2011年6月29日水曜日

ホトトギスとコミュニティ

 賀茂へまゐる道に、「田植う」とて、女の、新しき折敷のやうなるものを笠に着て、いと多う立ちて、歌を唄ふ。折れ伏すやうに、また何ごとするとも見えで、うしろざまにゆく。「いかなるにかあらむ。をかし」と見ゆるほどに、郭公をいとなめう唄ふを聞くにぞ心憂き。「郭公、おれ、かやつよ。おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」と唄ふを聞くも、いかなる人か、「いたくな鳴きそ」とは言ひけむ。仲忠が童生ひ言ひおとす人と、「郭公、鶯に劣る」と言ふ人こそ、いとつらう憎けれ。     (二一〇段)




 八月晦、「太秦に詣づ」とて見れば、穂に出でたる田を、人いと多く見騒ぐは、稲刈るなりけり。「早苗取りしかいつのまに」、まことに先つ頃、「賀茂へ詣づ」とて見しが、あはれにもなりにけるかな。これは男どもの、いと赤き稲の、本ぞ青きを持たりて刈る。何にかあらむして、本を切るさまぞ、やすげに、せまほしげに見ゆるや。いかでさすらむ。穂をうち敷きて、並みをるもをかし。廬のさまなど。 (二一一段)



 朝、そして午後、自宅に居るときに、よく郭公の鳴くのを聞く。同じ郭公だと、私は鳴き声で見当をつけているのだが、その姿を見たことはない。清少納言も郭公が好きだったということが「枕草子」でよくわかる。また、この郭公が農事、田植えと密接な縁を持っていたこともわかる。平安女房は田植えの早乙女たちの作業をよくしらないというふうに書いているが、そんなことはあるまい。清少納言の面白いのは、田植えの女性たちが、郭公に向かって「おまえが鳴くから私は田植えをしなければならないのだ」という唄、労働歌だろう、それをちゃんと採集しているところだ。それを郭公好きの自分としては郭公を悪くいうようで嫌いだと書いている。鶯よりも好きだったのだ。田植えから稲刈りまで、彼女はきちっと観ていたのだ、知っていたのだ。「あはれにもなりにけるかな」という感慨は身にしみるものだ。彼女を「をかし」などとは誰言ひけむ。



 6月25日、真柄希里穂さんがコーディネイトしている研究会に出た。空閑(くが)睦子さんの博士論文の発表会。その論文のタイトルは「変化する価値観におけるコミュニティ創生の研究 ―グローカルな次元でみんながつながる、ウエルビーイングを求めてのコミュニケーション・コミュニティの発想―」。空閑睦子さんは「実践:田舎の探し方」(ダイヤモンド社)をはじめ、いわゆる田舎探しの本などを書いている。震災後ということもあって、コミュティの問題はこれからいっそう切実な問題として考えなければならなくなるだろう。とても刺激的で参考になる発表だった。彼女はこれで博士号を取得したということだった。その助言者(スーパーバイザー)として、中山和久さんという民俗(族)学、社会学の先生が来られていた。発表の後のまとめや、その後の懇談会での話が印象的だった。ぼくよりもちろんお若いが、今のテーマは「巡礼」ということ。お遍路の話などを聴いた。「日本における巡礼景観の構成原理」というお勤めの大学の紀要に書かれた論文の別刷を頂戴した。夏休みの読書の一冊として、楽しみにしている。真柄さんは日本福祉教育専門学校、精神保健福祉養成学科の教員であり、阪大の院生でもある。そして高校のときの私の教え子でもある。

2011年6月23日木曜日

エメ・セゼール「帰郷ノート」を読む1

「私が、私だけが、最後の津波の最後の波の最終列車の座席を差し押さえるのだ」(エメ・セゼール「帰郷ノート」ノート1)こういう詩行を発見すると、そこで立ち止まらざるをえなくなる。植民地主義という「津波」と自然のそれ。

2011年6月20日月曜日

親友交歓

 昨晩(6月19日)はフランスから一時帰国している中村夫妻と三軒はしごする。まず待ち合わせ場所の吉祥寺公園寄り伊勢屋で三時間近く飲み、それから西荻に移動し、教え子の「ソーヤー・カフェ」でラム酒。その後西荻で見つけた「新保」という飲み屋にゆく。そこで奇遇とも言うべき出会いあり。それは中村夫妻の知人だった。店が満員だったので、僕たちは隠れ部屋というか、屋根裏部屋のような所に通され、そこに「みやこうせい」という知る人ぞ知る(いや有名な人なのだが、ぼくは始めて知った)写真家でエッセイストの人がいたのである。みやさんと、その友だちの浅沼さん。みやさんはぼくより十歳ぐらい上だが、そうは見えない、若々しさに溢れたひとだった。ご両人とも岩手出身の人。菜穂さんもそうだ。盛岡。楽しい日だった。中村君、菜穂さん、ありがとう。




