2009年1月31日土曜日

世外の楽しみ

昨日は雨の中、都営新宿線の森下駅で降りて、芭蕉庵があったと推定されるところに建立されている深川の芭蕉記念館に行く。午後5時頃から、友人たちと森下で飲むということがその日の行事だったのだが、早く出て芭蕉記念館を訪ねたのだった。神保町、小川町、などと電車が駅名をアナウンスしながら過ぎてゆくたびに、漱石の世界、たしか『彼岸過迄』に出てきた地名が次々に現われてくる。それだけで地名が呼び起こすある種の幻覚状態に自分が入っているような気がした。近代文学から17世紀の芭蕉の時空まで、この地下鉄路線は走っていることになるのか。

 
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森下駅で降りて、隅田川(大川と呼びたい)にかかる新大橋に向かって歩く。そこを渡らずに左折して、川沿いに清州橋の方に向かって歩くとすぐ芭蕉記念館である。[近世の名数俳人―三神・五傑・十哲など―]いうタイトルの特別展が開催されていたが、見学者はしばらくの間は私一人であった。私は、芭蕉が、金沢の俳諧の弟子で僧侶の句空にあてた手紙(元禄四年正月三日付け)の雄渾な書体を見つめていた。帰ってから岩波文庫の『芭蕉書簡集』にあたる。「山中三吟」を基とした『卯辰集』の刊行に対して、芭蕉が注文を付けながらもそれを許した、その文脈のなかにある書簡だが、もっと勉強しなさい、と金沢の門人の代表のような人に向けて言っている。次のような言い方で。

…是非今一度再会之上にて、風雅御究可被成候(風雅御きわめなさるべく候)。御捨てなく候段、即ち西行・能因が精神、世外之楽、此外有間敷候(世外の楽しみ、この外あるまじく候)…

西行や能因の精神に立ち返ることで、「世外の楽しみ」を追求しなさいということだろう。
「世外之楽」という流麗雄渾な書体を見つめていた。それから外に出た。雨は激しく降っていた。大川沿いの舗装されたテラス!を傘をさしながら歩く。私一人である。芭蕉の句がそこここのプレートに書かれている。史跡庭園まで歩く。

―記念館の梅と芭蕉句(春もややけしきととのふ月と梅)―
 
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―記念館を出て雨の中の大川、新大橋を望む―

 
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2009年1月28日水曜日

書評

現代詩手帖の2月号に、中村隆之がぼくの『樂府』の書評を書いている。中村はフランス文学、なかでもカリブのグリッサンなどのクレオール文学というか、旧フランス植民地の文学者や文学を専門にしている気鋭の研究者である。沖縄の詩人、川満信一などの詩にも詳しい。この詩集の書評は詩人たちには書いてほしくなかった。中村のように大きなパースペクティブで読んでほしいと思っていたので、わが意を得たり、というか、わが思いを代弁してくれたと感じる書評だった。中村は、この4月からカリブに一年間研究のために行く。実りある研究を期待できよう。

同じ号の「詩書月評」(田中庸介)も『樂府』を取り上げてくれていた。ぼくを「社会派の詩人」というように規定している。なかなか含みのある面白い書評である。

2009年1月22日木曜日

冬ごもり

山の上の学校に久し振りにゆく
少女たちが挨拶をしてくれる
先生、葱を食べましたか?
いつもの無人販売所は
寒さのためか閉まっていた
カントはそのことを怒るかしら?
鵜飼さんの、歓待の思想はカントから来ているが
易しいことを
むつかしく言う癖は葱を食せば治るだろう
寒い冬、冬ごもりにしかず
ご苦労なことに、
イノギュレーションは厳寒の一月の20日と決まっている
極寒の日の父祖たちを
暖房のよくきいた部屋で想起する、
友人の演説は
My mellow pussiesという呼びかけからはじまる
My fellow citizensという大統領の呼びかけに対抗しようというわけだ
いずれにせよ
ここの、未曾有の最低メンバーたちのさもしい集まりよりは…

