2008年7月31日木曜日

Kay Ryanの詩

旧聞に属するが、7月17日のnytimes.comで読んだ記事に、次のような見出しのものがあった。
Kay Ryan, Outsider With Sly Style, Named Poet Laureate

イギリスの方が伝統のあるものだろうが、アメリカにもPoet Laureate、訳せば「桂冠詩人」となるのだろう、そういう「役」があって、国会図書館の図書館員によって毎年選出されている。その任期は、その年の十月から来年の五月までで、その仕事は国会図書館が主催する毎年の詩のシリーズで講演と自作詩の朗読を行ったり、他の詩人や作家たちの、図書館にあるアーキーブをより充実させる協力をしたり、それに強制ではないが、自身の発案したプロジェクトで詩を子供たちから大人までに広げる啓蒙的な活動に取り組むことも求められている。ブロツキーはそのPoet Laureate任期中に詩を飛行場やスーパーマーケット、ホテルの一室などで提供したという(どうしたのかくわしいことはわからない)。賞金もあって、3万五千ドルという。400万円近いということか。名誉職というより、けっこう充実した仕事のようである。ぼくが先日書いたBilly Collinsという詩人、この詩人は日本でも知られているようで、谷川俊太郎などの詩にも言及されていた、そのことを教えてくれたのは思潮社の髙木さんだった。Billy Collinsも何年前かのPoet Laureateであった。一番古いところでぼくが知っているのはロバート・フロスト。

さて、そのPoet Laureateに今年選出されたのが、62歳のKay Ryanという女性である。
Outsiderとあるが、この記事によると、彼女自身、公共の場に出ることがとても嫌な、内気な人間だったと述べている。全国芸術基金(National Endowment for the Arts)の議長で、早くからのKayの支援者だった詩人Dana Gioiaという人は、彼女の詩にはどこかDickinsonを思わせるものがあるという。

総じて、小さなイメージを通して、日常の事物や日常の情感の繊細さや深みを見せる、描く詩人である、というようなことが書かれている。

ぼくが面白く感じたのは、この詩人が書くことに開眼したのは、U.C.L.Aを卒業して、1976年にカリフォルニアからヴァージニアまで80日間の自転車旅行をしたときだということである。コロラドのロッキー山脈のthe Hoosier Passという峠で、信じられない開眼、啓示のようなものを受けたという。面倒くさいから原文で引こう。
― “… an absence of boundaries, an absence of edges, as if my brain could do anything.”― 

こういうすべてが取っ払われた広大な景色が、それまでの不全感を打ち砕いたのか、それとも抑圧されていた書くことへの欲望が全開したのかよくはわからないが、彼女はそこで自らに” Can I be a writer?”と問いかける。その答えは、次のような質問となって返ってきたという、”Do you like it?” で、もちろん、” So it was quite simple for me. I went home and began to work.”

でも、Kay Ryanの仕事が評価を受けるようになるためには、それから20年ほどの歳月を要した、晩熟だったわけだ(いずれにせよ詩人の仕事をちゃんと認める公共的な場があってのことだが。)Kay Ryanは「みんな、即座の成功を望む All of us want instant success」
といい、自分は遅くてよかったというようなことを述べる。この英語はとても面白くてイメージはよくわかるが、訳しようがない、こういう言い回しがあるのだろうが。まず、みなさん、コーヒーをドリップで入れるときを想像してください、ぽたりぽたりとゆっくりとコーヒーは漉されて落ちてきます。” I’m glad I was on a sort of slow drip.”

彼女はパートナーの女性Carol Adairと長年一緒に暮らしている。

こんなに自らを公衆にさらすのが厭わしかった女性に、この仕事は勤まるのだろうか?
彼女の現時点での答えは、哲学的なものである。「われわれが認めようが、認めまいが、われわれは完全に曝されている」utterly exposedという答え。

この記事に紹介されていた、この人の詩はつぎのようなもの。一部だろう。

The Other Shoe

Oh if it were
only the other
shoe hanging
in space before
joining its mate.

片割れの靴のイメージ、それだけでよかったのに、ということかしら?

Shark’s Teeth

An hour
of city holds maybe
a minute of these
remnants of a time
when silence reigned,
compact and dangerous
as a shark.

