2009年12月27日日曜日

翼ある蛇

Bei Hennef


The little river twittering in the twilght,
The wan, wandering look of the pale sky.
This is almost bliss.

And everything shut up and gone to sleep,
All the troubles and anxieties and pain
Gone under the twilight.

Only the twilight now, and the soft 'Sh! ' of the river
That will last for ever.

And at last I know my love for you is here;
I can see it all, it is whole like the twilight,
It is large, so large, I could not see it before,
Because of the little lights and flickers and interruptions,
Troubles, anxieties and pains.

You are the call and I am the answer.
You are the wish, and I the fulfillment.
You are the night, and I the day.
What else? It is perfect enough.
It is perfectly complete,
You and I,
What more--?
Strange how we suffer in spite of this.

David Herbert Lawrence(1885-1930)

これはロレンスの愛の決定的な(crucial)瞬間の詩です。フリーダとの逃避行と二人の同棲を決定づけた文学史上有名な愛の始まりの詩です。上田和夫訳(弥生書房・世界の詩)です。

ヘンネフにて

小川が 夕ぐれにさえずっている
ほの白い 青ざめたいぶかしい空もよう
これは なによりもよろこびだろうか

あらゆるものが口をつぐみ 眠ってしまった
悩み 不安 苦痛は すべて
たそがれに消えた

いまはただ夕やみだけが そして永遠につづく
川のやさしいシーという音があるばかり

ついにわたしは あなたにたいする愛がここにあることを知る
わたしはそれをすべて見る それは夕ぐれのように完全だ
大きい 実に大きい これまで見ることができなかったのは
小さいひかりや またたき 妨害
悩み 不安 苦痛のせいだ

あなたは呼ぶ声で わたしは答える声
あなたは願望で わたしはそれの実現
あなたは夜で  わたしは昼
そのほかはなに?これで十分ではないか
完全無欠だ
あなたとわたし
これ以上のなにが――?

不思議だ それでいてわたしたちが苦しむとは?



この詩をどうして思い出したかというと、北川朱美の「メキシコの空」という詩を読んだからです。そこには次のようなスタンザがありました。

メキシコの小さな駅
ケツァルコアトルでのことだ

この詩もすばらしい詩でしたけど、私はケツァルコアトルから「翼ある蛇」のロレンスへとショートしてしまったのでした。

あとロレンスの生年と没年を調べて書いていて、ロレンスが死んだ1930年は平岡敏夫先生の生まれた年なんだということを思い出しました。(ですから、今日の私には焦点というようなものはどこにもないのです。)

2009年12月26日土曜日

鉢叩き

長嘯の墓もめぐるか鉢叩き

何にこの師走の市にゆく烏

芭蕉の師走の句を二句。はるか元禄の冬を思いながら、あれこれと書くべき原稿のイメージを考える。あの時を、この時に重ねる。素朴で無知な疑問だが、「鉢叩き」はまだ行われているのだろうか。見たいものだ。空也忌は11月13日というが、その時に京都の極楽院で念仏踊りが行われると辞書などにはあるが、これは芭蕉が去来と一緒に見た「鉢叩き」ではないだろう。似たものだろうが。

 大江健三郎の「水死」を読み終わった。大江自身の「沖縄ノート」をめぐる裁判などの経験が随所に取り込まれている。その終わり方はちょっと唐突な感もした。オープン・エンドな終わり方と言うべきか、まだ彼自身のモチーフのきっかりとした終焉というようなものではない。だれかの「水死」論を読んでみたい。

 この一月号から「現代詩手帖」の「詩誌月評」という欄を担当することになった。一年間の長丁場で息が続くかどうか心配だが、自分なりにやるしかない。この一ヶ月随分いろんな雑誌を読み、詩や短歌や俳句、評論などにも目を通した。これ自体は苦痛でもなんでもなく率直に言って面白い。これが一年間続くのだから楽しみだ!こんな多くの詩誌が発行されているのである、長い年月を数えている詩誌も多くあるし、近日発行された小冊子やノートのようなものもある。それらと対峙し学び、個々の作品の私の読みを提示していく作業、まずはそこから出発していこうと思っている。1月号はたぶん月曜日(28日)頃に店頭に並ぶはず。ご高覧を乞う。

2009年12月21日月曜日

晩年の仕事

なにもやりたくなかったから、年賀状を作ってしまった。奥さんと自分用の二種類を興に乗ってパソコンで作った。これなら人生で初めて年内に、しかも25日までに出せるかも(しかし、自信は全くない)。
 
 土曜日は息子たち、Troy一家と、我が家で忘年会兼クリスマス会?をやった。Madelineが寅年生まれで新年には12歳になる。立川の病院で生まれてもう12年か。そういえば、北海道の木村君ともそのときに電話で話したのだが、彼も寅年で還暦を迎える。福間さんは丑年だから今年がそうだった。Madelineも、その親たちとも長い付き合いになる。
 
 大江健三郎の「水死」という小説を、ここ2日間ぐらい読んでいるが、今日は全然読まなかった。面白いのかそうでないのか、あまりよく分からない小説だ。久しぶりに大江を読んでいるが、なんか自己の今までの小説への言及に充ち満ちているなあ。サイードの言う「late work晩年の仕事」とはこういう仕事を言うのだろうか?まだ読了してもいないのに、これは失礼な言いぐさだとは思うが。

2009年12月19日土曜日

望月裕二郎の歌集「ひらく」から

 昨日の授業で、今年後期の講義は来年一月の一回を残すのみ。講義の終わりに、去年の受講生で今は4年生の望月君が教室にいることを発見する。今年は他のものと重なって選択できなかったとのこと。卒業制作の短歌集が出来たのでと言って、一冊ぼくに持って来てくれたのだ。就職も某市役所に決まったという。このご時世に、よかったね、という。同人雑誌にも入ったか、作ったかしたとのこと。働きながら、好きなことできるのが一番だよと彼に言う。ぼくの詩集『樂府』を出して、サインしてくれというので、話してくれれば進呈したのにと言いつつ、なれぬサインなどしました。 以下望月君の歌集『ひらく』よりぼくの好きな歌をランダムに。歌集の後ろから前に引用してみる。

さしあたり永遠であれ人間の夜の舗道を伸びる白線

終電の窓が切り取る一瞬のおばさんの欠伸を見て僕も

落ち合えば君の隣に僕が立つ首から下のぼくのからだが

グリーングリーン歌う教室その横で先生言えり「泣きたいとき泣け」

つり革に光る歴史よ全員で死のうか満員電車

おお、われの口から出でし一行の詩がビルディングの間(あわい)泳げり

William Carlos Williams"This Is Just To Say"
朝食用冷蔵プラムを食べましたおいしく甘く冷たくゆるして

 小石川植物園
パピルスの葉に触れてみてわたくしがパンク・ロックを好んだ日々よ

 鎌倉
かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼はパンチパーマでピアス痕あり

東京は猫の町なり猫議員選挙があらば投票に行かん

空を飛ぶとは良き発想なりヒヨドリは羽翼をちょっと僕らに見せて

目覚めれば地球は今日も窓際に朝陽を引用して回りだす

伝えたいことの不在を伝えたい 便器、おまえは悲しくないか

朝刊がポストへ沈むとき僕に睾丸の冷たさは優しい

2009年12月17日木曜日

就活

 hさんは前回の出欠票を兼ねた授業の感想(リアクションカードと称している)に「周りがスーツだらけになってきて何となく気持ちが沈んで悲しい」と、授業とは関係ないが、自分の思いを書いてくれていた。彼女は英米文のたしか3年生だ。本当に、なんという社会、国なんだろう。大学の3年生で、ただもう就職のために奔走(スーツだらけ)するしかない、しなければならないなんて。そういえば、50名あまりのクラスの出席者のなかで、よくみると男性も女性もスーツ姿を見かけるのが多くなった。「いいよ、面接などの日程がわかっている人は前もって連絡してください、欠席にはしないから」などと頓珍漢なことを私は彼や彼女たちの前で話したりした。なぜなら企業の合同説明会が大学内であるということを知らなかったから、すべての授業が終わってから、もちろんいつもではないが。こういう例は恵まれた例だろう。多くは一日のすべてのエネルギーをかけて、どこかに「参上」するしかない。
 私は「文学講義、実作・実践講義」なるものを担当している。受講者の彼や彼女に詩の創作を課しているのだが、そこで「就活」をテーマとする作品もあらわれる「時世」になった。
 

昨日の話

最初の一杯で頼んだとりあえずのビール
食べられなかった茄子の一本漬に箸がすすむ
「珍しいね、スニーカーなんて」
つよしとは出会って半年だった
「流行っているからね」と
黄色くなった茄子の先を見ながら
卵と間違えて舐めた小学生のころを思い出した
「ビールはやっぱりまずいね」と
同時に入れたいつものボトルとジャスミン茶
「スーツ買ったの?」
賢人はいつものようにグラスを寄せるから
「明日から明日から」と
一気に飲み干す

気づいたら終電が出る時間

「また逃した」

どうやら僕は就活生らしい


 この作品は、いつもすぐれた詩を書くmくんにしてはあまり、というようなものだが、それでも、おもしろい。もっと考えるべきことはあるが、今晩はここまで。

2009年12月16日水曜日

鐘     杉本 徹(1962年生まれ。09年「ステーション・エデン」で歴程新鋭賞)

曇り空のクレマチスに
歌のうしろすがたを問う、と
あらゆる雑踏のどこかで人影がほそい
冬の、砂にまみれた膝も携帯も
心放つための野を
日々褪せてゆく野の色を
思いながら、道々の窓あかりに
……待ち望んでいた(ひたすら)
鳥の生涯に「なぜ」の音符がいくつ
灯されたとしても
聞こえない
ただ指の隙から不意打ちの軌跡が
陽の掟となってゆるくひとすじ
つたい落ちると
それが十二月の鐘の色――
バスのタラップを降りる音にも
振りかえってしまう
そう言って並木の葉が招いた
(……地球の夜を、許しなさい)
交錯する靴音は彗星をあこがれて
こうして、こんなに
空を人の胸のように抉り、消え去った


 朝日新聞の12月12日の夕刊の「あるきだす言葉たち」という欄に掲載された詩。一度読んだとき、なぜか心に残った。今日、仕事が終わって(パソコンの画面との格闘で目はしょぼしょぼ、気力ゼロ)帰宅してから、気になっていたので新聞を探した。あった。この人の詩集「ステーション・エデン」は読んでいない。読みたいと思った。
 この詩の私にとっての魅力について考えてみた。簡単に言えば、現代の万物照応とはこういうささやかなものだな、という感じ。「あらゆる雑踏のどこかで人影がほそい」ようにこの詩のなかでは、発話者(作中の語りの主体と言ってもいい)の影もほそくうすい。「膝や携帯」の擬人化もそんなにどぎつい感じがしない。好きなのは「心放つための野」という古くさそうで、そうでもない表現である。音符は灯されよ、鐘の色はつたい落ちよ。そういう中間部を経て、最後の部分の措辞。並木の葉のつぶやきと招きというこれも擬人法だ、(……地球の夜を、許しなさい)というつぶやきに意味があるわけではない、そうなのだが、読者にいろんな情感を抱かせる命令的な語法が最後まで小さく響くようでもある。交錯する靴音、というような措辞はどこか俳句的なイメージを生みだすが、それが彗星と照応して、地の音が空を赤くして一瞬のうちに消えゆく彗星の光芒となる。そして「空を人の胸のように抉り、消え去った」。もちろん、そこまでは行かない、「あこがれ」「こうして」「こんなに」。小さな、やさしい、光と音の世界すらも夢見られている……。
「曇り空のクレマチス」(このアリタレーションはうまい)の歌である。たぶん、そういうところにひかれたのであろう。

2009年12月15日火曜日

All's Well That Ends Well

今日、山の上の学校では、中学生の試験監督に当たっていたので、行くと英語のリーダーの試験だった。担当の先生がやってきて、リスニングのテープをかけた。聞くともなく聞いていると一カ所だけ聞き取れないところがあった。終わると、その先生が監督のぼくに「よろしくお願いします」と言って教室を出て行ったので、生徒の邪魔にならないように静かに机間巡視の真似をして、彼女たちの答案を覗き、リスニングの内容(それまで調子が悪かったのだが、最後にホームランを打ち、ゲームにも勝ったという話)を思い出すと、 終わりよければすべてよしAll's Well That Ends Well という部分が、正確に聞き取れなかったところだったということが分かったのだった。きちんと書き取りができている子も少なかった。中2にしては難しくはないか?でも授業で一回ぐらいは勉強したのだろう。 シェイクスピアにAll's Well That Ends Well という戯曲があったのを思い出した。子どもたちはこの言葉を覚えるとき、シェイクスピアとその戯曲のことも先生から習ったのかしら。戯曲の方は中学2年生の女の子にはたぶん、いやきっと非常に不適切な内容だから、説明のしようがないだろう。でも興味を持って、その戯曲を読む子もいるかもしれない、そうなれば、その子はそこから何かが始まるのを自分で知ることになるのか、いや難しすぎるか、やっぱり。

2009年12月9日水曜日

夜になると鮭は

 若い人たち三名と、国立で飲んだ。詩の話を脈絡もなく、延々としたような気がする。帰りは、一人で片倉まで、寝過ごしもせず、わりとまともな状態で帰還する。どんな話をしたのか、どんな話を聞いたのか、それがいつもおぼろげである。しようがない。でも楽しかったなあという感じはいつまでも残っていて、それが悪酔いもさせず、今朝もなんとか早く起床させ、仕事にも行くことができた、そのエネルギーになっているのであろう。
 
 話は変わるが、ぼくは自分の詩の朗読は下手だが、吉増剛増の真似は上手だと思っている。そういう詩のカラオケのようなものはないのかな、時々胸中の声を出したくなるよ。

ル・クレジオの話聞きたかったけど、忙しくて行けなかった。
平山郁夫が亡くなったが、友人は自分のことをかつて裏山行夫と称して、裏山にあたる高尾山のあれこれのルートを完全制覇したと笑いながら喋ったことがあった。
今年の1月に急逝した笹井宏之という若い歌人がいたが、彼の「ねむらないただいっぽんの樹となってあなたのワンピースに実を落とす」という歌がとても好きだ。
昨晩飲んだ若い人たちの感度の良さと優しさに還暦(を超えた)者は感動した。
毎度カーヴァーですみません、ちょっと大谷良太の生鮭のムニエルの詩を読み、カーヴァーのこいつは生きている鮭の詩を思いだしたので、それはAT NIGHT THE SALMON MOVEというタイトルの詩で、

AT night the salmon move
out from the river and into town.
They avoid places with names
like Foster's Freeze, A&W, Smiley's,
but swim close to the tract
homes on Wright Avenue where sometimes
in the early morning hours
you can hear them trying doorknobs
or bumping against Cable TV lines.
We wait up for them.
We leave our back windows open
and call out when we hear a splash.
Mornings are disapointment.

