2008年8月29日金曜日

那覇でひたすら

ひさしぶりに那覇にゆく。26日夜、「レキオス」で12時まで飲む。それから、もう一軒歌を歌うところのようなところで翌日の午前3時半まで飲む。メンバーはKさん、Iさん、小生。それからタクシーで宿がわりの友人宅まで帰る。27日、猛烈な二日酔い。吐き気に悩まされる。昼ごろ起床。昨晩Iさんと飲みながら「沖縄対詩」を今日二人でやろうと約束していたことを思いだす。Iさんが不定期にやっている泡盛居酒屋に昼過ぎに行く。二人とも二日酔い、ぼくのほうが強烈で「対詩」もやれる状態ではない。マンゴーや島特産のプリンのようなものをご馳走になり、3時間ぐらいふたりで「ユンタク」(おしゃべり)をする。すこしずつ二日酔いが抜けてゆきそうな気配だが、まだふらふらしている。ホッピーをビールがわりにご馳走になりながら。いやはや。お土産に「下がり花」の球根をもらい別れる。ありがとう、Iさん。

まだ暑い国際通りをふらつき、5時過ぎに泊の友人宅へ。もう一人の共通の友人が、座間味島にダイビングに行っていて、彼とここで合流して一杯やるというのが今晩の予定である。三名とも、もとの職場の同僚である。ダイビングの友人は小生よりまえに沖縄に来ていた。東京でその昔よく飲んでいたが、故郷が沖縄の友人のところで飲むという話がおたがい老年?になって実現したわけだ。

08年の夏、退職した年の夏、その夏の最後の、いい思い出になった。泡盛づけの那覇だった。

(詩人I氏の店)
 
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(立法院あと)
 
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2008年8月25日月曜日

草の葉

―Or I guess the grass is itself a child,…….
それとも草はたぶんそのまま一人の子ども、……
                     ホイットマン「ぼく自身の歌」6より― 


奥行きのない暑さ、
この暑さの彼方、
、、、、、、
なにもないということが世界だった。たぶん
因果や、探検、
恐怖や、快楽
、、、、、、
大統領選挙まではまだ日がある、
そんなにのんびりとはできない。たぶん
ぼくはぼくに憑かなくてはならない、
もうだれとも、どんな関係とも無縁だから、
、、、、、、
愛撫の果てに聴くアイヴズの“The Unanswered Question”、
夏の果ての木槿、
それとも草…
草の葉…
、、、、、、

2008年8月24日日曜日

夏の終り

 奈良、京都、神戸をいそがしく周ってきました。すっかり涼しく、というより肌寒ささえ感じる日曜日です。あの炎熱の日々がなつかしく思われます。断崖から落ちるような気候の変化です。

 奈良の春日大社からはじめて、高円をめぐった写真です。ずいぶん歩きました。旅のなかで、この日が一番暑かったのですが、その暑さも、もうすっかり秋のそれでした。

(イチイガシの巨木)
 
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以下、春日大社神苑の万葉の花と歌より、

(手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも V10)
 
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(秋さらば移しもせむとわが蒔きし韓藍の花を誰か採みけむ V7)
 
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(神苑の池と樹)
 
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(萩の花尾花葛花なでしこの花女郎花また藤袴朝貌の花 V8 山上憶良)
 
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高円散策、
(志賀直哉旧居百日紅)
 
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(新薬師寺・会津八一歌碑ちかつきてあふきみれともみほとけのみそなはすともあらぬさひしさ)
 
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(白毫寺への道、畑の瓢箪)
 
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(白毫寺への階段)
 
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(白毫寺・高円の野の高み・志貴皇子をしのぶ萩)
「高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに」笠金村の志貴挽歌の反歌の一首V2
 
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万葉の歌に深く心ひかれた小さな旅でした。

2008年8月18日月曜日

答えのない質問

京王八王子の駅ビルに行った。入り口から少し離れたところに「献花台」が設けられていた。この前の殺人事件のことを忘れないようにしようと思うのだが、生きること、生きていることは、その記憶を、祭壇の上で萎れている花々のように、どうしてもそうしてしまうものでもある。「八月十五日」、これも「いつも、いつでも」それぞれの記憶の仕方と忘れる方法が、まああるのにちがいない。忘れる方法は記憶する方法に比して一杯あるだろう。政治家、カクリョウのヤスクニ参拝などというのも、数多い忘れる方法のなかの一つのようなものである。