(跳躍的超訳)

一時間の
街はあるいは
これらの断片、時の
一分を抱いている
沈黙が支配するとき、
コンパクトで危険な
鮫のような。

貧弱な文化行政の国で、商売のためにのみ本が、あるいはそういう本が出回る市場に生きている極東の詩人たちにとって、最初から最後までOutsiderで終わるしかない運命の詩人たちは、もっともっとslyな狡知に長けた詩を書くことしかないのかも。

2008年7月30日水曜日

連詩『卵』17

15
積み上げられた積み木の家
想像される未来の乾いた空気
少女たちの中でいつまでも固まらないプロット
夏休みの予定表はあらかじめ組み立てられ
夕立が来て青草の匂いが急に高くなる。理由もなく
乳房が膨らみ、怒りのようなものが湧いてくる        (豊美)



16
日没の卵を救うために
破棄せよ、溺死者の夏休みも、投身自殺した哲学者のプロットも。
吸えるものならば未来の空気を吸って
京王線で府中に出る。
「何にでもなりうる」
動き、成長する小さな者たちとともに。         (健二)



17
「おじさん、卵を一つくださいよ」
猫とバイオリンをあげるから。
塀から落ちたハンプティ・ダンプティ
フクロウに頼んだ
雀に呼びかけた。
それを夕焼けが見ていた、見ていた。          (英己)

2008年7月29日火曜日

東京国立博物館へ行く

東京国立博物館へ行く。『対決―巨匠たちの日本美術』。運慶と快慶の地蔵菩薩の坐像と立像からはじまる展示は人の波にもまれながらも、たしかに眼福といえるものを享受した時間だった。この地蔵菩薩は両者とも神品というしかない、雑踏のざわめきを瞬時に凍らせるような静かで冷たい輝きがあった。漱石が『夢十夜』の第六夜で次のようなことを書いていたのを思い出した。

「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独り言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」と云った。

この「若い男」の言は、同じく展示されている円空と木喰の仏たちにもあてはまるものだろう。末世の、「対決」などという企画を、これらの地蔵や観音菩薩たちはどういう思いで彼岸から眺めているのだろうか。

私は解説を読むのをあきらめて、とにかく見ることにした。

雪舟の『慧可断臂図』に驚く。面壁の、人間離れした「達磨」に向かって、不退転の意を自ら切断した左腕を差し出すことにこめて慧可が弟子入りを乞う。二人を覆う岩窟は牢獄のようでもあり、人知を超えた時空、三千世界とカルパがそこに凝縮したかのような趣でもある。人と人が向き合うこと、その欠如に脅えている現代の娑婆は、この時空のどこに居場所を持つことができるのだろうか。青ざめた慧可の凛とした輪郭、でもその師よりも半分の姿態に描かれることによって、絶対的な区別が生まれ、関係の絶対性とでも呼ぶべき宗派のエネルギーのマグマがここに定着されている。

雪村の、魂を飛ばす男も心に残る。

永徳に対して、等伯の機略に満ちた繊細さ。

総合芸術家であり、芸術サロンの主宰者のような存在としての本阿弥光悦。宗達が下絵を書き、それに光悦が和歌を書いた巻物や断簡、これは宝くじに当たったら買いたいと思った。

一番、こころにとめたのは蕪村の作品。これらを見ることができてよかった、展示の場所では最後の方にあったから、やっとたどり着いたという思いと、でもこれに癒されたいなどとつゆ思わなかったけれど、どこかしら匂うこちらの私心を打ち砕く「労作」なのだ、ということが今日実物を見て分かった。当然のことだ。そう、『鳶鴉図』に痛棒を食らったのだ。しかし、鴉が二羽並び、舞い落ちる雪を眺めている、そこで時間は完璧に止まっている、というのは、すべての生が無言のうちにしずかにゆるされている、という詩人のメッセージなのではないか、「ほー」とつめていた息を私は吐いたのだ。

二時過ぎに、アメ横の食堂で、アナゴの天ぷら丼650円を食べて、片倉に戻った。


 
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2008年7月28日月曜日

片倉の夏

ヴェトナムに行きたくなった。
去年の夏、行ったのだが、今年も。
でも、奈良・京都・神戸の旅を計画してしまった。
義母の23回忌にあたるから、だれもいない、
墓だけがある神戸に行こうと思ったのだ。
ついでに、奈良と京都を回ることにしたのだが。

鶴瓶と元横綱の大乃国がヴェトナムのホイアンを訪ねる
人情旅行記のようなテレビを見て、涙が出てしまった。
鶴瓶が嫌いになって、この番組は見なくなったが、ヴェトナムの
文字に引かれて見ていたら、もう鶴瓶など関係ない。

ホイアンの夏と片倉の夏。
あそこにあって、ここにないもの。
それが涙の理由だろうか?
あそこには全く欠けて、ここにはあり余るもの。
それが理由だろうか?

