2010年5月31日月曜日
2010年5月27日木曜日
ナンセンス
6年ぶりに、昔の職場で授業をした。昔の卒業学年の生徒の妹がいた。この学校は横田基地への飛行機の進入経路の下にあるので、基地から離れているといえ、窓を開けていると、飛行機(その種類は知らない、いずれにせよ軍用機)が通過するときは、かなりの轟音だ。そのために都立校としては早くからエアコンが設置されていて、それが自慢とも言えぬ自慢だったが(そのエアコンも都の予算削減とかいうことで厳しく使用時期や時間が定められている)、今日はその時期ではなく、窓を開けていたせいか、授業が寸断されるような感じがした。思わず、生徒たちに「普天間」基地のことなど話した。比較にはならないが、これがもっとすごかったら全く授業など成り立たないよね、と。
全国の知事会で鳩山首相が基地移設のお願いなどをしていた。そのあとで、石原が「全くナンセンスな会議だった」と、いつものナンセンスな感想をもらしていた。
全国の知事会で鳩山首相が基地移設のお願いなどをしていた。そのあとで、石原が「全くナンセンスな会議だった」と、いつものナンセンスな感想をもらしていた。
2010年5月25日火曜日
鉋をかけると鉋屑が出る
急激に忙しくなりそうな予感に脅えている。まず山の上、採点を済ますこと。山の東、木曜、金曜と5時間だが、臨時の仕事を依頼される。断れない性分がここでも自分を苦しめることになる。市ヶ谷あたりの原稿にもそろそろ取りかからなければならない。愚息の結婚式、これは楽しみだが、これも控えている。娘とそのパートナーがアメリカからこの式に参列するためにもうすぐやってくる、これも楽しみだが、如上の仕事が順調に行くことが気分の上でもっとも大切である(からして、がんばろうという、自分への励まし。)
日曜日、日本現代詩人会の「日本の詩祭2010」。その第一部の司会を和服姿の美しい新井さんとともにする。これまでのH氏賞受賞者10名の朗読は圧巻だった。われわれの分担である第一部のメインであり、時間通りに終わってほっとした。いろんな方と会うことができた、私の詩の上での精神的な師とでも言うべき、こたきこなみ さんとは二十年余りを経て対面することができた。ほんとうにうれしかった。二次会の飲み会に五十人ほど参加していたのには吃驚した。ここで受賞者の田原氏や高橋睦郞氏などから親しくその話を聴くことができた。高橋さんの強烈な人物批判に驚くとともに感心する。帰りは、これも久しぶりに京都から出てきて二次会にも出席していた河津さんと一緒の電車で、ずっとしゃべりながら帰る。元気でよかった。彼女は国立で降りる。私はやはり相当くたびれた一日であった。
日曜日、日本現代詩人会の「日本の詩祭2010」。その第一部の司会を和服姿の美しい新井さんとともにする。これまでのH氏賞受賞者10名の朗読は圧巻だった。われわれの分担である第一部のメインであり、時間通りに終わってほっとした。いろんな方と会うことができた、私の詩の上での精神的な師とでも言うべき、こたきこなみ さんとは二十年余りを経て対面することができた。ほんとうにうれしかった。二次会の飲み会に五十人ほど参加していたのには吃驚した。ここで受賞者の田原氏や高橋睦郞氏などから親しくその話を聴くことができた。高橋さんの強烈な人物批判に驚くとともに感心する。帰りは、これも久しぶりに京都から出てきて二次会にも出席していた河津さんと一緒の電車で、ずっとしゃべりながら帰る。元気でよかった。彼女は国立で降りる。私はやはり相当くたびれた一日であった。
2010年5月22日土曜日
途上
今朝の朝日の連載もの、「うたの旅人」は森田童子の「ぼくたちの失敗」だった。一読して、森田の歌を聴きたくなったので、youtubeで探す。そこにあるほとんど全てを聴き、「再生リスト」に入れておく。これで午前中の時間のすべてを費やすが、後悔しない。それほど素晴らしかった。全部おなじ曲のように聞こえるが、泣きたくなるほど詩(詞)がぼくの記憶のどこかをくすぐるように突く。忘れたと思っている記憶が蘇生する、たまらくなるというような経験。たぶん同時代人だが、同時に聞いてきたという経験が私にはない。逆にそれだから今の地点で鮮やかに響くのだろう。彼女は現在は活動を停止しているということだ、停止というより止めたということの方が正確かも。その歌のすべては、メジャーな市場で売れる(売れたこともある)よりも、そんなものに関係なく、ひたすら亡滅に向かって走って行く、その旅の途上のスケッチである。
2010年5月18日火曜日
生還
43度の、たしか5年間沖縄の鍾乳洞に寝かせたという泡盛の古酒を下落合の杉原先生のところで、昔の同僚2名とともにご馳走になる。奥様のいつものフルコース(最後はおそばでした、たしかそうだよね)を満喫しながら、贅沢な時間を過ごす。ありがとうございました。杉原先生は79歳とは思えないほど、酔うほどに舌鋒鋭く、教育問題や、いつまでも成長しない、幼児のような、反省なき仇敵石原某都知事を切って捨ててくれた。溜飲が下がるにつれて、酔いの濃度は上がる。さすがに昔とは異なり、きちんと挨拶をして三名は帰宅の途にのぼったのであった。三名の一人は先輩、ぼくとKは同い年。久しぶりに杉原先生のところで、ところだから会えたのだろう。これが16日、日曜日の出来事。自宅に帰り着いたのは17日を過ぎていたが、無事生還。
2010年5月15日土曜日
基地反対
「基地反対」ゆるむはちまき締めなほし一万五千の一点に立つ
伊仙 水島 徹
徳之島、伊仙町に住む老父が、南日本新聞の「南日歌壇」の永田和宏選の一番初め(なんというのか、一席とでもいうのか)に選ばれたと言って、ファックスで新聞(5月13日)を今晩送ってきてくれた。
その永田の評は「もちろん他人事ではなかろう。たとえ一万五千分の一であろうとも、「ゆるむはちまき」を締めなおし、反対を叫ぶ声は大きい」というのである。
私は次のような感想を書いて父に送った。
「とてもいい歌だと思います。引きしぼってゆく叙述と情念の一致が歌の形式を越えた真実を読む者に伝えます。」
伊仙 水島 徹
