2009年7月26日日曜日

歩く用意

Thoreau(Henry David)のエッセイ、“Walking”の最初のところに、‘sauntering’辞書で引けば「ぶらぶらする、うろつく、歩き回る」とある、この語の語源を詮索する部分がある。ソローは、
which word is beautifully derived "from idle people who roved about the country, in the middle ages, and asked charity, under pretence of going à la sainte terre" — to the holy land, till the children exclaimed, "There goes a sainte-terrer", a saunterer — a holy-lander.

という説をまず紹介する。この語源は「美しい」という、つまりsaunterという語は、sainte terre(聖なる土地)、聖地への巡礼者、十字軍兵士、こういうイメージから生まれたというのである。中世のことだが、実際に、そこに行くふりをしただけのものもいようが、実際に行った者もいるのだという。それと、もう一つは対照的な説で、
Some, however, would derive the word from sans terre, without land or a home, which, therefore, in the good sense, will mean, having no particular home, but equally at home everywhere. For this is the secret of successful sauntering. He who sits still in a house all the time may be the greatest vagrant of all,

というように皮肉な見解を述べる。ここではsans (無)terre(土地)となるわけだ。ソローにとって、歩く(walking)が、市民的な怠惰を突き破り、絶対的な自由のシンボルである自然へ到達するための必須授業のようなイメージとして描かれているわけだから、当然この後者の語源は、

But I prefer the first, which indeed is the most probable derivation. For every walk is a sort of crusade, preached by some Peter the Hermit in us, to go forth and reconquer this holy land from the hands of the Infidels.

と否定される、「なぜなら、すべての歩くはある種の十字軍であり、われわれの心のなかに住む隠者ピーター某によって導かれ、進軍し聖地を異教徒たちの手から奪還する聖戦?だからである」とすごいことになるが、ユーモアがないわけではない。この連結、歩くことと十字軍の、そのものがありそうであるけど、ソローの意識には十二分に現代にも通じるようなモダンなウォーキングのそれもあるから、ここは誇張法で歩くことを先鋭化しているのである。そもそも、このエッセイの始まりに述べられていることわりがそれを明示していた。

I WISH TO SPEAK a word for nature, for absolute Freedom and Wildness, as contrasted with a freedom and Culture merely civil, — to regard man as an inhabitant, or a part and parcel of Nature, rather than a member of society. I wish to make an extreme statement, if so I may make a emphatic one, for there are enough champions of civilization; the minister, and the school-committee, and every one of you will take care of that.
極論(an extreme statement)を述べたいと願っていたのだ。

これが冒頭のパラグラフ。この前の、「異教徒たちの手から云々」に戻ると、次のような宣言が、マニフェストが高らかに謳われる。私はここが昔から好きなので、こうしてここまで書いてきた、これを書いてきたようなもの。

It is true, we are but faint hearted crusaders, even the walkers, now-a-days, who undertake no persevering never ending enterprises. Our expeditions are but tours and come round again at evening to the old hearth side from which we set out. Half the walk is but retracing our steps. We should go forth on the shortest walk, perchance, in the spirit of undying adventure, never to return; prepared to send back our embalmed hearts only, as relics to our desolate kingdoms. If you are ready to leave father and mother, and brother and sister, and wife and child and friends, and never see them again; if you have paid your debts, and made your will, and settled all your affairs, and are a free man; then you are ready for a walk..