相撲レスラー親方の大乃国は「まわし」を持参し、
つぶらな瞳のよく笑うホイアンの少年たちに相撲を
教えた。鶴瓶はその押しの強い「口舌」で、陽気な善人を
演じきり、宝くじ売りの貧しい少女たちを魅惑する。

もし、ぼくがホイアンに行ったら、どうするだろう?
暑い、暑い、を連発しながら何万ドンもする、実は百円ほどの、
ヴェトナム・ビールを行く先々で飲みながら
「愛人」や「黙示録」の世界を夢見るのだろうか。

つぶらな瞳の少年、やせて美しい少女たち、
鶴瓶がいみじくも描写した「一寸法師のたらい」のような舟で
十二時間も漁に出る、腹筋のきれいに割れた筋肉質の漁師たち。
鶴瓶はそこに触ったのだ、すごーいと言いながら。

仕事あけのコンビニの兄さんが
携帯をいじりながら道を歩いている。太った犬、
庭木の剪定をしながら、ぼくをにらみつける老人、
少子化の世、貴重なこどもたちが日本語を話しながら通り過ぎる。
高価な車が16号を行き交う、信号が青になるのをじっと待つ。
腹筋のない腹を湯殿川の散歩でゆらすために。

眠っているイノセンスをいじってみると
なみだが少し。

鶴瓶のように傲慢
どこかで失くした蒙古斑に
懸想する片倉の夏。

2008年7月27日日曜日

One Art

One Art
by Elizabeth Bishop


The art of losing isn't hard to master;
so many things seem filled with the intent
to be lost that their loss is no disaster,

Lose something every day. Accept the fluster
of lost door keys, the hour badly spent.
The art of losing isn't hard to master.

Then practice losing farther, losing faster:
places, and names, and where it was you meant
to travel. None of these will bring disaster.

I lost my mother's watch. And look! my last, or
next-to-last, of three beloved houses went.
The art of losing isn't hard to master.

I lost two cities, lovely ones. And, vaster,
some realms I owned, two rivers, a continent.
I miss them, but it wasn't a disaster.

-- Even losing you (the joking voice, a gesture
I love) I shan't have lied. It's evident
the art of losing's not too hard to master
though it may look like (Write it!) like disaster.

PLAYBOY9月号は『詩は世界を裸にする』という特集。はじめて購入した。池澤夏樹が選んだ20世紀の詩人10名のなかに、上記の Elizabeth Bishopの詩が入っている。その池澤の訳を読んでみよう。

何かを失くす技術はすぐ身につく。
とってもたくさんのものが失くなるつもりでいるから
失くすことは不幸ではない。

毎日なにかを失くす。ドアの鍵を失くしたことや
時間を無駄に使ったことに狼狽し、甘受する。
何かを失くす技術はすぐに身につく。

そしたらもっと遠く、もっと早く失くすよう練習を積む。
場所とか、名前とか、旅するつもりだったところとか。
そういうことはどれも不幸にはつながらない。

わたしは母の時計を失くした。あら、見て、わたしが
好きだった三軒の家の最後のが、いえ、その一つ前のが、消えた。
何かを失くす技術はすぐに身につく。

わたしはすてきな都市を二つ失くした。それにもっと大きなもの、
所有していた領土、二つの川、一つの大陸を失くした。
惜しいと思うけれど、それは不幸ではなかった。

あなたを失くすことでさえ(冗談の口調、わたしの
好きなしぐさ)、後で気持を偽ったとは言わせまい。
大丈夫よ、何かを失くす技術はたぶんすぐに身につく。
まるで(書きなさい!)不幸みたいに見えるとしても。

これに対して池澤夏樹は「…全体は『あなたを失くす』ことへの負け惜しみ。最後の行の『書きなさい!』は『あなたを失くす』ことを『不幸』と言い切ることへのためらいに対して自分を勇気づけているのだ。」とコメントしている。

岩波文庫『アメリカ詩選』の最後のスタンザの訳と、コメントをついでに引用する。

 ―あなたを失くした時でさえ(冗談を言う声や、大好きな
 しぐさなど)、その事情に変わりはないだろう。どう見えても、
 ものを失くする術を覚えるのは、そんなに難しくない―
 たとえどれほどの(はっきり書こう!)大事に見えようとも。

(Write it!)の部分の註として「はっきり言うのをためらう自分を、むりに励ます。実は今度こそ『大事に至る』のを恐れ、その辛さに耐えている。『術』など少しもマスターしていなかったのである。」とコメントされる。