ついでに村上春樹の訳も書いておこう。

夜になると鮭は
川を出て街にやってくる
ファスター冷凍とかA&Wとかスマイリー・レストランといった場所には
近寄らないように注意はするが
でもライト・アヴェニュー の集合住宅のあたりまではやってくるので
ときどき夜明け前なんかには
彼らがドアノブをまわしたり
ケーブル・テレビの線にどすんとぶつかったりするのが聞こえる
僕らは眠らずに連中を待ちうけ
裏の窓を開けっぱなしにして
水のはね音が聞こえると呼んだりするのだが
やがてつまらない朝がやってくるのだ

とても、いいよ。読み返してみて、昔気づかなかった部分が見えてくる。「朝」は英語ではMornings なんだ。この複数形にこめられたニュアンスを村上は「やがてつまらない朝がやってくるのだ」という習慣的、繰り返し的な響きをこめて「…くるのだ」と訳したのだろうね。アメリカのbottom dogsのような生活者の夜の意識がここには幻想的に、ロマンティックに定着されている。これに大谷良太の「今泳いでいる海と帰るべき川」の情動のようなものを比較するとどういうことが言えて、どういうことが言えないだろうか。

2009年11月27日金曜日

詩と物語

Raymond Carverの新しい?伝記"A Writer's Life"(By Carol Sklenica・Scribner)というのが出た。これについて、あのStephen Kingが書評を書いている、その書評(Raymond Carver's Life and stories・nytimes.com.Nov22)を、あらかた読んだ。その書評自体についてはここでは書かない。

 Carverの死後一年経った1989年に出版されたCarver最後の詩集"A NEW PATH TO THE WATERFALL"邦題(村上春樹訳)「滝への新しい小径」を読み返して、これに限らずカーヴァーの村上春樹に対する深い影響ということを考えた。村上はカーヴァーが一番好きなんじゃないか。
 
 村上は先日(11月23日)、ロイター通信のインタビューに応じて、次のようなことを語っていた(asahi.com)。記事通りではないが、趣旨は同じ。

「ジョージ・オーウェルの『1984』は近未来小説だが、自分の『1Q84 』は近過去小説として書いた、それは過去はこうあったかもしれない姿ということで書きたいと思ったからだ」「1995のオウムによる地下鉄サリン事件や9・11の事件は現実の出来事とは思えない。そうならなかった世界というのは、どこかにあるはずだ、という気持ちがどこかにある」

以上の事は、ぼくには『滝への小径』の、テス・ギャラガー(カーヴァーの晩年を共にした、カーヴァーにとってはミューズとも言うべき共同生活者の女性詩人)の感動的な序文にある次の一節との照応を考えさせられた。実はこの詩集はテスの編集によるものといっていい(なぜなら、カーヴァーは癌の再発で、編集作業などをテスに任すよりしかたがなかった、というよりそういうことには無頓着だったというのが正確だろうが)、彼女が「アレンジしたものを二人で検討して」最終的には六つのセクションに分け、最初のセクションには旧作が収められた。その理由について、テスは述べている。

 それによってレイは、ちょうど自分の作品にチェーホフの時代を持ち込み(最初テスのチーェホフ熱狂があり、それがカーヴァーに伝染し、この二人は朝、昼、晩とカーヴァーの約2ヶ月後の死に至るまで、チェーホフ作品を語り合って飽きることがなかった、そこからカーヴァーはこの最後の自分の詩集に、彼が惹かれたチェーホフのパッセージを14個、まるで自分の詩のようにして自分の詩集に裁ち入れた、ぼく〈水島〉はこういう詩集の作り方もあるのだと深く納得する、カーヴァーをどうにかを生かしめたのはチェーホフの作品のようでもあるから)、根付かせたのと同じように、自らのかつての人生をもそこに運び入れたわけだ。そしておそらくそれらを想像力を介してとりこむことで、彼は双方の人生を変容させたのだろう。そういう点においては、ミウォシュの『到達されざる大地』の中の、彼がしるしをつけたパッセージがレイの密かな目的を説明しているかもしれない。(水島註:引用の引用になるから読みにくいけど、ミウォシュもカーヴァーの好きな詩人だった。ミウォシュはポーランドの詩人で、アメリカに亡命した。1980年にノーベル文学賞を受けた。『到達されざる大地』は原題は"UNATTAINABLE EARTH"で1986 年刊だから、カーヴァーが亡くなる2年前ということになる)

 カール・ヤスパースの弟子であるジャンヌが、私に自由の哲学というものを教えてくれた。それは今現在、今日なされているひとつの選択は、過去に向けて自らを投射し、我々の過去の行動を変化させることになるのだと認識することによって成立している。


村上はその『1Q84』でどう「過去の行動を変化させることになる」のだろうか?その第三巻は2010年の5月に出版予定であるという。彼は次のように応える。

 「僕はあまり日本語の日本語性というものを意識しない。よく日本語は美しいという人がいるが、僕はむしろそれをツールとして物語を書いていきたい。非常に簡単な言葉で、非常に複雑な物語を語りたいというのが目指しているところ… 」

こういうところが村上春樹の本領だとぼくは思うのだが、ここで核になっているのは「物語」への確信であるということを見逃してはならない。実はこれもカーヴァーの深い影響が関係しているのではないか。

 カーヴァーの詩は、小さな物語の宝庫である。すぐ短編小説になりそうなものもあれば、逆に短編が詩に変形されたものもある。彼ほど、詩と小説の垣根を取っ払った詩人、作家はいないだろう。村上の作品にカーヴァーのように「詩」を感じることは正直言って余りないのだが、彼が日常の一挙動に等しい微細な動きの観察者であり、そこからすぐに小さな物語をいくらでも立ち上げ、それを最後には時間の流れとともに不可解な人生そのものにも匹敵する大河に化してしまう端倪すべからざる力量を持っている稀有な長編作家であることは認めざるをえない。一方は小さな「内なる声」にすべてのエクリチュール(詩であれ、短編小説であれ)がその歩みを誠実に刻印するとしたら、もう一方はその「内なる声」を信じることが不可能な時代、それを歩むための策略に満ちた「誠実」さというようなものを、その長編に仕組まなければならない時代の作家であるということだ。つまり「冷戦後」を書くとは、1988年に亡くなったカーヴァーとは異なる過酷さを作家に強いるだろうということ。しかし、ぼくは村上の書くことの基本にカーヴァーの破滅と祈りがあることをどこかで信じている。

2009年11月22日日曜日

発話旋律

 昨日の午後五時頃には、鮮やかな三日月が見えた。息子たちが久しぶりに遊びに来て、泊まった。今日、国立まで車で二人を送った。寒い。冷たい冬の雨。送った後に、どこかで女房と二人で昼飯でも食べようかと思ったけど、車を駐車できる店を撰ぶのが面倒なので、そのまま家に帰る。途中で、昔よく行ったお寿司やさんの前を通り、まだなんとか頑張って開店しているのを見て、胸をなでおろす。そのうちに行こう行こうと思っているのだが、なかなか都合がつかない。通り過ぎてから、戻ってあそこで昼飯を食べようとちらっと思ったが、私の運転技術ではもう前へ進むしかない。

 来年は、今まで以上に忙しくなるような気がする。もっと勉強もしなければならないとも思う。そのためにはウォーキングを規則正しくやって体の調子を作らねばなどと考えるのだが、家に帰ってからは散歩に出かけずに引きこもりの状態で半日を過ごしてしまった。
 
 テレビでヤナーチエックの「シンホニエッタ」のことを面白く解説した番組を、その途中から見た。この曲には、「発話旋律」というヤナーチエック独自の技法が随所に使用されているということだった。ヤナーチエックはチェコ語の会話の抑揚やリズムをもとにそれをメロディーとして作曲したということだ。その番組では日本在住のチェコの人を何名か集めて、シンホニエッタのある楽章を聴かせて、どういう言葉に聞こえるか、会話に直してもらっていた。例えば、みんな集まれ、とかに聞こえると流ちょうな日本語で、三名のチェコの人が答えていた。面白い。日本の曲でも、まどみちお作詞、団伊玖磨作曲の「ぞうさん」などは、話すときの音型と曲のそれがほぼ同様であるということだった。「シンホニエッタ」は村上の「1Q84」以来だった。「発話旋律」、いかにもという命名だ。

2009年11月17日火曜日

寒かった

冷たい雨に

その白い大きな、ラッパのような花を
見つめる
やっぱりあなたは
朝鮮の方だったのですね
一時間半の散歩であなたに会えるとは
昨晩から今朝まで
そこで咲いていたのですか

はい、あなたに向かってよく吠える
散歩中のあなたの心胆を寒からしめる
(この日本語一度使ってみたかったのです)
あのいかめしいボクサー犬の名前を
あなたはご存じですか?

光化門のことをご存じですか?
柳宗悦のことをご存じですか?
三てん一のことをご存じですか?
光州のことをご存じですか?
ぺ・よんじゅんのことを?

美しい白いあなたの脚
狂信者とはみえない静かな毒
あなたはラッパの天使をトラウマにした雨の日の聖オーガスティン
キムジハを愛しながら、グローバリズムの世も生きざるをえない
だから、犬たちの糞まみれの一番汚いそこに
咲いているのですね
昨晩から今朝まで

はい、あなたに向かってよく吠える
あのいかめしいボクサー犬の名前を
あなたはご存じですか?
ルパン三世の思い人不二子というのです
ご存じですか?

夏の道で
私はよく犬に吠えられたことがあった
とくに文学には閉口した、と
朝鮮朝顔の葉が萎んでいる、冬の冷たい雨に               

2009年11月16日月曜日

にぶいニルヴァーナへ

 北村太郎が戦中は横須賀の通信学校で暗号解読の仕事をやらされたという話は有名だ。日本の暗号はことごとく米軍に解読されていたが、アメリカのそれは難しくて解読不可能だったと北村は述べている。そのかわり、「なにをやったかというと、暗号通信の解析です」(『センチメンタルジャーニー』)。これは暗号電報の種類、例えばアージャント(至急)とかそうでないとかの区別を短波電信の解析を通して分類を可能にするものらしい。そこから「百何十人もいたぼくら予備仕官は、暗号通信の発信の仕方で硫黄島にいつ頃米軍が来るかとか、沖縄に敵の艦隊がいつ来るかということも、…すべて分かる。硫黄島の場合も、沖縄の場合も、米軍の上陸が数日前にはピタリと分かった。それを軍令部に届けるわけだけれども、そんなことをしたってなんの意味もない。攻撃しようにも飛行機が全然ない、爆弾がない(攻略)」という始末で、仕事とも言えぬ仕事で、みんながのんびり学生気分で過ごすしかなかったという。鮎川に話したら「おまえなんか兵隊に行ったうちに入らない」と言われたらしい。「兵隊の神髄は陸軍にあるということで軽蔑されたわけです」と北村は語っている。
 この話自体も面白いが、暗号解読の経験を積んだ北村太郎が、その詩のなかで「暗号の詩」(『センチメンタルジャーニー』)を試みたことは、ある意味でとても自然で必然なことだったのかも知れない。それは、
 ――ぼくの詩のなかに5,6篇だけれど、恋人へのメッセージを組み込んだ詩があるんです。たとえば原稿用紙の上から5番目の斜め左にずっと下がっていくと「なに子ちゃん、ぼくは君を愛しているよ」なんて書いてある。――

ここから恋人へあてた「暗号の詩」はすべて明らかにされたのだろうか、5.6篇とあるが、もっと多くの詩のなかにも暗号が組み込まれてあると聞いたこともある。宮野一世氏などの研究ですべては明らかになったのだろうか。その「暗号の詩」の一つを、宮野一世氏の述べたもの『北村太郎を探して』所収「暗号」より)を参考に書き写してみる。
横書きにして引用する(この書式ではそうするしかないのだが、しかしこの方がかえって隠されたメッセージをたどりやすい)。

冬を追う雨

雨のあくる日カワヤナギの穂が
土に一つのこらず落ちていた
はじめは踏んだら血(青い?)の出る毛虫かと思った
かたまって死んでる闇の精
ヤナギは不吉な植物なんていうけれど
たしかに繁ったおおきなシダレヤナギは
髪ふり乱して薄きみわるい
カワヤナギは穂をつけて
冬のあいだは暖かそうでかわいい
春になると黄色い細かな花で穂がおおわれ
近くに寄って観察すると
その一つ一つは大層かれんだが
少し離れて見るとややわいせつで
この変形は自然の悪い冗談みたいだ
ゆうべの雨はひどい音だった
冬を追っぱらうひびきを枕にきいた
そしてけさふとカワヤナギの毛虫を見てもう桜が近いと思った



最初から明かせば、この詩には宮野氏によると「かずちやんきみをあいすかわいいひと」というメッセージが隠されていることになる。全17行の詩だが、各行のある文字を連続して折り込んで行けば、17文字の暗号ができるわけだ。各行の任意の一字ではわからない(しかし、北村の詩を愛する人は、そういう覚悟で探すこともいとわないだろうが)が、この詩には冒頭の一行から最後の行までの、それぞれ7、8、9、10、11、10、9、8、7,8、9、10、11、10、9、8、7文字目に該当文字が隠されている。数字の順にある規則性が見られるのも、暗号解読に従事した経験の名残なのだろうか。この解読には北村自身の先ほどの言葉「たとえば原稿用紙の上から5番目の斜め左にずっと下がっていくと」なども参考になったのだろう。

この詩もアクロスティック(折句詩)と言ってよいのだろうが、一番簡単なのは行頭の文字を折りこむことである。次の詩も宮野氏によるもの。これは簡単で、北村太郎が「一番初めは、単純にやったらすぐに見破られた」と言っているものかも知れない。

三月尽

髪の毛のひとつひとつから
ずり落ちていくまぼろし
故園に倒れる木
とおく水平線が傾き
若いざわめきがきこえ
肉体はすでに空へかけ登ろうとしている
きらめく闇へ
見返りながら消えゆくたましい
同じことばのくりかえしに
あしたの骨は真っ青
石を投げ
少し静まる一日
鳥は去る
湾の波のよせてくるほうへ
にぶいニルヴァーナへ



この2作で呼びかけられた「かずこ」とは田村隆一の奥さん田村和子のことだろうが、それにしても小説「荒地の恋」で描かれた恋とは全然違う、高雅さというか余裕というか、あるいは覚悟というか、そんなことをこれらの表の詩と、そのこめられた断片のメッセージの組み合わせから私は感じる。別に小説「荒地の恋」の話は出さなくともいいことだが。
「三月尽」の「にぶいニルヴァーナへ」が面白い。「冬を追う雨」を読みなおすと、暗号メッセージはもうどうでもよくなり、この詩人の細部へよせる奇妙な情熱に惹かれてしまい、植物「カワヤナギ」のことを知りたくなる。これも北村太郎の詩の魅力である。これこそか。

2009年11月14日土曜日

新藁

 新藁の出初めて早き時雨哉

芭蕉の最晩年(元禄7年)の句。『蕉翁全伝』に、「此の句は秋の内、猿雖に遊びし夜、山家のけしき云ひ出し次手、ふと言ひてをかしがられし句なり」とある。故郷、伊賀上野の猿雖亭にての作とされる。「しんわらのでそめてはやきしぐれかな」。

「稲刈りが済み、稲こきが始まって新藁が出始めたばかりなのに、早くも時雨が回って来たことよ」(新潮古典集成『芭蕉句集』今 栄蔵 校注より)

湯殿川ぞいの稲田の稲もいつの間にか刈り入れが済み、稲架(はさ・はざ)を作って、何束もそれに掛け連ねられて、天日干しにされていた、こういう風景に見とれている自分がいた。
 稲架しぐれ信濃に多き道祖神    (西本一都)
豊頬欲し稲架の間行けば稔りの香  (楠本憲吉)

(今日の天気の異様さよ。昼前にはものすごい雨、外は蒸し暑い。それが止むと、快晴。そして今は曇り空、気温も次第に下がってくる。数時間のうちで、くるくる変化してやまない。)

