The Waking
I wake to sleep, and take my waking slow.
I feel my fate in what I cannot fear.
I learn by going where I have to go.
We think by feeling. What is there to know?
I hear my being dance from ear to ear.
I wake to sleep, and take my waking slow.
Of those so close beside me, which are you?
God bless the Ground! I shall walk softly there,
And learn by going where I have to go.
Light takes the Tree; but who can tell us how?
The lowly worm climbs up a winding stair;
I wake to sleep, and take my waking slow.
Great Nature has another thing to do
To you and me, so take the lively air,
And, lovely, learn by going where to go.
This shaking keeps me steady. I should know.
What falls away is always. And is near.
I wake to sleep, and take my waking slow.
I learn by going where I have to go.
about Theodore Roethke
BIRTH:
Saginaw, Michigan, 25 May 1908,
to Otto and Helen Huebner Roethke.
EDUCATION:
A.B., University of Michigan, 1929;
M.A., University of Michigan, 1936;
Harvard Graduate School, 1930-1931.
MARRIAGE:
3 January 1953 to Beatrice O'Connell.
AWARDS:
Guggenheim Fellowship, 1945, 1950;
Eunice Tietjens Memorial Prize (Poetry magazine), 1951;
Ford Foundation grants, 1952, 1959;
Pulitzer Prize for The Waking, 1954;
Fulbright grant, 1955;
Bollingen Prize, 1959;
National Book Award for Words for the Wind, 1959;
Shelley Memorial Award, 1962;
Litt. D., University of Michigan, 1962;
National Book Award for The Far Field, 1965.
DEATH:
Bainbridge Island, Washington
1 August, 1963.
土曜日の報告で、レトキーの詩のことを書いた。そこでレトキーを「検索」にかけたら、一杯引っかかった。彼のThe waking、目覚めとでも訳すのだろうか、その詩の数行をどこかで読んだことがあることを思い出した。ぼくはMさんに教えてももらったことがレトキー経験の最初だと思っていたが、実は、カート・ヴォネガットの「スローターハウス5」の序章、「語り手」がドレスデン再訪のことを語るのだが、そのときに出てきていたのである。伊藤典夫訳のハヤカワ文庫。ドレスンに向う飛行機の中で、読むための本として、「語り手」が用意した二冊の本の一冊として。訳ではこうなっている、「わたしは機内で読むつもりで二冊の本を持ていた。ひとつはシオドア・レスケ詩集『風に捧げる言葉』、つぎの一節はそのなかに見つけたものである―
わたしは眠りのなかに目覚め、目覚めをゆっくりと受け入れる
わたしはおそれから切りはなされて、わたしの運命を感じる
わたしは行かねばならぬところへ行くことによって学ぶ 」
この詩の基本的な調子をうまく言えないのだが、単純な「目覚め」ではなさそうだ。よくわからないままに書いているのだが、詩人は自らをThe lowly worm 、低級な虫にたとえているのではないか。螺旋の階段を這い上がってゆく虫、その虫に、たとえば光が樹を把捉するようなことが訪れるのであろうか、訪れるとしたらいかに?だれもそのことをわれわれに告げることのできるものはいないのだ。それでも、あるいはそれゆえに、ゆっくりと目覚めを受け取らなければならない。「わたしはおそれから切りはなされて、わたしの運命を感じる」という伊藤典夫の訳はおかしいと思う。強いて訳すなら、「私は私が畏敬できないもののなかに、私の運命を感じる」というのではないか。ここには、神は大地を祝福する、というフレーズも出てくるが、その神に比べてI cannot fear ということだろう。神はあくまでも畏れの対象である。
全体が、さわやかな「目覚め」の印象を与えるというようになっていないところが、この詩の特異さである。自分の身近で、常に脱落し、すべりおちてゆくものを知らなければならない、虫の上昇と滑落のイメージ、そのために「いかねばならぬところにゆくことを通して学ぶ」のだ、だがしかし、そことはどこか?ただ言えることは、そのような「振動」が、この私、いつも暗闇に横たわっているかのような私を「正気」にする、それが、レトキーのいう「目覚め」であろう。
私のパラフレーズと解釈は、たぶん当たってはいない、それよりも、この詩の技巧(ライムやアリタレーションなど)の見事さを味わいたくなって、誰かが朗読したものはないかと、you tubeを検索したらありました。この朗読と映像は標準以上だと思う。
2 件のコメント:
いやあ、詩のリズムがいいですねえ。でも何故墓地の光景なのでしょうか。目覚め、眠りということを、もっと日常ではなく人生という時間の長さの問題として、この撮影家は考えたのでしょうね。
この墓地の映像はぼくもあまりいただけませんという思いです。学生たちが、なんかの課題でたぶんつくったのでしょう。
ただ詩の韻律の諸規則などに詳しくないものにとって、こういうふうに読むのだなという感想でした。
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