普天間基地の一部機能の徳之島移設の問題についての甲府の女性の投書(4月25日・朝日新聞・声欄掲載)を読んだ。島の反対集会や3町長の政府側との面会拒否によせて、「徳之島で要らぬものは沖縄でも要らぬ。そんな思いには至らないのだろうか。徳之島が基地の町にならなかったらそれで解決なのだろうか」と書かれている。その前に考えて欲しい。あの反対集会に参加した人々は単に自分たちの島だけがよければなどと考えて「基地反対」と主張しているのだろうか。古くは薩摩の搾取にあえいだ奄美の島として、また沖縄とともに戦後米軍の冷戦戦略の一端として53年まで分断支配されていた歴史、それまでもそうだったが復帰してからの困窮にたえた生活の経験、それらが「長寿、子宝、癒しの島に米軍基地はいらない」というスローガンに集約されているのではないか。普天間、沖縄の強いられている負担を、一番身近で同様な文化圏に属するものとして骨身にしみてわかるからこそ「反対」なのではないか。当然のことだが、このスローガンは沖縄のものでもある。問題は徳之島の民意や3町長の対応にあるのではない。日本駐留米軍基地の問題を含めて、アメリカの軍事戦略そのものとそれに対する同盟国(対等とはとても言えない)としての旧態依然とした対応(政権は変わったのではないか、変わったよね。)の仕方こそが問題なのだ。
(26日頃に書いたものだが、昨日の鳩山首相の徳田虎雄との会見などもあり、事態は予断を許さない。いずれにせよ、最終的に苦難を引き受けるのはそこに住んでいる名もない人々である。米海兵隊の基地移設を最終的に容認せざるをえないように諸々の強制が「腹案」裏にメディアも含めて、いや率先して論調が操作されているようだ。そのことに対して深い危惧と怒りを感じる。これは徳之島に生を享けた一人の人間としての思いでもある。)
2010年4月29日木曜日
2010年4月25日日曜日
DEATH AND THE FLOWER
足を引きずりながら散歩に出た。読んだり、書いたりする気力が全然わかない。それまで古いCDを埃の山のなかから手当たり次第引きずり出して聞いていた、KEITH JARRETTの"DEATH AND THE FLOWER"というのを何回か聞いた。とくにCHARLIE HADENのベースの響きがいい。この二人は何もおしつけない、それぞれがどこか遠くをぼんやりと見て、二人のそれぞれの抒情詩を呟いている趣、でもそれが期せずして美しいハーモニーを、そう変な言い方だが自発的に形成する。
2010年4月24日土曜日
鯖と新ジャガ
足の痛みはなかなかひかないが、お日様が照っていた合間を見計らって散歩に出た。湯殿川から雑木林の丘を通過して、あたらしくできた公園に出て八王子みなみ野まで歩く。たいした時間ではないが、気持ちよかった。みなみ野のスーパーで、280円の生鯖と、タイムというハーブ野菜を買って帰る。これは、今日の朝刊にレシピの掲載してあった「鯖と新ジャガ芋のグリル」なる料理を夕飯に作ろうという魂胆をなぜか今日起こしたからである。以下手順を述べる。まず、三枚に下ろして貰った鯖の一片を二枚に切り分けた。その一枚の身の表面に二三本の溝を作り、そこにニンニク断片とちぎったタイムを埋めこむ。オリーブオイル、大さじ二杯をそれにたらし、マリネ状にして、冷蔵庫に格納する。次に目下海兵隊基地移設の腹案の地としてやかましい我が故郷なる徳之島、そこの親戚が送って下さった美味なる新ジャガ芋(徳之島は純然たる農業の島であり、とくに馬鈴薯とサトウキビはその代表作物である)を大さじ一杯のオリーブオイルをしたたらせたフライパンで(約一センチ幅に切った皮付きのままの馬鈴薯を)低温で焼いてゆくのである。箸で貫通するぐらいを目途として引き上げる。さて、二三十分充分に冷やした(一日ぐらいの余裕があればもっといい)鯖を取り出して、先ほどの馬鈴薯の上に載せる。塩こしょうを簡単にしておく。それを220度のオーブンで15分から20分かけて鯖に焼き色がつくまで焼きあげる。残りのタイムか檸檬の汁をかける。これで終わりである。充分に美味であり、わが女房殿も何十年ぶりかに誉めてくれた。ほめて育てようという魂胆であろう。うぬぼれになるが、これでビールがひとしおうまく飲めたことを言い添えておく。
