをとブコウスキーについて話した。ル・クレジオにおける「パナマのエンベラ族」との「出会い」、岩佐における「霊的、彼岸的なるもの」との「出会い」、ブコウスキーにおける「日常」との「出会い」などについて話した。

ところで、ル・クレジオのノーベル文学賞受賞のお祝いに、10月11日の朝日新聞に、今福龍太が書いていた。

 
とりわけ七十年代初頭にはじまるパナマ・メキシコ滞在とそこでのアメリカ大陸先住民との決定的な出会いが、彼の小説のヴィジョンと文体を大きく変容させた。水、太陽、大地、風といったエレメンタルな自然物の示す凝縮された宇宙をまるごと抱きとめ、それを文明社会における調和的な生の枯渇に対置させた。子供、先住民、移民、女性といった周縁的存在への繊細な共感と感覚的浸透の強度は、現代作家のなかでも例外的にきわだっている。激烈な世界化の波のなかで、西欧的理念に背を向ける少数者の世界を支持しつづける彼は、ある意味では反時代的な作家の極北に位置するともいえるだろう。
 自然界の豊かな静寂と、人類の古い叡智のかすかな持続の声だけに耳を澄ませてきたル・クレジオの体内の静謐な海。それが彼の小説言語の源泉だ。受賞による喧騒によってそれが一時的に波立つことがあっても、彼の海はすぐにも平静な群青の拡がりをとりもどすことだろう。


まさにそうだし、こうとしかいえない捉え方である。そういう意味で、ル・クレジオの06年の訪日のときの世話人(多分)でもあり、彼を奄美や北海道のアイヌの森などに連れていった知己の言葉であろう。

2008年10月13日月曜日

水より柔弱なるはなし

ブレヒトの詩に、―老子出関の途上における「道徳経」の成立の由来―という長いタイトルの詩がある。その註釈をベンヤミンが書いている。この註釈とそれに方向付けられた原詩を私は心腐るとき、くじけているときに読むことにしている、というより今日あたりからそうしようと思ったのである。

「史記」の老子出関の話を下敷きにしたこの詩は、ベンヤミンによると、「友情」(フロイントリヒカイト)の持つブレヒト詩における特別な役割をしめすものだという。ベンヤミンはこの詩のテーマを「友情」に見ているといっても過言ではない。

老子と国境の役人、貧しい税関吏との友情。そして、この友情を支えるのは明朗とした、屈託のなさ、ハイターheiter(iはこの字ではないけど)である。このハイターという特質が、老子と老子に教えを書き残して欲しいと乞う税関吏の二人の人間性を支えている好ましいものである、そういうふうにベンヤミンは註釈する。老子の家僕である少年の気質もそうだと、ベンヤミンは言う。「屈託の無さ・ハイター」という言葉の響きは、私にはベンヤミンという批評家が終生望んだ生の「理想」の響きとして聞こえる。

供をしている少年は、税関吏に自分の主人のことを、「この人は教えを説いて生活してきたんだ」と説明する。だから課税されるような貴重品はないというわけだ。それは嘘ではないことが税関吏にはよく分かったのだ。その次のパートから原詩を引用してみよう。


だが税関吏の男は、屈託のない(ハイター)調子で
なおも尋ねた、「どういう教えを悟ったというのか?」
少年は言った、「動いているしなやかな水は
時が経つとともに強大な岩にさえ打ち勝つ。
いいかい、堅固なものが負けるのだ」。


昼の最後の光を失うまいと
少年はいま牡牛を駆り立てた。
そして少年と牛と老師はすでに黒松のところを回って姿を消した、
そのとき突然、我らが税関吏のうちに興奮が兆し、
そして彼は叫んだ、「おーい、お前!止まれー!


あの水というのはいったい何なのですか、老師よ?」
老師は牛を止まらせた、「そのことに関心があるのかな?」
男は言った、「私は一介の税関役人でしかありません、
しかし、誰が誰に勝つというのは、私にも興味があります。
知っているのなら、話してください!


どうか書き記してください!この少年に口述してください!
そういうことはやはり、持ち去るものではありません。
私の家には紙だって墨だってあるのですから、
それに晩飯だってあります、私はあそこに住んでいます。
ところで、それはひとつの言葉なのでしょうか?」


老師は肩越しに男を
見た。継ぎの当たった上衣。裸足。
そして額に一本の皺。
ああ、勝者が老師に歩み寄ったのではなかったのだ。
そこで老師は呟いた、「お前も?」

10
礼を尽くした願いを断るには
老師は見たところ年をとりすぎていた。
というのも、老師ははっきりした声で言った、「問いをもつ者は
答えを得るに値する」。少年は言った、「それにもう冷えてきています」。
「よし、ちょっと泊めてもらうことにしよう」。