「たしかに、われわれは臆病な十字軍兵士にすぎない、いや単なる歩行者にすぎない、現代の。われわれは忍耐強い、終わることのない事業などに取り組むことなどしない。われわれの探検は単なるツアーにすぎない、なつかしい炉辺に夜には再び戻ってくるしかない、われわれがセットアップしたそこに再びもどるしかないツアーにすぎない。その半分は、あとに戻るステップにすぎないのだ。

我々はおそらく決して帰ることのない不滅の冒険に出発する気持ちで、我々の防腐処理された心臓を、荒廃した我々の王国にほんの形見として送り返す覚悟をもって、どんな短い散歩にさえ出かけて行くべきだ。もし、あなたが、父母、兄弟姉妹、妻子、そして友を残し、彼らと再び会わない覚悟ができているなら―もしあなたが負債を払い、遺言書を書き、すべての問題を整理し、そして自由な人間となるなら、あなたは歩く用意ができたのである」

恰好いいね。このコンコードの森の人間、徹底した反戦主義者の言明は。

(明日から、アメリカに行きます。一ヶ月近く、このblog休みます。みなさんのご健勝を祈ります。)

2009年7月23日木曜日

大隠は朝市にあり、小隠は丘岳に入る

 
市中であれ、岳林、山林であれ、俗世(間)から「遁れる」とか「隠れる」というのには 、世間に対するなんらかの異和感、抵抗、諦念、敗北感、復讐心、抗議、ひょっとしたら、闘争の意識―たとえあまり自覚的でないとしても―さえ場合によっては秘められているかもしれない。もしそうなら、それらを徹底して隠すことであらねばならない。徹底しなければ、隠すべき対世間への意識の一部が外にもれてしまう。一方もらすことでただ凡庸なだけの者、あるいはたんに風変わりな者でないとの表示―世間への対抗を示したり、スネていることを示して、隠者ぶる、スネ者ぶる、反体制ぶる手合いももちろんある。
(『隠者はめぐる』富岡多惠子・岩波書店)


先日読了した本だが、富岡多惠子の『隠者はめぐる』は、ああでもない、こうでもない、と、いわゆる「隠者」「隠士」をめぐり、エッセイの醍醐味を著者本人自身が味おうというような ゆるいスタイルで書かれた「隠者」論だ。私も眠りに落ちる前の読書として、布団のうえで気儘に読んだ。扱われてる「隠者」たちの中心は契沖である。そのことが私の興味を引いたことの主な理由の一つだった。大著『万葉代匠記』の学僧。このタイトルの「代匠」とは、師匠に代わって、という意味だが、その師匠格の下河辺長流が光圀の水戸藩から万葉の注釈を頼まれていた、全部はできなかった、それに代わって契沖があとの仕事を完成させたということから付けられた名前である。その二人の交流、長流は契沖より十六歳年長であったが、二人の詠み交わした和歌からみると、そういうことは感じさせず、二人の親密な友情(むしろ恋情というほうがふさわしい)がうかがわれる。富岡は二
人の歌などから、同性愛的なものを、そこに見いだすのだが、それは彼女が『釋迢空ノート』でやった信夫と無染のそれの追求を思わせるが、なにしろこれは江戸時代前期の人の話であって、そこまでは行かない。契沖という「隠者」、彼は僧侶だから、まず出家という形で、世間を離れ、そのあとやはり「世間」と似たようなものであったとどこかで覚悟したのか(これは秘められているが)、専門僧侶としての、住職などの仕事から離れる、というように最終的には「二重の遁世」をした人であるというのが富岡の考えだ。専門僧侶の仕事を離れて、学問と歌でどうにか生活できたのは水戸藩からの毎年十両のボーナスのせいであったというのも、富岡が言っていることである。つまり「隠者」を支えたものはやはり金であった。しかし、この十両のボーナスのことを死ぬまで契沖は恥じたらしい。それが契沖という人の特異なところで、富岡はそこに惹かれたのだろう。冒頭に引用したような「隠者ぶる、スネ者ぶる、反体制ぶる手合い」ではなかったというところが彼女のお気に入りの隠者ということである。なにかを「徹底して隠した」人でもあろう。次の歌は何の技巧もない、それ故契沖の長流に寄せる思いがよくわかる歌である。

