2011年3月31日木曜日

After 3.11

3月11日から20日経過した。3月はいろんな意味で「最も残酷な月」になってしまった。自然のすさまじい力と、結局は自然を破壊するしかない「原子の破壊の力」による二重の「災厄」に打ちのめされている。前者では全てを失ったが、希望だけはある。いや希望しかない、そう考えて生き抜く、「存在」していく。後者は、そもそもそれ自体が「自然」の破壊そのもののうちにしか築かれえない「文明」、そのもっとも悪魔的な側面の申し子のようなものだったのだ。これを「安全」と言いくるめてきた言説がどれほど非自然的なものなのかがよくわかったということだが、その代償はその言説によってはとうてい埋められない。永遠に続く「絶望」に他ならない。

自衛隊にいる教え子のことを考える。去年の終わり頃に、「先生、出てくれますか?」と電話があった。新婦の故郷の那須で結婚式を挙げるという。ぼくはすぐに「おめでとう、行くよ」と答えた。今年31歳になる。彼が高校一年のときに、担任した。思い出に残っていることは数々ある。一年の時の文化祭で、「Sound of music」の劇をクラスでやった。無理矢理、担任のぼくがやらせた。そのときトラップ大佐を彼がやった。町田から学校のある八王子まで自転車で通学する剛直な子だった。不器用だが、何事にも懸命に打ち込む子だった。さまざま悩むことにも懸命だった。鮮明に残っているのは、人がだれもしないようことをだれにも気付かれずに、しかも「自然に」することが特意だった。文化祭の膨大な後片付け、頭だけいいような子がさっといなくなる場面だが、彼は逃げた連中のことをとやかくいうわけでもなく、笑いながらいつでも最後まで残って片付けた。ハーハー言い、逃げた連中を呪いながら片付けをいやいやしている担任のぼくににこっと笑いながら。理科大に進学し、そしていろいろあって自衛隊に行った。しかも一兵卒の自衛隊員として、絶対に進級?などしない人間として、それだけは頑なにかれは生きている。なぜか?ぼくにはよくわからない。この前の電話、「先生、式やめようと思ったけど、みんながやってもいいというので4月23日、予定通りにやります、来てくれますか?」。「行くに決まっているよ」。彼は今、連日連夜被災地の復旧に働いている。大丈夫か?大丈夫です。

3・11の後の「言説」でぼくらの指針になったり、せめて勇気づけたりしたものはなにもなかったといっていい。この国のリーダー(政治家)からはじめて新聞(人)、大学(人)などのこれといった論説は無だったと言っていい。何があり、何がわかったか。名もない自衛隊員の一人、名もない消防隊員の一人、名もない警察官の一人、名もない東電の社員、その下請けの「作業員」の一人、そして津波によって流された当該自治体の生き残りの名もない公務員、それらを助ける名もないボランティアの一人、そしてそこに奇跡的に存在している名もない年寄り、中年、若者、少年少女、赤ちゃん、犬猫たち、それらすべてを思う名もない今回は被災も「被曝」もしなかった運のよかった(市・町・村)民たち、すべての努力と連帯しかないということだ。たがいに救助を真に組織しあえ、たがいの心に寄り添えるのはこういう人たちだけだということだ。

(最低の言説を挙げておく、許せない言説だ。

「天罰」石原慎太郎、「無常」山折哲雄。とくに後者にはがっかりした。日本人にはこういう考えがあって危機を脱してきたというが、震災直後の発言としてよくもこういう高みの見物のようなことが言えるものだとぼくは思った。石原の馬鹿さ加減はいうまでもない。「無常」について瀬戸内寂聴はもっとアクティブな考えを述べている。「変化」へのエネルギーというような考え。こっちの方が山折よりずっと寄り添える。)

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