2010年5月10日月曜日

Pied Beauty

Pied Beauty (Gerard Manley Hopkins )



GLORY be to God for dappled things—
For skies of couple-colour as a brinded cow;
For rose-moles all in stipple upon trout that swim;
Fresh-firecoal chestnut-falls; finches’ wings;
Landscape plotted and pieced—fold, fallow, and plough;
And áll trádes, their gear and tackle and trim.

All things counter, original, spare, strange;
Whatever is fickle, freckled (who knows how?)
With swift, slow; sweet, sour; adazzle, dim;
He fathers-forth whose beauty is past change:
Praise him.

斑なものたちを造りたもうた神に栄光あれ。
 ふたつの色の日々刻々の空、ぶちの雌牛を、
 泳ぐマスの背のぷつぷつのピンクのアザを、
おこしたばかりの火のうえの焼き栗のしわ、
          フィンチ・スズメのつばさを、
 区切られ、耕された風景―窪み、畑、畠、
 そしてすべての生業とその服装と道具と用具を。

また対になったものをみな、奇抜で、余分で、変わったものを、
 移り気で、ソバカスのあるすべてのものを(どんなふうに?知るものか)
 早くて、遅くて。甘い、酸っぱい。燦めき、あるいはどんよりした。
美が変わるものすべてにとって彼は父だ。
褒めたたえられよ。     (須賀敦子訳)





「古いハスのタネ」(全集第3巻 河出文庫)という須賀敦子のエッセイを読んでいたら、今、興味をもって読んでいるジェラード・マンリー・ホプキンズのことが少し書かれていた。そのついでに紹介されているのが、この「まだらな美しさ」、須賀はこう訳しているが、その詩の訳である。よくわからないところもあるが、須賀の訳をそのまま引用しておく。

でも言われていることはよくわかる。まだらな美こそが素晴らしいということだ。

2010年5月7日金曜日

日課

最近の日課。

朝起きて、高橋源一郎の深夜の「路上ライヴ、公共性」のツィートをコピペすること。結構時間がかかる、読みながらやっているからね。「幼児洗礼」やアーシュラ・K・ル=グインの文章など、すべて面白い。昨日はプリントアウトして外出時に持っていきました、A4の用紙で14ページ。今朝はそれに何ページ増えたか。

2010年5月3日月曜日

Spring and Fall : To a Young Child

Spring and Fall : To a Young Child  Gerard Manley Hopkins (1844-89)

   
   MÁRGARÉT, áre you gríeving
   Over Goldengrove unleaving?
   Leáves, líke the things of man, you
   With your fresh thoughts care for, can you?
   Áh! ás the heart grows older
   It will come to such sights colder
   By and by, nor spare a sigh
   Though worlds of wanwood leafmeal lie;
   And yet you wíll weep and know why.
   Now no matter, child, the name:
   Sórrow’s spríngs áre the same.
   Nor mouth had, no nor mind, expressed
   What heart heard of, ghost guessed:
   It ís the blight man was born for,
   It is Margaret you mourn for.

    
   春と秋       
        ある幼子に



   マーガレットよ お前は黄金色をした
   木立ちがその葉を落とすのを嘆いているの?
   木の葉のことを まるで人間の世界の事柄のように
   その初々しい心で心配することができるのだろうか?
   ああ! 心はだんだん成長するにつれて
   そのような光景には感動しなくなる
   また森全体が生命をなくし 落ち葉があちこち
   散らばるようになっても ため息すら漏らさなくなる
   それでいながら お前は泣きじゃくってそのわけを知りたがる
   ねえ お前 そのわけなんてどうでもいいんだよ
   かなしみの泉は同じなんだ
   口も心も 魂が聴いたことを
   霊魂が推し量ったことを 言い表わせないんだ
   人が生まれて来たのは 立ったまま 枯れてゆくため
   だからマーガレット お前が悲しんでいるのは自分自身のことなんだよ