池澤夏樹と川本皓嗣(岩波文庫のこの詩の担当者)の訳とコメントを並べながら、両者のとらえかたの微妙な違いを味わうのも一興かと思って書いてみた。

実は、私は池澤のコメントのわかりづらさにつまずいたのだ。すなわち「最後の行の『書きなさい!』は『あなたを失くす』ことを『不幸』と言い切ることへのためらいに対して自分を勇気づけているのだ。」とはどういうことか私にはよくわからなかったのだが、要するに「大事」であり「不幸」だということなのか、川本はそうとっている、それとも、大したことはない、書きなさい!勇気を出して、書きなさい、不幸のようだと、そうまるで不幸に見えるかもしれないが、その傷を忘れる技術もたぶんすぐに身につくから元気を出しなさいと、自らを勇気づけているのか。そういうことが、どちらかということが、池澤のコメントからわからないのである。わたしの頭の悪さだろうが。「あなたを失くすことへの負け惜しみ」ではなく、何かを失くすことの痛みみたいなものがテーマなのだろうと私は考える。蒸し暑さに比例して自分の頭も働かなくなる。

2008年7月25日金曜日

連詩『卵』16

14
火曜日。ドローレスという名とともに、
隠されていたプロットがにじみ出した。
小さなアスターが背筋をまっすぐに伸ばしている。
パーマネント・ヴァケーションという映画の
タイトルを思い出す。茎から花冠へと昇る
悲しみに理由はない。             (英己)


15
積み上げられた積み木の家
想像される未来の乾いた空気
少女たちの中でいつまでも固まらないプロット
夏休みの予定表はあらかじめ組み立てられ
夕立が来て青草の匂いが急に高くなる。理由もなく
乳房が膨らみ、怒りのようなものが湧いてくる        (豊美)


16
日没の卵を救うために
破棄せよ、溺死者の夏休みも、投身自殺した哲学者のプロットも。
吸えるものならば未来の空気を吸って
京王線で府中に出る。
「何にでもなりうる」
動き、成長する小さな者たちとともに。         (健二)

2008年7月20日日曜日

連詩『卵』15

13
「少女たちは欲望されると同時に欲望している」
と批評家Aは書く。何からぬけだしたのか?
「ほんとうは、この先にたのしいことなんか
待っていない」とわかったステップで、烏山通りから
甲州街道に出る。いくつもの断層を
隠し切れずに、世田谷の夜は炭水化物をきらう。   (健二)


14
火曜日。ドローレスという名とともに、
隠されていたプロットがにじみ出した。
小さなアスターが背筋をまっすぐに伸ばしている。
パーマネント・ヴァケーションという映画の
タイトルを思い出す。茎から花冠へと昇る
悲しみに理由はない。             (英己)


15
積み上げられた積み木の家
想像される未来の乾いた空気
少女たちの中でいつまでも固まらないプロット
夏休みの予定表はあらかじめ組み立てられ
夕立が来て青草の匂いが急に高くなる。理由もなく
乳房が膨らみ、怒りのようなものが湧いてくる        (豊美)



日記抄

18日(金)
神奈川は六角橋の「メリオール」で倉田良成さんの新詩集『神話のための練習曲集』の出版を祝う会に出席。
久しぶりの人とも会えた。

19日(土)
国立の「奏」で、『詩を語る夕べ』の2回目。ミルトンについての福間さんの話と最近の新詩集についての話など。

20日(日)
久しぶりに湯殿川に行く。

2008年7月17日木曜日

夏の貴婦人

夏の貴婦人

片倉城址の頂にはだれもいなかった。
倉田君の新詩集『神話のための練習曲集』を草の上に
置き、写真を撮った。強い西日のなかに詩集が
浮き上がる。

コンビニで買った「一番搾り」を飲み
西側の山道を湯殿川まで降りて歩く。
しつこく咲いている半夏生の白が腐りはじめている、
いやなおじさんだよ、家の人に許可などとって。

You Don’t Know What Love Is
湯殿川を歩くときには、いつも耳もとでだれかが
歌っている、サザンではない、チェット・ベーカー。
ここから、
レイモンド・カーヴァーのそれまでが
散歩の悲喜交々で、
最後にカーヴァーの詩のなかの
ブコウスキーの声が笑い飛ばすという道のり。

「学校の先生なんかに
愛なんて分かってたまるか、くそみたいな
白蟻みたいな連中に」
「きみらには愛はわからないね、なぜなら
女に殴られたことがあるかい?女をぶち
のめしたことがあるかい?」

