2008年9月30日火曜日

九月尽

塩魚の歯にはさかふや秋の暮れ 荷兮
鬼貫や新酒の中の貧に処ス   蕪村


というわけで、秋の暮れでもないのに、そういう季節感をもたらす寒い日である。

(日乗)
9月27日、福間さんのワークショップに行く。個と、それを突き抜ける見通しの弁証を聴く。その運動こそ、人が求めてなしえぬものであり、また、期せずしてそうなる、あるいは、強いられて個は世界と同致させられる、さまざまな形があるだろうと思った。ナンがクリストと一体化する恍惚は?

そのあと飲みすぎた。いつものように。

9月28日、
西郷信綱の死を知る。国文学の世界に「天窓」を開けた人であったと思う。

9月29日、9月30日、
職場。

2008年9月27日土曜日

秋のオード

湯殿川の道のコスモスが今年も咲き誇っている。それに憩う秋の蝶や、自らの獲物を待つ蜘蛛など、今朝の散歩は光のなかの饗宴だった。

 
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昨日は大学での授業。80名近い受講者に吃驚したが、どうにか言いたいことは言えたようである。学生諸君の真面目さにも感動した。慣れてきたら、もっと交流ができるだろう。とにかくあがってしまって、マイクのスイッチがどこにあるかわからずに、地声でやってしまった。終わったあと、その場所がわかる。しようがないや。どっと疲れた。昔の教え子で今、大学院生のSさんが、聴講に来てくれた。

2008年9月23日火曜日

Ophelia



John Everett Millais(1829-96)展を渋谷、Bunkamuraのミュージアムで観る。漱石の『草枕』で言及されていたオフィーリアの絵の実物をともかくも拝むことができた。昔、昔この絵の複製をアパートの汚い壁に貼り付けていたこともあった。「草枕」の語り手の画工は、この絵について語った後に、自分も「一つ風流な土左衛門を書いてみたい」と言うが、なぜか、このオフィーリアを土左衛門と呼ぶ漱石のこの部分だけは鮮明に覚えていた。今日美術館でもらったパンフレットの後ろには、この部分を含めた草枕の一節が引用されていた。

キーツやテニスン、ワーズワース、バイロンの詩の一節が絵のタイトルであったり、その詩に触発されたテーマの絵など。解説を読まないとわからない絵が多い、というより、絵画そのものが、風景画にせよ、当時の文学や時代の好尚と密接な関係を有して存在する、そういう絵であるので、絵のそばの解説を読まざるをえない。すばらしい肖像画、かわいらしい子どもたちのそれ、眺めるだけでいいのだが、つい誰、それの?ということで「読んでしまう」、ということで非常に疲れてしまった。

ラファエル前派という集団の一員の実物を、ロンドンのテートギャラリーまで行かなくて、日本は渋谷で見ることが出来たということだ。ロンドンで見たら、また違う感じ方があったのかもしれない。

ビクトリア王朝の栄光と衰退のすべてを、どれだけ観る者が深く感じられるかによって、これらの絵の印象も違ったものになるだろう、などと思った。

2008年9月22日月曜日

 秋風は物いはぬ子も

 昨日は、職場の文化祭を見学した。一年生有志たちの出し物であるゲームのようなものに参加する。楽しかった。雨だったのが残念で、室外の、三年生の模擬店などゆっくりと回ることができなかった。

 今日は立教大に行き、千石先生の案内で控え室、図書館、教室などを見て歩く。図書館のカードを作ってもらった。いよいよ、金曜日から授業が始まる。愉しみでもあり、不安でもある。まあ、肩の力を抜いて、学生諸君と向き合うことからはじめよう。大学は今日が後期の始まりということで、にぎわっていた。雨のなか、若い人たちのエネルギーに圧倒されながらも、自分の身内にもなにか湧き出るものを感じた。

 帰り、近くの夏目書房という古本屋で、尾形 仂の『歌仙の世界  芭蕉連句の鑑賞と考察』(講談社学術文庫)、他を買う。これは『卯辰集』所収の「山中三吟」歌仙を尾形が細かく評釈したものである。八王子に帰る電車のなかで、ずっと読んでいた。そのなかに次の芭蕉の句を発見して、強烈な印象を受けた。歌仙だから独立して味わうのは意味がないのだが、あえて、この句だけを覚えておこうと思った。