徳之島、伊仙町に住む老父が、南日本新聞の「南日歌壇」の永田和宏選の一番初め(なんというのか、一席とでもいうのか)に選ばれたと言って、ファックスで新聞(5月13日)を今晩送ってきてくれた。
その永田の評は「もちろん他人事ではなかろう。たとえ一万五千分の一であろうとも、「ゆるむはちまき」を締めなおし、反対を叫ぶ声は大きい」というのである。
私は次のような感想を書いて父に送った。
「とてもいい歌だと思います。引きしぼってゆく叙述と情念の一致が歌の形式を越えた真実を読む者に伝えます。」
2010年5月14日金曜日
はるばるきぬる旅
昨日は根津美術館へ尾形光琳の燕子花図を見に行く。立って見、座って見、飽きることがなかった。
大胆にデザイン化されたこの屏風絵を見ていて、毎度のことながら江戸時代の「文化」「芸術」の極度の洗練と高度さを思わずにはいられなかった。その他の蒔絵の施された工芸品も、茶道具などのすごさも。
この絵は伊勢物語の八橋の段を面影にしていると言われる。「唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」。日本で一番有名なacrosticの和歌だ。
万葉集の巻十に夏相聞の部立で、「吾のみやかく恋すらむ杜若丹つらふ妹は如何にかあらむ」という可憐な片思いの歌が杜若(かきつばた)に関してある。この歌はいいなと思った。
以下、美術館の庭の杜若。
大胆にデザイン化されたこの屏風絵を見ていて、毎度のことながら江戸時代の「文化」「芸術」の極度の洗練と高度さを思わずにはいられなかった。その他の蒔絵の施された工芸品も、茶道具などのすごさも。
この絵は伊勢物語の八橋の段を面影にしていると言われる。「唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」。日本で一番有名なacrosticの和歌だ。
万葉集の巻十に夏相聞の部立で、「吾のみやかく恋すらむ杜若丹つらふ妹は如何にかあらむ」という可憐な片思いの歌が杜若(かきつばた)に関してある。この歌はいいなと思った。
以下、美術館の庭の杜若。
2010年5月13日木曜日
The May Magnificant
The May Magnificant
Gerard Manley Hopkins
MAY is Mary’s month, and I
Muse at that and wonder why:
Her feasts follow reason,
Dated due to season—
Candlemas, Lady Day;
But the Lady Month, May,
Why fasten that upon her,
With a feasting in her honour?
Is it only its being brighter
Than the most are must delight her?
Is it opportunest
And flowers finds soonest?
Ask of her, the mighty mother:
Her reply puts this other
Question: What is Spring?—
Growth in every thing—
Flesh and fleece, fur and feather,
Grass and greenworld all together;
Star-eyed strawberry-breasted
Throstle above her nested
Cluster of bugle blue eggs thin
Forms and warms the life within;
And bird and blossom swell
In sod or sheath or shell.
All things rising, all things sizing
Mary sees, sympathising
With that world of good,
Nature’s motherhood.
Their magnifying of each its kind
With delight calls to mind
How she did in her stored
Magnify the Lord.
Well but there was more than this:
Spring’s universal bliss
Much, had much to say
To offering Mary May.
When drop-of-blood-and-foam-dapple
Bloom lights the orchard-apple
And thicket and thorp are merry
With silver-surfèd cherry
And azuring-over greybell makes
Wood banks and brakes wash wet like lakes
And magic cuckoocall
Caps, clears, and clinches all—
This ecstasy all through mothering earth
Tells Mary her mirth till Christ’s birth
To remember and exultation
In God who was her salvation.
五月はマリア様の月 そして私は
そのことを心に想い どうしてなのだろうといぶかる
彼女の祝日にはちゃんとした理由があるのだ
季節によってその日は決められるのだ―
御清めの祝日があり 御告げも祝日がある
しかし御母の祝日は五月なのだ
何故その月を彼女にあてるのだろう
彼女を祝う宴を開いて?
五月がどの月よりも輝かしいということだけが
彼女を喜ばせるのだろうか
それは一番すばらしい時期なのだろうか
花もすぐに見つかる時なのだろうか?