そのビルのタワー・レコードで久しぶりにcdを買った。一つはジャクリーヌ・デュ・プレの、エルガーとディーリアスのチェロ協奏曲。お目当てはもちろん、ディーリアスを聴きたかったから。もう一つは810円の安売りで売っていた、アイヴズのオーケストラ作品集。アイヴズ(1874~1954)はアメリカの作曲家。そのなかのThe Unanswered Qestionという曲を何回も聴いた。タワーレコードが企画販売したCDでBMG JAPAN制作、その解説(宮澤賢哉)は次のようにこの曲のことを記している。

エール大学を卒業後、彼はニューヨーク大学の法科の夜間に通いながら、保険会社を設立し起業する。そして余暇に作曲を行っていたのであるが、1906年にアイヴズは、二つの短いオーケストラのための小品を作曲している。その一つがこの「答えのない質問」である。アイヴズの革新的な創作の先駆けとなった作品といえる。弱音器を付けた弦楽器が“何も知らず、見ず、聞かない一預言者ドルイド僧の沈黙”を表す美しいコラールを奏でる中、ソロ・トランペットが7回“存在の永遠の質問”を繰り返すといった象徴的なドラマを描いている。この問答は激しく活発になり衝突するが、最後には平静な孤独の中に沈黙が訪れる。

これを読んでいて、泣きたいほどもどかしい解説であると思った。わめきたくなるといったほうが正確かも。でもこんなのに文句をつけるのはよそう。私が言いたいのは“  ”の引用のことである、どういうことか、すごく知りたくなるのに、なにも言ってないと等しい。どこからの引用ですか?存在の永遠の質問とは?預言者ドルイド僧などについて、激しく知りたくなるのに、宮澤さんは何も書いてくれない。「最後には平静な孤独の中に沈黙が訪れる」、よく言うよ。これはどういうことですか?意味不明の文だ。平静な孤独?
孤独の中に沈黙が訪れる?馬から落馬したのか?解説など読まなくともいい、ということにはならない、アイヴズなど名前だけは知っていて、そのCDが廉価だから買ったという私のような者もほかにいないとは限らない。そういう愛好家にとって「解説」は必要です。

Wikipediaから参考になりそうなところを引用しておく。

○ Ives had composed two symphonies, but it is with The Unanswered Question (1908), written for the highly unusual combination of trumpet, four flutes, and string orchestra, that he established the mature sonic world that would become his signature style. The strings (located offstage) play very slow, chorale-like music throughout the piece while on several occasions the trumpet (positioned behind the audience) plays a short motif that Ives described as "the eternal question of existence". Each time the trumpet is answered with increasingly shrill outbursts from the flutes (onstage) — apart from the last: The Unanswered Question. The piece is typical Ives — it juxtaposes various disparate elements, it appears to be driven by a narrative never fully revealed to the audience, and it is tremendously mysterious. It has become one of his more popular works.[12] Leonard Bernstein even borrowed its title for his Charles Eliot Norton Lectures in 1973, noting that he always thought of the piece as a musical question, not a metaphysical one.


○ Starting around 1910 Ives would begin composing his most accomplished works including the "Holidays Symphony" and arguably his best-known piece "Three Places in New England". Ives' mature works of this era would eventually compare with the two other great musical innovators at the time (Schoenberg and Stravinsky) making the case that Ives was the 3rd great innovator of early 20th century composition. Arnold Schoenberg himself would compose a brief poem near the end of his life honoring Ives.
Pieces such as The Unanswered Question were almost certainly influenced by the New England transcendentalist writers Ralph Waldo Emerson and Henry David Thoreau.[8] These were important influences to Ives, as he acknowledged in his Piano Sonata No. 2: Concord, Mass., 1840–60 (1909–15), which he described as an "impression of the spirit of transcendentalism that is associated in the minds of many with Concord, Mass., of over a half century ago...undertaken in impressionistic pictures of Emerson and Thoreau, a sketch of the Alcotts, and a scherzo supposed to reflect a lighter quality which is often found in the fantastic side of Hawthorne."


ということです。アメリカ・ルネサンスの思想家たちの影響を深く受けている、こういう部分が私には面白い。

それに、一つ気づいたのが、Charles Ivesは起業家であり保険業界でも有名な経済人であった。詩人のWallace Stevens(1879-1955)も保険会社の仕事を死ぬまで勤めた。同時代人であり、同じ職に就いていた二人には何らかの交流があったにちがいない。そして、この二人とも、彼らの本業のspare timeに一方は作曲し、一方は詩作した。そしてともに、モダンな作風をアメリカにもたらした。そういうことをもっと知りたいと思った。

you-tubeから。

2008年8月10日日曜日

『白秋』、三崎にて。

昨日は初めて三崎に行った。高貝さんの新しい本、美しい『白秋』出版のお祝いを三崎でやろうということで、三崎の住人でもある新井さんのご案内でいろんなところを回り、お世話になった日であった。高貝さん、福間さん、ぼく。