我をしる人は君のみ君を知る人もあまたはあらじとぞおもふ

(日録)
昨日は久しぶりに禁酒した。その前、連日飲酒の機会があったので、楽しかったが結構疲弊した。ところが今日は一日空けただけなのに、飲みたくなる、で、ビールと黒糖焼酎。
雨か晴れるか分からない天候の中を、女房と八王子へ。夏の友人との旅行のための新幹線などの切符を女房購入する。この夏はお互い別々の行動という初めての経験。
クマザワ書店で新しく出た岩波文庫『対訳 イェイツ詩集 高松雄一編』を求む。
そのあと、花マル?うどんで、温玉うどんの冷たいのを食べる。すっかり雨。

先日、NYCの湯浅さんから、すばらしいメールを頂戴する。例によって、無断だがここに転載しておく。どうして、こういう英語が書けるのか、私はいつも感動しないではいられない。私のアメリカ旅行の計画に対しての返信。


Mr. Mizushima,

That sounds like a great plan. While you are in Texas, I hope you get to go to San Antonio and Austin. I love visiting Spanish missions in San Antonio (not just the Alamo mission) and Austin is my favorite Texas city (and the UT, one of my favorite campuses). When I lived in Dallas, I used to visit these two cities quite often. A tour of the Faulkner's South should be interesting too. The gentility and poverty, decay and neglect, a great deal of cruelty - looking back (in time and space), the South, the land of my youth, stirs within me a lot of fond memories but also a little bit of chill. But then, Atlanta has changed so much in last 15 years that I hardly recognized it on my last visit two years ago. (Only things that were constant were light that played on young leaves and the dark quiet water of the Chattahoochee River). The greater South may have transformed itself too-- with the old wounds of poverty and injustice less visible. The South I know is a beautiful place with large milky flowers of magnificent magnolia trees and millions of fireflies that dance summer nights away.

Have a great time with your daughter and your friends in Dixie.

Best,

Mashiho

2009年7月19日日曜日

野々宮

17日(金)
有楽町の出光美術館なるところに初めて行く。「やまと絵の譜」という特別展(日本の美・発見Ⅱ)を観た。思っていたより、ずしりと重い、私のような素人には見応えのある展覧会だった。
 
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入館すぐの場所に展示されていた、岩佐又兵衛の絵には心底惹かれてしまった。モノクロの絵で、六条御息所を野々宮に尋ねる「賢木」の場面から取材したものである。うなってしまう。荒木氏という武将の末裔が描いた光源氏は大きい。この画家特有といわれている弓なりの姿勢で黒木の鳥居の下に童子をしたがえて佇立していた。王朝というよりも、時代をこえたノスタルジア、愛する者を、しかも恐れつつ愛するものをたずねようとする男の立ち姿、ノスタルジックなそれを強く喚起させる。深く息を吸い、しかし正面から愛し恐れるものを見つめようとする大男。

 
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〈在原業平図〉もすてきだった。これも歌仙絵とは異なり、業平の珍しい立ち姿である。画賛がまた業平の立ち姿のあでやかさとはコントラストをなす業平の歌である。伊勢88段、
― 昔、いと若きにはあらぬ、これかれ友だちどもあつまりて、月を見て、それがなかに一人、

おほかたは月をもめでじこれぞこの積もれば人の老いとなる物    ―

岩佐又兵衛という絵師をもっと知りたくなった。英一蝶の〈四季日待図巻〉もいい。展示の仕方、全体の雰囲気、すべてよかったので、長時間滞在して、すっかりくたびれた。そこから女房と二人できれいではなやかなビル群を通り抜けて東京駅まであるく。のどが渇いて、洒落た感じのイタリア風?の居酒屋に入る。五時前ということで、ビールだけを二人で飲んだ。ここは50点ぐらいのところだった。それにしてもこの一画の豪勢なことよ。多摩のお上りさんには少々居心地が悪かった。

18日(土)

昔の職場、小川高の卒業学年のお母さんたちと飲む。一年前から企画してくれた会だった。楽しかった。

19日(日)