新ジャガの土の匂いに雨の添い
老父老母掲げし鍬やプラカード
みんなみの島を響もすシュプレヒコール
新ジャガの土の匂いに雨の添い
老父老母掲げし鍬やプラカード
みんなみの島を響もすシュプレヒコール
鮎川信夫賞
第一回鮎川信夫賞の授賞式に参加した。谷川俊太郎さんの受賞にこたえることばは受賞詩集「トロムソコラージュ」での詩である「臨死船」に鮎川信夫を乗せて、鮎川が何を言ったかということを軽妙に述べた夢のような、詩のような、すばらしいものだった。
瀬尾さんのきびしいことばに感動した。そのまえに、彼がまずこの本が成立したのは稲川と自分だけの力ではないといい、岡田さんを含め何名にものぼる人々の名前をあげて感謝の気持ちを捧げたのにも深く感動した。
稲川さんの挨拶のことば、「声を出すということ、発言するということの現代における困難さと、それに抗して声を出すということ、発言するということの大切さ」というようなことばにも動かされた。二人ともシンプルだが、とても大切なことば、聞くものの胸に響くことばだった。
帰りは二次会には出ずに、高貝さんと二人で帰る。電車の中で、ぼくはそうとう馬鹿なおしゃべりをしたような気がする。
寒い雨の市ヶ谷、心に残る時間だった。
瀬尾さんのきびしいことばに感動した。そのまえに、彼がまずこの本が成立したのは稲川と自分だけの力ではないといい、岡田さんを含め何名にものぼる人々の名前をあげて感謝の気持ちを捧げたのにも深く感動した。
稲川さんの挨拶のことば、「声を出すということ、発言するということの現代における困難さと、それに抗して声を出すということ、発言するということの大切さ」というようなことばにも動かされた。二人ともシンプルだが、とても大切なことば、聞くものの胸に響くことばだった。
帰りは二次会には出ずに、高貝さんと二人で帰る。電車の中で、ぼくはそうとう馬鹿なおしゃべりをしたような気がする。
寒い雨の市ヶ谷、心に残る時間だった。
2010年4月20日火曜日
白雄
白雄句
友と一緒に信州上田にて桜を満喫する。また村山槐多、関根正二、野田英夫などのデッサンや絵を見る(信濃デッサン館)。上田城の夜桜を見てのかえり、堀端に江戸中期の俳人、加舎白雄(1738ー1791)の碑があり、彼がここ上田出身の人であるということをはじめて知る。以下、白雄の句を記念に掲載しておく。
人恋し灯ともし頃を桜散る
町中を走る流れよ夏の月
園くらき夜を静かなる牡丹哉
子規鳴くや夜明けの海が鳴る
菖蒲湯や菖蒲寄り来る乳のあたり
めくら子の端居淋しき木槿哉
永き日に我と禁ずるまくらかな
春の日を音せで暮る簾かな
はるかぜや吹かれそめたる水すまし
二股になりて霞める野川かな
いとまなき世や苗代の薄みどり
いずれも感覚鋭敏、細かい観察、鮮明な表現の句だと私は思う。
友と一緒に信州上田にて桜を満喫する。また村山槐多、関根正二、野田英夫などのデッサンや絵を見る(信濃デッサン館)。上田城の夜桜を見てのかえり、堀端に江戸中期の俳人、加舎白雄(1738ー1791)の碑があり、彼がここ上田出身の人であるということをはじめて知る。以下、白雄の句を記念に掲載しておく。
人恋し灯ともし頃を桜散る
町中を走る流れよ夏の月
園くらき夜を静かなる牡丹哉
子規鳴くや夜明けの海が鳴る
菖蒲湯や菖蒲寄り来る乳のあたり
めくら子の端居淋しき木槿哉
永き日に我と禁ずるまくらかな
春の日を音せで暮る簾かな
はるかぜや吹かれそめたる水すまし
二股になりて霞める野川かな
いとまなき世や苗代の薄みどり
いずれも感覚鋭敏、細かい観察、鮮明な表現の句だと私は思う。
2010年4月19日月曜日
2010年4月17日土曜日
一つ家に
太陽が顔を出してきた。昨日までは陰の極みのような天気だった。雪まで降ったとは、信じられなかった。