彼女に あのすばらしい御母に聞いてみるがよい
彼女は答える代わりに次のように問いかけるだろう
春とは何でしょう?― そして答えて
それは万物の成長の源なのです―
肉と羊毛 毛皮と羽根 草とみどりの世界
それらすべてのものの成長の源なのです と
星のような眼をした いちごのような胸をしたつぐみは
重なるように産みつけた一群の
青じそ色をした殻の薄い卵を抱いて
その中の生命を養い 暖める
そして鳥も花も 芝地や莢や殻の中で
だんだんと大きくなって行く
すべてのものがよみがえり すべてのものがそれぞれに育って行く
マリア様はすばらしい世界を
自然の母なる姿をご覧になって
心から共鳴されるのだ
万物は各の種をよろこびをもって
讃えている そのことは御母が
胎内にお宿しになった主を
讃えられたことを思い起こさせてくれる
いや しかしこれ以上のことがあったのだ
世界に行きわたる春のよろこびは
マリア様に五月という月を捧げることと
深い深い関係があるのだ
血の滴と泡の白さがまだらに入り混じったような花が
りんごの果樹園に灯をともし
茂みと野原が きらきらと光る
さくらんぼと陽気にたわむれ合って
あたり一面を青く染めたつるがね草が
湖のように 森の斜面と茂みを うるおすように波立たせ
妖しいまでに美しいかっこうの啼き声が
すべてをしのぎ 越え 圧する時―
この恍惚感は母なる大地に行きわたって
キリストの御生誕までのよろこびと
彼女の救いである 神への歓喜とを
マリア様がいつまでも心に留めておくようにするのだ
(安田・緒方訳・春秋社「ホプキンズ詩集」より)
(ノート)
カトリックでは五月は「聖母月」とも言われるが、その理由をHopkinsらしい発想とすばらしい比喩で述べた詩と言える。書き写していて、翻訳の宗教臭に嫌になるところもあるが、それをこえて、特に5、6連、10、11連の自然のとらえ方のあたたかさや美しさは比類がない。
Gerard Manley Hopkins
MAY is Mary’s month, and I
Muse at that and wonder why:
Her feasts follow reason,
Dated due to season—
Candlemas, Lady Day;
But the Lady Month, May,
Why fasten that upon her,
With a feasting in her honour?
Is it only its being brighter
Than the most are must delight her?
Is it opportunest
And flowers finds soonest?
Ask of her, the mighty mother:
Her reply puts this other
Question: What is Spring?—
Growth in every thing—
Flesh and fleece, fur and feather,
Grass and greenworld all together;
Star-eyed strawberry-breasted
Throstle above her nested
Cluster of bugle blue eggs thin
Forms and warms the life within;
And bird and blossom swell
In sod or sheath or shell.
All things rising, all things sizing
Mary sees, sympathising
With that world of good,
Nature’s motherhood.
Their magnifying of each its kind
With delight calls to mind
How she did in her stored
Magnify the Lord.
Well but there was more than this:
Spring’s universal bliss
Much, had much to say
To offering Mary May.
When drop-of-blood-and-foam-dapple
Bloom lights the orchard-apple
And thicket and thorp are merry
With silver-surfèd cherry
And azuring-over greybell makes
Wood banks and brakes wash wet like lakes
And magic cuckoocall
Caps, clears, and clinches all—
This ecstasy all through mothering earth
Tells Mary her mirth till Christ’s birth
To remember and exultation
In God who was her salvation.
五月はマリア様の月 そして私は
そのことを心に想い どうしてなのだろうといぶかる
彼女の祝日にはちゃんとした理由があるのだ
季節によってその日は決められるのだ―
御清めの祝日があり 御告げも祝日がある
しかし御母の祝日は五月なのだ
何故その月を彼女にあてるのだろう
彼女を祝う宴を開いて?
五月がどの月よりも輝かしいということだけが
彼女を喜ばせるのだろうか
それは一番すばらしい時期なのだろうか
花もすぐに見つかる時なのだろうか?
彼女に あのすばらしい御母に聞いてみるがよい
彼女は答える代わりに次のように問いかけるだろう
春とは何でしょう?― そして答えて
それは万物の成長の源なのです―
肉と羊毛 毛皮と羽根 草とみどりの世界
それらすべてのものの成長の源なのです と
星のような眼をした いちごのような胸をしたつぐみは
重なるように産みつけた一群の
青じそ色をした殻の薄い卵を抱いて
その中の生命を養い 暖める
そして鳥も花も 芝地や莢や殻の中で
だんだんと大きくなって行く
すべてのものがよみがえり すべてのものがそれぞれに育って行く
マリア様はすばらしい世界を
自然の母なる姿をご覧になって
心から共鳴されるのだ
万物は各の種をよろこびをもって
讃えている そのことは御母が
胎内にお宿しになった主を
讃えられたことを思い起こさせてくれる
いや しかしこれ以上のことがあったのだ
世界に行きわたる春のよろこびは
マリア様に五月という月を捧げることと
深い深い関係があるのだ
血の滴と泡の白さがまだらに入り混じったような花が
りんごの果樹園に灯をともし
茂みと野原が きらきらと光る
さくらんぼと陽気にたわむれ合って
あたり一面を青く染めたつるがね草が
湖のように 森の斜面と茂みを うるおすように波立たせ
妖しいまでに美しいかっこうの啼き声が
すべてをしのぎ 越え 圧する時―
この恍惚感は母なる大地に行きわたって
キリストの御生誕までのよろこびと
彼女の救いである 神への歓喜とを
マリア様がいつまでも心に留めておくようにするのだ
(安田・緒方訳・春秋社「ホプキンズ詩集」より)
(ノート)
カトリックでは五月は「聖母月」とも言われるが、その理由をHopkinsらしい発想とすばらしい比喩で述べた詩と言える。書き写していて、翻訳の宗教臭に嫌になるところもあるが、それをこえて、特に5、6連、10、11連の自然のとらえ方のあたたかさや美しさは比類がない。
2010年5月10日月曜日
Pied Beauty
Pied Beauty (Gerard Manley Hopkins )
GLORY be to God for dappled things—
For skies of couple-colour as a brinded cow;
For rose-moles all in stipple upon trout that swim;
Fresh-firecoal chestnut-falls; finches’ wings;
Landscape plotted and pieced—fold, fallow, and plough;
And áll trádes, their gear and tackle and trim.
All things counter, original, spare, strange;
Whatever is fickle, freckled (who knows how?)
With swift, slow; sweet, sour; adazzle, dim;
He fathers-forth whose beauty is past change:
Praise him.
