短編小説の書き方について、レイモンド・カーヴァーは、フラナリー・オコナーが書いているのを読んで、ほっとしたということを述べている。つまり、結末がどうなるかなどということは、その最後の数行までわからないと彼女が語ったことについて共感しているのである。オコナーは自らの短編「良き田舎の人々」という作品を例にあげて、そのことを述べている。
―その短編を私が書き始めたとき、義足をつけた博士号取得者がそこに出てくるなんて、自分でも知りませんでした。ある朝に、いささかの心覚えのある二人の女性の描写をしているうちに、自分でもよく気がつかないまま、私は彼女たちの一人に義足をつけた娘を配したのです。私は聖書のセールスマンも出してきました。でも、その男をどう使えばいいのか、私は何もわかっていませんでした。彼がその義足を盗むことになるなんて、その十行か十二行前になるまで私にもわからなかったのです。でもそれがわかったとき、私はこう思いました。これこそ起こるべくして起こったことだったんだと。それが避けがたいことであったことを私は認めたのです。(カーヴァー「書くことについて」のなかの、オコナーからの引用。訳は村上春樹)―
先日、ここで言及されている短編を日本語訳(横山貞子訳)で読んで、私はショックと深い感銘を受けた。そのことについて書いてみたいのだが、うまくいくかどうか。
この義足の娘は離婚した農場主の母親と二人で住んでいる32歳の娘であるが、あらゆる学位を大学で取得した一筋縄ではいかない皮肉屋のオールドミスという設定である。彼女は十歳のころに狩猟のときの銃の事故で片足が義足である。母親は凡庸で人のいい、雇い人にもばかにされるぐらいの人。そこにある日、若いハンサムな聖書のセールスマンが登場する。
この娘は計算づくで、そのセールスマンと納屋でセックスに及ぼうとする。
ハルガ(本当はジョイという名前なのだが、彼女は自ら一番きたない発音の名前に変えてしまった、という説明がある)は、男を冷静に観察しながらキスをかわす。男は「おれを愛してるって、全然言ってくれないね。」と彼女に言う。言ってくれと、せがむ。
―相手はくりかえす。「言わなきゃだめだよ。愛してるって言うんだ。」ハルガはいつも、確約するには慎重だ。「ある意味ではね、」と口をきった。「愛という言葉を漠然と使う場合は、そう言ってもかまわない。でも、それは私の使う言葉ではない。私は幻想をもたない。私はその向こうに無を見とおす人間なの。」青年は眉をしかめた。「言わなきゃだめだよ。おれは言ったんだから、そっちも言えよ。」
ハルガは相手をいくらかやさしさのある目で見た。「かわいそうな赤ちゃん。あんたにはね、わからないことなの。」相手の首に手をかけて顔を自分のほうに引き寄せた。「私たちはみんな地獄にいるの。だけど、そのうち何人かは目かくしをはずして、何も見るべきものはないと見きわめたの。それもある種の救いでしょう。」―
ハルガは結局「愛している」と軽く、余裕をもった調子で言うのだが、ここからがオコナーの短編の逆転につぐ逆転、それこそまさに彼女の言う「避けがたいこと、I realized it was inevitable.」がわずか邦訳2、3ページのうちに、その避け難さを読者であるわれわれも深く納得するしかないような形で展開されるのである。ハルガが「愛している」と言うと、青年は驚くべきことを返す。
―「そうか、そんなら」と、腕をゆるめて相手は言う。「証拠を見せてくれよ。」ハルガはぼんやりした風景を夢見るように眺めてほほえんだ。やってみる決心さえしないうちに、彼を誘惑してしまった。「どうやって?」すこしじらしてやろうと思ってそうきいた。相手はかがみこんで、耳にくちびるをつけてささやいた。「義足が脚につながっているところを見せてくれよ。」―
結局はハルガは自分の一番隠したいところを攻められる、しかし彼女はそれが「自分についての真実」にふれた発言であることを認めざるをえない。「なんで、そんなものが見たい」と反問したとき、青年は「あんたが人とちがうのはそこのところだからさ。あんたはそこらへんの人とは別なんだ」と応えたからだ。ハルガは「ほんものの無垢な存在に、生まれてはじめて面とむきあうのだ」とまで思い、「自分の生命をいったん失い、それを青年の生命の中にふたたび見出す。奇跡のようだ」と感激する。ハルガはそこを見せる。青年は「はずして、またつけてみせてくれないか」という。青年は今度は自分の手ではずし、「まるでほんものの足のようにやさしくいじくった」。そして青年はその本性をここで見せる。彼は実は聖書のセールスマンを騙った泥棒なのだ。その義足を盗んで彼は逃亡する。ハルガは彼に向って、「あんたって、あんたって、ただの田舎の善人じゃないわけ?」と情けを乞うように言うのだが。
―「脚を返してよ!」ハルガは甲高く叫んで義足のほうへ体を乗りだしたが、男はあっさり押し戻した。「急にどうしたんだよ?」…「ついさっき、なんにも信じてないって言ったじゃないか。なかなかの女だと思ったんだぜ。」ハルガの顔は紫色になった。「あんたはクリスチャンでしょ!りっぱなクリスチャンね。ほかの連中とおなじことよ。言うこととすることがちがうのよ。完璧なクリスチャンよ。あんたはね…」青年は怒って歯をかみしめた。堂々と、腹立ちをこめて言った。「考え違いをしないでもらいたい。おれはああいうことを信じてはいない。聖書は売っていても、ものの道理はわかっている。昨日生まれたばかりじゃないし、自分が何をめざすかもわかっている!」―
この痛烈な逆転。「聖書は売っていても、ものの道理はわかっている」という部分、原文を参照したいが、カトリック作家であるオコナーの凄さ、いや、カトリックということなど抜きにして、彼女の短編作家としてのブラックユーモアが光るところである。
(閑話休題、ここまで長かったが、ここからも?)
今日、某所で、某大学教授、私より若い男の講演を聞くはめになった。その内容は非の打ち所のない立派なもので、テーマは「教育」である。日本の文化の破壊が、昨今の子どもたちの破壊であるという結論にいたるのだが、そのなかであらゆる引用、世俗の道徳訓やら、私も感銘した渡辺京二の「逝きし世の面影」などからの引用に満ちた、そう非の打ち所のない立派なものだった。女は女らしく、とか、…ここで詳細をのべることは控えておく。私の言いたいのは、その講演の最中に、実はフラナリー・オコナーのこの短編を思い出したということである。それにつきる。
「道徳のセールスマン」という語が唐突に私の脳裏に浮かんでしまった。2時間にわたる、この男の長くて有益な講演に耐えるには、その言葉しかなかったのである。しかし、今読み返してみて、この講演者は、あの聖書のセールスマンの「聖書は売っていても、ものの道理は分かっている」という自己破壊的な明察に匹敵するなにかがあったのだろうか?
文部科学省とか臨教審とか、再生会議とか、指導要領とか、そのような「聖書」の権威なしに、なにかを彼は語ろうとしたのだろうか?だれからも批難できない「真理」などあるはずがない。しかし、それを信じるものについて、私はとやかく言う気は全くない。とくに「教育」はいくらでも「自由」に語れるし、「自由」であることから始まるものだというのが、私の信であるからには。
2 件のコメント:
フラナリー・オコナーの言うとおりだったら、なんだか、わたしにも小説が書けるような気がする。それならば、言葉の芸術だという気がして、そう思うのです。
短編集(上)を読み終わりましたが、すごいです。ぼくも何か書けそうな気持になっています。それで、上の(The Man Outside)という詩を書いてみました。もっと推敲が必要ですが。
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