You Don’t Know What Love Is

対岸に回る帰途は西日を背に受けて歩く
これ以上はないというように大きく、立派な尻の、
腰の曲がったおばあさんの尻が目の前に咲いていた。
背の高いその人は、小さな中年のおばさんと向き合っていた。
その人の尻に私は今までのその人の人生のすべての香を、
好ましく嗅いだようだ。

通過した、そのとき
痩せた中年のおばさんの声が聞こえた。
「死ぬのも難しいわよ」
立派な尻のおばあさんはまさか愁訴しているのか?
小さな痩せたおばさんはまさか慰めているのか?
私は痩せたおばさんとその声がきらいだ、
あのような尻から私は生まれてきたと思うだけで、
私は幸せだ、と思うからか?

しつこい暑さに花も枯れていた。
紫の花の、花弁で、八枚あるのが所々に目立つ、
八枚、八枚、偶数なんだ。
犬を連れたおばさんや、犬に連れられたおじさん
しつこくチェット・ベーカーが歌っている
「不眠のそれぞれの朝を迎えるまで
愛はきみには分からない」って。




 
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2008年7月15日火曜日

連詩『卵』14

12
あたらしい少女たちがやってくる
壊れそうで決して壊れない彼女たちが
楕円形の物語から抜け出して来る
カミソリの刃のようなところを平然とこちら側に
渡ってくる、根拠のないものの軽快さで眉を上げて
スカートから逸脱した踊る脚どりで         (豊美)
                   

13
「少女たちは欲望されると同時に欲望している」
と批評家Aは書く。何からぬけだしたのか?
「ほんとうは、この先にたのしいことなんか
待っていない」とわかったステップで、烏山通りから
甲州街道に出る。いくつもの断層を
隠し切れずに、世田谷の夜は炭水化物をきらう。   (健二)


14
火曜日。ドローレスという名とともに、
隠されていたプロットがにじみ出した。
小さなアスターが背筋をまっすぐに伸ばしている。
パーマネント・ヴァケーションという映画の
タイトルを思い出す。茎から花冠へと昇る
悲しみに理由はない。             (英己)


(日記)
 今日で、前期(非常勤の私にとって)が終了した。今日は成績の打ち込みのために、都合5時間職場のpcの前に座っていた。昼食をとるのも忘れた。混雑の中で、できるだけ早く成績を出したかったからだ。目がかすんできた。溜息ばかりが出た。でも、これが終われば、非常勤の身の気楽さ、9月までなにもない。それだけを思って、必死に、何重にもセキュリティのかかった成績処理のプログラムを開くだけで大変だったが、援助をあおぎながらどうにかやりおおせる。便利なようで、不便。成績の対象の生徒の顔は遠くにかすみ、ただ画面上の数字とにらめっこ。四種類の科目、その試験問題作製、その採点と生きた心地がしなかったが、やっと脱け出した。
 
 

2008年7月13日日曜日

連詩『卵』13

11 
半夏生の葉脈の白さをまだ見ない。
夏至にも気づかれることなく生活は過ぎてゆく。
貧しい卵をあたため、急に夏の盛りに
出遭う。ほのかな少女のあせばむ白いブラウスの夢。
浅い根の生きものたち、その秘められた感情の
最初のページにリスト・カットの血がにじんだ。    (英己)


12
あたらしい少女たちがやってくる
壊れそうで決して壊れない彼女たちが
楕円形の物語から抜け出して来る
カミソリの刃のようなところを平然とこちら側に
渡ってくる、根拠のないものの軽快さで眉を上げて
スカートから逸脱した踊る脚どりで         (豊美)
                   

13
「少女たちは欲望されると同時に欲望している」
と批評家Aは書く。何からぬけだしたのか?
「ほんとうは、この先にたのしいことなんか
待っていない」とわかったステップで、烏山通りから
甲州街道に出る。いくつもの断層を
隠し切れずに、世田谷の夜は炭水化物をきらう。   (健二)