  ホプキンスのこの詩まで行きついた経緯は省略する。でも、この詩を発見してやっと何か書けそうな気がしてきた。(この訳はぼくのものではない、広いブログの海のなかで見つけたもの。Culture Jammerというのがその名。)

2010年5月2日日曜日

午前0時の公共性

皆様

連休はいかがお過ごしですか?小生は白紙の原稿を抱えて、このよき天候に引き籠もり状態です。以前よりネット上の「ツイッター」なるものをのぞいて憂さをはらしていますが、高橋源一郎がとても面白いことをやらかしました。下は高橋のツイッターを自分のために読みやすくコピペしたものです。5月2日の午前0時から高橋はつぶやきはじめ、また2週間ほど、この試みをやるそうです。そこには、「公共性」の小説におけるとらえ方が展開されようとしています。暇つぶしに、お目を通しても損はないと思います。

水島英己


高橋源一郎(takagengen )による「午前0時の公共性」

予告編① あと少し、24時頃から「メイキングオブ『「悪」と戦う』」という連続ツイートを始めます。毎日、同じ時間に少しずつ、二週間ほど続ける予定です。中身は、ぼくの新作に関するあらゆること。具体的には始めてみないとわかりません。なにしろ、ふだん寝てる時間帯だから、起きられるか……。

予告編② ツイッターを始めて4カ月、なんとなくわかったことがあります。それは、ツイッターの「公共性」が、小説の「公共性」とよく似ていることです。いや、「小説」の「なにをやってもかまわない」という性質が、ツイッターのそれとよく似ているといっていいかもしれませんね。

予告編③ ツイッターという「歩行者天国」で、ギターを抱え、通りすがりの人に歌うおじさん(「なに、あの人? お客いないじゃん」)をやってみます。一つ決めているのは、ツイートすることは、ふだんぼくが原稿として書いているものと同等以上のクオリティーにすること。そしてそれを無料で配る。

予告編④ 昨日(今日?)、ツイッター上で、岡田斗司夫さんと町山智浩さんの間でちょっとした「論争」がありました。岡田さんが「社長の岡田さんに月1万円ずつ払う社員でできている会社」を作ろうとしたことに、町山さんが「違法ではないか」と言ったのです。確かに町山さんの言う通り、違法です。

予告編⑤岡田さんはなぜそんな変なことを思いついたのか、岡田さんは、社員から1万円ずつ集めた会社(そこでは岡田さんが社員にスキルを教えます)からの金で生活し、その代わり、どこかへ原稿を書く場合はすべて無料で書こうと考えたのです。ひとことでいうなら、「商品経済からの離脱」です。

予告編⑥ どんな表現も「商品経済」から逃れられないとするなら、岡田さんの「会社」は単なる夢想にすぎないのでしょうか。「商品経済」はきわめてよくできたシステムです。しかし、ぼくは、「商品経済」の「外」に、可能性を見いだそうとする岡田さんの強い願望がわかるような気がしたのです。

予告編⑦ 岡田さんの「会社」もまた、新しい「共同体」への希求の現れでしょう。そして、そういう人を見ると、人は「なんておかしなことを考えてるんだ、狂ってる」と言ったりするのです。でも、狂ってなきゃできないこと、狂ってなきゃ見えないこともあるんですけどね

予告編⑧ 最初のツイート以外にはなにも決めていません。ふだん原稿を書く時と一緒です。キース・ジャレットみたいに即興です。途中で立ち往生するかもしれないし、子どもたちが寝ぼけて書斎に侵入してくるかもしれない。その時はごめんなさい。それでは、「午前0時の公共性」をお待ちください。

メイキングオブ『「悪」と戦う』① この間、ゼミで村上春樹さんの『1Q84 』BOOKⅢを読んで、みんなの感想を訊いた。みんなはそれぞれ、テーマやメッセージや隠された謎やその解釈についていろいろしゃべってくれた。なかなかのものだった。その時、T君が、突然こんなことを言い出したのだ。

