ヴェトナムに行きたくなった。
去年の夏、行ったのだが、今年も。
でも、奈良・京都・神戸の旅を計画してしまった。
義母の23回忌にあたるから、だれもいない、
墓だけがある神戸に行こうと思ったのだ。
ついでに、奈良と京都を回ることにしたのだが。
鶴瓶と元横綱の大乃国がヴェトナムのホイアンを訪ねる
人情旅行記のようなテレビを見て、涙が出てしまった。
鶴瓶が嫌いになって、この番組は見なくなったが、ヴェトナムの
文字に引かれて見ていたら、もう鶴瓶など関係ない。
ホイアンの夏と片倉の夏。
あそこにあって、ここにないもの。
それが涙の理由だろうか?
あそこには全く欠けて、ここにはあり余るもの。
それが理由だろうか?
相撲レスラー親方の大乃国は「まわし」を持参し、
つぶらな瞳のよく笑うホイアンの少年たちに相撲を
教えた。鶴瓶はその押しの強い「口舌」で、陽気な善人を
演じきり、宝くじ売りの貧しい少女たちを魅惑する。
もし、ぼくがホイアンに行ったら、どうするだろう?
暑い、暑い、を連発しながら何万ドンもする、実は百円ほどの、
ヴェトナム・ビールを行く先々で飲みながら
「愛人」や「黙示録」の世界を夢見るのだろうか。
つぶらな瞳の少年、やせて美しい少女たち、
鶴瓶がいみじくも描写した「一寸法師のたらい」のような舟で
十二時間も漁に出る、腹筋のきれいに割れた筋肉質の漁師たち。
鶴瓶はそこに触ったのだ、すごーいと言いながら。
仕事あけのコンビニの兄さんが
携帯をいじりながら道を歩いている。太った犬、
庭木の剪定をしながら、ぼくをにらみつける老人、
少子化の世、貴重なこどもたちが日本語を話しながら通り過ぎる。
高価な車が16号を行き交う、信号が青になるのをじっと待つ。
腹筋のない腹を湯殿川の散歩でゆらすために。
眠っているイノセンスをいじってみると
なみだが少し。
鶴瓶のように傲慢
どこかで失くした蒙古斑に
懸想する片倉の夏。
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