斑なものたちを造りたもうた神に栄光あれ。
ふたつの色の日々刻々の空、ぶちの雌牛を、
泳ぐマスの背のぷつぷつのピンクのアザを、
おこしたばかりの火のうえの焼き栗のしわ、
フィンチ・スズメのつばさを、
区切られ、耕された風景―窪み、畑、畠、
そしてすべての生業とその服装と道具と用具を。
また対になったものをみな、奇抜で、余分で、変わったものを、
移り気で、ソバカスのあるすべてのものを(どんなふうに?知るものか)
早くて、遅くて。甘い、酸っぱい。燦めき、あるいはどんよりした。
美が変わるものすべてにとって彼は父だ。
褒めたたえられよ。 (須賀敦子訳)
「古いハスのタネ」(全集第3巻 河出文庫)という須賀敦子のエッセイを読んでいたら、今、興味をもって読んでいるジェラード・マンリー・ホプキンズのことが少し書かれていた。そのついでに紹介されているのが、この「まだらな美しさ」、須賀はこう訳しているが、その詩の訳である。よくわからないところもあるが、須賀の訳をそのまま引用しておく。
でも言われていることはよくわかる。まだらな美こそが素晴らしいということだ。
GLORY be to God for dappled things—
For skies of couple-colour as a brinded cow;
For rose-moles all in stipple upon trout that swim;
Fresh-firecoal chestnut-falls; finches’ wings;
Landscape plotted and pieced—fold, fallow, and plough;
And áll trádes, their gear and tackle and trim.
All things counter, original, spare, strange;
Whatever is fickle, freckled (who knows how?)
With swift, slow; sweet, sour; adazzle, dim;
He fathers-forth whose beauty is past change:
Praise him.
斑なものたちを造りたもうた神に栄光あれ。
ふたつの色の日々刻々の空、ぶちの雌牛を、
泳ぐマスの背のぷつぷつのピンクのアザを、
おこしたばかりの火のうえの焼き栗のしわ、
フィンチ・スズメのつばさを、
区切られ、耕された風景―窪み、畑、畠、
そしてすべての生業とその服装と道具と用具を。
また対になったものをみな、奇抜で、余分で、変わったものを、
移り気で、ソバカスのあるすべてのものを(どんなふうに?知るものか)
早くて、遅くて。甘い、酸っぱい。燦めき、あるいはどんよりした。
美が変わるものすべてにとって彼は父だ。
褒めたたえられよ。 (須賀敦子訳)
「古いハスのタネ」(全集第3巻 河出文庫)という須賀敦子のエッセイを読んでいたら、今、興味をもって読んでいるジェラード・マンリー・ホプキンズのことが少し書かれていた。そのついでに紹介されているのが、この「まだらな美しさ」、須賀はこう訳しているが、その詩の訳である。よくわからないところもあるが、須賀の訳をそのまま引用しておく。
でも言われていることはよくわかる。まだらな美こそが素晴らしいということだ。
2010年5月7日金曜日
2010年5月3日月曜日
Spring and Fall : To a Young Child
Spring and Fall : To a Young Child Gerard Manley Hopkins (1844-89)
MÁRGARÉT, áre you gríeving
Over Goldengrove unleaving?
Leáves, líke the things of man, you
With your fresh thoughts care for, can you?
Áh! ás the heart grows older
It will come to such sights colder
By and by, nor spare a sigh
Though worlds of wanwood leafmeal lie;
And yet you wíll weep and know why.
Now no matter, child, the name:
Sórrow’s spríngs áre the same.
Nor mouth had, no nor mind, expressed
What heart heard of, ghost guessed:
It ís the blight man was born for,
It is Margaret you mourn for.
春と秋
ある幼子に
マーガレットよ お前は黄金色をした
木立ちがその葉を落とすのを嘆いているの?
木の葉のことを まるで人間の世界の事柄のように
その初々しい心で心配することができるのだろうか?
ああ! 心はだんだん成長するにつれて
そのような光景には感動しなくなる
また森全体が生命をなくし 落ち葉があちこち
散らばるようになっても ため息すら漏らさなくなる
それでいながら お前は泣きじゃくってそのわけを知りたがる
ねえ お前 そのわけなんてどうでもいいんだよ
かなしみの泉は同じなんだ
口も心も 魂が聴いたことを
霊魂が推し量ったことを 言い表わせないんだ
人が生まれて来たのは 立ったまま 枯れてゆくため
だからマーガレット お前が悲しんでいるのは自分自身のことなんだよ
ホプキンスのこの詩まで行きついた経緯は省略する。でも、この詩を発見してやっと何か書けそうな気がしてきた。(この訳はぼくのものではない、広いブログの海のなかで見つけたもの。Culture Jammerというのがその名。)
MÁRGARÉT, áre you gríeving
Over Goldengrove unleaving?
Leáves, líke the things of man, you
With your fresh thoughts care for, can you?
Áh! ás the heart grows older
It will come to such sights colder
By and by, nor spare a sigh
Though worlds of wanwood leafmeal lie;
And yet you wíll weep and know why.
Now no matter, child, the name:
Sórrow’s spríngs áre the same.
Nor mouth had, no nor mind, expressed
What heart heard of, ghost guessed:
It ís the blight man was born for,
It is Margaret you mourn for.
春と秋
ある幼子に
マーガレットよ お前は黄金色をした
木立ちがその葉を落とすのを嘆いているの?
木の葉のことを まるで人間の世界の事柄のように
その初々しい心で心配することができるのだろうか?