よく飲み、よく食べ、よく話した。新井さんの、これも美しい本『シチリア幻想行』のシチリアの世界とは、もちろん異なるが、なぜか、ぼくは新井さんが描いたシチリアの光と闇を三崎の海に重ねていたようだ。

すばらしい一日だった。

(城ヶ島から見る三崎漁港)
 
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(白秋記念館)
 
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(白秋歌碑)
 
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(バスを待つ)
 
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2008年8月7日木曜日

ジョー・オダネル再び

ある写真家の死

少し前になる、テレビを見ていたら、老齢の、腰の曲がったアメリカ人が長崎の浦上天主堂の席に座りながら、嗚咽していた。彼は、Joe O’Donnelといって、被爆直後といってもいい、1945年の8月23日に、最初に長崎入ったアメリカ海兵隊所属のカメラマンだった。番組は、彼が当時撮影した瓦礫だらけの悲惨な長崎の街の写真をたどりながら、変遷した現在の街をさまよい歩いていく彼をルポしたものだった。番組の収録はいつ行われたものかは分からないが、この夏でないことは確かである。なぜなら、彼はこの8月、しかも、なんという因縁だろう、その9日にナッシュビルで亡くなったからである。85歳であった。

彼の名前は知らなくとも、死んだ弟をひもで背負いながら、歯を食いしばり、直立不動の姿で焼き場に佇む少年の写真を見た記憶のある人いるだろう。Joe O’Donnelの有名な写真である。番組では、この少年を探そうとしたが、結局は不明だった。でも灰燼に帰した小学校で、机に座り、まっすぐに先生を見つめている、おかっぱ頭の少女や、やせた少年たち、全部で10名にも満たないようなクラス風景があるが、そのなかの少女や少年たち、今は70過ぎの彼らとの再会は果たした。

その番組で、私が一番覚えているのは、爆風で飛ばされて、丘の中腹にまで落ちてきた、浦上天主堂で飾られていた聖人の巨大な頭部像の写真であり、それを修道女に見せながら、これは今どこにあるのだろうか?とオダネルが訊ねていた場面だった。その写真にある、聖人の頭部、その破壊された顔が凝固して動かない姿勢で見つめているものこそは、一面荒廃に帰した長崎の町なのだ。修道女が、これは見たことがある、平和祈念館に展示されているのではないかというようなことを答えたが、オダネルは、ああ、とため息をついて、それはいけない、ここに、そのままの状態で、この長崎の町全体を見つめてほしい、この神を恐れぬ蛮行の証言と証明のために、聖人はここにいなくてはならない、と語ったのである。

Joe O’Donnelという人から受ける印象は、静かで内省的、でもユーモアも忘れない、そして何よりも長崎・広島への原爆投下を深く反省し、核兵器に反対する人というものであった。

この人の名前は忘れないでおこうと思い、すぐに書き留めた。

彼の追悼記事がニューヨークタイムズに出たのは、8月14日であった。そして、それからJoe O’Donnelが撮影したという写真の数々に現在疑いの目が差し向けられていることを知るようになった。

Joe O’Donnelについて、nyt.comの死亡記事や、その後に出た批判記事などから、知ったことについて書いておこう。(”Joe O’Donnel, 85, Dies; Long a Leading Photographer”by Douglas Martin, August 14, “Known for Famous Photos, Not All of Them His”by Michael Wilson September 15)

Joseph Roger O’Donnelは1922年5月7日にペンシルヴァニア州のジョンストンで生まれた。ハイスクール卒業後、海兵隊に入り、軍は彼を写真学校に行かせた。先述の1945年、8月23日、彼の所属部隊は最初に日本に上陸した部隊の一つになった。長崎から10マイルほどのところに送られ、上官の命令で長崎の写真を撮ることになる。歩いてそこに出向いた23歳の多感な海兵隊軍曹で写真家の若者の眼に映じたのは、”no bird, no wind blowing, nothing to make you think there had once been a real city here.”というものだった、これは後年の彼の述懐。長崎で彼は20箱の煙草を代償に馬を購入し、それにboyと名をつけ、荒廃した家に住む、その家の目印には瓦礫を使った。そこで寝泊りして、写真を撮ったが、カメラを2台使い、一つは軍隊用の公的なもののために使い、もう一台は全く私的な、彼自身の写真のために使った。そして後者のネガを自分のトランクの奥底に秘めて、帰国した。それから半世紀後にやっと、トランクを開けて、そのネガを現像した、あまりにも悲惨なゆえに、感情的に正視出来なかったからである。戦争中の後半もしくは帰ってからの彼は、大統領付の写真家として活躍したこともある(ここらあたりの彼のキャリアははっきりとしない、誇大妄想という批判が出されている)。しかし、例のテレビ番組でも、トルーマンと二人であるビーチを散歩していたときに、トルーマンが立ち止まって小便をした、そのとき思い切って自分は大統領に、あなたは日本に原爆を落とすことに迷いはなかったのですか?と訊いたところ、トルーマンが「あれは自分の決断ではない、ルーズベルトが決めたんだ」と叫んだ、という話を、このうえもなくリアルに報告していた。