散歩。湯殿川。八王子米の田んぼと私自身が名付けた稲田がある。そこに鴨の家族が居た。全部で10羽くらいのグループ。小さなものもいる。苗の何列かは彼らの遊泳のために無くなっているが、これも意図したものだろう。むかしなにかの記事で鴨をわざと泳がせて稲田の栄養としているというような記事を読んだことがある。鴨たちが有害な物を食べて、いいものを排泄するのだろうか。それにしても、私はいつの散歩でもそうだが、この水を湛えた稲田を見ると、そこにいつまでも佇んでいたくなるのは、どうしたことだろうか。

七部集〈猿蓑〉の歌仙のなかの「夏の月の巻」は次のように始まっている。

市中は物のにほひや夏の月   凡兆
 あつしあつしと門ゝの声   芭蕉
二番草取りも果さず穂に出て  去来

この去来の第三を突然思い出したりした。

2009年7月14日火曜日

場所と植物

午前中は職場のパソコンをにらみ続けて、やっと成績を入れることができた。幾重にも厳重に鍵がかけられた神棚を必死に開けながら、点数を入れる、欠課時数を入れる、三年生は五段階の評定を入れる、というような作業を繰り返して行く。ちょっと間違うと神棚は開いてくれない。若くて親切そうな現役の先生に頼んで開けてもらい、また最初から作業をする。いらいらして、コンピューターを壊したくなる。すばやく、無造作にさっとこの機械のシステムと親和状態の極地でハイな感じで作業をやっている人々を見ると、なんでこんなことをしなければならないのか?などと思ってしまうのだ。ここまで厳重に、機械にすべてを捧げるのは、個人情報の管理強化ということからなのか、はたまたすべての文書の活字化などというのは古くさい考えだろうが、入れた後は便利に機械が印刷から加工からすべてをやってくれるからか。手書きで、点票にかいて、それを集計した昔の方が作業は簡単だったような記憶が私にはある。それにコンピューター室はいつも混んでいて神棚に向き合うことからして大変なのだ。どうにかやっつける。まあいいや。これで前期は終わったのだから。

帰ってから歩く。いつもの川ぞいの道を一時間半。8キロ近い。昨日の朝、6時過ぎの歩きのときみた淡い青の空とは違って曇っている。
マルチニックに今滞在している中村君のblog(OMEROS)を愛読している。そこで言及されていた中上健次のエッセイ『〈場所〉と植物』と『フォークナー、繁茂する南』を読む。フォークナーのヨクナパトーファの舞台になったオックスフォード近辺にこの夏行きたいものだ。中上の言うフォークナーの「すいかずら」と日本の「竹」の対比。『〈場所〉と植物』をこの夏のテーマとして考えてみようなどと思う。そのことが自分の詩にもいい影響を与えるようなしかたで。

2009年7月12日日曜日

不運と奇蹟

大分の柳ヶ浦高校のバスの横転で、生徒が一人死に、そのバスを運転していた野球部の副部長の若い教諭が逮捕された。マイクロバスを教諭が運転して、練習試合などに何部であれ生徒を連れてゆくということが、その部の監督や関係者の熱心さとして語られることが、よくあった。たとえば長崎で有名な高校のサッカー部の監督で、今は政治家になった某氏なども自分の運転する車で生徒たちを遠征につれていったのである。それは貧しい予算しかない公立高校の、しかし熱心で情熱のある名物教師としての公私をわかたぬ指導の一環という具合に美談として語られてきたのだ。この柳ヶ浦という高校は私立で、野球に特化した一面もある高校のようだ。余計にいたましい気持ちになる。この教諭は野球が好きで、ここに勤めを得ることができたのを喜んだろう。しかし、彼は車の運転もしなければならなかった。喜んでか、いやいやながらかよく分からないが。長崎の例のサッカー部の監督も、もしこういう事故に遭っていたら、今の彼はありえないことだ。下積みの一環として、若い野球好きの教諭として、副部長という名はいただきながら、ここから始めなければならなかったのだろうか。どうして、こういうことを教諭にさせるのだろうか?なによりもこの事故で亡くなった野球部の生徒のことが悔やまれてならないのだが、この逮捕された先生も可哀想でならない。まだ30歳前で、この人も運命の路線が異なれば、長崎サッカー部監督(その後の政治家への転身)やそれよりも名物野球部甲子園常連野球部の監督の路線も用意されていたろうに。