 秋風は物いはぬ子も涙にて

これは初折裏の9句目の句だが、そのこととは関係なしに、この句だけが屹立して迫ってきたのである。秋の愁いの伝統的な句と言えば、それまでだが、私はこの句を家に帰って、ニュースを見ていて、もう一度深く思い出すことになった。福岡と千葉の子どもたちの死を報じたそれを見たとき、ゆくりなくもこの芭蕉の句が胸を突き上げてきたのである。「物いはぬ子」ではなくて「物いへぬ子」なのだが、秋の嘆賞ではなくて、子どもたちの悲惨さなのだが。文化祭で輝いている生徒たち、今日の学生たちの姿、それに決して到達できない悲運の幼子たちの姿を二重写しにする「秋風」に泣いたのである。

2008年9月18日木曜日

燈ともせ

いろんなことがあった一日だった。

午前中に、八王子のハイフェッツという弦楽器専門店に友人を連れて行く。テキサス生まれの男で、再来日した、十年来の友だ。日本で生まれた彼の娘は、今十歳になる。ヒューストンで育ち、そこでチェロを習った。日本への引越しのときに、弦が切れてしまった。チューニングなどもおかしいというので、ネットで調べて、この店に行ったのだが、以前から、眼には留めていた。とても雰囲気のいい店で、多分オーナーだと思うが、口下手な職人気質という感じの人が、弦を付けてくれ、チューニングしてくれた。しめて2300円だった。簡単だった。そのあと隣にあった、すかいらーく、で生ビール2杯を、チキンのから揚げのようなものをツマミにして飲んだ。彼が言うには、明日自分だけでテキサスに行かねばならぬという、例のハリケーン「アイク」の被害を、メキシコ湾沿いの家がまともに受けてしまい、一階部分が全壊したということだ。その片付けと、隣近所の手伝いのために、三週間ぐらいは滞在しなければならないということだった。彼の不運をともに嘆いたが、いつものように、陽気な、どうにかなるという調子に戻った。

そのあと、タワーレコードに頼んであった、息子たちのデビューアルバム「The World According to Stewart」というCDを受け取りに二人で行く。息子への祝儀のつもりで、ちょっと多く購入した、そのうちの一枚を、友人にプレゼントする。彼は、息子のことも知っているので、自分で払うと言ったが、相模原などのCD屋でもう一枚買ってくれと言って、渡す。

いつもは授業が5時間もあって、一番大変な日なのだが、文化祭の準備ということで、パートタイムの講師であるぼくは暇になった。我が家では、毎週木曜日が義父のお風呂の日であり、看護士さんと女房の二人が奮闘して97の明治男を洗う日である。ちょっとした失敗があり、義父の脚をいためてしまった。医者が来て縫ったりした。肝をつぶしたが、たいしたことにはいたらなかった。大丈夫だった。たまたま休みの日だったので、二人の奮闘と大変さを如実にあらためて知った。

いろいろやらねばならぬことがあるのだが、少しも展開・発展してくれないこともあり、そうでもないこともある。もう急ぐ必要もないが、かといって安泰に構えていられるような気分でもない。

永き夜や思ひけし行く老いの夢    蕪村

秋の燈やゆかしき奈良の道具市    蕪村

燈ともせといひつつ出るや秋のくれ   蕪村

(どうも最近、ブソニストになったようだ。)

【ゆかしき】

寄らないで過ぎちゃった、
遠い
道。

燈ともせと
ももすもも

老いのはなやぎ、
因果のことわりではない
ふらここ、ゆれよ!

寄らないで過ぎちゃった、
道。
遠い
遠さ。

秋の燈
ゆかしき
奈良の
お水取りのきよらかな狼藉の火

ふらここ、ゆれよ!

寄らないで過ぎちゃった、
鮎のゆかしき。
そういうもののすべての
ゆかしき。

秋の燈のゆかしき人のゆかしさよ!

2008年9月16日火曜日

悪いことか?

朝、車を崖の壁にぶつけてしまった。大した損傷ではないが、非常に滅入ってしまった。職場の駐車場での事件。人がいなくてよかった。人にぶつけなくてよかった。反省する。運動能力の衰え、反応の遅さ、そういうことを考えて、高齢者は便利さをあがなわなければならない、ということ。

帰宅したら、久しぶりの、女房の外出日だった(あなたは、人が話したことを、ちゃんと聞いていないから、と帰宅した女房に叱られた)。新しい介護士さん、若い男性が来ていた。挨拶を交わす。義父は寝ていた。そのF君という介護士さんと少し話す。いい青年だった。男の子の介護士さんというのは、もちろんいるのだろうが、我が家では初めてだった。義父はどう思っただろう。

