2010年2月27日土曜日

庭気色を増せば晴沙緑なり  林容輝を変ずれば宿雪紅なり

藤井貞和さんの「思惟とテクスト」(詩学のために2『詩論へ2』所収)を読む。『詩論へ1』所収の「文献学、時間、そして想起」の続きで章の番号から言えば17から41(プラス「まとめとして」)まで。圧倒的なボリュームだが、なんとか振り放されず論旨についてゆくことができた。平安漢文学の問題と近世朱子学の問題、それらから「詩」の内在的な成立をたどるというもの。ひたすら勉強をし、勉強になった、という読後感。読み終わってウイスキーの水割りを飲んだよ。

表題の詩は、藤井さんの論で引用されていた紀長谷雄の詩の一節で『和漢朗詠集』に見られる。

2010年2月26日金曜日

無益の事

 石原都知事は歯に衣を着せぬ発言で知られるが、それも度を超せばただ非常識で大人げない。バンクーバー五輪の若い日本選手を「チンピラ」と呼んだり、「銅(メダル)を取って狂喜する、こんな馬鹿な国はないよ」などと放言する。また「国家という重いものを背負わない人間が速く走れるわけがない、高く跳べるわけない。いい成績を出せるわけがない」などと、五輪のあり方や選手の意識に無知な時代錯誤的な発言に終始する。選手たちに敬意をはらい、ねぎらう気持ちなどは皆無である。16年の東京五輪の招致失敗の自らの責任には一顧もしない人の発言である。こういう人が東京五輪の招致運動の旗を振ったところでだれもついていかないのは当然のことだ。

2010年2月25日木曜日

梅を見に

昭和記念公園に行ってきた。春一番が吹いていたけど、コートを脱ぐ暖かさだった。

我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも        大伴旅人

 
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2010年2月24日水曜日

とざされた心のなかにも

箱一杯の定期便。今晩から、またお籠もりです。暗い淵にもぐっていくようなものですが、なにか明珠の光があればと思う。

S・ゲオルゲ詩集(岩波文庫・手塚富雄訳)から、

野をおおう白い屍衣を
日光がためらいもなく剥がし取るとき、
水は畝をひたし
土をくずしてきらめき

いつしか流れ集まって河流へいそぐ。
そのときわたしは砕け散った
小心なよろこびの思い出のため、
そしてきみのために葬りの薪を積みあげる。

焔から身を避けて
わたしは小舟にのって櫂をとる、
向うの岸べにはひとりの兄弟が
よろこばしげに旗をふって招いている。

風は氷雪を融かすぬくみをはこんで
冬に堪え抜いたつちくれを吹きすぎる、
とざされた心のなかにも
小径にも 新しい花が咲かねばならぬのだ。

                     『魂の一年』―雪のなかの巡礼―より

2010年2月23日火曜日

御子良子

子良館(こらのたち)の後ろに梅ありといへば

御子良子(おこらこ)の一もとゆかし梅の花    芭蕉

御子良子という言葉が珍しくて。これは伊勢神宮の「神餞を奉進する役の少女の称である。神主の女の未だ月の穢れなきものをこれにあてる」と沼波瓊音はその「芭蕉句撰講話」で註している。

「おこらこ」とつぶやいてみる。この言葉の組成や、民俗学的な風習の詮索以前に、まず響きに惹かれるのである。

2010年2月21日日曜日

欅によせて

19日
「江戸勢」で昔の同僚たちと飲む。千葉からもなつかしい人が来てくれていた。一緒だったころの最悪の校長をあらためて罵倒し、あいもかわらぬ都教委の反動的、管理的な現場無視のやり方を非難するが、気づいてみると、今現場に残っている者の数のほうが集まった者たちのなかでわずかなのだった。

20日
国立、「福間塾」詩の会。終わった後、「さかえ屋」で10名以上残って飲む。福間氏の詳しいオリンピック評論を堪能する。三月の例会はここでやることになった。三月は、ぼくは用事があって欠席する、残念。
この日の課題は「たましい」であった、それをもとに久々に書いた自分の詩。