中村君は西荻の音羽館を知っていた。彼が本を買いたいというので、一緒に行く。店主のHさんとも久しぶりに会う。そこにあった「現代思想」06年・2月臨時増刊「フランス暴動」を中村君はあがない、ぼくに贈ってくれた。彼が訳したグリッサンとシャモワゾーの「遠くから」がある。ぼくは中村君に奨められてグリッサンの「関係の詩学」を買う。昔の高校時代の教え子の刺激的な話を聴きながら、彼、中村隆之が単著でグリッサン論を刊行する日も遠くはないなと思った。



今日、山の上の学校で、生徒たちに話す。ぼくの教え子はね、自慢できるすばらしい人間ばかりなんだ。だから、きみたちも必ずそうなるよ、自信を持ちなさいね。

2011年6月19日日曜日

Forget your sorrows and dance!

父の日、桜桃忌、仏滅、なにか三題噺のようだと、ツイッターで清水さんが書いておられた。

天候もぱっとしない。これから晴れてくるのだろうか。
昨晩は、息子夫婦から父の日のプレゼントとして、最近私が凝っていると知っているのだろう、Bob Marleyの"LIVE FOREVER"(1980年9月23日、ピッツバーグでのライブの収録)という二枚組のCDと"after Bob Marley"というDVDを貰った。今聴いている。知らない曲もあるからうれしい。

Forget your sorrows and dance!
Forget your troubles and dance!
Forget your sickness and dance!
Forgete your weakness and dance!

http://www.youtube.com/watch?v=F5kAxuye5xY&feature=fvwrel

2011年6月9日木曜日

I shot the sheriff

 最近はBob Marleyばかり聴いている。遅れてきたラスタマンを自認している。髪があれば、ドレッドヘヤーにする、絶対にする。70年代から80年代にかけて、今聴いても面白い、クラッシックではないポップスのジャンルですごい音楽が一杯あったのに、おれはそのころ何をしていたのだろう、と思う。くだらない文学などにつきまとわれ、さえない頭で酒の勢いにまかせてくだらない詩を書いていたのだと思うと、情けない。もっとそのころ同じ世代のすてきなミュージシャンたちの歌や詞を浴びるように聴いておくべきだったと思う。たとえばBob Marleyもそうだ。You Tubeの再生リストに入れた彼の曲を聴きながら書いているのだが、No woman no cryが今鳴っている。歌に反して、泣きたくなる。この歌の発表の時点での、挫折の歌だが、比べるものがないほどリアルでそれゆえ切ない希望の輝きがあふれている。
 "I shot the sheriff "はエリック・クラプトンがカヴァーして大ヒットさせ、レゲエという音楽を世界中に知らしめるきっかけを作った曲らしいが、なるほどクラプトンの演奏はこれ以上ない最高のもので、彼のハイドパークでのライブをYou Tubeで視聴できるが、まさに鳥肌モノである。しかし、どうだろう、クラプトンの重装備に比べると貧弱きわまりない本家Wailersの演奏は、陳腐な言い方だが、魂が叫んでいる、そのぎりぎりの叫びである点で、私はクラプトンに勝るとも劣らない演奏だと思う。両者とも素晴らしいと言えばそれでもいい。

2011年6月1日水曜日

連句雑俎

七部集輪読の日(5月28日・土)

 ぼくの発表。「猿蓑」の第一歌仙「鳶の羽」を読む。岩田氏は所用あって欠席。林氏とぼくのみ。いつもの会議室がとれなかったので、2階の和室。その半分は仕切ってあって、囲碁クラブのような集まりが使用している。碁石の音が気になったけど、次第に歌仙に集中していった。この巻は去来、凡兆、史邦、芭蕉先生の四名での興行。表六句を書いてみよう。

鳶の羽も刷ぬはつしぐれ      去来
一ふき風の木の葉しづまる     芭蕉
股引の朝からぬるゝ川こえて    凡兆
たぬきをゝどす篠張の弓      史邦
まいら戸に蔦這ひかゝる宵の月   芭蕉
人にもくれず名物の梨       去来

このはじまりはやはり今までの歌仙(「冬の日」などの)とは違っている感じがする。去来の発句は芭蕉の、この集の巻頭句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」を受けている。発句の味わいは蕪村晩年の「鳶」図にきわまると安東次男は述べている(「芭蕉七部集評釈」)。「濡れに立ち向かう者の身を引き締めた風姿」を蕪村の絵は伝えて余すところがないという。その絵を背景に安東は去来のこの句を読む。発句の読みの姿勢が定まると、全体の読みも調整されるというのがぼくの経験だ。安東のおかげで蕪村の絵のイメージがこの歌仙のガイドとなった。格調の高さ、「さび」や「かるみ」、門外漢にははっきりと分からないながらも、ああこういうところだろうなという感触。なかでもいいなと思った句がある、それは去来の「火ともしに暮れば登る峰の寺」という長句など。この句が心に残っていた。