ああ! 心はだんだん成長するにつれて
そのような光景には感動しなくなる
また森全体が生命をなくし 落ち葉があちこち
散らばるようになっても ため息すら漏らさなくなる
それでいながら お前は泣きじゃくってそのわけを知りたがる
ねえ お前 そのわけなんてどうでもいいんだよ
かなしみの泉は同じなんだ
口も心も 魂が聴いたことを
霊魂が推し量ったことを 言い表わせないんだ
人が生まれて来たのは 立ったまま 枯れてゆくため
だからマーガレット お前が悲しんでいるのは自分自身のことなんだよ
ホプキンスのこの詩まで行きついた経緯は省略する。でも、この詩を発見してやっと何か書けそうな気がしてきた。(この訳はぼくのものではない、広いブログの海のなかで見つけたもの。Culture Jammerというのがその名。)
2010年5月2日日曜日
午前0時の公共性
皆様
連休はいかがお過ごしですか?小生は白紙の原稿を抱えて、このよき天候に引き籠もり状態です。以前よりネット上の「ツイッター」なるものをのぞいて憂さをはらしていますが、高橋源一郎がとても面白いことをやらかしました。下は高橋のツイッターを自分のために読みやすくコピペしたものです。5月2日の午前0時から高橋はつぶやきはじめ、また2週間ほど、この試みをやるそうです。そこには、「公共性」の小説におけるとらえ方が展開されようとしています。暇つぶしに、お目を通しても損はないと思います。
水島英己
高橋源一郎(takagengen )による「午前0時の公共性」
予告編① あと少し、24時頃から「メイキングオブ『「悪」と戦う』」という連続ツイートを始めます。毎日、同じ時間に少しずつ、二週間ほど続ける予定です。中身は、ぼくの新作に関するあらゆること。具体的には始めてみないとわかりません。なにしろ、ふだん寝てる時間帯だから、起きられるか……。
予告編② ツイッターを始めて4カ月、なんとなくわかったことがあります。それは、ツイッターの「公共性」が、小説の「公共性」とよく似ていることです。いや、「小説」の「なにをやってもかまわない」という性質が、ツイッターのそれとよく似ているといっていいかもしれませんね。
予告編③ ツイッターという「歩行者天国」で、ギターを抱え、通りすがりの人に歌うおじさん(「なに、あの人? お客いないじゃん」)をやってみます。一つ決めているのは、ツイートすることは、ふだんぼくが原稿として書いているものと同等以上のクオリティーにすること。そしてそれを無料で配る。
予告編④ 昨日(今日?)、ツイッター上で、岡田斗司夫さんと町山智浩さんの間でちょっとした「論争」がありました。岡田さんが「社長の岡田さんに月1万円ずつ払う社員でできている会社」を作ろうとしたことに、町山さんが「違法ではないか」と言ったのです。確かに町山さんの言う通り、違法です。
予告編⑤岡田さんはなぜそんな変なことを思いついたのか、岡田さんは、社員から1万円ずつ集めた会社(そこでは岡田さんが社員にスキルを教えます)からの金で生活し、その代わり、どこかへ原稿を書く場合はすべて無料で書こうと考えたのです。ひとことでいうなら、「商品経済からの離脱」です。
予告編⑥ どんな表現も「商品経済」から逃れられないとするなら、岡田さんの「会社」は単なる夢想にすぎないのでしょうか。「商品経済」はきわめてよくできたシステムです。しかし、ぼくは、「商品経済」の「外」に、可能性を見いだそうとする岡田さんの強い願望がわかるような気がしたのです。
予告編⑦ 岡田さんの「会社」もまた、新しい「共同体」への希求の現れでしょう。そして、そういう人を見ると、人は「なんておかしなことを考えてるんだ、狂ってる」と言ったりするのです。でも、狂ってなきゃできないこと、狂ってなきゃ見えないこともあるんですけどね
予告編⑧ 最初のツイート以外にはなにも決めていません。ふだん原稿を書く時と一緒です。キース・ジャレットみたいに即興です。途中で立ち往生するかもしれないし、子どもたちが寝ぼけて書斎に侵入してくるかもしれない。その時はごめんなさい。それでは、「午前0時の公共性」をお待ちください。
メイキングオブ『「悪」と戦う』① この間、ゼミで村上春樹さんの『1Q84 』BOOKⅢを読んで、みんなの感想を訊いた。みんなはそれぞれ、テーマやメッセージや隠された謎やその解釈についていろいろしゃべってくれた。なかなかのものだった。その時、T君が、突然こんなことを言い出したのだ。
メイキング② 「テーマもメッセージもなにもないと思うんです。空っぽなんだと思うんです」。「じゃあ」とぼくは言った。「そこにはなにがあるの?」。すると、T君は、「村上さんは、小説を書いているんだと思う。というか、小説を書きたいんだと思う。ただそれだけ。他にはなんにもなし」
メイキング③ 「いちばん大切なのは、小説を書くこと、他はどうでもいい!」。T君の発言は、みんなを困らせた。なにがなんだかわからない。でも、ぼくはものすごくおもしろいと思ったんだ。村上さんのその本が、そうであるかは置いておくとして、T君は、ふつうの人が思いつかないことに気づいた。
メイキング④ ふつう、小説で大切なことというと、作者が言いたいことや、物語や、テーマや、文体やら、ということになる。でも、T君によれば、小説は、なにも積んでいなくても、ただそれだけで価値がある、積載物ではなく、それを積んでいる本体(車体?)の方に意味がある、のだ
メイキング⑤ なんだか抽象的な話になっちゃいそうだなあ。いかんいかん。具体的な話をしてみよう。「小説しかない」という小説の、最近のもっともいい例は東浩紀さんと桜坂洋さんの『キャラクターズ』だと思う(もちろん、「小説しかない」わけじゃなく、それ以外のものもたくさん詰まっているが)。