詩朗読LIVE「卵にむかう理由」

詩朗読LIVE

卵にむかう理由

FARM

福間健二・新井豊美・水島英己











2008年8月3日(日) PM500

料金=オーダー+出演者へのカンパ

朗読会のあと、午後7時ごろから、会費制の打ち上げをおこないます。

福間健二・水島英己の「詩を語る夕べ」の方も、どうぞよろしく。

詩を語る夕べ 第2回 7月19日(土) PM700

詩を語る夕べ 第3回 8月23日(土) PM700

音楽茶屋 奏

国立市東11720 サンライズ21 B1F

0425741569

JR国立駅南口旭通りへ徒歩5分、右側地下1階 

擬宝珠

擬宝珠                     



擬宝珠の花が咲いている。
ぎぼうしとかくとなんのことかわからない
漢字で書いてもなんのことかよくわからない
「夏・秋、長い花茎に漏斗状の花を総状につける。
花冠は6裂し、色は」
白、紫、淡い紫などと身の上が語られる。
でも、宝珠に、宝物とすべきたまに似ているから擬、
擬人法の擬、模擬テストの擬
ほんものの宝の珠じゃない

歳時記を見ると
虚子の「這入りたる虻にふくるる花擬宝珠」
「虻入ってかくれおほせぬ花擬宝珠」
など虻と取り合わせている。
宝石のなかの虻の

庭の、草のような人が
擬宝珠の花が咲いているのを見る。
蜜にひかれる虻のように、その淡い紫の色にひかれる
紫のなかに
人に似た草たち、草に似た人たちが隠れているようで、
隠れきれない
暑い夏。

たえかねて
ホースで勢いよく水をかけてやる。
身の上を
固く冷たい宝珠が走りぬける。

2008年7月10日木曜日

梅雨の果て

うすあかねして夕雲や梅雨の果て (原 石鼎)

この句を思わせるようなあかね雲が散歩の終りに見えて、梅雨も明けるのかなと思った。
あっという間に7月も中旬。答案の束をかかえて採点地獄が始まる。三十五年にわたり、こういうことをしている。
 
○ 大分の教育委員会の収賄事件。現場からの賄賂。それはしかしなんと悩ましい、やるせないものかとも思う。構図ができていて、その構図に載ることが死活問題になる。どういう構図でも、その構図が支配、権力のがわにあれば、それに乗る、載るかそうでないかの選択肢かしかない。その親玉の文科省が、結局はそういう構図を描いてきたわけだから、率先して支配してきたわけだから、このような事件は、事件としての明徴(賄賂・収賄)の違いはあれ、徴のない無意識のなかでも、教育委員会は「偉く」、なんでもでき、現場はそれに従わざるをえない、というような刷り込みができている。それは幻想にすぎないのだが、事実としてもそうだから厄介だ。ここ東京の委員会は収賄はやっているかどうかよくわからないが、もっとひどいことをやっている。現場を現場として認めないということを、職員会議では手をあげて採決するな、などという命令で実践しているからだ。「先生」とは、この「格差社会」のなか恵まれていて(だから賄賂も横行するのだろう)ワーキングプアーではないかもしれないが、精神的なその寄る辺なさでは同じではないかなどと思う。もちろん大分での管理職クラスの「事件」とは無縁に、日々生徒たちと格闘している本当の「先生」のほうがずっと多いのだが、彼らだって、敷かれ、強いられた幻想の構図から完全に自由であるということではないだろう。前のどうしようもない首相のときにどさくさにまぎれるようにして多数をたてに、基本法が「改悪」され、わけのわからない諮問委員会も作ったが、その答申の最悪のものは「教員免許の更新」というものである。免許証の更新のように、車検のように、こんなものを作ることで、それに群がる「権益」なるものが生じる、そして、そこではまた新たな「事件」が予感される。この制度の動機自体が、はなから現場の「教員」を虫けら同然に線引きすることでスティグマ化したものである。「教育」は、そうでないあらゆるものと二項対立的に意識化されることで、都合よく理想化されたり、ゴミダメ化されたりを、ここ何十年とやらされてきた。明治以来というのが正確だが。もうすこしみんなが肩の力をぬいて、「先生」が目前の生徒たちとゆっくり語りあうことを許してもいいのではないか。そこからしか「論語」のような世界は開けないのだから。これも幻想にすぎないが。

○ サミットが終わった。航空機を使用したテロが行われた場合を想定して、イシバくんたち防衛賞(省?)の面々が図上演習を行い、最悪の場合はその航空機を撃墜するというシュミレーションだったという。公共放送を名乗る某局が7時の全国ニュースで得々と発表している。「アホか」というのが、私の最初の発声である。この局のいつもの「刷り込み」に対して。次に、本当にそうだったら、この面々の「お遊び」を「公共」のものとして聴かざるをえないわが身の奴隷状態に対して。税金など払いたくないとつくづく思う。某局に対するお足も。他にやることが一杯あるだろう。