柳田國男は繰り返し俳諧の魅力について書いている。自分でも折口信夫などと一座して歌仙をいくつか巻いているのは有名である。彼が英国にいたころ(たぶん、国際連盟の委員としての仕事であろう)の話。
「大震災の時にはロンドンにいたが、家郷の音信を待つ間、その愁ひを忘れるために、西馬校本の七部集を携えて北の海岸を巡歴し、車中であの付合の大部分を暗記して来たのが、今でもまだ切れ切れに、寝らぬ夜の楽しみに残っている」(『俳諧と俳諧観』)と昭和24年ごろに書いている。3・11を経験した現在に照らして含蓄があって忘れがたい一節だ。

もう一つ『七部集の話』では次のように書いている。
俳諧、芭蕉についての本が「この頃」(昭和・戦後)までにあまりなかったということを述べたあとに、
「私などの場合をいふならば、明治32の末にホトトギス発行所から、俳諧三佳書といふ小形本が出たのを早速買い求めて猿蓑だけを読んだ。子規氏の解釈は主として発句をほめていたが、私などの楽しいと思ったのはやはり連句の方であって、たとへば、
  火ともしに暮れば登る峯の寺
とか、又は、
  茴香の実を吹落す夕嵐
とかいふやうな付句を、間もなく暗記してしまふほど吟誦したものであった。しかしこれがただ七部集といふものの一篇であることを知るだけで、…(中略)…十何年もしてから始めて西馬の標注七部集といふ二冊本を手に入れた。…(略)人を馬鹿にしたやうな、わかりきったことしか註釈して無いといふつまらぬ本だったが、それでも縁が有って今に持ち伝へているのみでなく、私はこれを携へて二年余り、西洋の諸国をあるきまはり、あの大震災直後の愁ひ多き数週間を、これにかじりついて暮らしていたこともおぼえて居る。今となっては棄てることのできない記念の書である。」

ここでも大震災のときに、七部集にかじりついて我が身を支えたというようなことが述べられているのが興味深い。これを引用したのが、柳田がまず覚えた付け句が去来の「火ともしに」であったこと、それが私の好きな句であること、その同一を「記念」せんがためでもある。どうでもいいことだが。ちなみに「茴香の実を吹落す夕嵐」も去来の付け句で、これは三名(去来・凡兆・芭蕉)の巻いた「猿蓑」第二歌仙「市中は物のにほひや夏の月」にある句。

柳田の先程の『俳諧と俳諧観』は寺田寅彦に捧げたオマージュのような文章だが、ぼくはこの文章ではじめて寺田が並々ならぬ俳諧・連句の鑑賞・批評家であり、また実作者であることを知った。「寺田寅彦随筆集 第三巻」(岩波文庫)を早速求めて所収の「連句雑俎」を読んだ。その面白さは最近のわが「愁ひ」を払うほどのものだった。連句俳諧を「寺田さんはあたり構はずに、これは西洋に無いから、日本独特だから大いに復興させようと言はれるのである。それを私は知らないばかりに、正面に立って拍手を送らなかったのが残念でたまらない」と柳田は書いている。寺田の、連句と音楽との対比には目から鱗が落ちる思いがした。寺田の「連句雑俎」の「一連句の独自性」の章から、

「…南洋中の島では一年じゅうがほとんど同じ季節であり、春夏秋冬はただの言葉である。ここでは俳諧はありえない。またたとえばドイツやイギリスにはほんとうの「夏」が欠如している。そしてモンスーンのないかの血にはほんとうの「春風」「秋風」がなく、またかの地には「野分」がなく「五月雨」がなく「しぐれ」がなく、「柿紅葉」がなく「霜柱」もない。しかし大陸と大洋との気象活動中心の境界線にまたがる日本では、どうかすると一日の中に夏と冬とがひっくり返るようなことさえある。その上に大地震があり大火事がある。無常迅速は実にわが国風土の特徴であるように私には思われる。」と書き、このことを知るには俳諧連句を読むに如かずという。
「試みに「鳶の羽」の巻をひもといてみる。鳶はひとしきり時雨に悩むがやがて風収まって羽づくろいをする。その姿を哀れと見るのは、すなわち日本人の日常生活のあわれを一羽の鳥に投影してしばらくそれを客観する、そこに始めて俳諧が生まれるのである。旅には渡渉する川が横たわり、住には小獣の迫害がある。そうして梨を作り、墨絵を書きなぐり、めりやすを着用し、午の貝をぶうぶうと鳴らし、茣蓙に寝ね、芙蓉の散るを賞し、そうして水前寺の吸い物をすするのである。このようにして一連句は日本人の過去、現在、未来の生きた生活の忠実なる活動写真であり、また最も優秀なるモンタージュ映画となるのである」(昭和6年3月 渋柿)

寺田寅彦の連句論について書いてみたいと思っている。