NON SUM QUALIS ERAM BONAE SUB REGNO CYNARAE
by: Ernest Dowson
Last night, ah, yesternight, betwixt her lips and mine
There fell thy shadow, Cynara! thy breath was shed
Upon my soul between the kisses and the wine;
And I was desolate and sick of an old passion,
Yea, I was desolate and bow'd by head:
I have been faithful to thee, Cynara! in my fashion.
All night upon mine heart I felt her warm heart beat,
Night-long within mine arms in love and sleep she lay;
Surely the kisses of her bought red mouth were sweet;
But I was desolate and sick of an old passion,
When I awoke and found the dawn was gray:
I have been faithful to thee, Cynara! in my fasion.
I have forgot much, Cynara! gone with the wind,
Flung roses, roses, riotously with the throng,
Dancing, to put thy pale lost lilies out of mind;
But I was desolate and sick of an old passion,
Yea, all the time, because the dance was long:
I have been faithful to thee, Cynara! in my fashion.
I cried for madder music and for stronger wine,
But when the feast is finish'd and the lamps expire,
Then falls thy shadow, Cynara! the night is thine;
And I am desolate and sick of an old passion,
Yea, hungry for the lips of my desire:
I have been faithful to thee, Cynara! in my fashion.
昨夕(ゆふべ)、ああ、昨宵(よべ)、たはれ女とかたみにかはす接吻(くちづけ)を
あはれシナラよ、汝が影のふとさへぎりて、その息吹
酔ひほうけたるわが霊(たま)の上に落つれば、
われはしも昔の恋を想ひ出てここちなやまし、
さなりわれ、こころやぶれて額(ぬか)垂れぬ。
われはわれとてひとすぢに恋ひわたりたる君なれば、
あはれシナラよ。
よもすがら、わが胸の上(へ)にその胸の動悸をつたへ、
よもすがらわれにいだかれて甘睡(うまい)むすべり、たはれめは。
一夜妻なれ、その紅き唇(くち)のあまさよ如何ならむ。
さはれ、むかしをおもひ出てわれうらぶれぬ、
むすびかねたる手枕の曙の夢さめしとき。
われはわれとてひとすぢに恋ひわたりたる君なれば、
あはれシナラよ。
われは多くをうち忘れ、シナラよ、風とさすらひて、
世の人の群れにまじはり狂ほしく薔薇(さうび)をなげぬ、薔薇(さうび)をば。
色香も失せし白百合の君が面影忘れんと舞ひつ踊りつ。
さはれ、かのむかしの恋に胸いたみ、こころはさびぬ、
そのをどりつねにながきに過ぎたれば。
われはわれとてひとすぢに恋ひわたりたる君なれば、
あはれシナラよ。
いやくるほしき楽の音を、またいやつよき酒呼べど、
酒宴(うたげ)のはてて燈火(ともしび)の消えゆくときは、
シナラよ、あはれ、なが影のまたも落ち来て夜を領(し)れば、
われは昔の恋ゆゑに、ここちなやみてうらぶれつ、
ただいろあかき唇を恋ふるこころぞつのるなれ。
われはわれとてひとすぢに恋ひわたりたる君なれば、
あはれシナラよ。
(矢野峰人 訳)
イギリス19世紀末のデカダン詩人、アーネスト・ダウスンの詩。それを英文学者、矢野峰人が流麗な文語調で訳したもの。このダウスンという人の名など、よっぽどの愛好者でなければ聞いたこともないにちがいない。ぼくも、名前だけは聞いたり、見たりしたような気がしたけど、この詩を読んだのは初めてだった。南條竹則という人の『悲劇の詩人ダウスン』(集英社新書)を読んで、こういう途方も無く「不幸」で、規格はずれの詩人がいたことに驚くとともに、彼がとくにこの日本の作家や学者たちに偏愛されてきた歴史を持つことも知った。佐藤春夫や西条八十、あの火野葦平などもダウスンの詩を好み、訳している。ダウスンの伝記や受容史については、『悲劇の詩人ダウスン』を読んでもらえればいい。言いたかったのは、この訳詩のスタイルの、古さと新しさということだ。
ぼくは今の詩人たちの詩がよくわからない。それは、こういう種類の、この訳詩にみられるようなわからなさと、はっきり言って、そんなに違いはない、わかりにくさである。ということは、わかりにくさの根源は、はかれないということ。新しさをいくら偽造しても、この訳詩にはかなわない。スタイルの上での比較だが、それにしても、この訳詩の一貫性をこえる、どんな「現代詩」もありはしない。こういう文体を早々と捨ててしまったのは、そこにあった大きな可能性、日本語の可能性を捨ててしまったということだ。日本語の象徴詩などの流れも含めて。笑う前に、文体の練習として、この訳詩のようなエクリチュールに身を浸すのも必要なのではないか、とぼくはこれを読んで考えた。
(この詩のタイトルは、南條の本によると、ホラティウス『歌章』からの長い引用、すなわち「我は良きキュナラの支配を受けしころの我にはあらず」という文句ということだ。ラテン読みのキュナラがシナラといことだ。)
3 件のコメント:
おっしゃるとおりですよ。いまの若い詩人、否、相応の詩人会にいらっしゃる相応の年齢のお方でさえ、果たしてその文学的航路を始めるにあたり、昔の、苟も文学に携わった人間が行ったていどの文章術の刻苦勉励を、わずかでもなぞっているのかというと、多分に疑問を覚えます。いま、現代詩手帖などを見ると、若い人たちはなにもないなにもない、と言っているだけで、それではかつてのわれわれがやったような、ボードレール(の日本語訳、福永武彦)、ランボー(の日本語訳、金子光晴)、ヴァレリー(の日本語訳、鈴木信太郎)ほか、仮普請の日本語の凄さに向き合おうとしたかというと、そんな気振りの一切がない。古いものに対する尊敬とはいわない、それに対するセンスがないなら詩などやめちまえ、ということです。酔余。
倉田さん、おっしゃるとおりです。
その点で、批評家としての吉本さんは、ただ単に偉大なる才能であるということだけでなく、自分からはおっしゃいませんが、倉田さんの言われる意味での磐石の土台が、刻苦勉励のあとがきちんとあるのですね。僕もその辺の基礎てきなところを、あとに遺された時間で、できるだけ研鑽を積んだ上で、創造的な何らかの成果を発表できれば、と思っているのです。遠大な計画ですが、その過程を生きるということが、いわば真に生きるということだと思いますから。その途次でくたばってもそれはそれでいいのではないかと思います。
倉田さんは、わたしの言ひたいことをかわりにいってくれたといふ気がします。さういふことがいひたい。ぼくは、これから酔ふのです。
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