○ 数句。

We must love one another or die. ( W.H.Auden)

サミットなぞ梅雨の晴れ間のたわごと

頂きと自らを呼ぶ醜さよ

アイヌピト(人間)殺しつくして温暖化

ポチセ(子宮)思い洞爺湖凍らず黴雨もなし

梅雨けしと一人泣きつつ千年紀

アチャ(父)ウヌ(母)ポ(子)ミッポ(孫)イルワク(兄弟姉妹)
生苦き

連詩『卵』12

10
『花の慕情』という五〇年前の映画の
花と司葉子。死んでいる卵のなかの
二種類のいのち。ただ立つものと
立って歩くもの。風のなかの
枝たち、どんな美しさをおそれあって
物語の崖をとびおりる鋏に切り落とされるのか。    (健二)


11 
半夏生の葉脈の白さをまだ見ない。
夏至にも気づかれることなく生活は過ぎてゆく。
貧しい卵をあたため、急に夏の盛りに
出遭う。ほのかな少女のあせばむ白いブラウスの夢。
浅い根の生きものたち、その秘められた感情の
最初のページにリスト・カットの血がにじんだ。    (英己)


12
あたらしい少女たちがやってくる
壊れそうで決して壊れない彼女たちが
楕円形の物語から抜け出して来る
カミソリの刃のようなところを平然とこちら側に
渡ってくる、根拠のないものの軽快さで眉を上げて
スカートから逸脱した踊る脚どりで         (豊美)

2008年7月8日火曜日

Introduction to Poetry

by Billy Collins


I ask them to take a poem
and hold it up to the light
like a color slide

or press an ear against its hive.

I say drop a mouse into a poem
and watch him probe his way out,

or walk inside the poem's room
and feel the walls for a light switch.

I want them to waterski
across the surface of a poem
waving at the author's name on the shore.

But all they want to do
is tie the poem to a chair with rope
and torture a confession out of it.

They begin beating it with a hose
to find out what it really means.

(footnote)
先日に続いて、Bill Collinsの詩を読んだ。

詩入門

一編の詩を手にとって
そして光に掲げてみなさい
スライド写真のように

あるいは詩の巣箱に耳を強く押しつけなさい。

一匹の小さなネズミを詩のなかに落としなさい
そしてネズミが逃げ道を探るのを見守りなさい、

あるいは詩の部屋を歩き
手探りで壁の電気スイッチを探すのを。

ぼくはきみたちに、詩の海面を水上スキーですべりなさい
と要求するね
海辺の詩人の名に手を振りながら。

しかし、きみたちの望むものはすべて
詩を椅子にロープで縛りつけ
そして拷問のはてに白状させようとするだけ。

きみたちはホースで詩を打ちながら
本当は何を意味しているんだと責めるのだ。(試訳)


まあ、大体はこんな意味なんだろう。詩についての詩、というようなものではなく、
とても軽い、詩についての入門だが、こういう詩を読んで考えるのは、この国で、
こういう詩を書くのは、あるいは書けるのは谷川俊太郎一人くらいかもしれないなということ。

でも自分の頭と心を明晰にするためには、たまにはこういう詩も読まなければならない。

2008年7月6日日曜日

Forgetfulness

by Billy Collins

The name of the author is the first to go
followed obediently by the title, the plot,
the heartbreaking conclusion, the entire novel
which suddenly becomes one you have never read,
never even heard of,

as if, one by one, the memories you used to harbor
decided to retire to the southern hemisphere of the brain,
to a little fishing village where there are no phones.

Long ago you kissed the names of the nine Muses goodbye
and watched the quadratic equation pack its bag,
and even now as you memorize the order of the planets,

something else is slipping away, a state flower perhaps,
the address of an uncle, the capital of Paraguay.

Whatever it is you are struggling to remember
it is not poised on the tip of your tongue,
not even lurking in some obscure corner of your spleen.

It has floated away down a dark mythological river
whose name begins with an L as far as you can recall,
well on your own way to oblivion where you will join those
who have even forgotten how to swim and how to ride a bicycle.

No wonder you rise in the middle of the night
to look up the date of a famous battle in a book on war.
No wonder the moon in the window seems to have drifted
out of a love poem that you used to know by heart.