清潔なプッシー、熟れたプッシー、考えるシティズン、草の
根のようにシティズンが拡がる、というようなことを…、そして
冬ごもり、日本の文芸の父祖たちを想起する
「冬ごもり心の奥のよしの山」という蕪村の句は
あの未曾有の最悪のメンバーたち、
自分を最良だなどと思っている、そういうメンバーたちをも
救うだろうか?
この問いは馬鹿げている
冬ごもり心の奥、そこに向かう旅にすでに旅立たせられている
そういう草、艸を、その心だけを思えばいいのだ
そして、つねに途上にいるしかない草、艸を
それが「冬ごもり心の奥のよしの山」ということだ

は、はは、と笑って
石をかついで走っている
浮きそうになる、浮きそうになるから?
ベトちゃんの4番、クライバーのを聴いているから
絶対、大丈夫!
は、はは、と笑って
石をかついで走っている
冬ごもり、こもりきれずに走っている

2009年1月19日月曜日

Opening Inaugural Celebration

“We Are One: Opening Inaugural Celebration.”

18日の日曜日、ワシントンDCのリンカーン記念館のあるナショナル・モールで行われたオバマの20日の就任式の前祝いとなる集まりは、すさまじい人数の人々の集まりだったようだ。リンカーンの銅像の下で演説するオバマの姿は、点のようにしか見えないはずだが、午後から行われるこの祝祭(スプリングスティーン、ピート・シガー、U2、スティビー・ワンダーなどのコンサートもある)のために、寒さをものともせずに午前2時にはもう人々が並んでいたという。このモールを埋めた人々の熱気と情熱の真摯さを感ぜずにはいられなかった。nyt.comは逐次、その様子をblog形式で詳細に報告している。次のような記述があった。

Laiona Weaver, 35, an actress who lives on the Upper West Side of Manhattan and took an Amtrak train to Washington this morning for $120, watched Barack Obama give his speech through binoculars.

Pressed against the fence like thousands of others, the President-elect looked like a tiny dot half a mile away.

She’s still happy she came “to be a part of history. If he lives up to half of his promises he’ll be 100 per cent better than Bush.”

U2のボノが、感極まって、オバマに向かって、あなたはアメリカの夢であると同じように自分たちダブリン生まれのアイリッシュの小僧の夢だ、ヨーロッパの夢であり、アフリカの夢だ、またイスラエルの夢だ、そしてちょっとポーズを置いたあと、「パレスチナの夢」でもあると言ったそうだ。もちろん、このdreamは46年前、ちょうどここでキング牧師によってなされた”I have a dream”の有名な演説から借用されたものだ。ボノも相当に興奮していたのか、43年前の演説と,誤って最初は叫び、そのあとにすぐ訂正したという。報告する記者の記事も微細にわたる。

スプリングスティーンとピート・シガーはウディ・ガスリーの“This Land Is Your Land.”を歌ったという。次のように記事にはある。

The Boss has played the song — written by another folk legend, Woody Guthrie – in live shows before.

On his CD, Live/1975-85, Springsteen calls Guthrie’s song an angry song and notes it was written in response to Irving Berlin’s “God Bless America.”

Springsteenによれば、この歌は「怒りの歌」であり、ガスリーは“God Bless America.”に対するレスポンスとしてこれを書いたという。“God Bless America.”が不満だったのだろうか?

2009年1月12日月曜日

CHE

1月10日(土)

村上龍が編集長をつとめるメールマガジンを読んでいたら、映画「チェ・ゲバラ二部作」(以下この映画に言及するときは”CHE”)の推薦のために配給会社から依頼されて村上が書いた文章が掲載されていた。私はそれを読み、いたく感動したので、先日の授業のなかで紹介した。以下の通り。

― 08年9月のいわゆるリーマン・ショックで始まった世界的経済危機だが、循環的なものではなく、歴史の転換点だとわたしは考えている。金銭的利益だけを優先する企業戦略が破綻したと見るべきで、求められているのは景気回復などではなく、価値の転換であると思う。チェ・ゲバラが、生涯を賭して求めたのは、まさに金銭的利益以外の価値だった。人間の精神の自由と社会の公正さ。シンプルで、そして間違いなくもっとも重要なものだった。社会主義イデオロギーを世界に広めるために戦ったわけではない。イデオロギーはツールに過ぎない。どのような苦境にあっても向上心を忘れず、読み書きできる素晴らしさを仲間に教え、負傷した同志を決して見放すことなく、病気を患った住民を親身になって治療した。喘息の発作を起こしながらもキューバとボリビアのジャングルを行軍するチェ・ゲバラを、この映画は初めて現実化した。それは人類の希望そのものだ。わたしはその姿を、決して忘れることがないだろう。―

