午後に、倉田良成さんから電話があって、tab10号に書いた鈴川さんと小生の詩を谷内修三さんが、そのblog、 「 詩はどこにあるか」(谷内修三の読書日記) (6月3日の記事)でとりあげて、批評しているということだった。早速拝読してみた。鈴川さんの詩はぼくも読んだとき傑作だと思ったが、谷内さんも丁寧な読みで称賛していた。その童話風のなつかしさ、「死」の切り取り方の既視感などに彼は共感しつつ、それで終わったのかと思うと、2枚目があって、「次のページからはじまることばがそんなにおもしろくな」く、「落胆」してしまったと書かれている。この現象、つまり一枚目はよく、二枚目は落胆という感想を、水島の詩でも経験したということを、拙作「湯殿川」という詩も引用しつつ書かれていた。「結論」は、
―― 本を読む。ことばを読む。そのとき、私はたぶん、「結論」を想定していない。ことばが動いて、それが頂点に達したとき、それで「おしまい」と思ってしまう癖があるのだろう。その癖がたまたま2作品で続けて起きただけのことなのかもしれない。鈴川や水島のことばとは関係なく、単に、私の読み方の癖がはっきりしたというだけのことかもしれない。――
以上のようにまとめられている。ここからは鈴川さんの詩のことではなく、ぼくの詩への谷内さんの言及に対して感じたことを書いてみよう。最初に、ぼくは拙作を取り上げてくださったことに感謝したい。谷内さんの、このblogでの詩批評のエネルギーにはただ敬服するばかりだ。以前、これを見て圧倒されたことがあった。ぼくのような、読めば読みっぱなし、書けば書きっぱなしという怠惰なものには真似ができない営為である。それだけ、詩に対する愛情というものを抱いていらっしゃるのだということを常に感じてきた。
拙作へも、その前半部に対する過褒というべき言葉を頂いた。これは自分の詩があまり言及されないものとして、喜び以外のなにものでもない。書いていてよかった、こういうふうに読んでくれる人がいたのだと思った。そして喜んでばかりはいられないのが、最後の5、6連目への言及である。「ところが、この詩にも1ページ目(2ページということ、水島註)があった。そして、そこで私はまたしても落胆してしまった。特に最後の6連目に。(引用はしない)」と書かれる。そのあと、「同じ本で、同じことが2度続けて起きた。これは、私にとって、とても不思議なことである。」という一文が続き、先ほど引用した「結論」に至るわけだ。
ぼくとしては、その「落胆」の理由こそを読みたいのだ、それはこのエッセイの結論部で言いたいことだろうとぼくは忖度するが、あらかじめ「結論」を想定したような書き方になっているというのか、あるいはとって付けたようになっているというのか、要するに「ことばが動いていない」ということが、拙作の「結論」の凡庸さであり、そのことが谷内氏をして「落胆」に至らしめたということなのだろうか?そこがもっと明瞭に書かれ、そのことで拙作が批評されるとしたら、そこのところをこそ、ぼくは傾聴したいものだと思った。
失礼をかえりみずに言うなら、感激半分、落胆半分の印象をぼくも持ったのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