2009年11月13日金曜日

Obama in Tokyo

Dear
Omar

Yoko

Obamaさんが今日の午後日本に着き、ここの鳩山首相と会談をして、記者会見をするのをテレビで見ました。
この夏、アメリカのテレビで見たときの、どこにいても緊張し気合いに満ちた演説のオバマではありませんでした。保険改革の説得のためのタウン・ミーティング時の彼とは違って、リラックスした感じでした、終始にこやかな表情で、低い、しかしよく通るバリトンで小さく演説し、記者にも答えていました。日本の首相も自分の言葉で精一杯話し、答えていました。今までのわけのわからない首相たちのわけのわからない演説とはまるっきり違います。この二人を見ていて、今までの日米関係のあり方も絶対に「変化」してゆくだろうと思いました。普天間の問題も粘り強く、鳩山首相に追求してもらいたい。彼は演説で、今までの日米政権の普天間基地の移設の合意は尊重するけれど、自分たちの政権の、普天間基地の県外、国外移設という公約(マニフェスト)こそが沖縄県民の同意を得たのだという今回の選挙の結果の重みについて充分に考慮しなければならないと、ちゃんと述べたのです。この二人の周囲には、いろんな政治的モンスターたちがいて、「理想」を「現実」と称する駆け引きにおとしめたり、そういうことは今までの政治の常道でしたから、訳知り顔で「経済」つまり「金」が一番の解決のための魔法などと言い出しかねない。が、あえて言うのだけど、この二人、初めてのアフリカン(アジアン)アメリカンの大統領と「宇宙人」首相の理想をある程度は応援したいし、何よりも今までの「からくり」政治を打破してくれることを期待して、見守っているのです。そういう気持ちで二人の記者会見を眺めていました。Obamaさんが、その口癖のFirst of allと切り出したときは、アメリカで、その真似をしたことなど思い出して、笑ってしまいました。

そちらも少しは寒くなってきたと思います。風邪やインフルなどにかからないように、体調には充分注意して、勉強に仕事に励んでください。

 With very good wishes:

Hidemi

 
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2009年11月8日日曜日

立冬

 昨日は暖かな立冬だった。今朝は曇り。天候のことなどを考えると、つい歳時記などに手が伸びる。お隣から、柿を多く頂戴した。老夫婦二人では食べきれないので、ジャムなどにしようかと妻は考えているみたい。昨晩は漱石の俳句を眺めていた。


此里や柿渋からず夫子住む(m29)
日あたりや熟柿の如き心地あり(m29)
渋柿も熟れて王維の詩集哉 (m43)
柿落ちてうたた短き日となりぬ(m30)

上の最後の句の季は「短き日」で冬。

文債に籠る冬の日短かかり(m40)


というのもあった。「文債」は「筆債」とも。書くことを約束して書けないでいた文のこと。それを果たそうとして書斎に籠るのだろう。恰好よすぎ。立冬の句には「冬来たり袖手して書を傍観す(m29)」というのがあった。「袖手」は「しゅうしゅ」と読むのであろう。寒いので手を袖に入れる、ふところ手して書物を眺めるというのだ。現代ではあまりしないことだ。「冬来たり袖手してpc傍観す」か。趣もなにもない。

 詩を書きたい気持ちが少しずつ募る。書きかけのものをプリントアウトして、あれこれと考え直し、書き直そうとする。8行のものに、4行足したところで、ジャズを聴きたくなったので、パソコンの電源を入れて、ラジオを聴く。ジェローム・カーンの名曲"the way you look tonight"が流れる。早速you tubeで調べると、この曲は1936年フレッド・アステア主演のミュージカル『Swing Time』のために作られたのだが、そのフレッド・アステア本人が当の映画で歌っている極めつきの動画が出てくるという便利さ。それを何回か繰り返して、アステアの歌声と一緒に、シャドウイングもかねて?一人カラオケを音を小さくしてやるころには、書きかけの詩のことも、日本近代文学の本質もレヴィ・ストロース(なんで新聞は、レビストロースと表記するのだろうか)の偉大な業績を偲ぶこともすっかり忘れてしまう始末。アラカンのおじさんの冬の夜はこうして更けてゆくのでありました。




 「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」
                 Claude Lévi-Strauss "Tristes Tropiques"

2009年11月6日金曜日

Tender buttons

 
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portrait of Gertrude Stein(1874-1946) by Pablo Picaso 1906
(The Metrpolitan Museum of Art, New York)



BREAKFAST.

A change, a final change includes potatoes. This is no authority for the abuse of cheese. What language can instruct any fellow.

A shining breakfast, a breakfast shining, no dispute, no practice, nothing, nothing at all.

A sudden slice changes the whole plate, it does so suddenly.

An imitation, more imitation, imitation succeed imitations.

                               "Tender buttons"より
 
 今日はGertrude Stein(1874-1946)のことを主に授業で喋った。課題創作の講評と相互批評のない授業にあたるので、90分こちらが用意して喋ることになる。Steinはヘミングウェイたちパリ滞在のアメリカの若い作家や詩人たちに向かって、"You are all a lost generation".と言った名文句ばかりが有名で、彼女の作品がどういうものか、専門家以外にはあまり話題にのぼったことのない作家だと思う。実際私自身も、今回山の上の高校の図書館でふと眼にした、ウイルソン夏子という人の簡単なGertrude Steinの伝記を手にし、急に彼女の作品を読みたくなり、いろいろ探して、その入口を覗いたにすぎない。でも、とてもおもしろい。そのおもしろさは、なにか未知の岩盤にぶつかって、普通なら痛いといってすぐ引き返すのだが、その岩盤には不思議な光と柔らかさまであって、それに触れると、自分の普段の動きのすべてが一齣一齣高速度撮影(古い比喩だ)で拡大され、時間が止まってしまうようで、あらゆることがその裸をさらさざるを得なくなるような触感がして、そこに立ち止まらざるをえない、というおもしろさなのである。文学ではなく、繰り返されることから生まれる呪文(incantation)である。

 
Repeating then is always coming out of every one, always in the repeating of every one and coming out of them there is a little changing. There is always then repeating in all the millions of each kind of men and women, there is repeating then in all of each kind of men and women, there is repeating then in all of them of each kind of them but in every one of each kind of them the repeating is a little changing. Each one has in him his own history inside him, it is in him in his own repeating, in his way of having repeating come out from him, every one then has the history in him, sometime then there will be a history of every one; each one has in her her own history inside her, it is in her in her own repeating in her way of having repeating come out from her , every one then has the history in her, sometime then there will be a history of every one. Sometime then there will be a history of every kind of them every kind of men and women with every way there ever was or is or will be repeating of each kind of them.

"The Making of Americans"より 


そういうことを考えていると、日本の、若い「繰り返し」を多用する詩人を思い出して、彼の詩も紹介したりした。



特別な踊り
                    山田亮太

三角の屋根の上で遊ぶ犬を見ませんでしたか。犬を見ませんでしたか、三角の屋根の上で遊ぶ。上で犬が遊んでいた屋根は三角でしたか。遊ぶ犬を、三角の屋根の上で、見ませんでしたか。屋根の上で、三角の屋根ですが、その上で遊んでいた犬を見ませんでしたか。上で犬が遊んでいたのは三角の屋根でしたか。見ませんでしたか、三角の屋根の上で遊ぶ犬を。屋根がありますよね、三角の、その上で犬が遊んでいたのですが、見ませんでしたか。遊ぶ犬を見たのは三角の屋根の上でしたか。三角の屋根の上で遊ぶ、見ませんでしたか、犬を。あそこに三角の屋根がありますよね、あの上で犬が遊んでいたのを見ませんでしたか。三角の屋根の上の犬は遊んでいましたか。見ませんでしたか、犬を、遊ぶ、三角の屋根の上で。あそこに見える三角の屋根の上で犬が遊んでいたのを見ましたか、見ていませんか。三角の屋根の上で遊んでいたのは犬でしたか。上で遊ぶ、三角の屋根の、犬を見ませんでしたか。あの三角の屋根を見たとき、その上で犬は遊んでいましたか、いませんでしたか。屋根の上で、三角の、遊ぶ犬を見ませんでしたか。あの三角の屋根の上にいた犬は遊んでいたのですか。見ませんでしたか犬を、屋根の上で、三角の、遊ぶ。

足もしくは耳に赤いリボンを付けているはずです。赤いリボンを付けているはずです、足もしくは耳に。(以下略)

                           詩集『GIANT FIELD』より

2009年11月2日月曜日

何が楽しいんですか?

 時々思い出すことがある。この夏、テキサスの友人の所で、もう一人の友人Mark Toepfer (彼もこの夏そこにサンフランシスコから訪ねて来ていたのだ)と話していたとき、ヒデミ、カート・ヴォネガットの最高のジョーク知っているか?と、彼がぼくに訊いたときのことだ。そんなもの知るはずがない、そもそも最高のジョークというのは、その人によるもののはずだ。いや、知らない。 Markは次のような文句を、ぼくのノートに書いてくれた。これは彼が話すのを聞いただけでは理解できなかったから、ぼくが頼んだのである。

Peculiar travel suggestions are dancing lessons from God.

変わった旅の提案、神様からダンスのレッスンを受ける旅

強いて訳せば上のようになるのだろうか。うーん、とぼくは内心思ったが、いつもの調子で、わかる、わかる、などと言ったのだった。いや、あまりに暑くて半分も正気はなかったかもしれない。今、こうして書き直してみると、どことなくおかしい。ヴォネガットらしさ、上品な方のヴォネガットらしさが出ている。実はこのジョークはヴォネガット最後の本、A man without a countryに載っているものだった。そこにはもっと強烈なジョークがあって、ぼくはこういったものがヴォネガットの本領なのかなどと、どうでもいいことを思ったりした。

WHAT IS IT,      
WHAT CAN IT        
POSSIBLY BE       
 ABOUT        
BLOW JOBS
AND GOLF?

あれって、
何が楽しいんですか
フェラチオと
ゴルフ?

-- MARTIAN VISITOR --火星からの訪問者 (金原瑞人 訳)


石川遼くんには悪いけど、こう言ってみたくなる人もいるのだよ。ときもあるのだよ。

2009年10月27日火曜日

センチメンタルジャーニー

「…少なくともぼくが詩を書きはじめた頃は、詩の世界に一種のコンセンサンス、あるいはオーソリティがあったと思う。それは戦後もじつに性懲りもなく続いてあった。それが七、八年前から崩れたという気もする。しかし根底から崩れたかというとこれも疑問で、マス社会、オーディオヴィジュアル社会に変わったことは認める。それならばいまは詩は瓦礫の時代なのかというと、そうともいえない。もっと壊すなら徹底的に壊れてしまったほうがいいんじゃないかと思うこともあるんです。たしかに瓦礫は大袈裟だけれども、そこまではまだいっていない。
 詩というのはどんなマス状況になっても一人一人に向かう。詩は一種の直撃力ですから、受け取る人がいるか、いないかということです。詩というものはわずかな人に向けるメッセージであるわけです。同時に、やはり一般大衆、マスに向けられている。そういう矛盾した二面性をもっているのが詩です。すべて絵画も音楽もそうですが、ことさら詩というのはその二面性がおもしろい現れ方をする芸術ではないかと思う。ポップなものであると同時に、やはりパウル・ツェランではないけれども、壜の中のメッセージで、どこに流れつくかわからないという面もある。」

1990年、その死の2年前に、詩人は上のようなことをテープにむかって語っている。ここで語られている事情は、2009年の今はどうなっているのか。同じだろうか、それとももっと瓦礫化は進行しているのだろうか。詩という「芸術」の二面性は健在だろうか?変わらぬことは「詩は一種の直撃力ですから、受け取る人がいるか、いないかということです。詩というものはわずかな人に向けるメッセージであるわけです」という覚悟にも似た詩の本質のとらえ方であるようにも思える。

この本『センチメンタルジャーニー』(草思社)の詩人、北村太郎の命日は昨日10月26日(1992年)であった。近くの図書館から借りて、昨晩読み終わったところで、そのことを同書所収のの年譜によって偶然発見したのであった。この不完全な自伝をベースに、ねじめ正一の『荒地の恋』も書かれたのだろうが、北村太郎という人の自らを遠慮無く語る力にはねじめの小説は負けていると思った。それほど明晰で容赦ない自己解剖の試みの自伝である。

2009年10月24日土曜日

家、歌の家

 前から計画されていたことだが、潮と郁さんの招待で二人の親たちの初顔合わせが上野の韻松亭という素敵な料亭で行われた。精養軒の前にある。よくこんな渋い所を見つけたものだ。郁さんのご両親は、この店を知ってはいたということだが、妻と私は初めてだった。二人の幸せを祈りながら、私たち「親」はよく話し、よく食べて、旧知の人のように仲良くなった。これからの「式」やらなにやらを、息子たち二人は気持ちよく乗りこえてゆくだろう。私たちも協力できるところはできるだけしたい、などということを親たちは話したのだった。この二つの「家」の顔合わせのために、郁さんは和服を着てきた。外国の人たちが何人もカメラを向けていた。息子は息子で、食事の前に、私たちにむかって、心のこもった挨拶を披露した。これにも吃驚した。この会の動機、これからの二人のこと、……。上野の森が秋色を濃くする一日の昼、私たちはこの若い二人の「覚悟」に触れたような気がした。うれしかった。

 
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 三家族?ということになるだろう(これから家族を形成する若い二人を入れると)、三家族はそれぞれに分かれて、妻と私は、たまたま今日から都美術館で開かれている「冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展」を見に行った。俊成から数えれば800年以上も続く「歌の家」である。この家に所蔵されている「文化」の巨大さ、それが貧寒とした中流以下の公家の家によって、ここまで守られてきたということを考えると、声も出ない。それを支えたのが、「歌の家」というプライドであったということ。本朝とつい書いてしまうが、本朝における「歌」のもつ力について何度でも思いを新たにしなければならない事柄である。

(古来風躰抄・俊成自筆)
 
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(拾遺愚草・定家)
 
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2009年10月19日月曜日

over the rainbow

 
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Jacksonvilleから娘が送ってきた写真。仕事場の駐車場で写したということだ。


Somewhere over the rainbow
Way up high
There's a land that I heard of
Once in a lullaby

Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams that you dare to dream
Really do come true

Some day I'll wish upon a star
And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops
Away above the chimney tops
That's where you'll find me

Somewhere over the rainbow
Bluebirds fly
Birds fly over the rainbow
Why then, oh why can't I?

Some day I'll wish upon a star
And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops
Away above the chimney tops
That's where you'll find me

Somewhere over the rainbow
Bluebirds fly
Birds fly over the rainbow
Why then, oh why can't I?

If happy little bluebirds fly
Beyond the rainbow
Why, oh why can't I?






2009年10月12日月曜日

Self Pity

 休みありとて、何のかひあることもえせず、ひとりいたづらなる朝の早歩きをのみ、自らに強ひるかのごとく、秋桜や稲穂のさきの野分に倒れたるをあはれびつつ、歩(あり)くこそ徳なき男(をのこ)の楽しみなれ。

そのかみは20年代の英国の流人(exile )ロレンゾの 詩を何編かひもときぬ。なかにいと短き詩あり、

Self Pity  
D.H.Lawrence

I never saw a wild thing
sorry for itself.
A small bird will drop frozen dead from a bough
without ever having felt sorry for itself.