昨日は和史と小田急相模原のTroyの家で歓談する。幸いというか、突然の病の予後もよく、普段の様子とかわりはない。血圧の高さには注意しなければならないのはぼくも同じだが、最近は測ることもしなくなっている。Troy家でごちそうになり、三名は横浜線で帰る。和史は相模原で奥さんに会うというので、そこで下車。ぼくはなんとなく物足りないので、橋本で途中下車して、三間堂という居酒屋で、おでんと二合徳利、そのあと蕎麦を頼む。女房はあきれながら、つき合ってくれた。
一昨日は公民館で一年ぶりの「おくのほそ道」を読む会。「市振」の所を、その前の越後路の「この間九日、暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事をしるさず」という記述と「文月や…」「荒海や…」の有名な句との関連でどう読まれているか(たとえば、恋のうつり、連句的な構成という見地から)を語る。この日も寒かった。4時半ごろの帰りの電車の中で、友人Nからのメールあり。久しぶりに相原の立ち飲み屋に行く、一緒にどう、という内容。断るいかなる理由がわれにあらんや。飲みながらふと気づく、私の足のかかとの痛みはどこへ行ったのか?お母さん、と。
ここ三週間ぐらい、ときどき右足のかかとが痛むのだが、うっちゃいておいた。でも、このままでは散歩もできなくなると思い、病院へ行った。診断は、関節の先の「石灰化」。X線撮影の写真を見せてもらったが、骨の先に暈のようなものがまつわりついている。これが石灰で痛みの原因というわけ。こいつを融かす薬をもらい、やっと原因がわかったので、安心した。それでも立ち飲み屋で、当然のことだが立ちながら2時間にわたり飲み、話しているのに、痛みはない。現金なものだ。すこし酔って家に帰る。友人と相原で別れて帰途ずっとぼくの頭の中にあったのは、芭蕉の「一つ家に遊女も寝たり萩と月」という句だった。すごくいいな、としみじみ思いながら家に帰ったのだが、そのとき思ったことを今は忘れている。
昨日は和史と小田急相模原のTroyの家で歓談する。幸いというか、突然の病の予後もよく、普段の様子とかわりはない。血圧の高さには注意しなければならないのはぼくも同じだが、最近は測ることもしなくなっている。Troy家でごちそうになり、三名は横浜線で帰る。和史は相模原で奥さんに会うというので、そこで下車。ぼくはなんとなく物足りないので、橋本で途中下車して、三間堂という居酒屋で、おでんと二合徳利、そのあと蕎麦を頼む。女房はあきれながら、つき合ってくれた。
一昨日は公民館で一年ぶりの「おくのほそ道」を読む会。「市振」の所を、その前の越後路の「この間九日、暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事をしるさず」という記述と「文月や…」「荒海や…」の有名な句との関連でどう読まれているか(たとえば、恋のうつり、連句的な構成という見地から)を語る。この日も寒かった。4時半ごろの帰りの電車の中で、友人Nからのメールあり。久しぶりに相原の立ち飲み屋に行く、一緒にどう、という内容。断るいかなる理由がわれにあらんや。飲みながらふと気づく、私の足のかかとの痛みはどこへ行ったのか?お母さん、と。
ここ三週間ぐらい、ときどき右足のかかとが痛むのだが、うっちゃいておいた。でも、このままでは散歩もできなくなると思い、病院へ行った。診断は、関節の先の「石灰化」。X線撮影の写真を見せてもらったが、骨の先に暈のようなものがまつわりついている。これが石灰で痛みの原因というわけ。こいつを融かす薬をもらい、やっと原因がわかったので、安心した。それでも立ち飲み屋で、当然のことだが立ちながら2時間にわたり飲み、話しているのに、痛みはない。現金なものだ。すこし酔って家に帰る。友人と相原で別れて帰途ずっとぼくの頭の中にあったのは、芭蕉の「一つ家に遊女も寝たり萩と月」という句だった。すごくいいな、としみじみ思いながら家に帰ったのだが、そのとき思ったことを今は忘れている。
2010年4月13日火曜日
われわれわれは