メイキング⑥ ぼくは『キャラクターズ』の評価が低いことに、というか、際物扱いされることにほんとにガックリしていた。東さんの『クォンタム・ファミリーズ』は「文学作品としては」『キャラクターズ』よりずっと上かもしれないが、「小説の強度」としては、『キャラクターズ』の方が上だ。
メイキング⑦ 『キャラクターズ』をの読者は(というか、批評する側は)、例外なく困惑する。作者がふたりいること、にだ。ぼくたちは、作者というものは一人であり、その一人しかいない作者のメッセージを解読することが「読む」ことだと「思わせられている」。
メイキング⑧ もしふたりの作者が、作品内で勝手に、それぞれの道を行ってしまったら、読者はどう解読していいのか、自信をもって言うことができなくなってしまうだろう。でも、それでいいのだ。わからなくっても。というか、わからなくするために、作者は、小説という手段を用いているのだ
メイキング⑨ 小説というものは、ほんとうは「『私』は、『私』以外の他人、『私』以外の『私』を実は理解できない」ということを証明するために書かれているからだ(とぼくは思っている)。だから、誰が書こうとほんとうは小説なんか意味がわからないのだ(他人の考えていることがわかりますか?)。
メイキング⑩ なのに、ふだんぼくたちは、わかったような気がしてしまう。他人が考えていることがわかるような気がしてしまう(そんな気にさせてしまう点こそ、多くの小説の重大な「罪」)。そんなぼくたちの目の前に、ふたりの作者が書いた一つの作品が現れる。ただそれだけでぼくたちは不安になる。
メイキング⑪ ふたりの異なった意見を持つ他人が目の前にいる。面白いのは、そのふたりがお互いに理解し合ってはいないように見えることだ。だから、ぼくたちは不安になる。彼らの間にコミュニケーションがないように、ぼくと彼らの間にも理解し合えるものはなにもないのではないか。
メイキング⑫ 以前、ある雑誌で阿部和重さんと中原昌也さんが「共作」するという話が出た。実現はしなかったけれど(たぶん)、その話を聞いた時、ぼくは「さすが」と思った(「馬鹿なことやってる」という反応が大半だった)。小説がほんとうはなに(でありうる)のか彼らにはわかっていたのである。
メイキング⑬ 小説はひとつの「公共空間」だ。公共空間とは「複数の、異なった、取り替え不可能な『個』がいる空間」だ。なぜ、そんなものを書こうとするのか、それはぼくたちが日々「公共空間」を生きているからだ。もしくは、いま生きている世界に「公共性」を取り戻したいと考えているからなのだ。
しんちゃんが泣きだしたので(たぶん歯痛のせい)、本日はここまで。質問等々あれば、リプライください。できるだけ返事します。とりあえず、子どもの様子を見てきます。んじゃ
メイキング・番外 しんちゃんに痛み止めを飲ませました。連休中やってる歯医者さんを探さなくちゃいけないかも。メイキングの続きは、また明日の24時(の予定)。みなさん、ご静聴ありがとうございます。これから、少しリプライします。
それも大きな理由だと思います。 RT @hirokilovinson 『キャラクターズ』が際物扱いされた理由には「哲学者・批評家である東浩紀に言語芸術である小説は書けない(書けたら最初から作家になっているはず)」という穿った先入観があったためではないでしょうか。 (
自覚しないで書けるのが理想ですね。 RT @sgkt1124 「私は、私以外の他人、私以外の私を実は理解できないを証明するために書いている」というのは、意識的にそう書いているということでしょうか(中略) 自分でも文字になるまで何を書いているかわからないということでしょうか
そこでは「個」にかなりの「強度」が必要とされると思います。ふつうの小説以上に、です。 RT @arayatakuto キャラクターズは二人で書いた分、個の複数性が際立つ。さらに言えばwiki小説などが公共空間という側面が強く、より小説らしくなりますか?
それでいいのだと思います。 RT @dzna @takagengen 私は、「私」のことを出来るだけ遠くから離れて見るために小説を書こうと思っていました。そうすれば理解できるかもしれないと。そんなことしなくても、人は自分を理解しているのでしょうか
偶有性と同時に成り立つ公共性が必要とされてます。 RT @shanti_aghyl しかし私は小説こそ、そのかけがえのない特定の個という偶有性を公共に対してまずは打ち立てる必要があると思います。ともすると閉じてしまう、特定の交換不可能な関係を帯びた「語り」が、いかに公共空間
そうです。一回分だけ読んだことを思い出しました。中身は覚えてませんがw RT @jeankenpom @takagengen 阿部和重さんと中原昌也さんの「共作」とは、赤ん坊が松明代わりに(『文藝』、第1回・2004年夏号、第2回・2005年春号)では? 私は未読ですが。
小説は、「ありうべき共同性」の、限界(とその先)まで描くことができると思います。 RT @aniooo 自己をも含む他者との理解不可能性が表現された小説を通じて構築し得る公共空間は、小説以外のコミュニケーションで構築される公共空間と、どのような特異性をもつのでしょうか。
同感です。韻文は共感を迫ります。散文は共感ではなく覚醒を迫るものです。 RT @it663 @takagengen 小説の、「あいだ」のメディア、幽霊的な(?)メディア性を考えた時、それが散文の(prosaicな、味気ない)表現であることが、逆に強みになるのではないですか?
