―卒業式の夜の会では、ゆっくり「おめでとう」を言えないまま、先生の幸せそうないい笑顔を眺めていました。ごめんなさい。
ほかの方々から、そしてこのブログで、先生の好いエピソードたくさん聴かせて、読ませてもらいました。
先生のすべての言葉、すべての振る舞い、すべての表情、全人格を生徒たちは受けとめましたね。教師冥利に尽きる、とはこのことではないでしょうか?
私も見習いたいです。明日ゆっくりお話したいです。
吉田秀和の新著、書評欄で見て読みたくなっています。先を越されました。今週、朝日夕刊に連日インタヴュー記事が出ていますね。読んでおられますか?
昨夜「歌わせたい男たち」紀伊國屋ホールで観てきました。(姜尚中氏が客席にいましたよ)
別の世界にいる人なら「馬鹿な!」と大笑いできるところでしょうが、私にはとても笑えなかった。泣けました。すべてが、あまりにも現実だったから。
うちはいよいよ来週です。では。―
komachitoさんから、上記のコメントを頂戴した。前半部は、ほめすぎ、こちらとしては忸怩たる思いもするが、でもうれしい言葉でした。もうこれで、なんの未練もなく、都立をやめることができます。というのも大げさだが。ほんとうにkomachitoさん、ありがとう。もう少し頑張る元気が湧いてきました。
吉田秀和の新しい本。詩と、それを曲にした「歌曲」の、これは、すべてを味わいつくした人の、それでも感動を忘れない鮮やかで豊かな鑑賞(批評というより)。そこから落ちてくる甘い果汁のようなすばらしい文章を一滴一滴味わいながら読む本である! 楽譜の分析もあるから、楽典などに興味のある人は何倍も楽しめる本である。
雑誌「すばる」に連載中のもの。この本で扱われている詩人たち、その曲。
○ヴェルレーヌ「月の光り」 フォーレが作曲しているもの。
○リヒァルト・シュトラウス作曲「夕暮をゆく夢」 詩はオットー・ビーアバウムのもの。これを述べたこの章のタイトルは「薄暮の夢」とあり、―Bに―という献辞がある。これは吉田秀和の、亡くなった奥さんバルバラさんのことだろう。この献辞がある章が「歌遥か」―もう一度Bに―とある。しかし、最初のページ明記されているように、この本全体が―Bに―ささげられているのであった。
○リヒァルト・シュトラウス作曲「四つの最後の歌」 詩はヘッセ3つと、アイヒェンドルフ(19世紀ドイツ・ロマン派の大詩人という吉田の説明がある)のものが一つ。これはシュトラウス「その人が死ぬ前年に書き上げた文字通り最後の四つの歌」。
ぼくは、これを聴いてみたいと思った。
○メーリケの詩にフーゴー・ヴォルフが曲をつけた「メーリケ歌曲集」など、これへの言及が多い。メーリケは、小説「旅の日のモーツァルト」で日本でも知られた人。
あとは省略して、読者それぞれが、それぞれの好きな詩と歌曲に酔えばいい。この本は、音痴の私でも、曲が、歌が聞こえてくるような本です。吉田秀和は、あとがきに、このあとがきがまたすばらしいのだが、ハイネの言葉をめぐって、「歌曲」の真髄を言い当てている。
ハイネは、
Le lied est le Coeur qui chanteと言ったらしい。「歌曲とは歌う心である」。これをドイツ語訳したものがあり、それはEs ist das Herz, das Lieder singt. それを吉田秀和は「歌曲を歌うのは心である」と日本語で直訳する。そこから、最後に筆者自身の考え、「歌曲とは心の歌にほかならない」というふうに自分はハイネを訳すという。
つまり、「歌曲とは歌う心である」から「歌曲を歌うのは心である」に移り、そして「歌曲とは心の歌にほかならない」という具合にハイネを深化させる。
―歌曲について書いた小文を集めたこの本が、幾分なりと、そういう成り行きに通じるものになっていたら、どんなにうれしいことだろう。― というのが著者のこの本のモチーフである。これは見事というしかないが、浅学のわたしにも、まさに、その「成り行き」の奥深さが感じられてならないというのが読後感である。
ここであげられた歌曲のCDがないか、探したがなかった。でも、ブラームスの歌曲の悠揚せまらざる素晴らしさを述べた章「雲の歌と夜の露の歌」を読み、これがまた、この雲を愛する吉田秀和という人のたたずまいと重なるすばらしい文章なのだが、そこで述べられた歌曲「野辺にひとり」の曲の分析の途中で、ブラームスの特徴を指摘した部分、そこに出てくるヴァイオリンソナタがあったので、それを今から聴こうと思う。でも、その前に、筆者の文章を味わおう。
― 略(「野辺に一人」の曲のアナリーゼ・筆者自筆の楽譜つき) 充足した安定感の響きで出発し、ごく短い乱れのあと、また取り返された確信と平安の思い。これはこの詩全体の構造であると同時にブラームスの音楽の真髄であり、核心であった。私たちはこの歌曲の最初の動きを耳にしただけで、すぐ「ああ、ブラームスだ」と思い当たる。
この歌曲は彼の作品の多くで実にしばしば出会う一つのパターンの典型的な例で、しかも、その多くが類型的作品に終わらず、むしろ、この巨匠の選りぬきの名作になっているのである。たとえば、ヴァイオリン・ソナタ第一番、ト長調。あの曲の最初のフレーズをきいて、「ブラームス!」と心の中で叫ばない人はいないだろう。―
さあ、これから聴いてみよう。