皆様
連休はいかがお過ごしですか?小生は白紙の原稿を抱えて、このよき天候に引き籠もり状態です。以前よりネット上の「ツイッター」なるものをのぞいて憂さをはらしていますが、高橋源一郎がとても面白いことをやらかしました。下は高橋のツイッターを自分のために読みやすくコピペしたものです。5月2日の午前0時から高橋はつぶやきはじめ、また2週間ほど、この試みをやるそうです。そこには、「公共性」の小説におけるとらえ方が展開されようとしています。暇つぶしに、お目を通しても損はないと思います。
水島英己
高橋源一郎(takagengen )による「午前0時の公共性」
予告編① あと少し、24時頃から「メイキングオブ『「悪」と戦う』」という連続ツイートを始めます。毎日、同じ時間に少しずつ、二週間ほど続ける予定です。中身は、ぼくの新作に関するあらゆること。具体的には始めてみないとわかりません。なにしろ、ふだん寝てる時間帯だから、起きられるか……。
予告編② ツイッターを始めて4カ月、なんとなくわかったことがあります。それは、ツイッターの「公共性」が、小説の「公共性」とよく似ていることです。いや、「小説」の「なにをやってもかまわない」という性質が、ツイッターのそれとよく似ているといっていいかもしれませんね。
予告編③ ツイッターという「歩行者天国」で、ギターを抱え、通りすがりの人に歌うおじさん(「なに、あの人? お客いないじゃん」)をやってみます。一つ決めているのは、ツイートすることは、ふだんぼくが原稿として書いているものと同等以上のクオリティーにすること。そしてそれを無料で配る。
予告編④ 昨日(今日?)、ツイッター上で、岡田斗司夫さんと町山智浩さんの間でちょっとした「論争」がありました。岡田さんが「社長の岡田さんに月1万円ずつ払う社員でできている会社」を作ろうとしたことに、町山さんが「違法ではないか」と言ったのです。確かに町山さんの言う通り、違法です。
予告編⑤岡田さんはなぜそんな変なことを思いついたのか、岡田さんは、社員から1万円ずつ集めた会社(そこでは岡田さんが社員にスキルを教えます)からの金で生活し、その代わり、どこかへ原稿を書く場合はすべて無料で書こうと考えたのです。ひとことでいうなら、「商品経済からの離脱」です。
予告編⑥ どんな表現も「商品経済」から逃れられないとするなら、岡田さんの「会社」は単なる夢想にすぎないのでしょうか。「商品経済」はきわめてよくできたシステムです。しかし、ぼくは、「商品経済」の「外」に、可能性を見いだそうとする岡田さんの強い願望がわかるような気がしたのです。
予告編⑦ 岡田さんの「会社」もまた、新しい「共同体」への希求の現れでしょう。そして、そういう人を見ると、人は「なんておかしなことを考えてるんだ、狂ってる」と言ったりするのです。でも、狂ってなきゃできないこと、狂ってなきゃ見えないこともあるんですけどね
予告編⑧ 最初のツイート以外にはなにも決めていません。ふだん原稿を書く時と一緒です。キース・ジャレットみたいに即興です。途中で立ち往生するかもしれないし、子どもたちが寝ぼけて書斎に侵入してくるかもしれない。その時はごめんなさい。それでは、「午前0時の公共性」をお待ちください。
メイキングオブ『「悪」と戦う』① この間、ゼミで村上春樹さんの『1Q84 』BOOKⅢを読んで、みんなの感想を訊いた。みんなはそれぞれ、テーマやメッセージや隠された謎やその解釈についていろいろしゃべってくれた。なかなかのものだった。その時、T君が、突然こんなことを言い出したのだ。
メイキング② 「テーマもメッセージもなにもないと思うんです。空っぽなんだと思うんです」。「じゃあ」とぼくは言った。「そこにはなにがあるの?」。すると、T君は、「村上さんは、小説を書いているんだと思う。というか、小説を書きたいんだと思う。ただそれだけ。他にはなんにもなし」
メイキング③ 「いちばん大切なのは、小説を書くこと、他はどうでもいい!」。T君の発言は、みんなを困らせた。なにがなんだかわからない。でも、ぼくはものすごくおもしろいと思ったんだ。村上さんのその本が、そうであるかは置いておくとして、T君は、ふつうの人が思いつかないことに気づいた。
メイキング④ ふつう、小説で大切なことというと、作者が言いたいことや、物語や、テーマや、文体やら、ということになる。でも、T君によれば、小説は、なにも積んでいなくても、ただそれだけで価値がある、積載物ではなく、それを積んでいる本体(車体?)の方に意味がある、のだ
メイキング⑤ なんだか抽象的な話になっちゃいそうだなあ。いかんいかん。具体的な話をしてみよう。「小説しかない」という小説の、最近のもっともいい例は東浩紀さんと桜坂洋さんの『キャラクターズ』だと思う(もちろん、「小説しかない」わけじゃなく、それ以外のものもたくさん詰まっているが)。
メイキング⑥ ぼくは『キャラクターズ』の評価が低いことに、というか、際物扱いされることにほんとにガックリしていた。東さんの『クォンタム・ファミリーズ』は「文学作品としては」『キャラクターズ』よりずっと上かもしれないが、「小説の強度」としては、『キャラクターズ』の方が上だ。
メイキング⑦ 『キャラクターズ』をの読者は(というか、批評する側は)、例外なく困惑する。作者がふたりいること、にだ。ぼくたちは、作者というものは一人であり、その一人しかいない作者のメッセージを解読することが「読む」ことだと「思わせられている」。
