2011年1月31日月曜日

Mt Fuji in the sunny morning.

 
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2011年1月28日金曜日

冨士残照

 
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湯殿川、稲荷橋から午後5時頃に撮影する。

この週は、ちょっと鬱状態で過ごしていて、出来ることと云ったらただ歩くことだけであった。そのときにデジカメも携行した。歩いて、鳥たちと風景を映してさえいれば、いろんなことを忘れることができた。今日の冨士山を見て、少しずつ気分も晴れて行くようだ。

2011年1月27日木曜日

路次の細さよ

 
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今日の散歩でカワセミを三度目撃す。生まれてはじめて、この美しい鳥をデジカメで撮影することが出来た。杉の木の枝と二度目の遭遇時の土手の写真である。興奮した。三度目は高速で川面をなめながら飛行していった。この眼に恵まれた幸せだけでいいと思った。

ダイヤモンド冨士などと喧伝するから、撮ってみよう思うのだが、昨日も今日も冨士はその姿を見せなかった。ただ、その近辺の残照の美しさは今が最高である。

蕪村に「桃源の路次の細さよ冬ごもり」という句がある。尾形 仂の鑑賞はこうだ。
「…桃源境に到達するまでの途中の道の何と狭いことだろう、と嘆じたものにほかならない。一句は、冬ごもりを極め込んではみたものの、世間の俗用が立て混んで、容易に桃源の安楽な気分には浸らせてくれない、というのである。」

「路次ロシ」は「路地ロジ」ではないという読みから、尾形先生はちょっと日常につきすぎた読みをあえて出しているのだが、それはこまごまとした日常そのものを桃源と読む読み方を行き過ぎであろうと思ったからにちがいない。

今の私はどらかといえば尾形説に与したい。日常を非日常に化するエネルギーの減衰と、しかしそれゆえ美なるものへの敬愛の強さを最近とみに感じているからである。

2011年1月23日日曜日

寧生而曳尾塗中

昨日は小生の輪講の番だった。にわか勉強、一夜漬け気味だったが、なんとか、
『冬の日』の最後の荷兮の発句「霜月や鸛の 彳々ならびゐて」から始まる歌仙の発表用レジュメをぎりぎりまでかかって作ることができた。午後2時開始に間に合ったという意味。いつもの市民センターの会議室に行くと、蛙鳴とタク和尚は既に着席して遅しという風情で小生を一瞥したようだった。遅参をわびるまもなく、蕃氏は怒濤のごとく、口角泡をとばし、立て板に水とばかりに、午後5時まで、36句を縦横に説ききたり説き去ったのであった、というのは嘘で、三名なごやかに一句一句嘗めるように味読したのであった。以下、気に入った付合の一続きを引用しておこう。

  麻かりといふ歌の集あむ   (芭蕉)
江を近く独楽庵と世を捨て   ( 重五)
  我月出よ身はおぼろなる  (杜国)

「麻かり」という歌集の名前がいつまでも心に残る。 杜国の「月」の句も忘れられない。

 泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て   (杜国)
 御幸に進む水のみくすり  (重五)

この二句も、とくに杜国の願望が彼の実人生に照らしてみると切ないほどである。芭蕉復興に尽力した名古屋の俳人で、蕪村などと同時代の加藤暁台は杜国のこの句を「拾ヒ得テ放ス心ナラン」と評したというが(安東次男の『芭蕉連句評釈』下による)、深切な見方である。

「御幸に進む水のみくすり」ならぬ「養老」の酒がわれわれのいつもの輪講の後の愉楽であったことは言うまでもない。

2011年1月20日木曜日

湯殿の冬

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昨日、今日と冬の湯殿川沿いを歩いた。富士を撮影するのは難しい。大寒の日ではあったが、確実に日は長くなった。春の息吹と云うにはまだ早いが、晴れ渡った空を見上げながら深呼吸するときに思うこともあった。

2011年1月16日日曜日

冬ごもり

寒い。センター試験の受験生たちのことを少し思いやる。先週の金曜日で大学の10年度の授業も終わった。前年度の受講生二人と(一人はなぜか去年この授業の単位は取ったのに今期もほとんど休みなく聴講してくれた3年生、もう一人は4年生だが、この一年思うことがあって休学していた女学生。今年は復帰するという、単位はほとんど取得しているそうで、今年後期のゼミを一つだけ取ればいいということ。)池袋で飲んだ。N君は今、詩を書いている。詩を書きたい、書くことに熱中している。Hさんは自分の進路に対して真正面から向き合い、悩み考えている。一つの道が見えてきている。ぼくは自分の今期の講義の反省ともつかぬ愚痴を、このもの分かりのいい優しい学生二人に向かってぐだぐだ言いながら日本酒を飲んだ。それが金曜日の夜。帰りに西荻で途中下車して杉並高校のときの教え子(実際には授業はもたなかったが)がやっているソーヤーカフェに寄り、おいしいラム酒(なんて言う銘柄だったか忘れてしまった)を飲む。お店で彼の奥さんとも話をするが、彼女は岡山の出身で三沢浩二や秋山基夫を知っているというのには驚いた。そこに岡崎武士さんが入ってきた。私は挨拶をして帰った。