ネット(網世界)をgoogle it(閲)するに、以下のような和訳有り。

自己憐憫

私は、自分自身を哀れむ野生の生き物を見たことはない
小鳥は凍え死に枝から落ちても決して自分自身を哀れとは思わない。

 
訳の巧拙は問はず、この詩の問はんとするところをしばらく彷徨せん。
かかる短詩の陥りやすき弊は処世訓の卑俗さならんと思ふに、この詩もその弊から自由ならざるやうに見ゆれども、いかにや葦編三たび絶つの気で繰り返し読むに、話者の気稟の尋常ならざる高さを自づと感得するはわれのみならんや。(人間中心主義(anthropocentrism)の批難やそこから敷衍さるる現代環境問題などの「問い」はここでは論外として扱はず。)

(ルサンチマンや自己憐憫の感情ほど、ロレンゾなる男が嫌悪した感情はなかった)とお里がしれたところで、今日は終り。

2009年10月11日日曜日

相模川 Jam session

昨日。友人一家と、そのまた友人宅に行く。オーバリーさんの家で、とても大きな日本家、幸運にも借りることができて感謝しているとダグラス・オーバリーは言う。12年ぐらい日本に住んでいる。ミュージシャンである。奥さんは座間キャンプで学校の先生をしている。ロケーションにビックリした。広大な相模川の堤防脇で、見渡すかぎり農家と畑、田んぼの景観が続く。神奈川県になるのだろうが、感覚から言えば、東京だ。こんな所があるとは。最寄りの駅は一キロ余り先だが、相模線の相武台下という駅である。帰りは私たちはここまでおくってもらって、この無人駅から橋本駅まで乗って帰ったのだから、全然遠いという印象はなかったのである。

このオーバリー邸の駐車場みたいなところで午後からセッションが行われた。招待客のすべてがオーバリーの友人で、ぼくらを除いてはみんな、たぶんアメリカ人だった。自宅で作った料理とか飲み物をみんな持って来て、台所において行く。それをみんなで食べて、飲みながら、主人のボーカルとその仲間たちの演奏を楽しむというスタイルのパーティだった。

(Troy 一家)

 
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(ドラムはジョージ川口の息子さんである、これにも驚いた)

 
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今日。近くの大学、東京工科大の学園祭「紅華祭」に散歩がてら寄ってみた。そして、この大学の広大さとその建築群の威容に驚きました。
この写真を見て、懐かしく思う人もアメリカあたりにいるかも。

 
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2009年10月10日土曜日

昨日、一番読みたかったのは、D. H. Lawrenceの下の詩だったが、受講者の作品を10編選んで、その講評をやり、他の受講者たちからの感想などを発表してもらったりしているうちに、あっという間に90分の半ば以上まで時間が経過してしまった。10編は多すぎた。これからは半分ほどにしようと思った。以下の詩はロレンスの詩集"Birds, Beasts and Flowers!"(1923年)所収のもので、とても読みごたえのある、いろんなことを考えさせられる作品である。この「蛇」とは一体何の喩であろうか、そういうことを受講者諸君と考えたかったのだが、その前置きで終わってしまう。デリダはこの詩を題材にして「歓待」についての彼の論を展開しているというが、私は勉強不足で未読である。たしかに、この詩を「歓待」という視点からとらえて読み込むという発想はすばらしいし、ひいてはレヴィナスの「他者性」という考えにまで広がる視点を提供するに足る詩である。(云々ということを喋って終わり。)

他者と出会い、他者を迎える、あるいは拒絶する、そのことから見えてくること、自分の問題とはどういうことか、そういうことを深く考えさせる詩である。それが次回の課題にならなければならない。




D. H. Lawrence
Snake

A snake came to my water-trough
On a hot, hot day, and I in pyjamas for the heat,
To drink there.
In the deep, strange-scented shade of the great dark carob-tree
I came down the steps with my pitcher
And must wait, must stand and wait, for there he was at the trough before
me.

He reached down from a fissure in the earth-wall in the gloom
And trailed his yellow-brown slackness soft-bellied down, over the edge of
the stone trough
And rested his throat upon the stone bottom,
And where the water had dripped from the tap, in a small clearness,
He sipped with his straight mouth,
Softly drank through his straight gums, into his slack long body,
Silently.

Someone was before me at my water-trough,
And I, like a second comer, waiting.

He lifted his head from his drinking, as cattle do,
And looked at me vaguely, as drinking cattle do,
And flickered his two-forked tongue from his lips, and mused a moment,
And stooped and drank a little more,
Being earth-brown, earth-golden from the burning bowels of the earth
On the day of Sicilian July, with Etna smoking.
The voice of my education said to me
He must be killed,
For in Sicily the black, black snakes are innocent, the gold are venomous.

And voices in me said, If you were a man
You would take a stick and break him now, and finish him off.

But must I confess how I liked him,
How glad I was he had come like a guest in quiet, to drink at my water-trough
And depart peaceful, pacified, and thankless,
Into the burning bowels of this earth?

Was it cowardice, that I dared not kill him? Was it perversity, that I longed to talk to him? Was it humility, to feel so honoured?
I felt so honoured.

And yet those voices:
If you were not afraid, you would kill him!

And truly I was afraid, I was most afraid, But even so, honoured still more
That he should seek my hospitality
From out the dark door of the secret earth.

He drank enough
And lifted his head, dreamily, as one who has drunken,
And flickered his tongue like a forked night on the air, so black,
Seeming to lick his lips,
And looked around like a god, unseeing, into the air,
And slowly turned his head,
And slowly, very slowly, as if thrice adream,
Proceeded to draw his slow length curving round
And climb again the broken bank of my wall-face.

And as he put his head into that dreadful hole,
And as he slowly drew up, snake-easing his shoulders, and entered farther,
A sort of horror, a sort of protest against his withdrawing into that horrid black hole,
Deliberately going into the blackness, and slowly drawing himself after,
Overcame me now his back was turned.

I looked round, I put down my pitcher,
I picked up a clumsy log
And threw it at the water-trough with a clatter.

I think it did not hit him,
But suddenly that part of him that was left behind convulsed in undignified haste.
Writhed like lightning, and was gone
Into the black hole, the earth-lipped fissure in the wall-front,
At which, in the intense still noon, I stared with fascination.

And immediately I regretted it.
I thought how paltry, how vulgar, what a mean act!
I despised myself and the voices of my accursed human education.

And I thought of the albatross
And I wished he would come back, my snake.

For he seemed to me again like a king,
Like a king in exile, uncrowned in the underworld,
Now due to be crowned again.

And so, I missed my chance with one of the lords
Of life.
And I have something to expiate:
A pettiness.

Taormina, 1923

2009年10月6日火曜日

I t is good news! we will be there for sure.

ブラジルが大好きな友人、アメリカのDouglasに、2016年のオリンピックの開催地がリオに決まったことをお祝いするメールを出したところ、今日その返事が来た。個人的な内容は抜きにして引用すると、"I t is good news! we will be there for sure."と書いてあった。これは、ぼくが絶対二人で、その年には行こうぜ、と書いたことに対しての返信なのだ。僕たちは、まあ、内密な話だが、ブラジルで骨を埋めようというようなことを語ったことがある。いや正確にはそうではない。何回もブラジルに行って、貧民などに対してボランティアでいろんな援助をやったことのあるDouglas によると、ブラジルはアルカディアなのだという、それは、ブラジルであったことはブラジルで封印する、という都合のいいアルカディア観なのだが、それにしてもブラジルのことを 話すDougの眼の輝きが僕には忘れられない。 僕たちにとって、東京でのオリンピックなどというのは選択肢のなかには最初からなかった。こんな意地悪で品性下劣な知事の支配するところなど、それだけでオリンピック委員会というのか、候補地を決定する機関も選ぶのをためらうに決まっている。ここに書きたくもないのだが、東京というより、自分が選ばれなかった(都民の莫大な税金を浪費して)のでというほうが実情に近いが、昔の自民党の総裁選に似たカラクリが候補地決定には働いているなど、あるいは自分ではよく使った手法の身内主義(nepotism)などから敷衍して、候補地を決める委員会のなかに日本の身内を送り込んでおくべきだったとか、本当に情けない下劣なことを反省もなく喋ったのを心底恥ずかしい思いで見た。そしてその次の五輪に向けてはどうかと問われると、都民の意見を斟酌しなければ、などと本当に信じられないほど無責任な意見を述べる、今回に関しては斟酌したのか?自分の人気が危ないとなると、責任を転嫁する。あほらしくてもう書きたくないのでやめる。よくぞ、この男を何期も知事の座に据えてきたことよ!
 
asahi.comによると、

16年の夏季五輪開催地に選ばれたブラジル・リオデジャネイロの招致委員会は5日、東京都の石原慎太郎知事が、ライバル都市のイメージを損なう論評を禁じた国際オリンピック委員会(IOC)の規則に抵触する発言をしたと非難する声明を出した。IOCに正式に抗議するという。

 リオの招致委は朝日新聞の取材に、「4日の記者会見で『裏取引』があったかのように言及した部分だ」と説明した。

 石原知事は4日の会見で、「例えば、ブラジルの大統領が来てですね、聞くところ、かなり思いきった約束をアフリカの(IOC委員の)諸君としたようです。それからサルコジ(仏大統領)がブラジルに行って『フランスの戦闘機を買ってくれるなら(五輪招致で)ブラジルを支持する』とか」などと発言。開催地選考に関しても「目に見えない非常に政治的な動きがあります」と話していた。


本当に馬鹿なやつだ。彼の好きそうな言葉であえて言えば「日本人としての」品性を疑う発言だ。リオの委員会の非難を全面的にぼくは支持する。

リオに2016年に行こう。Dougと一緒に。そして二人でもう帰ることをやめようかしら。

―from left ダグラス、ジョージ(ブラジルからアメリカに働きに来ている)―ダグラスの姉、マリーアン邸で―

 
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2009年10月5日月曜日

類について

 今晩、TBSの衛星放送というか、毎週放映されているのだが、月曜日午後9時から15分の番組、『吉田 類の酒場放浪記』を久しぶりに観る。今回は高輪、泉岳寺、その海側(芝浦)の「やまや」というホルモン焼きの居酒屋だった。なんとまあ、こういう店がまだ残っているのかという驚き。それに「金宮」という甲類の焼酎の王様、これはホッピーで割るのが定番のビバレッジなのだが、その威容もはじめて見た。吉田類のブログ『酒王』
http://blog.digital-dime.com/sakeo/2009/08/post-25.html
によると「キンミヤ焼酎は、清涼飲料・ホッピー割りのスピリッツとして、東京下町酒場で不動の地位を築いた。」とある。
 類がレバ刺しからはじめて、センマイ、ハラミ、そしてネギサラダなるこの店の美味定番を平らげながら、その一見いかついが、じつは心底人なつこい笑顔を自然にこぼすのを見ると、たまらなく飲みたくなるのだった。
 吉田類は『舟』という俳句会の主宰でもある。必ず番組の最後に自作の句が掲出されるが、今回はこのグローバルで均質な都会風景に取り残された昭和の界隈をテーマにした次のような句であった。

未来図に晩夏の運河歪みたる   吉田類

 酒飲みだけではない男である。

 実を言うと、この夏8月28日、高尾山のビアマウント(9月一杯まで営業している高尾山の2時間飲み放題・食べ放題のビアガーデン)で吉田類に出遭ったのである。帰りのケーブルの中で、テレビで見たことのある顔を発見したミーハーの小生が声をかけたのであるが、快く私に応えて言うには、類はその名前とは異なり、たった一人でビアマウントを堪能したということであった。たぶん「有名人」なら、だれかお付きのものが必ずいて、作家なら編集者とか、そういうのが一緒で、一人で山の上などで飲むはずはないのだが、類はそういう有名人ではないということだろう。私には、彼はこれ以上有名になっても取り巻きなどを引き連れて飲むような人間ではないという確信がある(どうでもいいことだけど)。

 これから高尾駅の北口の寿司屋に行くということだったので、私も、そして友人たちも一緒にそのお店に行き、吉田類の話と、高尾の、この寿司屋のおいしい料理と酒に夏の終わりの一日を楽しんだのであった。


 
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2009年10月2日金曜日

美と真

池袋2回目。今日は先週よりも受講生が増えていたが、まだ確定しないからなのか。コピーしたプリントの数が足りなかった。以下のフロストの二つの詩について主に喋る。

その前提として、ぼくが用意しているのは、次のW.H.オーデンの考えである。

「われわれは美しい詩を欲する。いいかえれば、ことばによる地上の楽園、純粋な遊びの世界で、この世界と、解決できない問題や逃れられない苦悩をもったわれわれの歴史的存在との対照こそが、われわれに喜びを与えるのである。同時にわれわれは真である詩を欲する。いいかえれば、人生についてある種の啓示を与えてくれる詩で、それはわれわれに人生はほんとうはどのようなものかを示し、自己陶酔と欺瞞からわれわれを開放してくれるものだが、詩人はその詩に不確かなもの、苦痛なもの、無秩序なもの、みにくいものを導入しなければいかなる真をもわれわれにもたらせない。」(ロバート・フロスト論『染物屋の手』所収・中桐雅夫訳・晶文社)

「…フロストの詩は明らかに、そのことばに先だった経験、それなくしては詩が存在できなかった経験に対する反応である。なぜなら、この詩の目的は、その経験を定義し、そこから英知を引き出すことだからである。美しい言語的要素がないわけではないが―これは詩であって、知識を与える散文の一節ではない―それは重要性において、詩が述べている真理に従属するのである」(ib.)



 The Road Not Taken by Robert Frost

Two roads diverged in a yellow wood,
And sorry I could not travel both
And be one traveler, long I stood
And looked down one as far as I could
To where it bent in the undergrowth;

Then took the other, as just as fair,
And having perhaps the better claim,
Because it was grassy and wanted wear;
Though as for that the passing there
Had worn them really about the same,

And both that morning equally lay
In leaves no step had trodden black.
Oh, I kept the first for another day!
Yet knowing how way leads on to way,
I doubted if I should ever come back.

I shall be telling this with a sigh
Somewhere ages and ages hence:
Two roads diverged in a wood, and I―
I took the one less traveled by,
And that has made all the difference.





 Stopping By Woods on a Snowy Evening

Whose woods these are I think I know.
His house is in the village though;
He will not see me stopping here
To watch his woods fill up with snow.

My little horse must think it queer
To stop without a farmhouse near
Between the woods and frozen lake
The darkest evening of the year.

He gives his harness bells a shake
To ask if there is some mistake.
The only other sound's the sweep
Of easy wind and downy flake.

The woods are lovely, dark and deep.
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.