メイキング② 「テーマもメッセージもなにもないと思うんです。空っぽなんだと思うんです」。「じゃあ」とぼくは言った。「そこにはなにがあるの?」。すると、T君は、「村上さんは、小説を書いているんだと思う。というか、小説を書きたいんだと思う。ただそれだけ。他にはなんにもなし」

メイキング③ 「いちばん大切なのは、小説を書くこと、他はどうでもいい!」。T君の発言は、みんなを困らせた。なにがなんだかわからない。でも、ぼくはものすごくおもしろいと思ったんだ。村上さんのその本が、そうであるかは置いておくとして、T君は、ふつうの人が思いつかないことに気づいた。

メイキング④ ふつう、小説で大切なことというと、作者が言いたいことや、物語や、テーマや、文体やら、ということになる。でも、T君によれば、小説は、なにも積んでいなくても、ただそれだけで価値がある、積載物ではなく、それを積んでいる本体(車体?)の方に意味がある、のだ

メイキング⑤ なんだか抽象的な話になっちゃいそうだなあ。いかんいかん。具体的な話をしてみよう。「小説しかない」という小説の、最近のもっともいい例は東浩紀さんと桜坂洋さんの『キャラクターズ』だと思う(もちろん、「小説しかない」わけじゃなく、それ以外のものもたくさん詰まっているが)。

メイキング⑥ ぼくは『キャラクターズ』の評価が低いことに、というか、際物扱いされることにほんとにガックリしていた。東さんの『クォンタム・ファミリーズ』は「文学作品としては」『キャラクターズ』よりずっと上かもしれないが、「小説の強度」としては、『キャラクターズ』の方が上だ。

メイキング⑦ 『キャラクターズ』をの読者は(というか、批評する側は)、例外なく困惑する。作者がふたりいること、にだ。ぼくたちは、作者というものは一人であり、その一人しかいない作者のメッセージを解読することが「読む」ことだと「思わせられている」。
メイキング⑧ もしふたりの作者が、作品内で勝手に、それぞれの道を行ってしまったら、読者はどう解読していいのか、自信をもって言うことができなくなってしまうだろう。でも、それでいいのだ。わからなくっても。というか、わからなくするために、作者は、小説という手段を用いているのだ

メイキング⑨ 小説というものは、ほんとうは「『私』は、『私』以外の他人、『私』以外の『私』を実は理解できない」ということを証明するために書かれているからだ(とぼくは思っている)。だから、誰が書こうとほんとうは小説なんか意味がわからないのだ(他人の考えていることがわかりますか?)。

メイキング⑩ なのに、ふだんぼくたちは、わかったような気がしてしまう。他人が考えていることがわかるような気がしてしまう(そんな気にさせてしまう点こそ、多くの小説の重大な「罪」)。そんなぼくたちの目の前に、ふたりの作者が書いた一つの作品が現れる。ただそれだけでぼくたちは不安になる。

メイキング⑪ ふたりの異なった意見を持つ他人が目の前にいる。面白いのは、そのふたりがお互いに理解し合ってはいないように見えることだ。だから、ぼくたちは不安になる。彼らの間にコミュニケーションがないように、ぼくと彼らの間にも理解し合えるものはなにもないのではないか。

メイキング⑫ 以前、ある雑誌で阿部和重さんと中原昌也さんが「共作」するという話が出た。実現はしなかったけれど(たぶん)、その話を聞いた時、ぼくは「さすが」と思った(「馬鹿なことやってる」という反応が大半だった)。小説がほんとうはなに(でありうる)のか彼らにはわかっていたのである。

メイキング⑬ 小説はひとつの「公共空間」だ。公共空間とは「複数の、異なった、取り替え不可能な『個』がいる空間」だ。なぜ、そんなものを書こうとするのか、それはぼくたちが日々「公共空間」を生きているからだ。もしくは、いま生きている世界に「公共性」を取り戻したいと考えているからなのだ。

しんちゃんが泣きだしたので(たぶん歯痛のせい)、本日はここまで。質問等々あれば、リプライください。できるだけ返事します。とりあえず、子どもの様子を見てきます。んじゃ