彼が撮影したと、1999年のCNNでのインタビューで主張した有名な写真がある。

 
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これはケネディ・ジュニアが父の棺に敬礼する、あまりにも有名な写真であるが、実はこれを写したのは、彼ではなく、今アナポリスで結婚記念の写真家になっている72歳のStan Stearnsという人のものであるらしい。しかし、当時の報道写真はそのクレジットについて現在のようにうるさくはなかったので、これに類する写真は一杯あるということも確かで、オダネルがそこにいて、3歳のJohn―John(ジュニアのニックネーム)のこの可憐な写真を撮らなかったという理由にはならない、らしい。私は、このことの方を信じたい。うるさいほど、今、オダネル批判の記事が出ていて、今日のnytにもあった。これには違う事情もあるのではないか。

彼はそのトランクの底に秘めていた、長崎・広島のネガを現像して、1995年に日本で出版する。その後アメリカでも。しかし、アメリカでは当然のことながら、この被爆のありのままを伝えた写真は拒絶された。オダネルは、そこから核兵器にプロテストする運動に身を捧げるようになったと追悼記事は書いている。

1995年に彼の一連の被爆地の写真は論争のなかに巻き込まれた。その年に、スミソニアン航空宇宙博物館(NASM)で、広島に原爆を落とした飛行機エノラ・ゲイの展示が計画され、そのときの館長はオダネルの写真も展示する計画であったらしい。しかし、退役軍人たちの反対で、オダネルの写真の展示のプランは却下されざるをえなかった。その理由は、「彼の写真が一方的に原爆の悲惨さのみを強調することで、日本の残虐さと、戦争を終わらせ、アメリカ兵の命を救った原爆の役割を両方とも無視している」というものだった。これに対して、オダネルはラジオのインタビューで次のように強く主張した。「被爆直後に自分が見たことに鑑みれば、核ではなく、通常兵器で日本は敗れたにちがいない、日本本土への侵攻でアメリカ兵の死傷者が何十万も出るという予想などとは関係なしに」。彼は、こう主張することで、核兵器そのもののアンバランス、そのおそるべき非対称性を主張したのだと私は考える。

彼の写真で疑いが持たれているのは、1943年にテヘランで、スターリンとルーズベルト、チャーチルが会談したときのものとか、ヨットを操縦するケネディとか、フルシチョフの胸に指を突きつけている副大統領ニクソン、など結構あるらしい。でも、彼はそれらの写真を自分が撮影したと主張することで、そこから金を得ようとしたことはなかったと、批判記事の筆者Michael Wilsonも書いている。未亡人は日本人でKimikoさんという方だが、どこに金があるのか、と彼女も言っているほどだ。

未亡人などがいうことによると、オダネルはメンタルな病ということではないが、記憶に混濁が生じることがよくあったという。背骨には金属が入り、皮膚がん(これはおそらく長崎の滞在で放射能を浴びたせいでもあろう)にかかっていたという。彼は、被爆者であったのだ。

著作権の問題などは抜きにして、私はJoseph Roger O’Donnellという人間に深くひかれている。長崎の町を、深い祈りを湛え、沈思黙考して彷徨する老人の姿を私は忘れないだろう。


以上は昨年の9月に書いたものである。今日(8月7日)NHKの番組でオダネルのことが特集のドキュメンタりーということで放映されていたので、それを見たが、私が去年書いたもの以上のことは何もなかった。ただ彼の息子タイグを視点として、亡き父の平和への遺志を継承するというスタイルだったが、息子さんの真摯さには打たれた。オダネルのことをもっと調べたいという若い人たちの参考になればと思い、これをここにも再掲する。

2008年8月5日火曜日

ワーズワースからフロストへ

今、八王子は雨がしょぼしょぼ。そのかわり激しい雷が黄色い光を点滅したあとで鳴っています。午後8時過ぎ。(8月4日、書き始める)

 蒸しています。水分の取り過ぎも加勢して余計に汗が流れ落ちるのでしょう。

 涼を求めてというわけでもないのですが、イギリス・ロマン主義の代表的詩人ワーズワースの、いわゆる「ルーシー詩篇Lucy Poems」と呼ばれるものを読んでみました。岩波文庫の『ワーズワース詩集』(山内久明編)から、その(1)(2)を引用してみます。

(1)
A slumber did my spirit seal;
I had no human fears:
She seemed a thing that could not feel
The touch of earthly years.