授業のあとに、受講者のS君に、今日この大学で、この映画の無料の試写会がありますよ、と言われた。10日が一般公開だったが、その前日9日の金曜日の話である。一挙に2部ともやるのだろうか?などとぼくは反問したが、S君もよくわからないようだった。風邪気味だったし、しかも、ない知恵をしぼりきった授業のあとで、ぐったり疲れているので見る気力はなかった。近くの映画館で見ることにします、ありがとうということで別れた。(立教にはラテンアメリカ研究所があるから、そこでこの映画に関係した人たちの筋で試写会が行われる、行われたのだろうと、これは後で考えたこと。)

村上の文章に戻れば、現下の世界不況を「循環的なものではなく、歴史の転換点だとわたしは考えている。金銭的利益だけを優先する企業戦略が破綻したと見るべきで、求められているのは景気回復などではなく、価値の転換であると思う」と言い切ったところ。小手先の景気回復だけが論じられているなかだったので、心に残ったのである。そして、こことゲバラを結びつけたところ。なるほど、そうだよなと思った。しかし、ゲバラの時代から遠く隔たったのも事実、その経過のなかで、壁の崩壊をはじめ変化のメルクマールとなるべき事はいろいろあった。あったが、その「変化」や「改革」の、たぶん最初の志にはあったもので、なしくずしにされたものやこと、いやむしろその挫折をこそ商売に変えてしまうようなやり方の限界(資本主義の限界といってもいい)を考えたときに、ゲバラの生き方とその精神をいつでもあらためて探求したくなるのはきわめて健全な精神の在り方だとぼくは思う。「革命」的な生のシンボルというのではない。ゲバラの生き方、精神をある種のシンボルと考え、そうしてしまうことほど思考の怠惰を表明するものはない。この映画は、そういう意味で、きわめて冷静にハバナ進行への戦闘と、「革命」後の国連でのゲバラ演説とをオーバーラップさせながら、ゲバラを具体的・歴史的に探求してゆく映画のようである。ただし、この映画の公開の仕方に対しては異論がある。その不満は、なぜ、2部を一挙に見せないのか、ということに尽きる。彼の栄光と悲惨、その両方をこの映画は志向しているのではないか。

橋本のMOVIXで映画を観終わったあとに、カタログのようなものを買った。そこには次のようなことが書かれていた。

― …2008年、生誕80周年の期に、“ある男の半生”を描く1本の作品が、カンヌ国際映画祭を「悲鳴と喝采」で沸かせた。愛と情熱の革命家、チェ・ゲバラの生と死を描く『CHE』2部作である。総上映時間は約4時間30分。20分の休憩時には特例の「キットカット」と水が配給された。上映会場は、PART1『チェ28歳の革命』で若き革命家のヒロイズムに酔いしれ、PART2『チェ39歳 別れの手紙』では、その革命家の劇的な死の瞬間に悲鳴があがる―。
そしてスティーヴン・ソダーバーグ監督とチェ・ゲバラを演じたベニチオ・デル・トロの、「チェを映画化する」ことに対する一切の妥協もない姿勢と、他に類を見ないスタイルによって完成した「新しい映画の誕生」に、惜しみのない拍手が贈られたのだ。 ―

これはだれが書いたか知らないが、この宣伝子は、自らがこの映画や、その「原作」たるべきCHE(個人的には、ぼくは、いやぼくらの世代はと信ずるが、チェという革命家の、愛称より、ゲバラという名字を言うのを好むはずだ。きれいな高校生の女の子のようなモギリ?嬢に、3時20分からのゲバラの映画を一枚、シニアでと購入時に言ったところ、彼女は、当映画館にはそのような映画はかかっていません、というような、あわれむような目つきでぼくを見たので、チェと言い直したのだった。)の精神を明らかに裏切っていることを知るべきである。

きみの好きなチェが一番嫌ったのは、「特例」を作って、この観客たちにはすべてを見せる、そうでないものには見せない、そういうことではなかったろうか。いわんや、休憩時間の「キットカット」などにおいておや。訳知り顔に、いい加減なタイトルを二部作のそれぞれにつけて、観客には「若き革命家のヒロイズムに酔いしれ」などと、おそらく行動する人間としてのゲバラが一番抑制しようとした心の在り方に酔えと言うかのようでもある。着飾ったカンヌのセレブたちが酔いしれた4時間半を、ゲバラはどう思うだろうか?