こういう事故を起こして、そしてその亡くなった部員の保護者の「ぜひ大会には参加してほしい」という「お言葉」があったとして、夏の大会参加を宣言した学校、それを後押しする県の高校野球連盟、私はこの参加の決定が理解できない。本当に悪いのは誰だろうか?この学校のシステムであり、高野連である。一人は死に、一人は逮捕された。逮捕された一人にすべての責任があるのではない。運転を教員にさせて、それが当然だと思ってきた高校スポーツに限らないが、日本のスポーツ界の悪しき伝統とそれを美化する儲け屋メディアたちである。

私の郷里は徳之島である。今日のニュース、夏の甲子園の鹿児島予選で、徳之島高校が鹿児島実業に延長13回でサヨナラ勝ちしたという記事がasahi.comのトップ記事に写真付きであった。このことを、奇蹟のように思い言祝ぎながら、徳之島高校という離島の高校が野球がらみでこれからたどらなければならない運命を考えると複雑な気持ちにもなる。

2009年7月10日金曜日

Look for the silver lining

聴無庵さんの日乗で、Chet Bakerのことを辺見庸が書いているのを知った。先日、朝日新聞で辺見の死刑制度に対するまことに眼差しの低い(それゆえインパクトのある)反論を読み、関心を持ったばかりだが、その文中にも自らをChet Bakerを聴く障害老人のように位置づけていた一節があったので、それも奇妙に思っていた。今日、八王子に出てクマザワで、『美と破局』(辺見庸コレクション3 毎日新聞社)を求めて、そのChet Baker論「甘美な極悪、愛なき神性―新たなるチエット・ベイカー」を読んだ。白痴的ベイカーの魅力を、白痴なるが故に、擁護するもの。

1988年5月、アムステルダムのホテルの窓から転落して、チエットは死ぬのだが、その11ヶ月前の東京公演での演奏を辺見庸は最高のパフォーマンスとして、シオランの「音楽とは悦楽の墳墓、私たちを屍衣でつつむ至福」(このシオランの言葉もすごい)という言葉で讃頌する。とくに、この一曲を。そこのところを引いてみよう。

かつて“うたう屍体”とまで酷評されたことのあるジャンキー(麻薬中毒者)・チエットは、「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」を永年の求道者のように奥深く、殺人鬼のように優しく狂った、ある種ちかよりがたいほど醒めた声質でうたいあげて、満場を泣かせたのだった。例によってスツールに脚をくみ、前かがみになってすわったままの歌もトランペットも、かぎりない喪失と脱することのかなわない奈落、そして不可思議としかいいようのない恩寵のようなものも感じさせたのである。文字通りの奇蹟であった


辺見は「喪失とひきかえの恩寵」の善なる例としてビリー・ホリディを挙げ、彼女が「いわば善なる者の蹉跌と堕落、悔恨を情緒てんめんと歌い上げて神の心をも動かした」のに対して、チエットには自省や悔恨はなく、彼の当該の歌のすごみは、「したがって、恩寵のゆえではなくして、神をもあきれさせ、ふるえあがらせた底なしの無反省とほぼ完璧な無為をみなもととしていることにある」のだという。