メイキング・番外 しんちゃんに痛み止めを飲ませました。連休中やってる歯医者さんを探さなくちゃいけないかも。メイキングの続きは、また明日の24時(の予定)。みなさん、ご静聴ありがとうございます。これから、少しリプライします。

それも大きな理由だと思います。 RT @hirokilovinson 『キャラクターズ』が際物扱いされた理由には「哲学者・批評家である東浩紀に言語芸術である小説は書けない(書けたら最初から作家になっているはず)」という穿った先入観があったためではないでしょうか。 (

自覚しないで書けるのが理想ですね。 RT @sgkt1124 「私は、私以外の他人、私以外の私を実は理解できないを証明するために書いている」というのは、意識的にそう書いているということでしょうか(中略) 自分でも文字になるまで何を書いているかわからないということでしょうか

そこでは「個」にかなりの「強度」が必要とされると思います。ふつうの小説以上に、です。 RT @arayatakuto キャラクターズは二人で書いた分、個の複数性が際立つ。さらに言えばwiki小説などが公共空間という側面が強く、より小説らしくなりますか?


それでいいのだと思います。 RT @dzna @takagengen 私は、「私」のことを出来るだけ遠くから離れて見るために小説を書こうと思っていました。そうすれば理解できるかもしれないと。そんなことしなくても、人は自分を理解しているのでしょうか

偶有性と同時に成り立つ公共性が必要とされてます。 RT @shanti_aghyl しかし私は小説こそ、そのかけがえのない特定の個という偶有性を公共に対してまずは打ち立てる必要があると思います。ともすると閉じてしまう、特定の交換不可能な関係を帯びた「語り」が、いかに公共空間

そうです。一回分だけ読んだことを思い出しました。中身は覚えてませんがw RT @jeankenpom @takagengen 阿部和重さんと中原昌也さんの「共作」とは、赤ん坊が松明代わりに(『文藝』、第1回・2004年夏号、第2回・2005年春号)では? 私は未読ですが。

小説は、「ありうべき共同性」の、限界(とその先)まで描くことができると思います。 RT @aniooo 自己をも含む他者との理解不可能性が表現された小説を通じて構築し得る公共空間は、小説以外のコミュニケーションで構築される公共空間と、どのような特異性をもつのでしょうか。

同感です。韻文は共感を迫ります。散文は共感ではなく覚醒を迫るものです。 RT @it663 @takagengen 小説の、「あいだ」のメディア、幽霊的な(?)メディア性を考えた時、それが散文の(prosaicな、味気ない)表現であることが、逆に強みになるのではないですか?
はい。でも、「私の立場」って、考えてみると実はよくわからないんですけどね。 RT @aikank 私は相手のことを本当に考えてあげられているか?と考えるとき、私が彼だった可能性、彼が私だった可能性、私の立場が彼の立場だった可能性をどうしても考察の中に入れてしまいます。

ところで、この時間帯はふだんなら熟睡している時間帯です。さすがに頭が回らなくなってきました。すいません、ちょっと寝ます。それでは、お休みなさい。

(以上は今朝(5時半)現在までのツイッターの記録です。水島)
(この続きはどうなるか興味はありますか?)(興味のある方は、ご自分で追いかけてみて下さい)