No motion has she now, no force;
She neither hears nor sees;
Rolled round in earth’s diurnal course,
With rocks, and stones, and trees.

微睡(まどろみ)がわたしの心を封じ、
 人の世の恐れは消えた。
あの女(ひと)はもはや感ずることもない、
 この世の時の流れに触れて。

身じろぎひとつせず、力もなく、
 聞く耳も見る目もなく、
日々廻る大地の動きのなかで
 岩や、石や、木々と変わりなく。
(2)
She dwelt among the untrodden ways
Beside the springs of Dove,
A Maid whom there were none to praise
And very few to love.

A violet by a mossy stone
Half hidden from the eye!
-Fair as a star, when only one
Is shining in the sky.

She lived unknown, and few could know
When Lucy ceased to be;
But she is in her grave, and, oh,
The difference to me !
 
その女は人里離れて暮らした
 鳩という名の流れの水源に近く。
その女を褒めそやす人はなく
 愛する人とても数少なく。

苔むす岩かげの菫のごとく
 人の目につくこともなく。
―星のごとくに麗しく、ただ一つ
 輝く星のごとくに。

人知れず暮らし、知る人ぞ知る、
 ルーシーが逝ったのはいつ。
地下に眠るルーシー、ああ、
 かけがえのないルーシー。

ルーシーという女性のための墓碑銘(epitaph)のような詩です。註によると、このルーシーとはだれのことか諸説があるそうです。岩波文庫には「ワーズワースの最愛の妹ドロシーの連想を伴う」と書かれています。それはともかく、この日本語は、雰囲気は伝わりますが名訳過ぎて、いろんなことを流しているような気がします。(1)では、日本語の詩行にリズムを持たせようとして無理にこしらえたところ。(1)の二連の、それぞれの終りを、独立した修飾句として意識させようとするあまり、「この世の時の流れに触れて」「岩や、石や、木々と変わりなく」というふうに、訳者は気が利いているとたぶん思うでしょうが、そこが大抵つまづくところになります。「では、おまえは?」と言われたら困りますが。

とくに(2)の冒頭の「人里離れて暮らした」という訳は嫌です。untroddenは辞書を引くと、「踏まれていない、人が足を踏み入れたことのない、人跡未踏の」というような意味です。trodというtread(踏む、歩く、道を足で踏んでつくる)という語の過去分詞から派生した、その反意語で形容詞化されたものです。だから、すぐに「人里離れて」なのでしょうか。それにwaysは訳されていません。ここは、「彼女は人の踏み跡のない道々の中に住んでいた」と逐語訳してほしいところです。それに、もう一つ、(2)の最後の行です。The difference to me ! は「かけがえのないルーシー」となっていますが、ここもわかりません。単純に、ルーシーが死んでわたしにはすべてが変わってしまった、ということではないでしょうか?私はそう考えます。このことには私なりの理由があるのです。そのことについては後述します。このThe differenceという語はとても大切だと思うのですが、「かけがえのない人」という意味なのでしょうか。たとえば、She is the difference to meという文があって、そういう意味になるのでしょうか。

 この三月の終りに、ロバート・フロストの”The road not taken”という詩に出会いました。それから折りにふれて、私はこの詩のことを思ったり、考えたりしているのですが、実は「ルーシー詩編」の(2)に出てくる、untroddenとdifferenceということば、18世紀の終りころに書かれたワーズワースの詩のなかの言葉ですが、それが20世紀(1916年)に書かれたフロストの”The road not taken”に反映しているのです。偶然の暗合かもしれませんが、このことに最近気づき、そこからフロストのこの詩を読み返してみて、今までとは異なる読み方もあるのではないかと考えました。そのことを言うまえに、フロストの原詩と訳を引用します。

The Road Not Taken

Two roads diverged in a yellow wood,
And sorry I could not travel both
And be one traveler, long I stood
And looked down one as far as I could
To where it bent in the undergrowth;

Then took the other, as just as fair,
And having perhaps the better claim,
Because it was grassy and wanted wear;
Though as for that the passing there
Had worn them really about the same,

And both that morning equally lay
In leaves no step had trodden black.
Oh, I kept the first for another day!
Yet knowing how way leads on to way,
I doubted if I should ever come back.