外出した女房が、デパートで金沢の特産物展があって、加賀の日本酒720ml瓶をお土産に買ってきた。私が、常々、倉田良成の「食日記」の感想を、うらやましげに語るのを聞いて、不憫に思ったからだろう。この酒は、冷や、ロック用と指定があるほど辛くて、とても美味しかった。「ひやおろし、常きげん」という石川は鹿野酒造の製造である。原料米「五百万石100%使用」と書いてある(この酒造の名誉にかけて、これは100%確かなことだろう)が、私には、もうそんなことはどうでもいい。汚染されていようが、されていなかろうが、どうでもいい。おいしかった。致死量にいたる毒でも、という気概がなければ、この嘘に満ちた国で生きていけるはずはない。

2008年9月15日月曜日

老猫尊者

敬老の日。齊藤史の歌集から目に付くものを選んでみた。最初はそういう意識はなかったので、選んだ歌は歌集(講談社学芸文庫版)の少し後の方が多くなっている。

○我を生みしはこの鳥骸のごときものかさればよ生れしことに黙す(母)

○月 神のごとく昇るにあやまちて声もらしたる森のかなかな(森)

○佳き声をもし持つならば愛さるる虫かと言ひてごきぶり叩く(小動物)

○秋日の空間を截る光にて過ぎたるものを仮に鳥と呼ぶ(鳥)

○衰へし尾羽に風のそよぐとき鶏の雄なることはさびしき(鶏)

○死魚を洗ひきよめて食む事も終りの日までつづくなるべし(魚)

○乳のますしぐさの何ぞけものめきかなしかりけり子といふものは(けもの)

○いかなる人間の営みありしオホツクの夏は夏霧冬は氷雪(北国)

○あかしやの花を食べ擬宝珠の花をたべわが胃あかあかとなほ営めり

○なかなかに隠者にさへもなれざれば 雲丹・舌・臓物の類至って好む(飲食)

○夢の中に風ふきとほるさびしさは枳殻(からたち)垣をめぐらせてなほ(夢と睡眠)

○正史見事につくられてゐて物陰に生きたる人のいのち伝へず(流説)

○すでにしておのれ黄昏 うすら氷の透けるいのちに差すや月光(月)

○夏草のみだりがはしき野を過ぎて渉りかゆかむ水の深藍(水)

○老いたりとて女は女 夏すだれ そよろと風のごとく訪ひませ(女)

○棍棒のやうに立ちゐる男二人 相撃つかはた立腐るるか(男)

○短歌とふ微量の毒の匂ひ持ちこまごまと咲く野の女郎花(短歌)

○秋の水を器に充し挿す花の何もあらぬがむしろよろしき(秋)

○一瞥のあはれみを我に賜ひたる老猫尊者目脂わづらふ

○老いてなほ艶とよぶべきものありや 花は始めも終りもよろし

○深くしづかに潜行しつつ老はすすむ 日本をまたぐミサイルの下(老年)

○みづからの神を捨てたる君主にてすこし猫背の老人なりき(天皇)

○遠き無慙かくちかぢかと眼に見せてテレビは誰のたのしみのもの

○並び待つ人等のあとに従きて聞く〈前の方になにがあるのでしょうか〉

○まだ落ちてゆく凶凶(まがまが)しき空間のあるといふことがわれの明日ぞ

○おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は

○携帯電話持たず終らむ死んでからまで便利に呼び出されてたまるか(人生)


齊藤史の短歌にある、怒りのようなもの、それが好きである。たくまざるユーモアもさすが。それにやっぱり叙景の歌もいいです、これは万葉の響きがする。「夏草のみだりがはしき野を過ぎて渉りかゆかむ水の深藍」これは特にいいですね。今日発見しました。「深藍」はどう読みますか。「ふかあい」、水のと三、深藍と四音で、三と四で七音の結句を作っているところ。

2008年9月13日土曜日

荒野

 井上荒野の『切羽へ』がブックオフで半額だったので、最近の直木賞というのは、どういうものかも知りたくて買った。もう一つは、見沢知廉の『七号病室』(作品社)も半額だったので購入する。前者も後者も、面白くなかった。