ぼくが一番、この映画で感動したこと。それはスペイン語の響き。ゲバラを演じたデル・トロのスペイン語は、ゲバラとどう違い、どう同じなのか。そういうことを、とても知りたく思う。同じであることをもちろん、求めているのではない。デル・トロという俳優の面白さやソダーバーグ監督の面白さは、これら宣伝の扇情的なパンフレットの域をゆうに超えている。水村美苗は英語を「普遍語」と規定し、そこから、あられもない物語を紡ぎだしたが(その作業自体を否定はしない)、ここではスペイン語が「現地語」として、しかしきわめて「普遍語」的に響く、そしてそのことを作り手たちがあえて選んでいることがとても大切なことである。どういうことか?いつの世でも、「現地語」と「普遍語」の対抗を生きるしかなく、「普遍語」の圧政やその便利さによって「現地語」は死ぬはずもない、ということだ。そして水村の言う「国語」を拒否するのが「革命家」ではないか。

再度書く。スペイン語の美しく強い響き。この映画はそれがすべてだ。ぼくの友人に小松さんといって、スペイン語の堪能な、高校の世界史の教員がいる。小松さん、この映画のことについて今度一緒に酒でも飲みながら語り合いましょう。

2009年1月3日土曜日

港へ

昨日は女房と三崎漁港まで行ってきた。悲しくなるような快晴の空。十時半、片倉を出て、横浜で京急に乗り換えて三崎口に着いたのが一時前だった。そこからバスで漁港まで。去年の八月に新井さんがこの駅でFとTとぼくの三人を迎えてくれたのを思い出した。

バスのなかも結構な人の数だったが、漁港に着いて驚いたのはもっと数多くの観光客が有名無名のマグロ料理のお店の前を行ったり来たりしていることだった。漁港の「うらり」という、道の駅みたいな、ここでは海産物だが、その大きな販売所も開いていたし、海をめぐるようにして点在するお店のほとんどは正月の2日というのに、みな開いていて、しかも満員の状態だった。比較的、人が並んでいないお店で、遅い昼飯を食べた。もちろんマグロ料理のランチというもの。単純においしかった。

そのあとに、地元の「海南神社」に参詣した。初詣は産土の神に参るのだろうが、ぼくらみたいに、もうどこが故郷なのかわからなくなった離散者(ディアスポラ)には、むしろ旅先の神に参るのがふさわしいとも思う。交通安全のお守りやらなにやらを買った。海の神ゆえに交通安全、自動車の危難を避けうるのだろうとも思った。

 
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商店街の軒にアロエの花が咲いている。漁港から離れた商店街を歩く、うって変わってさびしいほどの静けさである。ゴムの大きな樹や観葉植物の域を越した、これまた巨大なゼラニュームのある通りに出た。去年の八月に新井さんに連れられて、この通りのお店で食べて飲んだのだった。奥に行けば行くほど、正月の漁村の静かなたたずまいを感じさせられることはわかるのだが、ぼくらは海港にもどり、子供たちの喜ぶ、海中の魚を見ることのできるという船に乗ることにした。子供もいないのに。「にじいろさかな号」の船底から見た、メジナやタイたち、彼らも船上から撒かれた餌などに引き寄せられて船に近寄って来るのだが、水陸両方の変わらぬ生活の困難さを思うと、いや思いはしなかったが、なにか悲しい気持ちになった。空のまぶしい青と冬の海のなにかをたたえて、たたえきれないという風情の青。

 
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漁港への帰途の船の中から見た富士のシルエットは美しかった。ぼくは太宰治の『富嶽百景』が好きだが、若い時のような過剰な感情移入なしで、はじめて目に映った富士のシルエットはこれだと思ったりした。こんなもんだ。

 
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