I shall be telling this with a sigh
Somewhere ages and ages hence:
Two roads diverged in a wood, and I-
I took the one less traveled by,
And that has made all the difference.


 行かなかった道     ロバート・フロスト  

黄ばんだ森の中で道がふたつに分かれていた。
口惜しいが、私はひとりの旅人、
両方の道を行くことはできない。長く立ち止って
目のとどく限り見渡すと、ひとつの道は
下生えの中に曲がりこんでいた。

そこで私はもう一方の道を選んだ。同じように美しく、
草が深くて、踏みごたえがあるので
ずっとましだと思われたのだ。
もっともその点は、そこにも通った跡があり
実際は同じ程度に踏みならされていたが。

そして、あの朝は、両方とも同じように
まだ踏みしだかれぬ落ち葉の中に埋まっていたのだ。
そうだ、最初眺めた道はまたの日のためにと取っておいたのだ!
だが、道が道にと通じることは分かってはいても、
再び戻ってくるかどうかは心許なかった。

今から何年も何年もあと、どこかで
ため息まじりに私はこう話すだろう。
森の中で道が二つに分かれていて、私は―
私は通る人の少ない道を選んだのだったが、
それがすべてを変えてしまったのだ、と。

この訳は駒村利夫という人のものです。とても聡明な感じのする訳ですよね。そして、この詩はアメリカの高校生たちのテキストには必ず載っているポピュラーなもので、学期の節目や卒業式などにはよく引用されるものだということも後で知りました。自分の目の前に、二つの道があって、両方とも同じように美しく、自分を誘うのだが、残念ながら、一人の旅人としては一つの道しか選ぶことはできない、もう一つの道はまたの日にと思って取っておいても、そこに戻ることは確信できない、仕方がない、自分はこの道、「通る人の少ない道を選ぶ、そのことが「すべてを変えてしまった」と、今から何年もあとに、ため息まじりに、どこかで話すだろう、というのです。こうして下手なパラフレーズをしていても、おわかりのように、この詩は単純そうに見えて、実はそうではありません。

この詩の複雑さは、簡単に言うと、詩の話者Iと、詩人のIが二重化されていて、それぞれの時間がこの詩の中にわざと混然と折りたたまれていることから生じるものです。つまり、詩のなかのI(私)は、最終連を見ると分かるように、人生の道の選択を強いられています、そしてというか、しかしというか、何年も何年もあとになって、ため息まじりに、その選択の結果を顧みるのは、フロスト自身であり、あるいはもう一人のIなのです。つまり未来形(I shall be telling this with a sigh)で語られるのですが、この時点では、すでに顧みられているのです、すべてが。従って、”that has made all the difference.”は、もう一人のIあるいはフロストの現時点での嘆きなのです。

もう少し、“The Road Not Taken”について話します。ここで使われている”road”という語が、喩であることはお分かりだと思います。人生とか、将来の道とかいうことでしょう。高校生たちの別れと新たな出発に際してのセンチメンタルな思い出を飾る詩のように読まれるのももっともです。それはそれとして私には何の文句もありません。しかし、もう少しこの詩に付き合ってみると、この詩からなにか激しい痛恨の思いのようなものが聞こえてくるようです。ここで何かを、フロストは決定的に失った何かを嘆いているのではないでしょうか?私には、この”road”、二つの道の暗喩が指し示すものは、もっと複雑なものに感じられます。たとえば、それは二人の同じような自分のうちの、もう一人の自分であったかもしれませんし、愛する人や友人の暗喩であるかもしれません。

ワーズワースに戻ります。ワーズワースの”untrodden”は、もうお分かりのように、フロストの詩では”In leaves no step had trodden black.”と”one less traveled”という句に反映しています、そして”The difference to me !”は、最後の”And that has made all the difference.”
に。だから、ワーズワースの”The difference to me !”も、喪失の感情をそのまま訳すべきだというのが、このエッセイの結論です。そして、フロストのこの詩は墓碑銘であること、それも言いたかったことです。話がいつものように暗くなり、また暑苦しくなったところで、終りにします。(8月5日、午前11時45分、書き終わる)