 今日、そこで定年を迎えた学校の「文化祭」だったので、6ヶ月ぶりに卒業生たちに会いたくて行く(たぶん、文化祭にくるだろう)。5、6名の連中と会う。みんな元気そうだった。仕事を始めて、ぼくより給料のいい奴もいた。明細を見せてもらったが、給料から差し引かれる項目がほとんどなかった、よく見ると社会保険には入っていないのである(というより、会社がその加入をすべきなのだが、していないということだろう)。「おまえな、会社によく相談しろ」と言う。面倒くさいなどといわずにね。ぼくも、今勤めているところは、社会保険などない。それが最初からの条件?である。ぼくと、彼のような若い、これからの人間との違い。手取りの見た目の大きさに、だまされるなよ、と言う。

2008年9月12日金曜日

萩何句何首

久しぶりに。
6日に、昔の「文芸部」の教え子たちと飲む。三名とも、今は大学院の学生。一人は一橋、一人は外大、一人は都立大。楽しかった。
7日は散歩の途中豪雨に打たれる。湯殿川一帯が急に暗くなり、稲妻と雷鳴、いつの間にか人の子一人いなくなった堤防を必死に走りながら帰る。こわかった。でも、幼い頃に帰ったような気もして、叫びながら走ったのである。午後のあやかしに遭ったようでもあった。
8、9、10、11と授業。その間に書評を一つ書く。気に入らず、直して今日12日送る。
またチャレンジした禁煙、一ヶ月目を迎えた。この一ヶ月の間に、二回喫煙した。一回は橋本でSさんと飲んだとき、もう一回は那覇でKさんたちと飲んだとき。それ以外はなんとか禁煙できている。こんふうに思うことにしている、「もう一生分の煙を吸ったのではないか」と。実にはかない、はかない禁という状態。

寂しさや須磨にかちたる浜の秋
浪の間や小貝にまじる萩の塵

この芭蕉の、「奥の細道」の句は、旅程も最後近くの敦賀の「種(いろ)の浜」で詠まれたものだが、いつもこの「萩」の句には驚く。小貝との取り合わせの素晴らしさ。それを秋の浪が包み込む。

駅にゆく坂道に咲く萩の花
思い出は淡き紫萩咲けり     蕃

「今日は、いとよく起きゐたまふめるは。この御前にては、こよなく御心もはればれしげなめりかし。」と聞こえたまふ。かばかりのひまあるをも、いとうれしと思ひきこえたまへる御気色を見たまふも心苦しく、つひにいかにおぼし騒がむ、と思ふに、あはれなれば、

 おくと見るほどぞはかなきともすれば風に乱るる萩のうは露

げにぞ、折れかへりとまるべうもあらぬ、よそへられたる、をりさへ忍びがたきを、見出だしたまひても、

 ややもせば消えをあらそふ露の世に後れ先立つほど経ずもがな

とて、御涙を払ひあへたまはず。宮、

 秋風にしばしとまらぬ露の世をたれか草葉のうへとのみ見む
と聞こえかはしたまふ。(『源氏物語』―御法―より)

 この鼎唱はたとえばチャイコフスキーのピアノトリオ「偉大な芸術家の思い出」のエッセンスと通い合うような気がする。今聴きながら書いているのだが、このイ短調の切迫した曲の美しいモチーフと、この三人の歌がぼくの心の中で共鳴している(無理にそう思っているのかも知れないが)。ところで、この場面は五島美術館所蔵の国宝の絵巻にも採られているのだが、これについて三谷邦明・三田村雅子夫妻共著の「源氏物語絵巻の謎を読み解く」(角川選書)では次のような解説がされている。「紫上の命が失われていく瞬間を描くこの場面は、互いに愛し合った夫婦が、その最後の瞬間にさえ信頼を取り戻せないことを示唆している。紫と養女明石中宮の距離と光源氏の距離を比べれば、前者の方がはるかに近く、紫が最後の最後にはこのなさぬ仲の娘にすべてを委ねていることは明らかである。それに対して源氏は紫の心を捉えられないばかりか、不断の心労に巻き込んでいくばかりの存在になってしまっている。源氏の後方に靡く秋草は激しい野分の訪れを告げているが、その風が今御簾を吹き上げ、紫の最後の生気を奪い取って行く。紫をおびやかす風が、源氏その人から発するかのように描かれることで、紫の病の本当の原因も、ここに示唆される。」これは、またあまりにも酷な読み方ではある。紫はここではそのような源氏を心の深くから「許している」のではないか。だから「つひにいかにおぼし騒がむ、と思ふに、あはれなれば」と彼女の心中が語られているのではないか。

というようなことを、ぼくは2002年にノートに書いている。紫の上の、萩の歌、

 おくと見るほどぞはかなきともすれば風に乱るる萩のうは露

「萩」というと思い出す歌である。芭蕉の名句とともに。

 探求す文の間に秋の草  蕃

2008年9月2日火曜日

『歌仙の愉しみ』(1)