2010年4月29日木曜日

思い、ウムイ、徳之島

 普天間基地の一部機能の徳之島移設の問題についての甲府の女性の投書(4月25日・朝日新聞・声欄掲載)を読んだ。島の反対集会や3町長の政府側との面会拒否によせて、「徳之島で要らぬものは沖縄でも要らぬ。そんな思いには至らないのだろうか。徳之島が基地の町にならなかったらそれで解決なのだろうか」と書かれている。その前に考えて欲しい。あの反対集会に参加した人々は単に自分たちの島だけがよければなどと考えて「基地反対」と主張しているのだろうか。古くは薩摩の搾取にあえいだ奄美の島として、また沖縄とともに戦後米軍の冷戦戦略の一端として53年まで分断支配されていた歴史、それまでもそうだったが復帰してからの困窮にたえた生活の経験、それらが「長寿、子宝、癒しの島に米軍基地はいらない」というスローガンに集約されているのではないか。普天間、沖縄の強いられている負担を、一番身近で同様な文化圏に属するものとして骨身にしみてわかるからこそ「反対」なのではないか。当然のことだが、このスローガンは沖縄のものでもある。問題は徳之島の民意や3町長の対応にあるのではない。日本駐留米軍基地の問題を含めて、アメリカの軍事戦略そのものとそれに対する同盟国(対等とはとても言えない)としての旧態依然とした対応(政権は変わったのではないか、変わったよね。)の仕方こそが問題なのだ。

(26日頃に書いたものだが、昨日の鳩山首相の徳田虎雄との会見などもあり、事態は予断を許さない。いずれにせよ、最終的に苦難を引き受けるのはそこに住んでいる名もない人々である。米海兵隊の基地移設を最終的に容認せざるをえないように諸々の強制が「腹案」裏にメディアも含めて、いや率先して論調が操作されているようだ。そのことに対して深い危惧と怒りを感じる。これは徳之島に生を享けた一人の人間としての思いでもある。)

2010年4月25日日曜日

DEATH AND THE FLOWER

 足を引きずりながら散歩に出た。読んだり、書いたりする気力が全然わかない。それまで古いCDを埃の山のなかから手当たり次第引きずり出して聞いていた、KEITH JARRETTの"DEATH AND THE FLOWER"というのを何回か聞いた。とくにCHARLIE HADENのベースの響きがいい。この二人は何もおしつけない、それぞれがどこか遠くをぼんやりと見て、二人のそれぞれの抒情詩を呟いている趣、でもそれが期せずして美しいハーモニーを、そう変な言い方だが自発的に形成する。

2010年4月24日土曜日

鯖と新ジャガ

 足の痛みはなかなかひかないが、お日様が照っていた合間を見計らって散歩に出た。湯殿川から雑木林の丘を通過して、あたらしくできた公園に出て八王子みなみ野まで歩く。たいした時間ではないが、気持ちよかった。みなみ野のスーパーで、280円の生鯖と、タイムというハーブ野菜を買って帰る。これは、今日の朝刊にレシピの掲載してあった「鯖と新ジャガ芋のグリル」なる料理を夕飯に作ろうという魂胆をなぜか今日起こしたからである。以下手順を述べる。まず、三枚に下ろして貰った鯖の一片を二枚に切り分けた。その一枚の身の表面に二三本の溝を作り、そこにニンニク断片とちぎったタイムを埋めこむ。オリーブオイル、大さじ二杯をそれにたらし、マリネ状にして、冷蔵庫に格納する。次に目下海兵隊基地移設の腹案の地としてやかましい我が故郷なる徳之島、そこの親戚が送って下さった美味なる新ジャガ芋(徳之島は純然たる農業の島であり、とくに馬鈴薯とサトウキビはその代表作物である)を大さじ一杯のオリーブオイルをしたたらせたフライパンで(約一センチ幅に切った皮付きのままの馬鈴薯を)低温で焼いてゆくのである。箸で貫通するぐらいを目途として引き上げる。さて、二三十分充分に冷やした(一日ぐらいの余裕があればもっといい)鯖を取り出して、先ほどの馬鈴薯の上に載せる。塩こしょうを簡単にしておく。それを220度のオーブンで15分から20分かけて鯖に焼き色がつくまで焼きあげる。残りのタイムか檸檬の汁をかける。これで終わりである。充分に美味であり、わが女房殿も何十年ぶりかに誉めてくれた。ほめて育てようという魂胆であろう。うぬぼれになるが、これでビールがひとしおうまく飲めたことを言い添えておく。

 新ジャガの土の匂いに雨の添い
 老父老母掲げし鍬やプラカード
 みんなみの島を響もすシュプレヒコール