2008年8月1日金曜日

カリブと盛岡の風

昨晩は、明治や法政でフランス語の非常勤をやっている教え子と、彼の後輩でペルシア文学を東京外大の博士課程で研究している女性と、三名で八王子で飲んだ。

Oさんというその女性とは初対面だったが、とても感じのいい子だった。二人ともぼくの息子と同年代だ。この世代は結構苦労しているな、と思う。いわゆるロス・ジェネの世代で、いろいろ言われるが、彼らの生まれる前のことまで触手を伸ばそうとする姿勢がある。教え子のNはカリブ圏の文学、エドゥアール・グリッサンが専門で、博士号もそれで取った。そこから沖縄に手を伸ばして、今度「未来社」から共著だが、本を出すということだ。

Oさんがペルシア文学専攻というので、酔っ払ったぼくは、「わたしはあなたがすきです」とペルシア文字で書いてくれと頼んだ。小さな流麗な書体で箸袋に右から左へと書いてくれた。彼女は、ぼくに進呈するということで持ってきた、高校時代の自分の詩やエッセイ、書の作品などをまとめた本、母上が高校卒業記念にということで作ってくれたという、その本を頂戴した。そのなかの書のすばらしさ、千字文や金文を書いたものなど、高校時代に文部大臣奨励賞をもらっている。

とても惹かれるものがあった。それは齊藤茂吉の、

「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」という歌集『小園』から選んだ一首だ。

これは第48回全日本学生書道展(半切の部)金賞、平成十年のもの。ちょっとすごいね。
カリグラフィの特技はペルシア文字・文学にも生かされているのだった。土曜美術出版社からイランの現代詩の翻訳を出すということだ。何かの選集の訳者の一人として。Oさんは盛岡の出身である。母上、吉田美和子は『宮澤賢治 天上のジョバンニ・地上のゴーシュ』(小沢書店)、(この題名とてもひかれる)の著者であり、最近は蕉門十哲の一人、越人の研究もなさっているという。尾形亀之助も。母上、吉田さんの『木槿通信』という雑誌も頂戴した。

この聡明で優秀、しかしそれを少しも鼻にかけない若者二人と飲んでいて、ぼくは嬉しかった。そのあまりに、二次会まで彼らを誘い出し、そのかみの行きつけの寿司屋「江戸勢」でまた飲みなおしたのだった。

今日、N君から頂戴した東大大学院総合文化研究科国際社会学専攻という長たらしいところから出ている論集『相関社会科学 第17号』に載っている、公募で選ばれた彼の論文『フランツ・ファノンとニグロの身体』をじっくりと読んだ。読み終わってN君の目指す方向性がよくわかった。ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』1952年の再読を通して、N君はそこにある、混迷と錯乱、散文化できえぬものの沸騰を評価することで、汎アフリカ的本質主義的なアイデンティティ(ネグリチュード)への回帰や後期ファノンのアルジェリア独立運動への没入からつかみだされた「革命的な民族」の創出とも違う、独自なファノン像の端緒を開示しようとしている。

これは難しい問題をすぐに呼びおこすかもしれないが、とくにこういう視点で沖縄独立論者たち、新川明にはじまる彼らの読み直しをやろうということだとぼくは思った、そういう試みの貴重さゆえに、彼のこれからの営為をぼくは静かに見守っていきたいとつくづく今日思ったのである。負けるな!


「ひぐらしのかなかなとなきゆけばわれのこころのほそりたりけれ」

これは茂吉やぼくの心境。

連詩『卵』(9.June--1.August) by FARM


わたしは生きる、と書いたあとに
撮影所に出る川べりを歩いている。
ひとつの主題として
梅雨空の下の容器から
音楽のなかに卵をとりだす。その前に
黒い点となって消えようとする人影を追った。 (健二)


蜜蜂たちの大量失踪の映像を見たあとに
受粉を待つ雌蕊のことを思った。
果実、卵、すべての無言の形が消えて、白い
鋼の色が叫んでいる交差点。
「ないということさえない」破れた殻のなかに
小さな鼓動とかすかな蜜の味、浅い朝に。  (英己)


雲の上、太陽の黒点が増えてゆく
路面にあいた無数の穴が土色の水を溜めている
男は交差点を左折して
向い側の白い壁の割れ目に入っていった
パソコンに向かうと
色のない夢の中のように体が冷えてくる      (豊美)


成城学園前から千歳船橋へ
千歳船橋から千歳烏山へ
バスで移動した。
ちがう街の空気、穴と割れ目の
隠し方をそれぞれに工夫しているから
卵にむかう理由も変化する。         (健二)


片倉の蓮池で翡翠を見た、2度目だ。
望遠レンズのカメラたちもじっと見つめている。
とても小さな、それでいて梅雨空を輝かせる宝玉。
水面に垂れている細い枝に軽く止まっていたが、
水に突っ込むと、スーッと空に上昇して行った。
そのことを思っていた、その姿も。          (英己)