メイキング⑧ もしふたりの作者が、作品内で勝手に、それぞれの道を行ってしまったら、読者はどう解読していいのか、自信をもって言うことができなくなってしまうだろう。でも、それでいいのだ。わからなくっても。というか、わからなくするために、作者は、小説という手段を用いているのだ
メイキング⑨ 小説というものは、ほんとうは「『私』は、『私』以外の他人、『私』以外の『私』を実は理解できない」ということを証明するために書かれているからだ(とぼくは思っている)。だから、誰が書こうとほんとうは小説なんか意味がわからないのだ(他人の考えていることがわかりますか?)。
メイキング⑩ なのに、ふだんぼくたちは、わかったような気がしてしまう。他人が考えていることがわかるような気がしてしまう(そんな気にさせてしまう点こそ、多くの小説の重大な「罪」)。そんなぼくたちの目の前に、ふたりの作者が書いた一つの作品が現れる。ただそれだけでぼくたちは不安になる。
メイキング⑪ ふたりの異なった意見を持つ他人が目の前にいる。面白いのは、そのふたりがお互いに理解し合ってはいないように見えることだ。だから、ぼくたちは不安になる。彼らの間にコミュニケーションがないように、ぼくと彼らの間にも理解し合えるものはなにもないのではないか。
メイキング⑫ 以前、ある雑誌で阿部和重さんと中原昌也さんが「共作」するという話が出た。実現はしなかったけれど(たぶん)、その話を聞いた時、ぼくは「さすが」と思った(「馬鹿なことやってる」という反応が大半だった)。小説がほんとうはなに(でありうる)のか彼らにはわかっていたのである。
メイキング⑬ 小説はひとつの「公共空間」だ。公共空間とは「複数の、異なった、取り替え不可能な『個』がいる空間」だ。なぜ、そんなものを書こうとするのか、それはぼくたちが日々「公共空間」を生きているからだ。もしくは、いま生きている世界に「公共性」を取り戻したいと考えているからなのだ。
しんちゃんが泣きだしたので(たぶん歯痛のせい)、本日はここまで。質問等々あれば、リプライください。できるだけ返事します。とりあえず、子どもの様子を見てきます。んじゃ
メイキング・番外 しんちゃんに痛み止めを飲ませました。連休中やってる歯医者さんを探さなくちゃいけないかも。メイキングの続きは、また明日の24時(の予定)。みなさん、ご静聴ありがとうございます。これから、少しリプライします。
それも大きな理由だと思います。 RT @hirokilovinson 『キャラクターズ』が際物扱いされた理由には「哲学者・批評家である東浩紀に言語芸術である小説は書けない(書けたら最初から作家になっているはず)」という穿った先入観があったためではないでしょうか。 (
自覚しないで書けるのが理想ですね。 RT @sgkt1124 「私は、私以外の他人、私以外の私を実は理解できないを証明するために書いている」というのは、意識的にそう書いているということでしょうか(中略) 自分でも文字になるまで何を書いているかわからないということでしょうか
そこでは「個」にかなりの「強度」が必要とされると思います。ふつうの小説以上に、です。 RT @arayatakuto キャラクターズは二人で書いた分、個の複数性が際立つ。さらに言えばwiki小説などが公共空間という側面が強く、より小説らしくなりますか?
それでいいのだと思います。 RT @dzna @takagengen 私は、「私」のことを出来るだけ遠くから離れて見るために小説を書こうと思っていました。そうすれば理解できるかもしれないと。そんなことしなくても、人は自分を理解しているのでしょうか
偶有性と同時に成り立つ公共性が必要とされてます。 RT @shanti_aghyl しかし私は小説こそ、そのかけがえのない特定の個という偶有性を公共に対してまずは打ち立てる必要があると思います。ともすると閉じてしまう、特定の交換不可能な関係を帯びた「語り」が、いかに公共空間
そうです。一回分だけ読んだことを思い出しました。中身は覚えてませんがw RT @jeankenpom @takagengen 阿部和重さんと中原昌也さんの「共作」とは、赤ん坊が松明代わりに(『文藝』、第1回・2004年夏号、第2回・2005年春号)では? 私は未読ですが。
小説は、「ありうべき共同性」の、限界(とその先)まで描くことができると思います。 RT @aniooo 自己をも含む他者との理解不可能性が表現された小説を通じて構築し得る公共空間は、小説以外のコミュニケーションで構築される公共空間と、どのような特異性をもつのでしょうか。
同感です。韻文は共感を迫ります。散文は共感ではなく覚醒を迫るものです。 RT @it663 @takagengen 小説の、「あいだ」のメディア、幽霊的な(?)メディア性を考えた時、それが散文の(prosaicな、味気ない)表現であることが、逆に強みになるのではないですか?
はい。でも、「私の立場」って、考えてみると実はよくわからないんですけどね。 RT @aikank 私は相手のことを本当に考えてあげられているか?と考えるとき、私が彼だった可能性、彼が私だった可能性、私の立場が彼の立場だった可能性をどうしても考察の中に入れてしまいます。
ところで、この時間帯はふだんなら熟睡している時間帯です。さすがに頭が回らなくなってきました。すいません、ちょっと寝ます。それでは、お休みなさい。
(以上は今朝(5時半)現在までのツイッターの記録です。水島)
(この続きはどうなるか興味はありますか?)(興味のある方は、ご自分で追いかけてみて下さい)
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