はい。でも、「私の立場」って、考えてみると実はよくわからないんですけどね。 RT @aikank 私は相手のことを本当に考えてあげられているか?と考えるとき、私が彼だった可能性、彼が私だった可能性、私の立場が彼の立場だった可能性をどうしても考察の中に入れてしまいます。
ところで、この時間帯はふだんなら熟睡している時間帯です。さすがに頭が回らなくなってきました。すいません、ちょっと寝ます。それでは、お休みなさい。
(以上は今朝(5時半)現在までのツイッターの記録です。水島)
(この続きはどうなるか興味はありますか?)(興味のある方は、ご自分で追いかけてみて下さい)
連休はいかがお過ごしですか?小生は白紙の原稿を抱えて、このよき天候に引き籠もり状態です。以前よりネット上の「ツイッター」なるものをのぞいて憂さをはらしていますが、高橋源一郎がとても面白いことをやらかしました。下は高橋のツイッターを自分のために読みやすくコピペしたものです。5月2日の午前0時から高橋はつぶやきはじめ、また2週間ほど、この試みをやるそうです。そこには、「公共性」の小説におけるとらえ方が展開されようとしています。暇つぶしに、お目を通しても損はないと思います。
水島英己
高橋源一郎(takagengen )による「午前0時の公共性」
予告編① あと少し、24時頃から「メイキングオブ『「悪」と戦う』」という連続ツイートを始めます。毎日、同じ時間に少しずつ、二週間ほど続ける予定です。中身は、ぼくの新作に関するあらゆること。具体的には始めてみないとわかりません。なにしろ、ふだん寝てる時間帯だから、起きられるか……。
予告編② ツイッターを始めて4カ月、なんとなくわかったことがあります。それは、ツイッターの「公共性」が、小説の「公共性」とよく似ていることです。いや、「小説」の「なにをやってもかまわない」という性質が、ツイッターのそれとよく似ているといっていいかもしれませんね。
予告編③ ツイッターという「歩行者天国」で、ギターを抱え、通りすがりの人に歌うおじさん(「なに、あの人? お客いないじゃん」)をやってみます。一つ決めているのは、ツイートすることは、ふだんぼくが原稿として書いているものと同等以上のクオリティーにすること。そしてそれを無料で配る。
予告編④ 昨日(今日?)、ツイッター上で、岡田斗司夫さんと町山智浩さんの間でちょっとした「論争」がありました。岡田さんが「社長の岡田さんに月1万円ずつ払う社員でできている会社」を作ろうとしたことに、町山さんが「違法ではないか」と言ったのです。確かに町山さんの言う通り、違法です。
予告編⑤岡田さんはなぜそんな変なことを思いついたのか、岡田さんは、社員から1万円ずつ集めた会社(そこでは岡田さんが社員にスキルを教えます)からの金で生活し、その代わり、どこかへ原稿を書く場合はすべて無料で書こうと考えたのです。ひとことでいうなら、「商品経済からの離脱」です。
予告編⑥ どんな表現も「商品経済」から逃れられないとするなら、岡田さんの「会社」は単なる夢想にすぎないのでしょうか。「商品経済」はきわめてよくできたシステムです。しかし、ぼくは、「商品経済」の「外」に、可能性を見いだそうとする岡田さんの強い願望がわかるような気がしたのです。
予告編⑦ 岡田さんの「会社」もまた、新しい「共同体」への希求の現れでしょう。そして、そういう人を見ると、人は「なんておかしなことを考えてるんだ、狂ってる」と言ったりするのです。でも、狂ってなきゃできないこと、狂ってなきゃ見えないこともあるんですけどね
予告編⑧ 最初のツイート以外にはなにも決めていません。ふだん原稿を書く時と一緒です。キース・ジャレットみたいに即興です。途中で立ち往生するかもしれないし、子どもたちが寝ぼけて書斎に侵入してくるかもしれない。その時はごめんなさい。それでは、「午前0時の公共性」をお待ちください。
メイキングオブ『「悪」と戦う』① この間、ゼミで村上春樹さんの『1Q84 』BOOKⅢを読んで、みんなの感想を訊いた。みんなはそれぞれ、テーマやメッセージや隠された謎やその解釈についていろいろしゃべってくれた。なかなかのものだった。その時、T君が、突然こんなことを言い出したのだ。
メイキング② 「テーマもメッセージもなにもないと思うんです。空っぽなんだと思うんです」。「じゃあ」とぼくは言った。「そこにはなにがあるの?」。すると、T君は、「村上さんは、小説を書いているんだと思う。というか、小説を書きたいんだと思う。ただそれだけ。他にはなんにもなし」
メイキング③ 「いちばん大切なのは、小説を書くこと、他はどうでもいい!」。T君の発言は、みんなを困らせた。なにがなんだかわからない。でも、ぼくはものすごくおもしろいと思ったんだ。村上さんのその本が、そうであるかは置いておくとして、T君は、ふつうの人が思いつかないことに気づいた。
メイキング④ ふつう、小説で大切なことというと、作者が言いたいことや、物語や、テーマや、文体やら、ということになる。でも、T君によれば、小説は、なにも積んでいなくても、ただそれだけで価値がある、積載物ではなく、それを積んでいる本体(車体?)の方に意味がある、のだ
メイキング⑤ なんだか抽象的な話になっちゃいそうだなあ。いかんいかん。具体的な話をしてみよう。「小説しかない」という小説の、最近のもっともいい例は東浩紀さんと桜坂洋さんの『キャラクターズ』だと思う(もちろん、「小説しかない」わけじゃなく、それ以外のものもたくさん詰まっているが)。
メイキング⑥ ぼくは『キャラクターズ』の評価が低いことに、というか、際物扱いされることにほんとにガックリしていた。東さんの『クォンタム・ファミリーズ』は「文学作品としては」『キャラクターズ』よりずっと上かもしれないが、「小説の強度」としては、『キャラクターズ』の方が上だ。