フロストは毀誉褒貶かまびすしい詩人で、あるいはまた、忘れ去られたようになっている詩人でもあるが、オーデンのいう意味で、この現世のわびしい経験から、ささやかだがきびしい真を抽出した詩人として、今のぼくにはとても大切な詩人でもある。去年の読解(授業で扱った)に比して、今年は、The Road Not Takenという詩の曖昧さこそが、この詩のポイントであるということがよくわかったし、そのことを伝えることができたと思う。つまり、人生のある場面での意思決定の問題などとしてそれを絶対化して読むのではなく、もちろんそれを含むが、そののちに放棄するというか、放下するというか、一瞬の自己放棄(それはまた美に通ずる)の契機をとらえた作品ではないか、などと考えたのである。そういう点を Stopping By Woods on a Snowy Evening はよく表している。つまり、オーデンの言葉で言えば、真と美が、経験のなかで、経験を通して、背離相反しつつ一致する稀なる瞬間をフロストの詩はとらえている、その最良の詩は、などと思うのである。

じめじめした雨。電車のなかの耐えがたい湿気。帰宅してからの女房との会話。
「安心しなさい、大丈夫よ」
「何が?」
「オリンピックよ」
「ああそう、よかったね」
「よかった」

決まらないことが、決まりそうでないことが、
よかったのである、あの知事は許さない、絶対に、
その自己満足を自らの満足としたくはない、
「安心しなさい」

フロストならもっと上手く日常会話の妙を尽くして、この不満を持つ人々の真を描いてくれるだろう。

2009年9月30日水曜日

9月尽

まっかな秋

薩摩忠  作詞
小林秀雄 作曲



1 まっかだな まっかだな
  つたの 葉っぱが まっかだな
  もみじの 葉っぱも まっかだな
  沈(しず)む 夕日(ゆうひ)に てらされて
  まっかなほっぺたの 君と僕
  まっかな 秋に かこまれて いる
 
2 まっかだな まっかだな
  からすうりって まっかだな
  とんぼのせなかも まっかだな
  夕焼雲(ゆうやけぐも)を ゆびさして
  まっかな ほっぺたの 君と僕
  まっかな 秋に よびかけて いる
 
3 まっかだな まっかだな
  ひがん花って まっかだな
  遠(とお)くの たき火も まっかだな
  お宮の 鳥居(とりい)を くぐりぬけ
  まっかな ほっぺたの 君と僕
  まっかな 秋を たずねて まわる


退行現象かもしれないが、ふと思い出してしまった。



 

2009年9月28日月曜日

芭蕉(奥の細道)からの贈りもの

出光美術館の『芭蕉(奥の細道)からの贈りもの』という特別展を先日見に行った。
これは主に芭蕉の懐紙や短冊類、書状などを、その仮名の書風の変遷に注目して三段階(三期)に分類して(とは言え年代順になるようだ)展示したものである。特にこの分類上、「最も優雅で美しいといわれる、第二期の作品群を集め」たというのが、この展示のポイントらしい。二期とは貞享後期から元禄4年前後の芭蕉が旅を重ねた時期である。

 書に関して何も分からない素人だが、初めて芭蕉の五十件余りの真跡に直に接して感じたのは、どの時期からも感受できる筆の力というか、その立てる「声」というか、その真率さの崩れぬ持続力のすばらしさであった。大師流という書体らしい、この崩しや連綿の書体を今の私などはほとんど読めないが、それを当時の芭蕉の弟子をふくめた人たちがおそらく何の苦もなく読めたであろうという事実のもつすごさに圧倒された。少なくとも僧侶や武家、ブルジョアの町人たち、俳諧師をはじめとする文化・教養階級は弘法大師以来の書の美の伝統の求心力のなかで生きており、それを背景として、たとえば情報の「伝達」としての書状なども、このように「優雅で美し」く書かれたのである。

(何云宛書状 元禄2年)

 
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 書とは関係ないが、「ほそ道」にもある岩沼宿(「武隈の松」)での句文懐紙に眼を留めた。これは「山寺記念館蔵」のものである。その句文は

むさし野は桜のうちに
うかれいでゝ、白かはの
関はさなへにこえ、たけ
くまの松はあやめふく
比になむなりぬ

 ちりうせぬ松は二木を
三月こし

芭蕉翁桃青


これを見、これ読んでいて、書を含めたこの全てが「詩」という以外にはなく、「詩とは何か」というデリダの定義(記憶の節約、圧縮と引きこもり、博識なる無意識)のすべてに合致している、という発見である(別に合致しなくともいいのだが)。こうして芭蕉は自らの旅を記憶の彼方に刻印することで、それは出来事になり、「心を通じて学ぶ」(暗唱)ことができるものになる、その字体とともに。

 八王子米の黄金の稲穂を見ながら散歩することは、その早苗の緑のころを思うことでもある。
 

2009年9月26日土曜日

声なき傷口

詩とは何か?(Che cos'e la poesia?)とイタリアの雑誌「ポエジア」から問われて、ジャック・デリダ(Jacques Derrida)が書いた有名な回答の文「詩とは何か」(『総展望 フランスの現代詩「現代詩手帖30周年特集版』1990年6月所収・湯浅博雄・鵜飼哲 訳)を初めて読んだ。デリダは、詩とは「心を通じて学ぶ」ものとし、詩にまつわる教養や博識の必要性などという先入観をまず武装解除する。「心を通じて学ぶ」という把握の仕方は面白い。まず、これは暗記・暗誦するという意味のフランス語apprendre par coeurを一つの詩としてとらえたときに、そこにある「心coeur」にこだわることで、詩の「暗記・暗誦」という記憶の節約(エコノミー)の重要性を引き出そうとする。それは「心」を内面性や、その孤独な自由などといういわゆるデリダ的な批判対象である「現前性」、私個人として言いかえればとあえて書くが、その「私個人」などという近代的な自我観に対立する考えを、デリダは「詩とは何か」で答えようとしていると思った。英語にもある、lean by heart。デリダの文を引用する。

一、記憶の節約(エコノミー)ということ。一篇の詩(ポエム)は、その客観的な、あるいは外見上の長さがどれほどであろうと、まさにその省略的という使命からして簡潔でなければならない。圧縮(Verdichtung)と引きこもり(retrait)の、博識なる無意識。

二、心ということ。といっても、高速道路のインターチェンジの上を危険もなく往来し、そこであらゆる言語に翻訳されるような文章たちの真ん中にある核心というわけではない。…つまりさまざまな知の対象、あるいは諸種の技術の、哲学の、そして生命―倫理―法律的な言説の対象ではない。おそらくは「聖書」における心でも、パスカルの語る心でもない。…そうではなく、〈心〉の、ある一つの歴史=物語だ、つまり「暗記する・暗唱する(心を通じて学ぶ)」という固有語法のうちに、詩的なかたちで包み込まれているような歴史=物語だ。…

 いま述べた二つは、一つのうちに納まるだろう。というのも、二番目の公理は最初のに巻き付いているから。率直に言おう、詩的なものとは、きみが暗記したいと願望するもの、ただし他者から、他者のおかげで、口授されて暗記したい(心によって学びたい)と欲するものだろう、と。


筆写していて面白いなと思うところと訳の分からないところがあるが、後者は無視していこう。次にデリダのこの文章でとびっきり鮮やかなのは、こういう詩的な観念をある一つの形象にまとめたことである。「詩とはなにか?」デリダは言う。それはハリネズミだと。また引用して味わってみよう。

…(詩についてのさっきの二つの公理の要請に対してというような意味の句がある―水島註)答えようとするなら、きみはその前に、記憶を取り毀ち、文化を武装解除し、知を忘れることができなければ、詩学の図書館を焼き尽くすのでなければなるまい。この条件でのみ詩の一回性=唯一性はある。きみは祝賀するべきであり記念しなければならないのだ、「心を通じて」という記憶喪失を、野生=非社交性を、愚かしさ=獣性を、即ちハリネズミを。ハリネズミは自ら盲目となる。身を丸めて球となり刺を逆立てたそれは、傷つきやすくもあれば危険でもあり、計算ずくでありながら環境に適応していない(自動車道で危険を察知して身を丸めるがゆえにそれは事故に身を晒すことになる)。事故なくして詩はない。傷口のように裂開していないような、だがまた傷つけることのないような詩というものはない。きみから私が心を通じて学びたいと欲望する無言の呪文、声なき傷口を詩と呼び給え。だがそれは、本質上、作られまでもなく生起する(場を持つ)。活動もなく、労働もない、どんな生活とも無縁な、とりわけ創造とは無縁なこの上なく簡素なパトスのなかでそれは作られるにまかせる。詩は降りかかる、それは祝福であり、他者から到来するものだ。リズム、だが、非対称だ。……



引用の後半部「とりわけ創造とは無縁なこの上なく簡素なパトスのなかでそれは作られるにまかせる」というのがデリダの言いたいところだと、私が思うのも、こういうところが一番理解しやすいからである。オリジナル、創造、労働の産物という考えはなかなか根強いし、それを全く否定するのも不可能だろうが、そういう詩観にたいして、このような難しいことを言っているように見えながら、実はそれこそ簡素な、詩とは到来する賜のようなものであると要約してもよいデリダの簡潔?な考えを改めて実際の「詩作?」の場で、「心を通じて学び」たいものだと思った。

(上記の詩論の読解めいた講義から、今期の私の授業は出発した。さてどうなるか。50名ほどのクラス。昨年の80名に比べると、すごくゆったりとしていた。私の気分も。)

Poems about Poetryを紹介したいと思い(「詩とは何か?」への詩での回答)、Marianne Moore(1887-1972)の"Poetry"とArchibald MacLeish(1892-1982)の"Ars Poetica"を用意した。日本の詩人では谷川俊太郎の「理想的な詩の初歩的な説明」(『世間知ラズ』所収)という詩。三篇はそれぞれ詩への「解釈」が違い、「創造」的である、という出席者のコメントがあった。その後に、デリダの「詩とは何か」を読んだ。期せずして対照的なテクストの読解が生まれたようにも思えた。そこで時間が尽きた。実はもう一つの詩を用意していったのであるが。その詩はどうして用意されたのかも忘れ去られ、読まれもせず、遺棄された。でも、ここにこうしてある。だれの、創造の成果と問うなかれ!「声なき傷口」として、わたしを呼んでいる。


わたくしどもは




わたくしどもは
ちょうど一年といっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢をみているようでし た
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はずれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いていた金魚の壺にさして
店へ並べて居りました
夕方帰って来ましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑いようをしました
見ると食卓にはいろいろな菓物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたずねましたら
あの花が今日ひるの間にちょうど二十円に売れたというのです
……その青い夜の風や星、
すだれや魂を送る火や……
そしてその冬
妻は何の苦しみというのでもなく
萎れるように崩れるように一日病んで没くなりました

2009年9月18日金曜日

 昨日で半年間(4、5、6、7、9月の月一回のペース、それぞれ2時間の講座)全5回シリーズで読んできた『おくの細道を読む』講座が終了した。国立公民館の多彩な講座の一つとして依頼を受けて4月から始めたのだが、40名近い熱心な出席者のほとんどの人が無欠席を通し、この講座を楽しみにして通ってこられたその熱意に支えられて終了した。講師というにはおこがましい私もいろんなことを学ぶことができたと考えている。この5回シリーズでは大垣までたどりつくことはかなわず、市振の「一つ家に遊女も寝たり萩と月」の、あの印象あざやかな物語的記述の展開する条までで終わるしかなかった。「おくの細道」という稀有なテキストの作りの緻密さ、思いがけない展開や仕組まれた呼応の深さなどをどれだけ伝えることができたかはわからないが、そういうことを主に話したような気がする。自分自身の再読で発見したものは多い。ともかく、裏日本のここまで歩いてきたのを参加者の皆さんと言祝いで終わりにした。

 家のそばの公園の萩の美しさに最近見とれていたせいもあるが、「萩と月」まで到達できたのがうれしい。

上記の記事とは関係ないが、you-tubeを眺めていたら、ジャニス・ジョプリンのストックホルム公演でのsummertimeがあった。1969年という。ウッドストックの年だ。彼女もウッドストックに出た。その年。それから40年たったわけだ。アメリカではウッドストック40周年記念ということで、本やアルバム、関連グッズなどがバーンズアンドノーブルなどの書店で売られていたのを見た。こんなジャニス・ジョプリンのsummertimeも珍しいと思う。

2009年9月13日日曜日

presidential medal of freedom

やっと一編の詩を書いた。

これは今月の終わり頃発刊の「現代詩手帖」に掲載されるはずである。書き終わって、自分の詩の転機になるかもしれないと昂ぶった思いもしたが、時間がたつとそんな思いも自然に静まるしかないし、そうしたものである。今夏の、アメリカでの経験を底において、「自然」についての物語を企図した詩だが、まだまだ「にごり」があると今読み返して思った。こんなふうに発表もされていない自作の詩について語ることも、詩を書くという地点からとらえ直すと無意味とも言えないが、よそう。

昨日は、アメリカでお世話になったTroy一家と、彼らが日本で知り合ったというその友人夫妻を招いて、女房の手料理で酒を飲んだ。ダグラスとトリシア夫婦は十三年も日本に住んでいるという。相模川の周辺で、橋本から相模線に乗り換えて行くところだという。今度是非と言われた。アメリカでのことなどを中心に随分と話がはずみ、普段なら苦痛の「英会話」もそうでもなかったのは、アメリカの余韻をまだ引きずっているからだろう。

Jaksonvilleの娘の家で、一人でテレビを見ていた。8月12日のことだ。C-spanだった。オバマがいて、ホワイトハウスからの実況中継で、何か授与式のようだった。やがてわかった。日本の国民栄誉賞?のようなものか、アメリカの最高の名誉的な勲章と言われる、presidential medal of freedom(大統領自由勲章というのか)の授与式だったのだ。受賞者には、ぼくの知っている人で言えば、体の不自由なホーキング博士がいた、南アメリカの活動家だったツツ司教もいた、俳優のシドニー・ポワチエがいた、バングラデッシュの経済学者で貧民のための独創的な銀行を作ったムハマッド・ユニス?がいた。それにアメリカ先住民の権利の拡大につとめた何とかという歴史家人がいた、その人は先住民の服を着ていた。シビル・ライト闘争時代の生き残りの人がいた、この夏、この後で死ぬことになるエドワード・ケネディ(彼は病気で来れない、その娘のカラが代理でオバマから賞をもらった)、そしてぼくが一番驚いたのは、ゲイの権利拡大のために活動したハーヴェイ・ミルクにもこの賞が贈られたことである。もちろん彼は殺されて、いるはずもない、彼の甥のスチュアート・ミルクが代理として出席していた。ゲイの存在、その活動、それらを国家が表彰したのである、このことの意味を考えると頭がくらくらする。とくにここ日本で、こういう権利が公然と認められる、というようなことが、これから来るであろうか?(そういう意味で日本の国民栄誉賞などとと比較することなどとてもできない重たい賞でもある。)ハーヴェイ・ミルクをモデルとした映画がショーン・ペン主演で公開されたが、ぼくは見ていなかった。娘たちにこの授賞式のことを話した。その映画は観たという。内容も教えてもらった。アメリカの深さとしか言いようがないが、多様性の擁護ということは生半可な努力ではできないことだと思う。

25日にエドワード・ケネディが亡くなった。いろいろあった人だが、アメリカのリベラルの代表であったことは間違いないだろう。"Liberal Lion"がついに倒れたのである。オバマはその葬儀で次のような弔辞を捧げたという。
以下VOA Newsからの引用、


President Obama was the last speaker at the funeral. He said Ted Kennedy has gone home to join the loved ones he had lost.

BARACK OBAMA: "At last he is with them once more, leaving those of us who grieve his passing with the memories he gave, the good he did, the dream he kept alive, and a single, enduring image. The image of a man on a boat, white mane tousled, smiling broadly as he sails into the wind, ready for what storms may come, carrying on toward some new and wondrous place just beyond the horizon."

これを読むとオバマの言葉の力のすごさを感じずにはいられない。ほとんど文学である。エドワードの一つのイメージ、いつまでも残るイメージとはオバマによれば、ヨットに乗って水平線を超え、驚きと新たな場所を目指す白髪の笑顔が印象的な勇敢な船乗のそれである。

2009年9月10日木曜日

MOVE THE CHAINS!