『歌仙の愉しみ』(岩波新書)を読んでみた。序にあたる部分を丸谷才一が書いている。そこで書かれている俳諧(俳諧の連歌、連句)についての説明と、いつものような、それが近代文学に与えるカンフル剤的な意味合いについての言辞は省略する。丸谷による連衆の紹介を書き写せば、「詩人と歌人と小説家」、同じく連衆を「仏文系と国文系と英文系」、「静岡県生まれと三重県生まれと山形県生まれ」「教員の子と神官の子と医者の子」というように紹介している。こういう紹介の仕方にすでに丸谷的な俳諧味があるといってほめてもいいかも。すなわち、大岡信、岡野弘彦、丸谷才一の三名によって巻かれた「歌仙」八つ(8巻)と、それぞれの巻の各自の句意や付合いの加減についての三名の楽しいお喋りが付加されたのがこの本である。さきほどの丸谷の「わたしたちの歌仙」という、これだけは書き下ろしだが、序にあたる部分が本の最初にあるという体裁。それによれば、1960年代の半ばごろ、安東次男を宗匠として大岡と「歌仙」を「事始」めして四十年余り、「近頃は大岡さんを宗匠格にして岡野弘彦さんとわたしの三吟で巻くことが多い。これがわりあひ具合がいいみたいです。」
さて、この三吟八歌仙は成立順に、岩波書店の雑誌『図書』の2000年9月号から2008年1月号にいたる8冊にわたる雑誌に掲載された。ただし、作品自体である36句の歌仙は、それよりも(掲載時よりも、もっと)前に成立している。たとえば、2008年1月号初出の「まっしぐらの巻」という歌仙について、「ちょうど一年前の2007年一月十一日、木曜日だったと思います。私が発句を出す順番に当たっていまして、…お二人に見ていただきました。宗匠がこれがよかろうとおっしゃってくださって、丸谷さんとも意見が一致しまして、
来むかふは猪年の老いのまっしぐら  乙三
これが発句に決まったのでした。」と、この巻で発句をつとめた乙三=岡野弘彦の発言が、この巻の「お喋り」の冒頭にある。どういうことだろうか?一年近くも、それぞれの句の推敲があったということもあろう。私が言いたいのは、どうしてもそれぞれが作りあげた句に対しての事後の「お喋り」が必須であるということだ。カノンである『芭蕉七部集』などに、このような「お喋り」が付随していることはない。いくら「共同体」の、「集団」の文芸と言っても、江戸時代の人にサッカーのルールを教えるのと同じような事態があるから、「評釈」「お喋り」の連綿たる積み重ねがあるのだと言える。要するに、これらの「評釈」「お喋り」を含めてしか、それぞれの歌仙は読めないのである。その「面白さ」も。正直に言うとそうなる。

2008年9月1日月曜日

石川淳『歌仙』

石川淳「歌仙」

くれなゐの花には季なし枕もと
  まだきに起きて初霜を履む
くもり日の枝に残れる柿いくつ
  またのみ直すどぶろくの酔
失せものをたづぬる方に月あはし(月)
  ひとの苦労を茶ばなしにする


むつかしや梅にも露は置くものを
  木の芽どきにはつのる癇癖
ネクタイのサーモンピンク春浅し
  蝶飛びかふは誰が家の窓
うすものに透きたる肌は夢ならじ
  かぶりつきには利いた顔なり
つれなくも木戸に入るさの月の影(月)
  虫の音聴いてかへる横町
やや寒のなま物識と笑はれて
  客を迎へて酒徳孤ならず
わが宿は隣の花のさかりにて(花)
  春追ふ旅のわらんぢを編む


飛行機の影より霞みわたりけり
  ほのかに低し先哲の墓
つづめたる思想は思想に非ずかし
  雲の中なる神霊は何
五月朔明けなば旗の揚がるらむ
  女まじりに押出す勢
水清し地は解放を名に負ひて
  稲穂の波に歌のたかまる
草花をかざしに挿してをどる輪に
  雁のたよりの一人を欠く
山東の郷談月にこころよく(月)
  手妻のたねも売れる祭礼


国越えの峠なかばにしぐれけり
  はきならしたる海軍の靴
穴子ずしまた染めかへす暖簾にて
  初雷の江戸の青空
花吹雪橋には獅子の舞ひつれて(花)
  善隣春はめぐる船旅