欅によせて
                      

冬の雨
湯殿川の河原をたどる
やおら西日が後光のように差しこむ
雲の裂け目
葉の落ちた大木の欅にそっと
身を寄せつつ傘をたたむと
少年の日のやさしいあらがいの匂いがした

「今日わたしの魂は樹となっています、
昨日は魂が泉だと感じていました。」
枝は触れ、根は伸びゆく
かつての充溢の日々よ!
雲が結ぶ滴を染め
欅の
大河に流れ込む
夕陽の樹液のせせらぎ!

寒さがつづきます
わたしは湯殿川の夕方を歩きます
固い幹をむき出しにした欅
でもはるかな梢をごらんなさい
やや紫色を帯びて
緑の葉の開く時がそこまで来ている、と
あなたは言いたいのです

薄ら氷の汀
しのびやかにつきまとう歌や句に誘われて
川ぞいに遊歩するあなたの足どりは軽かった?
いつまで遠方にみえるあなたの姿に
あこがれていなければならないのか?
消えゆく抒情詩のざわめき
ナルシスの泉

明るいソネットのように陽が差しこむ
歓びに身をふるわせる葦の芽
それでも、わたしはわたしに問わなければならない
小さな魂の変容の果てに
だれが訪れて
わたしに春の開始を告げるのだろうか、と

(註)「」の言葉はポール・ヴァレリー「樹についての対話」のなかのティティルスの台詞より。

2010年2月15日月曜日

埃が

物音一つしないただ老人たちの息づかいとページをめくる音だけするとそのとき突然あの埃だった部屋中が突然埃でいっぱいになっておまえが目をあけると床から天井まで埃のほかはなにも見えなかったそして物音ひとつせずただ聞こえたのは埃が言ったのはなんだったけ来たれり去れりだったかなそんな言葉だった来たれり去れり来たれり去れり誰もいないあっというまに来たれり去れりあっというまに
(十秒間の沈黙。息づかいが聞こえる。三秒たつと目が開く。五秒たつと微笑する、できれば歯のない口がよい。五秒そのまま。次第に暗くなる。幕)

not a sound only the old breath and the leaves turning and then suddenly this dust whole place full of dust when you opened your eyes from floor to ceiling nothing only dust and not a sound only what was it it said come and gone come and gone in no time gone in no time
[Silence 10 seconds. Breath audible. After 3 seconds eyes open. After 5 seconds smile, toothless for preference. Hold 5 seconds till fade out and curtain.] The End


Samuel Beckett “That Time”
Written in English between June 1974 and August 1975. First published by Grove Press, New York, in 1976. First performed at the Royal Court Theatre, London, on 20 May 1976
その最後、Cの台詞とト書き。

2010年2月11日木曜日

白鳥は

若くして亡くなった佐賀在住の歌人、笹井宏之は百首の題詠歌を生前作っている。ネット上にそのページ「温帯空虚」http://blog.goo.ne.jp/sasai-h/2があるのを見つけた。以下の作品はそこからのもの。