さわやかな朝だ。
9月になって、あれこれあって、やっと一休み。

朝の散歩のときに、
Want some, Get some! という変なかけ声を思い出して、
「このやろう、かかってこい」というような意味なんだろうか?
大声で秋空に向かって叫んで、
すっきりと歩いてみせる。

Jacksonville JaguarsとTampa Bay Buccaneers のプレシーズンの試合を8月22日、ジャクソンビル・ミュニシパル・スタジアムで観戦した。生まれて初めて、アメリカンフットボール(NFL)のゲームを、しかも本場のスタジアムで味わった。OmarとYokoが招いてくれたのだ。4階の高い所から見下ろす。周りはすべて、ホームチームであるJaguars の青緑色のTシャツ一色。子供たち、大人たち、女性も相当数いる。みんな何かを飲みながら興奮している、楽しそうである。

相手 Buccaneers (海賊)に対する猛烈なブーイング、それさえ楽しい。最初の一蹴りから試合が始まる。その蹴られたボールを味方の選手がホールドして、そのまま相手陣地に入り込みタッチダウンした、ルールをぼくはよく知らないが、あり得ないタッチダウンだった、こういうのは見たことがない。熱狂的な拍手、歓声のるつぼと化してしまう。みんな立ち上がって、周囲のすべての人とハイタッチを交わして歓びを分かち合う。ぼくも前のビール片手のおじさんからタッチを求められる。

最初は威勢がよかったが、じわじわと追い込まれて、Jaguarsの敗勢が濃くなる。そこでぼくらは球場を後にしたのだが、ゲームの途中でのヤジというか声援がすごい。Want some, Get some! というのは、日本の野球にたとえて言えば広島カープのファン(すべてのファンではなく、ぼくの知っている一人を念頭において書いている、他の広島ファンに他意はないのでご容赦を)などのする、相手チームに対する口汚いののしりに近いのではないか? ものすごい声量でぼくらの後ろに座っている、少し品の悪い、どちらかといえば若い連中から発せられたヤジである。後で Omarに確かめて、なんと言っているか分かったのである。しかし、意味はよく分からない、敵チームに言っているのだから、直訳すれば「欲しいのなら、おまえらの力で取れよ」というのだろうか。しかしこのかけ声を発している感じは、完全な挑発とののしり、というムードであった。

あと味方チームの低迷に対しては、みんなで声を合わせ肩を組んで、後押しをするという感じで、歌うように、
MOVE THE CHAINS!
MOVE THE CHAINS!
MOVE THE CHAINS!
UH!
という。これは子供たちも参加する。チームの低迷を一転させるために、もっと「動線を動かせ」ということなのか。

さわやかな朝の、ひさしぶりの散歩のときに、聞こえてきたのはフットボールスタジアムでのざわめきだった。明日から(9月10日)現地では、レギュラーシーズンが開幕する。

Jacksonville Jaguarsに日本から声援を!
MOVE THE CHAINS!
MOVE THE CHAINS!
MOVE THE CHAINS!
UH!

 
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2009年9月3日木曜日

9月へ

なかなか書けない状態が続いているので、趣向をかえて対話の形で書いてみようとて書くのである(遠い昔のだれかのまねか)。

客:秋ですね。この夏はアメリカに外遊されたとか?いかがでしたか。

主人:オバマが毎日テレビに出て、国民健康皆保険の必要性を説明し、説得している姿に感銘しましたよ。C-Spanというコマーシャルなしで一日中、国政の重要会議やホワイトハウスの報道官ロバート・ギブズと記者とのやりとりなどを放送するテレビがあって、これは暇なときによく見ていましたね。日本のワイドショー的なものもあったのかもしれないが、あまり見なかった。もっとどぎつい実在の中毒者や犯罪者を主人公にしたドキュメンタリー形式のもの、たとえば”intervention”というのは二回ぐらい見て印象に残っています。

客:どんな違いがあるの?

主人:リーダーに関して言えば、アメリカは命がけ、みんなに尊敬されている、そこから出発している、日本は自分たちの理想に基づいて立案した政策(そもそもそんなものが今まで自民支配であったかどうか)の合意に対して、あそこまで、草の根に飛び込んで行く情熱があるだろうか?もちろん、ここの人も、ブッシュはあんなことやらなかったし、できなかったというのだが。メディアに関して言えば、日本のようにどこも同一で代わりばえのしない番組を流しているというのはありえない、という感じですね。同じタレントという人種、同じ平板な言葉の羅列、いやになるぐらい同じ、同じ、同じの脅迫、浅さも同じ、出るやつも同じ、……メディアの意味はないと思う、情報をきちんと伝えるだけでいいのに、それすら変な味付けをして、ねじ曲げてしまう。そのねじ曲げ方も、どの番組も同じだから、笑っちゃうよ。狭いですね。

客:偉そうに言いますね。

主人:そういうつもりは毛頭ありませんが、そう聞こえるならついでに言いたいことがあります。今度の総選挙のことについて、この結果を山崎正和が「ポピュリズム選挙」などと言って、それこそ偉そうに総括していた記事が朝日(2日)に載っていたけど、これには心底がっかりしましたね。これだから日本には、真に保守と呼べる知識人なぞはいないのだとあらためて思ったのです。山崎なぞは保守を気取っているにすぎない。この選挙の結果をもたらしたのはポピュリズムなどであろうはずはない、この年老いて状況を補捉できなくなった劇作家のかわりに、日本の国民はよく考えて、そして心底いやになって、自民を蹴落とし、民主に賭けたのにちがいないと、私は考える。老劇作家はポピュリズムを次のように定義している。「ある問題を、主として否定することをテーマに、大多数の人がムードに乗って一気に大きく揺れること」。これも後出しジャンケンみたいに、自分で都合良くでっちあげた定義にすぎないが、だれもこんな気持ちで投票したのではない。それは確かなことではないのか。苦々しく、それでも、仕方がない、やらせてみようじゃないか、見守ろう、などという思いの方が、こんな総括より、ずっと真実にちかいと私は考える。
耄碌した知識人などの出る幕ではない、もっとシビアな現実を、現実を生きている大多数の人間は味わい、そこからその一票が投じられているのである。…というようなことを考えましたね。あるいは、アメリカの変動と同じような変動が起こりうるかもしれない、それを期待して一票を投じた人もいたにちがいない。

客:変わってきますかね。変わらなければならないことは確かだけど。

主人:アメリカ追従の今までの外交政策は少なくとも変わって欲しいですね。普天間をはじめとする沖縄の基地のあり方の見直し(ずっと懸案だった)、これはぜひやって欲しいし、「思いやり予算」などといわれる米軍優遇の予算も見直して欲しい。ギブスは「なにをもって、アメリカ追従、というのかわからない」とさっそく苦言を呈したけど。鳩山の考えが「ブレ」ないように当面は見守ってみよう。

客:文学についても聞きたいけど、これは次回にとっておきましょう。

主人:ずっと取っておいてください。(さむざむとした笑い)

2009年8月24日月曜日

It's nice here this morning!

今朝の空は、日本の秋の気配を思わせるどこまでも高く澄んだ青空だった。そんなに暑くもない。いつもの公園(ED.AUSTIN PARKという名前があった)の一周1.75マイルの散歩用、ウオーキング、ジョギング用に設けられている道をここ二日はジョギングもまぜて、4周した。かなりハードだが、自分が昔のようにジョギング(走る)できる自信というか、走る感覚を、ここアメリカで取り戻すことができたと思った。とても4周すべてを走ることはできないが、一周は走り、2周目は歩くことを繰り返す。息を切らして歩いているときに、颯爽と肩で風を切りながら通り過ぎた女性が、ぼくに向かってなにか言葉をかけた。挨拶なんだろうが、すこし長く感じた。ぼくはグッモーニンのつもりで、ウグッと返事をして、2、3分後に、その女性ランナーが実は”It's nice here this morning!”と言ったのだということを、美しい空をあらためて眺めながらはっきりと理解して、なんでもないその表現にとても感動したのである。

It's nice here this morning!

明日の朝、ここJACKSONVILLEを離れる。一ヶ月に及ぶアメリカ滞在も今日が最後の日となった。娘たち、その友人たち、またテキサスでお世話になった先生たち(Troy一家とはまた日本で交友が続く)に、今日の美しい青空とともに感謝の気持ちを捧げたい。

2009年8月22日土曜日

pain killer #3

二日目はナッソー(NASSAU)、Commonwealth of The Bahamasの首都である。英連邦の一員としてバハマはエリザベス女王を君主とする立憲君主制の国である。大小700あまりの島からなる、この国の首都がNASSAUで、ニュープロビデンス島という比較的小さな島にある。ここは掛け値なしに美しい。有名なハリウッド映画スターたちがこぞって別荘をここに所有するというのも嘘ではないということがわかる。ここでの一日は長い。船の出発は午後十時ということであった。私たちはヒストリカルツアーなるものに参加することにした。午前10時から2時間あまり。十名あまりの参加者で小さなマイクロバス程のタクシーに乗り合い、出発する。

(Queen's Staircase女王の階段 と呼ばれる場所)





(植民地時代の砦)


ほかにも回ったはずだが、疲れてしまい鮮明ではない。タクシーの運転手兼ガイドの流暢な説明には感心したが、さて私にそのすべてが理解できたろうか。船にもどり昼飯を食べて出直したのはアトランティスという一大リゾートホテルがある小さな島。船で行く。このホテルはカシノから何からすべてある巨大なテーマパークのようなもの。そこの水族館での写真。(先ほど亡くなったマイケルジャクソンがこのホテルのある階から上の部屋をすべて一泊何百万円かで
占拠?するようにして泊まった、というのが、これもまた船頭さんの口角泡をとばすような激しい英語の説明で耳に残ったことの一つではある。)

2009年8月21日金曜日

pain killer #2


すばらしい暑さだったが、頭がくらくらするので、レストランに入る。名前は忘れた。広場があって、そこでスティールパンを叩いてカリビアンミュージックを演奏している。盆踊りみたいだと言ったら、娘が激しく軽蔑したような表情をしたようだった。その盆踊り(リズムが全く違うでしょう!娘曰く)を聞きながら、ラム酒のカクテルを頼んだ。これが最高に素敵だった。

ほとんどの場合、ぼくはお店を選ぶ事や、そこに入ってからの飲み物、料理などを頼んだときに、すべてダメで、そういう選択にかけては最低の男であると人からも(特にFさんには)よく言われ、また自負していることでもあるが、なんとこの飲み物pain killer #2にかけて一切の過去の評判を覆すに足る自信を得るに至った事をここに披露したく思う。それほどすばらしい飲み物であった。そのレシピを以下に記す。

パイナップルジュース、クリームココナッツ、オレンジジュース、それにメインのパサーラム(pusser rum)、それにナツメグパウダー。濃厚で強くて(#2を頼んだわけではないのに、これが来た、3、4、5、とあり、パサーラムの度合いが強くなるものらしい)、これが日本のコップの五倍くらいの入れ物に入って出てくる。氷の量も程よい。一口飲んで、娘と顔を見合わせて、いいね、と同時に呟く。半分ほどでなにか気分が死んでもいいというような感じになるのだが、ウエイトレスのおばさんが何を間違ったのか、ぼくたちの座っているところに来て、ほかに注文は?といいながら、ぼくのグラスにさわり、落として割ってしまったのである。謝りながら、彼女はもう一杯フルに入ったカクテルを持ってきてくれた。もっと飲んでおけばよかった、と言って、また娘の顰蹙を買う。この酒には参りました。そとに出て免税(バハマはここはタックスフリーの地)店で、pusser rumを探したがなかった。そのかわり、これは島の酒といって何の憚りもないラム酒、RICARDO'S cocont rumの一番小さな容器に入ったものを3ドルちょっとで買った。船に持っていって飲もうと思ったのである。これも抜群においしかった。

2009年8月19日水曜日

pain killer #1



8月の13日から17日まで。娘と二人でバハマクルーズなる船の旅に出かけた。2千人をこえる乗客、今まで見たこともない巨大な船がジャクソンビルのセントジョン河をカリブ海へと出航したのは13日の午後4時過ぎだった。

Mデッキの244客室に行ってみると、ダブルベットになっている。娘がすぐさま、シングルに直すように言う。それだけが会社のエラーで、あとはすべて、ぼくたち乗客の心の持ちようで、すばらしい旅にもなるし、そうでもないとうようなものらしい。

船の中のエンターティメントについて、娘とぼくの評価は高校生の文化祭のレヴェル(彼女いわく、金次第だろうけど、つまりそういう船の格差もあるということ)。カシノには二人とも興味がなかったので行かなかった。宣伝に比してあまりね!というのが私の思い。でも、デッキなどでギター演奏と歌唱を一人でこなしているすばらしいミュージシャンもいた、フィリピン人が多かった、そんな歌手とは4泊もするのだから声を交わしたりした。ぼくに、なにかリクエストは?というので、My funny Valentineを、などと言うと、勘違いもはなはだしいという顔をしたが、最初のフレーズを弾いてくれた。

明けて、フリーポートに着く。船(fascination!)が停泊した港ではなく、そこからタクシーでLUKAYAというビーチに行く。中国系の資本がここにも入っていて、買収された大きなホテルがある。その周辺に地元の土産物屋とレストランが群がっているという構図である。コバルトブルーのとしか言いようがないのだが、海と砂浜の白がどこまでも広がっている。パラセイリングというのか空には凧状のものがボートに引かれてまぶしそうに飛んでいる。あとで、帰りのタクシーでまた一緒だった白人のおしゃべりなオバサンが、私もやったと自慢そうに言うのに驚いた。あたりまえだが、彼女たちはこのクルーズをenjoyするのだという気力に満ちている。何事もあまりうまく楽しめないぼくには羨ましいかぎりだ。

2009年8月11日火曜日

Lamar University visited

Sam Gwynnの大学院の授業でコメントを求められた。My Fair Ladyの日本語版をSamはyou-tubeで探してあったのを学生たち(4名か5名かの演劇と音楽専攻の院生たち)に映して見せた。そして、ぼくにこの日本語には、イライザが最初喋る社会的な階級を明示するような(たとえばロンドンにおけるコックニー )アクセントや単語の違いがあるのか?という問いだった。そのyou-tubeの映像はどこかの劇団の練習風景だったが、イライザらしき主人公を誰が演じているのか分からなかった(不思議な事に、アメリカの大学で見る日本人の演劇は、ぼくにギルバートとサリバンのミカドを見ているような摩訶不思議な経験を与えた。日本人自身が演じているのに、妙にエキゾチックで貧弱な感じ。それに日本語から遠のいた耳には最初この日本語の全体がすぐにとらえられなかった、これも初めての経験)。どの歌かも分からなかったが、ぼくが答えたのは、この翻訳には社会的な階級を明示するようなアクセントや言葉はなく、現代の日本語が使われている。現代の日本語は一様化がはなはだしい。バナキュラーな言語もあるにはあるが、それも滅びつつある。ここで使われている日本語で唯一奇妙な感じを与えるのは、それは翻訳者が主人公の出自の低さをことさら表現するために考えたのだろうが、一人称の「わたし」を「あたい」とかえて歌わせているところだ。今はほとんどの日本人が使わないこの表現はたぶん娼婦などが使う言葉であった。というようなことをしどろもどろ喋ったのだった。