こうしてあの偉大な81章から成る「箴言」の書が完成したというようにブレヒトは書き、ベンヤミンはそれを、「老子道徳経」を、友情が成立させた書物というふうに、そう夢想することを楽しむかのように、ベンヤミン自身もなんの屈託もなく(ハイター)註釈する。それを読むわれわれ、ベンヤミンの悲運を熟知している後生たちは、ここに生の励ましを得なければなにを得るというのか。

ベンヤミンは次のように書いている。

まず第一に、友情は無思慮に働くものではない、ということ―(9連を引用したのち…水島註)税関吏の願いがどんなに礼を尽くしたものであれ、老子はまず、願いをなす者にその資格があることを確認するのである。
第二に、友情の本質は、小さな親切を片手間になすところに、ではなく、きわめて大きな親切を、それがごく些細なことであるかのようになすところにある、ということ。老子はまず、問いを発し答えを求める資格が税関吏の男にあるか、それを確かめたあとで、この男を喜ばせるために旅を中断して、それに続く世界史的な何日間を提供するわけだが、その際のモットーはこうである―
「よし、ちょっと泊めてもらうことにしよう」。


私は、この「よし、ちょっと泊めてもらうことにしよう」という老子の屈託のない簡潔な言葉に、この世の友情や、師弟愛や、総じてコミュニケーションの原基を見る。

こういう話をもどかしく、先日友人に、夜の、もう終電近い電車の中で話し続けたのである。その日は財部鳥子さんの話を聴き、そのあともビールを飲みながら親しくこの敬愛する詩人と雑談を交わすことができた。そのときの印象が、まさに明朗とした「屈託のなさ」というものであった。対話していると、私の憂鬱など一刷毛で消えてしまう、そういう感じ。その思いが、この詩とベンヤミンを想起させたのかもしれない。友人は電車の中で、私の話を静かに聞いてくれた。そして、次のようなドイツ語を、若いときどこかで見たといって、私の手帳に、「屈託なく」書いてくれたのであった。

Leben ist ernst,
Kunst ist heiter.

人生はまじめ、真剣、芸術は明朗、屈託がない。

2008年10月10日金曜日

糞尿の丘

三回目の、立教大の授業。今日は、前々回の課題作品の合評を、授業の前半に行うというのが僕の予定。しかし、80名という受講者を考えると、すべて出来るわけが無い。前回に提出してもらった作品のすべてにコメントを書いたが、そのなかの7作を選び披露することにした。コピーをずいぶんした。

その7作品のなかでも、傑作はというと、それが「糞尿の丘」という奇異なタイトルの作品であった。私は、教室で、これら7作の詩の作者に、自作詩についてのコメントと、朗読を求めた(実際は、朗読が最初で、コメントは後)。その一番に「糞尿の丘」を取り上げたのだった。以下その作品を、作者には無断で、しかも横書きで全文引用する。

糞尿の丘

国道沿いの坂の上から 桶の中の糞尿を垂れ流しますと、
その流れる音の口真似を 母は時々するのでした。
坂は今では おおよそ薄の群生に おおわれております。
ほかには 何だかよくわからぬ 草がぼうぼう生えております。

その坂を上がって 私はピアノのお教室に 通っておりました。
冬になると 凍った坂道を下るのが とうても恐ろしい。
山なみの近くに迫った 灯りの少ない夜道を 川音に沿って下っておりました。
一本足の白鷺が 川べりの岩の上に佇んで 私のゆく先を指し示しておりました。

水音が ごおごおと唸っています。
その下を走るは 糞尿の流れ。
そして 色々のかなしみ または 生命。

幸せな時代になったと かつて糞桶を担いだ母は言います。
幸せな時代になった。
それでも 尻から垂れ流れるものは 昔と少しも変わらず、
足元でうねる 生と死の気配は 常に私の靴の裏をなぶる。

人気のない夜の道を 私は歩いておりました。
道沿いの民家の明かりは すでに消えており、
住人は すでに眠っているか 死んでいるかをしております。
眠っていても 死んでいても どちらでもよいのです。

冬の夜の満月は すべらっこく 凍りついた白さです。
東のお山の上空から 霜枯れた糞尿の丘を 静かに照らしておりました。


この詩の注釈をベンヤミンがブレヒトの詩について行ったやり方で、そういうやり方しかこの詩については出来ないから、やってみたいのだが、今日はタクランケ氏と相原の立ち飲み屋で飲んだので、出来そうにないからやめておく。しかし、この詩を眺めていると、私でなくとも、だれかが「注釈」をなすであろう、そういう詩であると私は考える。

ところで、この詩の作者は女性であり、しかも、この「糞尿」の話は、母から実際聞いた話だと言う。これには吃驚したが、この「糞尿」のイメージ、そのもののイメージについて、この詩の詩人と私には大きな違いがあるのかも知れない。しかし、たとえ、そうであれ、この詩はいい詩である。「異国の丘」という歌があることを、この詩の作者は知っているのだろうか?無意識でなした、反逆の美しい詩として、これを読むことも可能である。これは今日、教室では言わなかったが。