ねむれない夜、
わたしから遠く、夜のはてを
鳴きながらわたってゆくものがある
あれは何だ、夜明けを知らせる鳥のような
かすかな光を運んでゆくいのちの歌声のような
天に近く、ねむれない私からはるかに遠く、         (豊美)
  

出会う卵を割らないように
ゆっくりと歩く。歩きながら見ている
捜索者の夢。暗い通路の先の
水辺に映る
わたしの影の上を
一羽の可憐な鳥が飛ぶ。         (健二)


ヨルダン川の
ヨハネのように
湯殿川の
鵜が羽を広げていたのだ。
呼びかけられている、ただ呼びかけられているのに
卵生の異形のもの、などと思って見慣れた花に目をそらすのだった。   (英己)


破壊された戦車の下で微笑んでいた、
ゴラン高原の写真集で。
天使の足元から話しかけてきた、
サンタンジェロ橋の石畳で。
三浦半島の崖では鳥の巣のようにむらがって、
風に吹かれている。あの小さな薄桃色の花     (豊美)

10
『花の慕情』という五〇年前の映画の
花と司葉子。死んでいる卵のなかの
二種類のいのち。ただ立つものと
立って歩くもの。風のなかの
枝たち、どんな美しさをおそれあって
物語の崖をとびおりる鋏に切り落とされるのか。    (健二)

11 
半夏生の葉脈の白さをまだ見ない。
夏至にも気づかれることなく生活は過ぎてゆく。
貧しい卵をあたため、急に夏の盛りに
出遭う。ほのかな少女のあせばむ白いブラウスの夢。
浅い根の生きものたち、その秘められた感情の
最初のページにリスト・カットの血がにじんだ。    (英己)

12
あたらしい少女たちがやってくる
壊れそうで決して壊れない彼女たちが
楕円形の物語から抜け出して来る
カミソリの刃のようなところを平然とこちら側に
渡ってくる、根拠のないものの軽快さで眉を上げて
スカートから逸脱した踊る脚どりで         (豊美)
                   
13
「少女たちは欲望されると同時に欲望している」
と批評家Aは書く。何からぬけだしたのか?
「ほんとうは、この先にたのしいことなんか
待っていない」とわかったステップで、烏山通りから
甲州街道に出る。いくつもの断層を
隠し切れずに、世田谷の夜は炭水化物をきらう。   (健二)

14
火曜日。ドローレスという名とともに、
隠されていたプロットがにじみ出した。
小さなアスターが背筋をまっすぐに伸ばしている。
パーマネント・ヴァケーションという映画の
タイトルを思い出す。茎から花冠へと昇る
悲しみに理由はない。             (英己)

15
積み上げられた積み木の家
想像される未来の乾いた空気
少女たちの中でいつまでも固まらないプロット
夏休みの予定表はあらかじめ組み立てられ
夕立が来て青草の匂いが急に高くなる。理由もなく
乳房が膨らみ、怒りのようなものが湧いてくる        (豊美)

16
日没の卵を救うために
破棄せよ、溺死者の夏休みも、投身自殺した哲学者のプロットも。
吸えるものならば未来の空気を吸って
京王線で府中に出る。
「何にでもなりうる」
動き、成長する小さな者たちとともに。         (健二)

17
「おじさん、卵を一つくださいよ」
猫とバイオリンをあげるから。
塀から落ちたハンプティ・ダンプティ
フクロウに頼んだ
雀に呼びかけた。
それを夕焼けが見ていた、見ていた。          (英己)

18
夕焼けの四谷大橋を渡って夜が窓の外まで来ている。
卵料理はすべて、卵を割るところから始まる。
ガス台の前に立って、
夜のメニューの1ページ目を開く。
ふと振り向くと、子どもらはまだ橋の上にいる。
夕陽を浴びて笑いさざめいている。      (豊美)


(note)

連詩『卵』が完成しました。
以前に連絡しましたが明後日8月3日(日)、午後5時から
国立の音楽茶屋『奏』で、この新作連詩の発表をふくめた、FARMの
「詩朗読LIVE」を行います。

(場所) 音楽茶屋 奏
   国立市東1-17-20サンライズ21 B1F
Tel 042-574-1569
JR 国立駅南口旭通りへ徒歩5分、右側地下1階

(料金) オーダー+出演者へのカンパ


久しぶりのFARMの登場です。「全力疾走」で、この蒸し暑さを吹き飛ばしたいと思っています。