学部生の一般教養の授業にもSam Gwynnの授業の前に参加した。Jim SandersonのAmerican Literatureの講義である。理系の学生も若干いた。全体で8名ほどの学生。サマーセッションということで集中して授業を受けることが可能で、学生にとって普通のセメスター(あるいはターム)よりお得であるということなどをおぼろげに聞いたような気がするが、たしか2時間10分一こまであったとおもう、それは受ける方も教える方も大変だなと思った。ものすごくチャーミングな授業で、インタラクティブな講義。枕のように分厚いテキスト(The norton anthology of AMERICAN LITERATURE)はあまり使用しなかったが、時々はその何ページかを指摘し開かせていた。講義のテーマは20世紀の文学を用意したものは何かということであった。主に実に広い視点から歴史と哲学への言及が多かった。その意味を学生に考えさせるといったスタイル。いろんな意味で刺激を受けた授業である。終わったあとに、感謝の言葉を述べて、そのテキストを買いたいと言ったら、研究室のどこかに余分なものがあるという。Samの講義に出ていたときに、ドアをあけてにっこり笑いながらぼくに「進呈」してくれたのである。

これらのことが可能になったのはすべて、
Moumin Quazi, Ph.D.
(Assistant Professor of English, Tarleton State University
Secretary, South Asian Literary Association
Editor, CCTE Studies
Co-Editor, Langdon Review of the Arts in Texas
Co-Editor, Voices)のおかげである。MouminはTroyの友人で、最初のアメリカ旅行のときに、デントンでぼくもあったことがある。詩人でもある。Moumin(モーマン)に感謝する。SamもJimもモーマンの親友で、両者ともモーマンによればincredible writersということだった。モーマンは締め切りをいくつもかかえていて忙しいというのでこの大学(以前かれはここにつとめていた)、そしてTroyのSmith Pointにはこの時点では来ることができなかったが、メールなどで連絡を取ってくれたのであった。

アメリカに行ったら、詩のワークショップか大学での詩の講義などを受けてみたいと思っていた希望、すべてではないが、いくらかは友人たちのおかげでかなったのである。

2009年8月10日月曜日

Smith Point in Tex

8月3日から8月8日(土)の朝まで友人TroyのSmith Pointの家に滞在する。メキシコ湾に続く奥深い入海(bay)に沿う別荘地のような所である。「ような」と書いたのは、昨年のハリケーン、アイクの襲撃を受けて、ほとんどの家が壊滅したからである。友人の家も一階部分がすべて無くなってしまった。細かいことは省くが、彼は奥さんの仕事で娘を含めた三名で日本にまた来ることが決まった、そのときにヒューーストン近郊にあった自分の家を売って(夏の別荘のようなものとしてSmith Pointの家を購入していたので、休みには日本からそこに帰ればいいと思っていたのだ)日本にやってきた。それが去年の春だった、9月に、残っていた最後の家が壊滅したというわけだ。ここの友人たちに頼んだりして修復もかなり進んでいたが、完全ではない。この夏の彼にとっての帰郷は、その修復という事にあったのだろう。
しかし、この恐れを知らないテキサス男は、「大草原の小さな家」状態の家に何名もの友人たちを招いていた、私もその一人。夜の釣り、発電機をかけて、ハリケーンから生き残った小さな桟橋の先から海を照らしながらの釣り。西に太陽が沈むと同時に東から月が昇ってくる、その広大な眺めを遮るものはなにもない。水平線と太陽が溶け合う(まるでランボーの詩のように)、ジュッという音を立てて太陽の光が燃えるのだ。東からはクールな月の光がきみ一人を目指して、そうきみだけをvanishing point(消点)として、ここSmith Pointでは燃え尽きるのだ。なにものにもかえ難いのは、人生の長さにも似た、夜の長い時間をかけた(livelong)日没と月の昇りの競演である。それだけのために、というのは嘘かもしれない、無数のビールもあったのだから、しかし、やはりそれだけのために、この荒廃した入海の村は宇宙から見える地球のように緑に輝いている。なにもないということの途轍もない輝きをそえて。

2009年8月2日日曜日

Savannah 訪問

Jacksonvilleから北へハイウェイ95、16号と車を飛ばして2時間ほどで目的地。Savannah はジョージア州有数の観光地。週末のせいもあり、相当の人出で賑わっていた。その家はオコーナーが13歳まで居住した所(Flannery O'Connor Childhood Homeで、ぼくが期待したような記念館ではなかった。(晩年の農場付きの家がAndalusiaというアトランタ寄りの所にあって、そこが記念館らしきイメージはあるが、そこまではとても遠いということ)

人のよさそうな案内係の中年の男性がいて、日本から来たというと、その家の入り口にゆき、鍵をかけて、ぼくのためだけに説明してやるという態勢をととのえる。娘が半分通訳してくれたから、ほぼ理解できたが、一人だけではおぼつかなかったろう。歴史的な景観保存地区で、家の2階の窓から正面に1870年代に建てられた大きなカソリックの教会(Cathedral of St.John the Baptist)の美しい尖塔が目に飛び込んでくる。これを少女時代のMary Flannery(案内のその人は必ずオコーナーのことをMary Flanneryと呼ぶ。これが本名で彼女は実際にこう呼ばれていたということ。Flanneryはいわゆるミドルネームである。作家として、いわばペンネームの意識でFlannery O'Connorを使ったのだという。すなわち、Mary Flannery O'Connorというアイリッシュの響きをもつ本名では本など全然売れないだろうと考えてミドルネームを名にしたのだという説明だった)が毎日眺めていて、またミサや他の奉仕行事などに通ったのだと思う。

少女時代のMary Flanneryの逸話をいくつも話してくれたが、それらはすべてこの少女が非常に変わった子供だったということを証明するものである。尼(nun)さんたちにも平気で自分の考えを主張する子だった、いつも孤独を好んでいた、童話はグリム童話しか読まなかった(彼女が読んだという本のまえで)、子供らしい童話は大嫌いだった、傑作なのは、裏庭(バックヤード)で母親が鶏を飼っていた、この裏庭はワーキングバックヤードとその係の人は言ったのだが、母親の仕事場のようなもので、そこで母親の仕事(卵を取ったり、鶏肉を料理したりか?)を手伝いながら、この少女にも鶏の飼育が命じられる。二羽の鶏が与えられたという。なんとまあMary Flanneryはこの鶏を後ろに歩くように調教したというのだ。そして実際に、この後ろに歩く鶏は有名になり、30年代のニュースフィルムにも取材されて今でも見る事ができるということで、見せてもらったりした。手紙の一節、
ーー私は内股歩きの子で、顎なしの少女です。もしあなたが私を一人にしてほっといてくれないのなら、私はあなたに噛み付きますよーーなどの説明。

すっかり疲れて、昼食の店に行くと、テレビで有名な料理おばさん系列の店ということで長蛇の列。おいしい南部料理の店ということだったが、並んだのはいいが、予約客以外はダメということがわかってそこを離れる。途中激しいスコールのような雨。なんとか食事をとったら、もう午後4時過ぎ。オマー(娘のパートナー)の素晴らしいドライブテクニックで他の車をぶっちぎるように抜きながら大雨と乾燥を繰り返すハイウェイを80マイルでフロリダへ帰ってきた。

2009年8月1日土曜日

七月尽

ここ(Jacksonville.FL)に来て4日目、時差の関係で7月の27日を2回経験したから5日目ということもできる。とにかく、今は七月の終わりの日で、その午後23時半にこれを書いている。娘の家のパソコンからも書く事が出来るので、少しずつアメリカ滞在記を綴ろう。

まだ時差の感覚がついてまわる。若いときは平気だったのに辛い。娘の多くの友人たちと会う。楽しい。英語は半分も理解できないが、気持ちはすべて分かる。

朝は、近くの広大な公園の、一周30分ほどかかる散策とジョギング用の道を歩く。今日は2週した。娘とそのパートナーは仕事に朝早く出かけてゆく。ここは朝早く、日が暮れるのは遅い。その上、サマータイムが今施行されているから、朝の散歩の時計は7時過ぎだが、ぼくの感覚から言えば(時差を抜いたとしても)午前6時くらいだ。一人での散歩にも慣れた。出会う人すべてが、good morning!と声をかけてくる。最初はわずらわしいと思ったが、素敵な慣習のように今は感じる。(朝の挨拶すらも忘れはてた社会にいたのだった。)

A Coat
  
  by William Butler Yeats


I made my song a coat
Covered with embroideries
Out of old mythologies
From heel to throat;
But the fools caught it,
Wore it in the world’s eyes
As though they'd wrought it.
Song, let them take it.
For there's more enterprise
In walking naked.

(私は歌のために上衣を作った。
この上衣、踵から喉元まで、
古い神話のあれこれから選んだ
刺繍模様に覆われている。
だが、馬鹿どもがそれを盗み、
自分で織り上げた振りをして
世の人々の前で着てみせた。
歌よ、そんなものはやつらにくれろ。
裸で歩くほうが
もっと勇気のいる仕事だぞ。)高松雄一編 対訳イェイツ詩集(岩波文庫より)


持参してきた、上記の詩集の詩をゆっくりと読む。今日読んだ詩のなかで、心に残った詩。

2009年7月26日日曜日

歩く用意

Thoreau(Henry David)のエッセイ、“Walking”の最初のところに、‘sauntering’辞書で引けば「ぶらぶらする、うろつく、歩き回る」とある、この語の語源を詮索する部分がある。ソローは、
which word is beautifully derived "from idle people who roved about the country, in the middle ages, and asked charity, under pretence of going à la sainte terre" — to the holy land, till the children exclaimed, "There goes a sainte-terrer", a saunterer — a holy-lander.

という説をまず紹介する。この語源は「美しい」という、つまりsaunterという語は、sainte terre(聖なる土地)、聖地への巡礼者、十字軍兵士、こういうイメージから生まれたというのである。中世のことだが、実際に、そこに行くふりをしただけのものもいようが、実際に行った者もいるのだという。それと、もう一つは対照的な説で、
Some, however, would derive the word from sans terre, without land or a home, which, therefore, in the good sense, will mean, having no particular home, but equally at home everywhere. For this is the secret of successful sauntering. He who sits still in a house all the time may be the greatest vagrant of all,

というように皮肉な見解を述べる。ここではsans (無)terre(土地)となるわけだ。ソローにとって、歩く(walking)が、市民的な怠惰を突き破り、絶対的な自由のシンボルである自然へ到達するための必須授業のようなイメージとして描かれているわけだから、当然この後者の語源は、

But I prefer the first, which indeed is the most probable derivation. For every walk is a sort of crusade, preached by some Peter the Hermit in us, to go forth and reconquer this holy land from the hands of the Infidels.

と否定される、「なぜなら、すべての歩くはある種の十字軍であり、われわれの心のなかに住む隠者ピーター某によって導かれ、進軍し聖地を異教徒たちの手から奪還する聖戦?だからである」とすごいことになるが、ユーモアがないわけではない。この連結、歩くことと十字軍の、そのものがありそうであるけど、ソローの意識には十二分に現代にも通じるようなモダンなウォーキングのそれもあるから、ここは誇張法で歩くことを先鋭化しているのである。そもそも、このエッセイの始まりに述べられていることわりがそれを明示していた。

I WISH TO SPEAK a word for nature, for absolute Freedom and Wildness, as contrasted with a freedom and Culture merely civil, — to regard man as an inhabitant, or a part and parcel of Nature, rather than a member of society. I wish to make an extreme statement, if so I may make a emphatic one, for there are enough champions of civilization; the minister, and the school-committee, and every one of you will take care of that.
極論(an extreme statement)を述べたいと願っていたのだ。

これが冒頭のパラグラフ。この前の、「異教徒たちの手から云々」に戻ると、次のような宣言が、マニフェストが高らかに謳われる。私はここが昔から好きなので、こうしてここまで書いてきた、これを書いてきたようなもの。

It is true, we are but faint hearted crusaders, even the walkers, now-a-days, who undertake no persevering never ending enterprises. Our expeditions are but tours and come round again at evening to the old hearth side from which we set out. Half the walk is but retracing our steps. We should go forth on the shortest walk, perchance, in the spirit of undying adventure, never to return; prepared to send back our embalmed hearts only, as relics to our desolate kingdoms. If you are ready to leave father and mother, and brother and sister, and wife and child and friends, and never see them again; if you have paid your debts, and made your will, and settled all your affairs, and are a free man; then you are ready for a walk..

「たしかに、われわれは臆病な十字軍兵士にすぎない、いや単なる歩行者にすぎない、現代の。われわれは忍耐強い、終わることのない事業などに取り組むことなどしない。われわれの探検は単なるツアーにすぎない、なつかしい炉辺に夜には再び戻ってくるしかない、われわれがセットアップしたそこに再びもどるしかないツアーにすぎない。その半分は、あとに戻るステップにすぎないのだ。

我々はおそらく決して帰ることのない不滅の冒険に出発する気持ちで、我々の防腐処理された心臓を、荒廃した我々の王国にほんの形見として送り返す覚悟をもって、どんな短い散歩にさえ出かけて行くべきだ。もし、あなたが、父母、兄弟姉妹、妻子、そして友を残し、彼らと再び会わない覚悟ができているなら―もしあなたが負債を払い、遺言書を書き、すべての問題を整理し、そして自由な人間となるなら、あなたは歩く用意ができたのである」

恰好いいね。このコンコードの森の人間、徹底した反戦主義者の言明は。

(明日から、アメリカに行きます。一ヶ月近く、このblog休みます。みなさんのご健勝を祈ります。)

2009年7月23日木曜日

大隠は朝市にあり、小隠は丘岳に入る

 
市中であれ、岳林、山林であれ、俗世(間)から「遁れる」とか「隠れる」というのには 、世間に対するなんらかの異和感、抵抗、諦念、敗北感、復讐心、抗議、ひょっとしたら、闘争の意識―たとえあまり自覚的でないとしても―さえ場合によっては秘められているかもしれない。もしそうなら、それらを徹底して隠すことであらねばならない。徹底しなければ、隠すべき対世間への意識の一部が外にもれてしまう。一方もらすことでただ凡庸なだけの者、あるいはたんに風変わりな者でないとの表示―世間への対抗を示したり、スネていることを示して、隠者ぶる、スネ者ぶる、反体制ぶる手合いももちろんある。
(『隠者はめぐる』富岡多惠子・岩波書店)


先日読了した本だが、富岡多惠子の『隠者はめぐる』は、ああでもない、こうでもない、と、いわゆる「隠者」「隠士」をめぐり、エッセイの醍醐味を著者本人自身が味おうというような ゆるいスタイルで書かれた「隠者」論だ。私も眠りに落ちる前の読書として、布団のうえで気儘に読んだ。扱われてる「隠者」たちの中心は契沖である。そのことが私の興味を引いたことの主な理由の一つだった。大著『万葉代匠記』の学僧。このタイトルの「代匠」とは、師匠に代わって、という意味だが、その師匠格の下河辺長流が光圀の水戸藩から万葉の注釈を頼まれていた、全部はできなかった、それに代わって契沖があとの仕事を完成させたということから付けられた名前である。その二人の交流、長流は契沖より十六歳年長であったが、二人の詠み交わした和歌からみると、そういうことは感じさせず、二人の親密な友情(むしろ恋情というほうがふさわしい)がうかがわれる。富岡は二
人の歌などから、同性愛的なものを、そこに見いだすのだが、それは彼女が『釋迢空ノート』でやった信夫と無染のそれの追求を思わせるが、なにしろこれは江戸時代前期の人の話であって、そこまでは行かない。契沖という「隠者」、彼は僧侶だから、まず出家という形で、世間を離れ、そのあとやはり「世間」と似たようなものであったとどこかで覚悟したのか(これは秘められているが)、専門僧侶としての、住職などの仕事から離れる、というように最終的には「二重の遁世」をした人であるというのが富岡の考えだ。専門僧侶の仕事を離れて、学問と歌でどうにか生活できたのは水戸藩からの毎年十両のボーナスのせいであったというのも、富岡が言っていることである。つまり「隠者」を支えたものはやはり金であった。しかし、この十両のボーナスのことを死ぬまで契沖は恥じたらしい。それが契沖という人の特異なところで、富岡はそこに惹かれたのだろう。冒頭に引用したような「隠者ぶる、スネ者ぶる、反体制ぶる手合い」ではなかったというところが彼女のお気に入りの隠者ということである。なにかを「徹底して隠した」人でもあろう。次の歌は何の技巧もない、それ故契沖の長流に寄せる思いがよくわかる歌である。