今日の朝日夕刊の「あるきだす言葉たち」という、順次、詩、俳句、短歌を載せる火曜日の欄に、望月裕二郎君の短歌が掲載されていた。前の朝日歌壇の論考のような欄で、誰かが望月君に触れているのを読んだ。そのときは卒論として「歌集」を提出したはじめての学生などというようなことが書かれていたが、卒業制作として提出されているのだから、どうしてこういうことを書くのかなどと思ったが、そのときは彼の歌そのものにはあまり触れてはいなかた。だれだろう、あれを書いたのは。
朝日夕刊の掲載歌について、感想若干。
どの口がそうだといったこの口かいけない口だこうやってやる
あそこに首があったんだってはねられるまえにふけった思索のうるさい
われわれわれは(なんにんいるんだ)頭よく生きたいのだがふくらんじやった
三首とも、歌の対象と、その取りあげ方が目新しさを感じさせる。
外には向かわない、かといって内部にも彼の歌は向かわないし、そのどちらをもとりあげて歌うという強さを感じさせない。三首目、「われわれ」ではなく「われわれわれ」である複数一人称がこの若き歌人の拠るところである。歌の言語としての彼の口語調の異様さは、その独特な「ゆるさ」と反イメージ的な思弁性と聴覚性にある。まず、こういう感想から望月論が始まるのかも。
できたての卒業制作歌集「ひらく」を手渡しに、ぼくの授業(08年度の授業の受講生でもあった)にわざわざ来てくれてたのが去年の12月18日。卒業、就職、そして歌人としての出発も恵まれている。(これからが勝負だ、健闘を祈る。)
今、その歌集「ひらく」を手にして、任意に開いたページに次のような歌があった。かれの新聞掲載歌は、この歌集の歌よりもっと壊れているという印象をもった。壊れているというより、壊したのだろう。
つやつやのチーズを皿に盛り付ける無思想という思想をもって
朝日夕刊の掲載歌について、感想若干。
どの口がそうだといったこの口かいけない口だこうやってやる
あそこに首があったんだってはねられるまえにふけった思索のうるさい
われわれわれは(なんにんいるんだ)頭よく生きたいのだがふくらんじやった
三首とも、歌の対象と、その取りあげ方が目新しさを感じさせる。
外には向かわない、かといって内部にも彼の歌は向かわないし、そのどちらをもとりあげて歌うという強さを感じさせない。三首目、「われわれ」ではなく「われわれわれ」である複数一人称がこの若き歌人の拠るところである。歌の言語としての彼の口語調の異様さは、その独特な「ゆるさ」と反イメージ的な思弁性と聴覚性にある。まず、こういう感想から望月論が始まるのかも。
できたての卒業制作歌集「ひらく」を手渡しに、ぼくの授業(08年度の授業の受講生でもあった)にわざわざ来てくれてたのが去年の12月18日。卒業、就職、そして歌人としての出発も恵まれている。(これからが勝負だ、健闘を祈る。)
今、その歌集「ひらく」を手にして、任意に開いたページに次のような歌があった。かれの新聞掲載歌は、この歌集の歌よりもっと壊れているという印象をもった。壊れているというより、壊したのだろう。
つやつやのチーズを皿に盛り付ける無思想という思想をもって
2010年4月11日日曜日
歩き酒(日本蛇行協会主催)
2010年4月7日水曜日
Forza del Destino「運命の力」
イタリア首相のベルルスコーニが1994年に立ち上げた政党名は、フォルツァ・イタリア(Forza Italia)と言って、イタリア頑張れ、というような意味らしいが(ベルディの歌劇にも、「運命の力」Forza del Destinoというのがあった)、自民党脱党の、鉄幹の孫や、平沼、園田某などが立ち上げた新政党の名は「立ち上がれ日本」というもので、これは石原慎太郎という都知事の命名らしい。ここにあるのは、ベルルスコーニの二番煎じで、そうであるからには、かつての枢軸国(独は自立しているけど)への、あの過去への、無意識の愛の突然の奔流ということか。
「過去への愛は現在への恨みと幾重にも綯い交ぜになっている」というのは、アドルノの言葉だ。
「過去への愛は現在への恨みと幾重にも綯い交ぜになっている」というのは、アドルノの言葉だ。
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