闇の底からわきあがってくるその声は、うたがいもなく腐りきった肉体の芯をみなもととし、ただれた臓器をふるわせ、無為の心と重奏してうねり、錆びた血管をへめぐり、安物の入れ歯のすき間をぬけて、よろよろと私の耳に達した。ここに疲れや苦汁があっても、感傷はない。更生の意欲も生きなおす気もない。だからたとえようもなく切なく深いのである。そのようにうたい、吹くようになるまで、チェットは五十数年を要し、そのように聴けるようになるまで、私は私でほぼ六十年の徒労を必要としたということだ。ただそれだけのことである。教訓などない。学ぶべき点がもしあるとしたら、徹底した落伍者の眼の色と声質は、たいがいはほとんど堪えがたいほど下卑ているけれど、しかし成功者や更生者たちのそれにくらべて、はるかに深い奥行きがあり、ときに神性さえおびるということなのだ。


これが辺見庸のChet Baker理解の核心にある思いである。Chet Bakerを抜け出して辺見自身の人間性というものの幅を思わせるところでもある。

私は2,3年前にChet Bakerになぜかわからないが入れあげてしまい、ほとんど彼の曲のすべてを聴いたのだが、こんな深い理解からではなかった。今夜、辺見を読みながら、またこれを書きながら、聴きかえしている。東京公演の模様がyou tubeに入っているのには驚いた。私が聴いたのはおもに彼の全盛期のものだったから、この深さには思いも寄らなかったのだろう。

(シュツットガルドでの公演、これも晩年の "I'm a fool to want you") 



(東京公演での"My funny valentine")

2009年7月9日木曜日

前期終了

前期終了

まだ採点などの仕事が残っているが、前期がなんとか終わった。退職して、私立高校での2年目の非常勤の仕事。今年は週の3日、12時間の授業。9月からは大学での後期の講義が始まる(一齣だけどタフな仕事)。
7月の27日から8月の24日までアメリカに行く。詩のワークショップなどを探したが、日程面と金銭面で無理なことがわかった。ブラブラしてこよう。何よりもアメリカにいる娘とひさしぶりにゆっくりできるのが楽しみである。

ここまでの生活。

7月4日、相模原Troyのところでパーティ、息子と郁さんも一緒。Troyの友人でSmith Pointから来たAllenも、その他にも多くの人がいた。独立記念日に座間キャンプは派手な花火を連発する。それを遮るところのない屋上から眺める。最高の気分だった。しかし、スコッチを飲み過ぎて、どこかで気分がねじれてしまったようだ。なにかやったな、という悪い感じが残る。翌日、女房に叱責された。なかなか成長しないものである。

他に書くべきことはないや。

2009年7月3日金曜日

How High The Moon

How High The Moon           

            
            There is no moon above
            When love is far away too
                 (Nancy Hamilton/ Morgan Lewis, 1940)より
ほんとうは、月なんてない。きみがぼくのそばにいないときは



やまももの
実を
見知らぬ人にもらう
あやしいものではありません、
暗紅色の核をプレゼントされた
垣根をこえ道に落ちた
果実のあやまり
それは甘く酸っぱい、酸っぱく甘かった
湯殿川、You Don't Know What Love Is
ゆーどん のー 川
われわれの不滅の愛
鵜の花咲き
鯉の実みのれる
花菖蒲はアイデンティティを求めて
耳を交わしあう
暗く紅に道を歩く、歩きなさい
それはなんですか?
あやしいものではありません、
身一人
しかじ!しかじ!
蛇となって
草いきれを這いまわらんには

月なんか無い
半夏生がしらっぱくれて
白い舌を出しているよ
桑の実の空白
栗の花の白髪
枇杷が鴉に
経験の意味を問われている五月雨の午後
犬追物は感傷に堕落している

不滅の愛を救う不滅の魂の不滅の物語
チャーリー・パーカーが
草と月から
ギアを入れ換えて
雨の空を
低く飛ぶ
鳥たちのために、ornithologyオニソロジー、鳥学を吹き始めた

きみが鳥になればいい
鳥になって月に向かって高く