メイキング⑦ 『キャラクターズ』をの読者は(というか、批評する側は)、例外なく困惑する。作者がふたりいること、にだ。ぼくたちは、作者というものは一人であり、その一人しかいない作者のメッセージを解読することが「読む」ことだと「思わせられている」。
メイキング⑧ もしふたりの作者が、作品内で勝手に、それぞれの道を行ってしまったら、読者はどう解読していいのか、自信をもって言うことができなくなってしまうだろう。でも、それでいいのだ。わからなくっても。というか、わからなくするために、作者は、小説という手段を用いているのだ
メイキング⑨ 小説というものは、ほんとうは「『私』は、『私』以外の他人、『私』以外の『私』を実は理解できない」ということを証明するために書かれているからだ(とぼくは思っている)。だから、誰が書こうとほんとうは小説なんか意味がわからないのだ(他人の考えていることがわかりますか?)。
メイキング⑩ なのに、ふだんぼくたちは、わかったような気がしてしまう。他人が考えていることがわかるような気がしてしまう(そんな気にさせてしまう点こそ、多くの小説の重大な「罪」)。そんなぼくたちの目の前に、ふたりの作者が書いた一つの作品が現れる。ただそれだけでぼくたちは不安になる。
メイキング⑪ ふたりの異なった意見を持つ他人が目の前にいる。面白いのは、そのふたりがお互いに理解し合ってはいないように見えることだ。だから、ぼくたちは不安になる。彼らの間にコミュニケーションがないように、ぼくと彼らの間にも理解し合えるものはなにもないのではないか。
メイキング⑫ 以前、ある雑誌で阿部和重さんと中原昌也さんが「共作」するという話が出た。実現はしなかったけれど(たぶん)、その話を聞いた時、ぼくは「さすが」と思った(「馬鹿なことやってる」という反応が大半だった)。小説がほんとうはなに(でありうる)のか彼らにはわかっていたのである。
メイキング⑬ 小説はひとつの「公共空間」だ。公共空間とは「複数の、異なった、取り替え不可能な『個』がいる空間」だ。なぜ、そんなものを書こうとするのか、それはぼくたちが日々「公共空間」を生きているからだ。もしくは、いま生きている世界に「公共性」を取り戻したいと考えているからなのだ。
しんちゃんが泣きだしたので(たぶん歯痛のせい)、本日はここまで。質問等々あれば、リプライください。できるだけ返事します。とりあえず、子どもの様子を見てきます。んじゃ
メイキング・番外 しんちゃんに痛み止めを飲ませました。連休中やってる歯医者さんを探さなくちゃいけないかも。メイキングの続きは、また明日の24時(の予定)。みなさん、ご静聴ありがとうございます。これから、少しリプライします。
それも大きな理由だと思います。 RT @hirokilovinson 『キャラクターズ』が際物扱いされた理由には「哲学者・批評家である東浩紀に言語芸術である小説は書けない(書けたら最初から作家になっているはず)」という穿った先入観があったためではないでしょうか。 (
自覚しないで書けるのが理想ですね。 RT @sgkt1124 「私は、私以外の他人、私以外の私を実は理解できないを証明するために書いている」というのは、意識的にそう書いているということでしょうか(中略) 自分でも文字になるまで何を書いているかわからないということでしょうか
そこでは「個」にかなりの「強度」が必要とされると思います。ふつうの小説以上に、です。 RT @arayatakuto キャラクターズは二人で書いた分、個の複数性が際立つ。さらに言えばwiki小説などが公共空間という側面が強く、より小説らしくなりますか?
それでいいのだと思います。 RT @dzna @takagengen 私は、「私」のことを出来るだけ遠くから離れて見るために小説を書こうと思っていました。そうすれば理解できるかもしれないと。そんなことしなくても、人は自分を理解しているのでしょうか
偶有性と同時に成り立つ公共性が必要とされてます。 RT @shanti_aghyl しかし私は小説こそ、そのかけがえのない特定の個という偶有性を公共に対してまずは打ち立てる必要があると思います。ともすると閉じてしまう、特定の交換不可能な関係を帯びた「語り」が、いかに公共空間
そうです。一回分だけ読んだことを思い出しました。中身は覚えてませんがw RT @jeankenpom @takagengen 阿部和重さんと中原昌也さんの「共作」とは、赤ん坊が松明代わりに(『文藝』、第1回・2004年夏号、第2回・2005年春号)では? 私は未読ですが。
小説は、「ありうべき共同性」の、限界(とその先)まで描くことができると思います。 RT @aniooo 自己をも含む他者との理解不可能性が表現された小説を通じて構築し得る公共空間は、小説以外のコミュニケーションで構築される公共空間と、どのような特異性をもつのでしょうか。
同感です。韻文は共感を迫ります。散文は共感ではなく覚醒を迫るものです。 RT @it663 @takagengen 小説の、「あいだ」のメディア、幽霊的な(?)メディア性を考えた時、それが散文の(prosaicな、味気ない)表現であることが、逆に強みになるのではないですか?
はい。でも、「私の立場」って、考えてみると実はよくわからないんですけどね。 RT @aikank 私は相手のことを本当に考えてあげられているか?と考えるとき、私が彼だった可能性、彼が私だった可能性、私の立場が彼の立場だった可能性をどうしても考察の中に入れてしまいます。
ところで、この時間帯はふだんなら熟睡している時間帯です。さすがに頭が回らなくなってきました。すいません、ちょっと寝ます。それでは、お休みなさい。
(以上は今朝(5時半)現在までのツイッターの記録です。水島)
(この続きはどうなるか興味はありますか?)(興味のある方は、ご自分で追いかけてみて下さい)
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