(footnote)

アメリカの2001年の桂冠詩人(Poet Laureate)、1941年ニューヨーク生まれ。ユーモアと機知に富む。いかにもニューヨーカーらしい洒落た詩が多いというような印象を持つ。その朗読のスタイルと声は、どこかブコウスキーに似ている。ブコウスキーが大学人になったとしたら(そういうことはありえないが)、こんな感じかもしれない。次のような批評があった。

About Collins, the poet Stephen Dunn has said, "We seem to always know where we are in a Billy Collins poem, but not necessarily where he is going. I love to arrive with him at his arrivals. He doesn't hide things from us, as I think lesser poets do. He allows us to overhear, clearly, what he himself has discovered."

詩人自身の朗読した詩をアニメ化したシリーズがyou tubeにある。

2008年7月5日土曜日

連詩『卵』11


破壊された戦車の下で微笑んでいた、
ゴラン高原の写真集で。
天使の足元から話しかけてきた、
サンタンジェロ橋の石畳で。
三浦半島の崖では鳥の巣のようにむらがって、
風に吹かれている。あの小さな薄桃色の花     (豊美)


10
『花の慕情』という五〇年前の映画の
花と司葉子。死んでいる卵のなかの
二種類のいのち。ただ立つものと
立って歩くもの。風のなかの
枝たち、どんな美しさをおそれあって
物語の崖をとびおりる鋏に切り落とされるのか。    (健二)



11 
半夏生の葉脈の白さをまだ見ない。
夏至にも気づかれることなく生活は過ぎてゆく。
貧しい卵をあたため、急に夏の盛りに
出遭う。ほのかな少女のあせばむ白いブラウスの夢。
浅い根の生きものたち、その秘められた感情の
最初のページにリスト・カットの血がにじんだ。    (英己)


(日記)

○ 福間さんの10を、阿部嘉昭さんが、そのblogで「素晴らしい詩句」として紹介していた。
具体的には、その後半部を阿部さんなりに改行して示したうえで。以下のように紹介されている。


風のなかの枝たち、

どんな美しさをおそれあって

物語の崖をとびおりる鋏に

切り落とされるのか


原詩の改行を改行し直して見えてくる新たな美、阿部さんの慧眼を感じた。

○ 昨晩は気の置けない友人たち三名と吉祥寺で飲んだ。中央線は事故の影響で大幅に遅れていた。八王子から吉祥寺まで、昔はあっという間だと思ったが、結構時間がかかった。昔懐かしい、ハモニカ横丁の洒落た?店、これも新しい経験だった。学生時代の汚れて、小便の臭いのする横丁などは、どこにもない。しかし、あの路地が残っているということは奇跡的なことかもしれない。 

連詩『卵』10


ヨルダン川の
ヨハネのように
湯殿川の
鵜が羽を広げていたのだ。
呼びかけられている、ただ呼びかけられているのに
卵生の異形のもの、などと思って見慣れた花に目をそらすのだった。   (英己)


破壊された戦車の下で微笑んでいた、
ゴラン高原の写真集で。
天使の足元から話しかけてきた、
サンタンジェロ橋の石畳で。
三浦半島の崖では鳥の巣のようにむらがって、
風に吹かれている。あの小さな薄桃色の花     (豊美)


10
『花の慕情』という五〇年前の映画の
花と司葉子。死んでいる卵のなかの
二種類のいのち。ただ立つものと
立って歩くもの。風のなかの
枝たち、どんな美しさをおそれあって
物語の崖をとびおりる鋏に切り落とされるのか。    (健二)

2008年7月3日木曜日

連詩『卵』9


出会う卵を割らないように
ゆっくりと歩く。歩きながら見ている
捜索者の夢。暗い通路の先の
水辺に映る
わたしの影の上を
一羽の可憐な鳥が飛ぶ。         (健二)


ヨルダン川の
ヨハネのように
湯殿川の
鵜が羽を広げていたのだ。
呼びかけられている、ただ呼びかけられているのに
卵生の異形のもの、などと思って見慣れた花に目をそらすのだった。   (英己)


破壊された戦車の下で微笑んでいた、
ゴラン高原の写真集で。
天使の足元から話しかけてきた、
サンタンジェロ橋の石畳で。
三浦半島の崖では鳥の巣のようにむらがって、
風に吹かれている。あの小さな薄桃色の花     (豊美)



(日記)
あと少しで、夏休み。そう思って、毎日をしのいでいる。去年までとは違って、暇になるから、どこかへ行きたいなと思っています。女房は介護専門のようになっているから、義父のショート・ステイなどを手軽に頼める施設を今探している。新井さんの連詩にある、三浦半島にはぜひ行きたいと思っている。高貝さんの『白秋』を持っていって、三崎時代の北原白秋をしのぶ旅などは最高だろうな。