(命)
雨のあさ命拾いにゆくひとへしっかりとしたかごを持たせる

(質問))
やむをえず私は春の質問としてみずうみへ素足をひたす

(退屈))
退屈の波打つゆうべ スカーフはあなたの首をはなれて海へ

(サイレン)
ひとひとり救えないこの夕ぐれに響け サウンド・オブ・サイレンス

(塔)
氷上のあなたは青い塔としてそのささやかな死を受け入れた

(まぶた))
あるときはまぶたのようにひっそりと私をとじてくれましたよね

(鳥)
おどろいた拍子にくちにいれていた白鳥をあなたは吐き出した

2010年2月10日水曜日

鮹も

立春を過ぎたのだが、

○冬の日はつれなく入りぬさかさまに空の底ひに落ちつつかあらむ

あるいは待たれるのは

○桑の木の低きがうれに尾をゆりて鵙も鳴かねば冬さりにけり

利根川の河口に波崎という名の町もかつてあった、

○薦かけて桶の深きに入れおける鮹もこほらむ寒き此夜は

病のなかより

○往きかひのしげき街の人皆を冬木の如もさびしらに見つ

すべて長塚節の歌から。

2010年2月3日水曜日

初雪

初雪や幸ひ庵にまかりある
初雪や水仙の葉のたわむまで

芭蕉の「あつめ句」より。貞享三年(1687年)。上の句は「我が草の戸の初雪見んと、余所にありても空だに曇り侍れば急ぎ帰ることあまたたびなりけるに、師走中の八日、はじめて雪降りけるよろこび」という詞書きがある。初雪をどうしても芭蕉庵で見たいとおもって、雪が降りそうだなと思うと、余所にいても急いで帰った、そういうことが何回も続いて、はじめての雪のときに「幸いなことに自分は草庵に居合わせたことですよ」という句である。初雪というものは「よろこび」で、自分の家の中にいて見るものでもあったようだ。そういう心の機微はまだかすかに底の底に残っているようで、昨晩白く降り積もるものを家の中から言葉を失い見ていたが、かすかに心はざわめいていたのである。なおここでの「師走中の八日」は太陽暦では1687年一月三十一日にあたるということだ。今年の東京の初雪と日を接している。

二句目はインプレッショニストの絵のようだ

2010年2月1日月曜日

I came out of the mother naked

昨日(30日)はJames Wrightの詩を訳して「カワカマス」(ミッドナイト・プレス)という翻訳詩集を上梓された伊藤博明さんを囲んでのすばらしい会が神田は東京堂の会議室であった。伊藤さんの翻訳の柔らかい日本語を誉めた正津勉さんもトークのゲストとして話をしてくれた。Wrightの詩もそうだが、この二人の話も―「心」に降りてくる(伊藤さんの素晴らしい言葉)―いい話だった。そのあとに参加者のほとんどが飲み会にも出席して、それぞれの感想を忌憚なく話した、そういう雰囲気がこの会の根底にあり、それはなによりもJames Wrightの詩が教えてくれたものでもある。


今日(31日)午後2時過ぎに、先輩からの電話があった。八王子まで歩いてきた、これからそこまで歩数を延ばすけどいいかと。びっくり仰天。先輩の自宅は東村山市である、そこから八王子まで4時間以上は歩いているのではないか、八王子から片倉の拙宅までは30分ぐらいで大丈夫だ。どうぞ、どうぞ、お待ちしています。あとで調べたけど先輩の自宅から片倉までの全距離は30キロ近くはある。先輩はダイビングの熟練者でもあるし、それに加えて地上を水平に歩行することも最近の趣味にしたらしい。今度は三島まで歩行するから、ついて来ることができるなら来いという話だった。八王子の「そごう」で購入してきたという本マグロの刺身をお土産に頂戴し、我が家で午後の静かな酒宴が僥倖のように開かれたのである。そのうちに、先輩と私はAIU(anti ishihara union)のよしみから、怒りに駆られて、石原知事を完膚無きまで批判したりした。たとえば、

「都の銀行を設立したときの威張りようを忘れたのか?今はその銀行の失敗の責任を他人に取らせようとする、」
「いつもそうでしたね、とくに傑作なのは、都がいやいやながら開設した年末年始の「派遣村」の話です。2万円を支給したら、帰ってこない人がいたという。」
「それに対して、石君はそれ以前から、あの程度の行事に首相が来るとは、とか、国がやるべきだとか、つまり甘えているとか、ということを言ってきたわけです」
「彼は、自分が都民の税金を使ってやっている大名のような遊山三昧のことはすっかり忘れているのだろう。彼の話はしたくないけど、きみと会えば仕方がない、要するに、天を仰いで唾する、というのは彼のことで、彼以外のことではない」というのが先輩の言葉であった。