2008年6月22日日曜日

暗がりのなかを歩いている(「詩を語る夕べ」№1)

昨日はサウナの中にいるような一日だった。午後7時からの、『奏』での福間さんとの「詩を語る夕べ」のことを思いながら、午後のどんよりとした晴れ間に湯殿川の道を一時間あまり散策した。そのとき考えていたのは、増水した川の流れや土手に咲く姫女苑や、沼の花菖蒲などの、そこに、ただ「存在するもの」の強さと変わりなさといったようなことだったかもしれない。

5時すぎに片倉を出て、6時から久しぶりの『奏』で、福間さんと簡単に話の内容の打ち合わせをする。恵子さんがキッチンで働いていた。荒川洋治の書いた、詩のことばの読まれなさ、といったようなものを土台にして、ぼくは質問の内容を考えていた。荒川の言う、「昔は詩にとって、詩の言葉にとって幸福な時代だったがゆえに、凡庸なものでも読まれたが、今はそうではない。社会から見捨てられてしまった。しかし、それだからこそ却って詩にとっては、その読まれなさから何かが生まれてくるはずで、逆に詩のことばを捨てた社会は変なことが起こる」というような捉え方のユニークさをおさえながら、その昔と今という時代のきり方について疑問を呈したりしていた。

7時過ぎに、雨の中を、小峰さんが最初にやってきた。服部さん、松方さん、小貫さん、西田さん、小山さんの福間塾の面々。それに南谷君、かをりさん、ぼくの知人の高橋君、など。遅れて新井さんも参加してくださった。ぼくが名をあげるのを忘れている人がいたらごめんなさい。

Poetryの経験などについて、あるいはその場所などについて。いつの時代でも、poemを書かなくとも、poetryを感じて、生きる人や場所などがあるはずだというようなこと。そのことが、そのひとの「抵抗」として、時代や社会を生き抜いてゆくことの支えにどこかでなっているのではないか。「詩」以上の「詩」として。秋葉原のあの青年は、そういうものを持てなかった、なぜ持てなかったのか?どんなに見事な社会学的な「解釈」「説明」でもとらえきれないものがあるのではないか。

たとえば、宗教詩などといわれるミルトンの詩やその生き方などに、もしかしたらこの袋小路を照明するなにかがあるのではないか、これは福間さんの最近の読書からの発言だが。
ミルトンは盲目であったという。その盲目のイメージを大切にしたいということを福間さんは述べていたように思う。「暗がりのなかを歩いてゆく」ということの大切さ。その先にはなにがあるだろうかなどということではなくて、歩くこと自体が光への希求、祈り、になること、それが「詩」なのではないか、ということなど。ぼくのパラフレーズもここには交じっているが、大方こういう発言ではなかったか。

後半では南谷君の実践を聞いた。彼が教えている塾で試みたこと。次のアメリカの詩人レトキ、これはぼくも大好きな詩人だが、彼の詩を小学生に示して、彼の詩をグリッド状にして、ということはポイントの言葉を空欄にして、そこに小学生たちに新たな言葉を入れさせた。すると天才的な詩人がひとり生まれたのだが、その小学生自身の詩は、南谷君がこの7月、首都大の瀬尾さんのゼミで、この試みとともに発表するということだから、ここには書きません。昨晩は、もちろん、その小学3年生が穴埋めした、その詩も朗読された。レトキの次の詩の( )のところを空欄にしたものを配り、そこに新たな言葉を、南谷君の適切なアドヴァイスとともに入れさせるという試みだ。

嘆き          セオドア・レトキ

私は知っている、(筆箱)にきちんとならんだ(鉛筆)の
そのままである悲しみを、(便箋)や(文鎮)の嘆きを、
(マニラ紙)の(紙鋏)や(アラビヤ糊)のあらゆる惨めさを。
塵ひとつない純白の(公共施設)や、
無人の(応接室)、誰もいない(トイレ)、寂しい(配電盤)のわびしさを、
(洗面器)と(水差し)、
(コピー印刷機)、(紙クリップ)、(句読点の儀式)、
生命や事物の果てしない複製の拭いがたい哀感を。
そして私は見たのだ、(病院)の(壁)の(埃)が、
(小麦粉)よりも細かく、生命をもち、(珪砂)よりも危険に、
ほとんど人目にも触れず、長い午後の
退屈の篩にかけられて、
(爪)や細い(眉毛)にうっすらと膜を落とし、色の抜けた(白髪)に、
ありふれた複製の灰色の(顔)に上塗りをかけるのを。



その小学生が入れた言葉を復元する誘惑に抗しがたくなるほど、あっという鮮烈なものだったが、面白い試みである。南谷君は(  )以外の難しい漢字を平仮名にひらいたりして書かせているが、全体はこれと同じものだ。ちなみに高校生の作品はその小学生に比べて面白くなかったと彼は語った。

こういう試みも、詩のことばのはじめての経験として、大きな影響をその小学生にもたらすかもしれないと感じた。

新しく『奏』のメニューに加わった恵子さんお手製の美味なる料理を食べ、飲み、八王子の最終の横浜線に乗って帰った。

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