ネビル・シュートの「渚にてOn the Beach」を再読してみた。50年代の「冷戦」の時期の作品だが、スパイとか、そういう話ではない。第三次大戦が勃発すべく勃発して、この地球上で4千7百個以上の水爆とコバルト爆弾が使用され、北半球は異常な放射能濃度の高さにより、そこに住む全ての住人、動物は死滅する。この物語の人物たちは南半球のオーストラリアのメルボルンで生き残っている市民たち、そしてこの地球の海に運航できる原子力潜水艦として唯一残っているアメリカのスコーピオン号(アメリカ合衆国のすべてはこの時点で絶滅しているので、オーストラリア軍下にあるのだが)の船長を含めた人物たちだけである。こういう設定ではじまるこの物語のポイントは、すべての登場人物たちが、主人公格だけではなく、巷の人々も自らの「滅びの日」をよく知っているということにある。あと三ヶ月すれば、9月には、ここメルボルンにも風によって高濃度の放射能が確実に襲来し、北半球でのようにすべてを(兎は放射能には強いというから、それを除いて)死滅させるのである。はじめは嘔吐、下痢、すこしの回復、その後の悶絶。それに抗して自らの尊厳を守るために、ほとんどの市民は自殺用の錠剤を所有している。そういうことが何ら過激でもない普通の叙述で最後まで語られる。恋がはじまりそうだが、そうはならない。デカダンスに陥ってもよさそうだが、決してそうはならない。
この物語を再読して、思うこと。登場人物たちの徹底的な受動性、言いかえれば世界は確実に滅びるのだという実感のリアリティ、それゆえ何を煩うことがあるのかという強さ(ただ、それだけなのだが、ヒューマニティの古風な信頼だと片付けることはできない、と私は思う、しかしそれはもちろん問題ではある)。そこから照らしてみるときに、現下の状況、とくに「原発」の災厄下における、欺瞞的な能動性、同じことだが、能動的な欺瞞性には疑問を持たざるをえない。隠蔽は全然必要ないということなのだ。君たち管理・統御するものより、われわれ市民の臨界は果てがない(その燃料棒は心中深く沈んでいる)。
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