土曜日、日曜日とひきこもる。今年になって買った『蕪村句集講義1』(東洋文庫)を読む。これは子規、碧梧桐、鳴雪、虚子らの「蕪村句集」輪講の記録である。その輪講は明治31年の1月15日から36年4月6日まで63回にわたり行われた、それが逐次「ホトトギス」に連載され、その後に単行本として「冬之部」「春之部」「夏之部」「秋之部」として刊行されたということだ。それを東洋文庫として三巻に分けて出版するというもの。全部出たのかどうか知らないけど、その一巻目「冬之部」を国立の増田書店で購入した。早稲田の佐藤勝明という人が校注している。この人はやはり最近出た(去年だが)『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)の訳注者の一人でもある。

その中から「冬ごもり」の句。

「居眠りて我にかくれん冬ごもり」
これに対して碧梧桐は以下のように記す。
―汚れたる浮世の我を忘れて、暫く清浄の界に遊ばんといふ心なるべし。我を客観に見るが故に我にかくれんとと言ふ。居眠るは仮寝にして膝などを抱えたる侘人のさまをも想像すべく、冬籠の情を得たり。芭蕉が金屏の松の古びや、と詠ぜしは其客観にして、この句は即ち其主観なるべし。この句も時の連想少なき句なり。―

後半ちょっとわかりにくいが、芭蕉の「金屏の松の古さよ冬籠」との対比などいろいろ考えさせる。

「冬ごもり壁をこころの山に倚る」
「冬ごもり灯下に書すとかかれたり」

「勝手まで誰が妻子ぞ冬ごもり」
この句についての輪講の記録者は子規だが以下のように書いている。輪講の場を彷彿とさせる。
―鳴雪翁曰く、主人奥の間に冬籠りし居る時、勝手(松山にて茶の間といふが如し)の方に何やら話し声のするを聞き咎めて「さては何処の妻君か子供をつれておとづれたりと見ゆるは」と思へるなり。もっともこの来客は勝手まで来て、此の家の家内分と話したるのみにて、主人には面会もせず帰りたれば、主人はそれを誰とも知らぬなり。かく主人には面会せずして帰る処、冬籠りの情を穿ちたり。但し蕪村にしては悪き句なり(露月氏も悪句と為す)。
子規曰く、明解を得て疑団釈けたり。この趣向、太祇・几董などの多く作る所なり。この句を蕪村集中の佳什とは思はねど、鳴雪翁の如くは貶せず。蓋し複雑したる趣向を善く言ひ得たる処、伎倆驚くべきものあり。蕪村ならでは到底言ひをほせずと信ずればなり。―

「冬ごもり仏にうときこころ哉」これも子規の記録による。
―鳴雪翁曰く、万事を抛ちて冬籠り居れば、もとより寺詣りするでも無く、また内で勤行するでも無く、只為す事も無くて日を暮らすにぞ、自ら仏に疎遠になった心持ちはすると詠みたるなり。最も趣味深き句なり。―

蕪村の冬籠り、それを解釈する子規たち明治人の冬籠り、そしてわたしの冬籠り、共通するものは何処にあるか。

2011年1月5日水曜日

謹賀新年

あわただしく年が明けて、もう五日。遅ればせながら謹賀新年の挨拶を。今年もよろしくおつきあい下さい。

旧臘からここまでのことを追い書きしておこう。

26日 七部集読書会メンバーに解酲子を加えて森下「鳥長」で忘年会。その後の二次会、「魚三」も開いていて、そこで飲んだ酒と湯豆腐がとても美味しかった。解酲子、左手で句を書く(右手の不自由のためなり)のを見て驚嘆する。
27日 東京駅八重洲地下街にて、佐藤幹夫、添田馨、木村和史と歓談し、飲む。
29日 「さねさし相模の会」の忘年会。初めて会った詩人もいた。

新年元旦 息子夫妻が来る。飲む。
2日 今年初めての「歩き」湯殿川一時間半。途中で写生をしている石原画伯に会い、少し話す。
3日 立川シネマシティにて、ジュゼッペ・トルナトーレの「シチリア!シチリア!」(原題BAARIA)を見る。イタリア、シチリア史の一環として家族三代の歴史がいとおしく描かれる。リアリズムを夢のなかに包み込んで、東洋風に言えば「一炊の夢」のように80年近い歴史を描くところがネオリアリズムとフェリー二風の奇想を受け継ぐイタリア映画の真骨頂と言うべきか。そのあと「魚力」で妻と飲む。

4日 夜、BSで井筒和幸監督がイタリア、ローマの有名な撮影所チネチッタを訪れて、報告するルポルタージュがあったのでそれを見た。前の日のトルナトーレも出てきてチネチッタへのオマージュを語っていた。よき番組なり。フェリー二の「道」へのオマージュにもなっていた。井筒はこの映画が一番好きだと語っていた。イタリア映画の歴史の厚みと深さを思う。

5日、今日。『ゴドーを待ちながら』1953年のこの日にパリ、バビロン座でロジェ・ブランの演出で初演された。
 
 ヴラジーミルは言う、
「そうだ、この広大なる混沌の中で明らかなことはただ一つ、すなわち、われわれはゴドーの来るのを待っているということだ。」