湯殿川散歩。一時間余り。連日の雨で濁っているのかと思ったが、そうでもなかった。段差になった滝壷のようなところで、逆流している水にもまれて、サッカーボールが流されることなく、くるくるといつまでも回っているのを眺める。五時過ぎだったが、散歩に連れ出された犬はみんな老齢で大人しかった。付き添っている人間もみんな老齢。走っている人もそうで、行き会うたびにお互いに自然と会釈した。時間が止まったような感覚。鶴見俊輔風カルタにすれば、「犬も歩けば人も歩く」。そこで脈絡もなく思い出したのが、清巌宗渭の「狂人走れば不狂人走る」という文句。
行きに鍬を打って畑の土をきれいに盛り返していた老齢のまさに農夫というべき人が、帰りには腰をおろして、自分がなしおえた作業をじっと見ていた。腰の曲がった人で、昔ふうの前垂れをかけて仕事をしているのを何回か目撃したことがある。声をかけてみたいと思うが、遠慮した。こういう人、こういう風景に出会うと、その昔にも出会ったことがあると思う、いや自らが生まれる前から、その人の生の哀歓も含めてすべてを熟知しているような気になるのはどうしてだろうか。そういう遺伝子が組み込まれているのか。
また帰りには、土手の整理をしつつ花の種を植えている老齢の人を見た。こういう人たちがいて、秋はコスモスの美しい群落を味わうことができるのだろう。短絡的な「自己表現」やストレスの憂さを晴らすばかりに、花や人を切り殺すこともある世の中で、ただ種をまき、土手を整える人もいるということだ。だれも振り向きもしない梅雨の晴れ間の川沿いの道。これこそ「狂人」の道かもしれない、などと考えた。
(蛇足)
「最低」の「不狂人」の集りと思っていた「最高」裁が、このクニの「国籍法」は憲法違反であるという判決を出し、けなげな子どもたちに日本国籍を与えることにした。そのニュースをテレビで知った。多数決によるものだが、それでもこれは「狂」を護るということ、その最たる「憲法」を護るということで久しぶりに画期的な判決であった。
2 件のコメント:
吉増剛造の『わが悪魔祓い』という詩集に「狂人走れば不狂人も走る」という題の詩があります。その最後の連を紹介しますと、
ああ
心凄き
地獄だぞ
地獄千年、夢千年--こりゃ道行の伴奏じゃ
凄凄(せいせい)
鏘鏘(そうそう)
凄凄
鏘鏘--二人してもはや快楽の絶頂だね
もはや
汝ら、心中しかないな
狂人走れば不狂人も走る
ああ
狂人走れば不狂人も走る
天網くわいくわい、飯(めし)パッパ
馬鹿野郎!ぼけっとしやがって、貴様なん て長電話してやがるんだ永遠の、こんちく しょうめ
ところでその前に置かれている「狂おしの鳩ポッポ」という詩に、すばらしい一行を発見しました。
列車は夕焼けにとけこむ一行の詩だった
いいですね。
なんかいいですね。
今の職場が、昔吉増剛造さんが住んでいた(今はどうかわかりません)所の近くなので、先日思い出したことがあります。
さすがですね。
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