我をしる人は君のみ君を知る人もあまたはあらじとぞおもふ

(日録)
昨日は久しぶりに禁酒した。その前、連日飲酒の機会があったので、楽しかったが結構疲弊した。ところが今日は一日空けただけなのに、飲みたくなる、で、ビールと黒糖焼酎。
雨か晴れるか分からない天候の中を、女房と八王子へ。夏の友人との旅行のための新幹線などの切符を女房購入する。この夏はお互い別々の行動という初めての経験。
クマザワ書店で新しく出た岩波文庫『対訳 イェイツ詩集 高松雄一編』を求む。
そのあと、花マル?うどんで、温玉うどんの冷たいのを食べる。すっかり雨。

先日、NYCの湯浅さんから、すばらしいメールを頂戴する。例によって、無断だがここに転載しておく。どうして、こういう英語が書けるのか、私はいつも感動しないではいられない。私のアメリカ旅行の計画に対しての返信。


Mr. Mizushima,

That sounds like a great plan. While you are in Texas, I hope you get to go to San Antonio and Austin. I love visiting Spanish missions in San Antonio (not just the Alamo mission) and Austin is my favorite Texas city (and the UT, one of my favorite campuses). When I lived in Dallas, I used to visit these two cities quite often. A tour of the Faulkner's South should be interesting too. The gentility and poverty, decay and neglect, a great deal of cruelty - looking back (in time and space), the South, the land of my youth, stirs within me a lot of fond memories but also a little bit of chill. But then, Atlanta has changed so much in last 15 years that I hardly recognized it on my last visit two years ago. (Only things that were constant were light that played on young leaves and the dark quiet water of the Chattahoochee River). The greater South may have transformed itself too-- with the old wounds of poverty and injustice less visible. The South I know is a beautiful place with large milky flowers of magnificent magnolia trees and millions of fireflies that dance summer nights away.

Have a great time with your daughter and your friends in Dixie.

Best,

Mashiho

2009年7月19日日曜日

野々宮

17日(金)
有楽町の出光美術館なるところに初めて行く。「やまと絵の譜」という特別展(日本の美・発見Ⅱ)を観た。思っていたより、ずしりと重い、私のような素人には見応えのある展覧会だった。
 
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入館すぐの場所に展示されていた、岩佐又兵衛の絵には心底惹かれてしまった。モノクロの絵で、六条御息所を野々宮に尋ねる「賢木」の場面から取材したものである。うなってしまう。荒木氏という武将の末裔が描いた光源氏は大きい。この画家特有といわれている弓なりの姿勢で黒木の鳥居の下に童子をしたがえて佇立していた。王朝というよりも、時代をこえたノスタルジア、愛する者を、しかも恐れつつ愛するものをたずねようとする男の立ち姿、ノスタルジックなそれを強く喚起させる。深く息を吸い、しかし正面から愛し恐れるものを見つめようとする大男。

 
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〈在原業平図〉もすてきだった。これも歌仙絵とは異なり、業平の珍しい立ち姿である。画賛がまた業平の立ち姿のあでやかさとはコントラストをなす業平の歌である。伊勢88段、
― 昔、いと若きにはあらぬ、これかれ友だちどもあつまりて、月を見て、それがなかに一人、

おほかたは月をもめでじこれぞこの積もれば人の老いとなる物    ―

岩佐又兵衛という絵師をもっと知りたくなった。英一蝶の〈四季日待図巻〉もいい。展示の仕方、全体の雰囲気、すべてよかったので、長時間滞在して、すっかりくたびれた。そこから女房と二人できれいではなやかなビル群を通り抜けて東京駅まであるく。のどが渇いて、洒落た感じのイタリア風?の居酒屋に入る。五時前ということで、ビールだけを二人で飲んだ。ここは50点ぐらいのところだった。それにしてもこの一画の豪勢なことよ。多摩のお上りさんには少々居心地が悪かった。

18日(土)

昔の職場、小川高の卒業学年のお母さんたちと飲む。一年前から企画してくれた会だった。楽しかった。

19日(日)

散歩。湯殿川。八王子米の田んぼと私自身が名付けた稲田がある。そこに鴨の家族が居た。全部で10羽くらいのグループ。小さなものもいる。苗の何列かは彼らの遊泳のために無くなっているが、これも意図したものだろう。むかしなにかの記事で鴨をわざと泳がせて稲田の栄養としているというような記事を読んだことがある。鴨たちが有害な物を食べて、いいものを排泄するのだろうか。それにしても、私はいつの散歩でもそうだが、この水を湛えた稲田を見ると、そこにいつまでも佇んでいたくなるのは、どうしたことだろうか。

七部集〈猿蓑〉の歌仙のなかの「夏の月の巻」は次のように始まっている。

市中は物のにほひや夏の月   凡兆
 あつしあつしと門ゝの声   芭蕉
二番草取りも果さず穂に出て  去来

この去来の第三を突然思い出したりした。

2009年7月14日火曜日

場所と植物

午前中は職場のパソコンをにらみ続けて、やっと成績を入れることができた。幾重にも厳重に鍵がかけられた神棚を必死に開けながら、点数を入れる、欠課時数を入れる、三年生は五段階の評定を入れる、というような作業を繰り返して行く。ちょっと間違うと神棚は開いてくれない。若くて親切そうな現役の先生に頼んで開けてもらい、また最初から作業をする。いらいらして、コンピューターを壊したくなる。すばやく、無造作にさっとこの機械のシステムと親和状態の極地でハイな感じで作業をやっている人々を見ると、なんでこんなことをしなければならないのか?などと思ってしまうのだ。ここまで厳重に、機械にすべてを捧げるのは、個人情報の管理強化ということからなのか、はたまたすべての文書の活字化などというのは古くさい考えだろうが、入れた後は便利に機械が印刷から加工からすべてをやってくれるからか。手書きで、点票にかいて、それを集計した昔の方が作業は簡単だったような記憶が私にはある。それにコンピューター室はいつも混んでいて神棚に向き合うことからして大変なのだ。どうにかやっつける。まあいいや。これで前期は終わったのだから。

帰ってから歩く。いつもの川ぞいの道を一時間半。8キロ近い。昨日の朝、6時過ぎの歩きのときみた淡い青の空とは違って曇っている。
マルチニックに今滞在している中村君のblog(OMEROS)を愛読している。そこで言及されていた中上健次のエッセイ『〈場所〉と植物』と『フォークナー、繁茂する南』を読む。フォークナーのヨクナパトーファの舞台になったオックスフォード近辺にこの夏行きたいものだ。中上の言うフォークナーの「すいかずら」と日本の「竹」の対比。『〈場所〉と植物』をこの夏のテーマとして考えてみようなどと思う。そのことが自分の詩にもいい影響を与えるようなしかたで。

2009年7月12日日曜日

不運と奇蹟

大分の柳ヶ浦高校のバスの横転で、生徒が一人死に、そのバスを運転していた野球部の副部長の若い教諭が逮捕された。マイクロバスを教諭が運転して、練習試合などに何部であれ生徒を連れてゆくということが、その部の監督や関係者の熱心さとして語られることが、よくあった。たとえば長崎で有名な高校のサッカー部の監督で、今は政治家になった某氏なども自分の運転する車で生徒たちを遠征につれていったのである。それは貧しい予算しかない公立高校の、しかし熱心で情熱のある名物教師としての公私をわかたぬ指導の一環という具合に美談として語られてきたのだ。この柳ヶ浦という高校は私立で、野球に特化した一面もある高校のようだ。余計にいたましい気持ちになる。この教諭は野球が好きで、ここに勤めを得ることができたのを喜んだろう。しかし、彼は車の運転もしなければならなかった。喜んでか、いやいやながらかよく分からないが。長崎の例のサッカー部の監督も、もしこういう事故に遭っていたら、今の彼はありえないことだ。下積みの一環として、若い野球好きの教諭として、副部長という名はいただきながら、ここから始めなければならなかったのだろうか。どうして、こういうことを教諭にさせるのだろうか?なによりもこの事故で亡くなった野球部の生徒のことが悔やまれてならないのだが、この逮捕された先生も可哀想でならない。まだ30歳前で、この人も運命の路線が異なれば、長崎サッカー部監督(その後の政治家への転身)やそれよりも名物野球部甲子園常連野球部の監督の路線も用意されていたろうに。

こういう事故を起こして、そしてその亡くなった部員の保護者の「ぜひ大会には参加してほしい」という「お言葉」があったとして、夏の大会参加を宣言した学校、それを後押しする県の高校野球連盟、私はこの参加の決定が理解できない。本当に悪いのは誰だろうか?この学校のシステムであり、高野連である。一人は死に、一人は逮捕された。逮捕された一人にすべての責任があるのではない。運転を教員にさせて、それが当然だと思ってきた高校スポーツに限らないが、日本のスポーツ界の悪しき伝統とそれを美化する儲け屋メディアたちである。

私の郷里は徳之島である。今日のニュース、夏の甲子園の鹿児島予選で、徳之島高校が鹿児島実業に延長13回でサヨナラ勝ちしたという記事がasahi.comのトップ記事に写真付きであった。このことを、奇蹟のように思い言祝ぎながら、徳之島高校という離島の高校が野球がらみでこれからたどらなければならない運命を考えると複雑な気持ちにもなる。

2009年7月10日金曜日

Look for the silver lining

聴無庵さんの日乗で、Chet Bakerのことを辺見庸が書いているのを知った。先日、朝日新聞で辺見の死刑制度に対するまことに眼差しの低い(それゆえインパクトのある)反論を読み、関心を持ったばかりだが、その文中にも自らをChet Bakerを聴く障害老人のように位置づけていた一節があったので、それも奇妙に思っていた。今日、八王子に出てクマザワで、『美と破局』(辺見庸コレクション3 毎日新聞社)を求めて、そのChet Baker論「甘美な極悪、愛なき神性―新たなるチエット・ベイカー」を読んだ。白痴的ベイカーの魅力を、白痴なるが故に、擁護するもの。

1988年5月、アムステルダムのホテルの窓から転落して、チエットは死ぬのだが、その11ヶ月前の東京公演での演奏を辺見庸は最高のパフォーマンスとして、シオランの「音楽とは悦楽の墳墓、私たちを屍衣でつつむ至福」(このシオランの言葉もすごい)という言葉で讃頌する。とくに、この一曲を。そこのところを引いてみよう。

かつて“うたう屍体”とまで酷評されたことのあるジャンキー(麻薬中毒者)・チエットは、「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」を永年の求道者のように奥深く、殺人鬼のように優しく狂った、ある種ちかよりがたいほど醒めた声質でうたいあげて、満場を泣かせたのだった。例によってスツールに脚をくみ、前かがみになってすわったままの歌もトランペットも、かぎりない喪失と脱することのかなわない奈落、そして不可思議としかいいようのない恩寵のようなものも感じさせたのである。文字通りの奇蹟であった


辺見は「喪失とひきかえの恩寵」の善なる例としてビリー・ホリディを挙げ、彼女が「いわば善なる者の蹉跌と堕落、悔恨を情緒てんめんと歌い上げて神の心をも動かした」のに対して、チエットには自省や悔恨はなく、彼の当該の歌のすごみは、「したがって、恩寵のゆえではなくして、神をもあきれさせ、ふるえあがらせた底なしの無反省とほぼ完璧な無為をみなもととしていることにある」のだという。

闇の底からわきあがってくるその声は、うたがいもなく腐りきった肉体の芯をみなもととし、ただれた臓器をふるわせ、無為の心と重奏してうねり、錆びた血管をへめぐり、安物の入れ歯のすき間をぬけて、よろよろと私の耳に達した。ここに疲れや苦汁があっても、感傷はない。更生の意欲も生きなおす気もない。だからたとえようもなく切なく深いのである。そのようにうたい、吹くようになるまで、チェットは五十数年を要し、そのように聴けるようになるまで、私は私でほぼ六十年の徒労を必要としたということだ。ただそれだけのことである。教訓などない。学ぶべき点がもしあるとしたら、徹底した落伍者の眼の色と声質は、たいがいはほとんど堪えがたいほど下卑ているけれど、しかし成功者や更生者たちのそれにくらべて、はるかに深い奥行きがあり、ときに神性さえおびるということなのだ。


これが辺見庸のChet Baker理解の核心にある思いである。Chet Bakerを抜け出して辺見自身の人間性というものの幅を思わせるところでもある。

私は2,3年前にChet Bakerになぜかわからないが入れあげてしまい、ほとんど彼の曲のすべてを聴いたのだが、こんな深い理解からではなかった。今夜、辺見を読みながら、またこれを書きながら、聴きかえしている。東京公演の模様がyou tubeに入っているのには驚いた。私が聴いたのはおもに彼の全盛期のものだったから、この深さには思いも寄らなかったのだろう。

(シュツットガルドでの公演、これも晩年の "I'm a fool to want you") 



(東京公演での"My funny valentine")

2009年7月9日木曜日

前期終了

前期終了

まだ採点などの仕事が残っているが、前期がなんとか終わった。退職して、私立高校での2年目の非常勤の仕事。今年は週の3日、12時間の授業。9月からは大学での後期の講義が始まる(一齣だけどタフな仕事)。
7月の27日から8月の24日までアメリカに行く。詩のワークショップなどを探したが、日程面と金銭面で無理なことがわかった。ブラブラしてこよう。何よりもアメリカにいる娘とひさしぶりにゆっくりできるのが楽しみである。

ここまでの生活。

7月4日、相模原Troyのところでパーティ、息子と郁さんも一緒。Troyの友人でSmith Pointから来たAllenも、その他にも多くの人がいた。独立記念日に座間キャンプは派手な花火を連発する。それを遮るところのない屋上から眺める。最高の気分だった。しかし、スコッチを飲み過ぎて、どこかで気分がねじれてしまったようだ。なにかやったな、という悪い感じが残る。翌日、女房に叱責された。なかなか成長しないものである。

他に書くべきことはないや。

2009年7月3日金曜日

How High The Moon

How High The Moon           

            
            There is no moon above
            When love is far away too
                 (Nancy Hamilton/ Morgan Lewis, 1940)より
ほんとうは、月なんてない。きみがぼくのそばにいないときは



やまももの
実を
見知らぬ人にもらう
あやしいものではありません、
暗紅色の核をプレゼントされた
垣根をこえ道に落ちた
果実のあやまり
それは甘く酸っぱい、酸っぱく甘かった
湯殿川、You Don't Know What Love Is
ゆーどん のー 川
われわれの不滅の愛
鵜の花咲き
鯉の実みのれる
花菖蒲はアイデンティティを求めて
耳を交わしあう
暗く紅に道を歩く、歩きなさい
それはなんですか?
あやしいものではありません、
身一人
しかじ!しかじ!
蛇となって
草いきれを這いまわらんには

月なんか無い
半夏生がしらっぱくれて
白い舌を出しているよ
桑の実の空白
栗の花の白髪
枇杷が鴉に
経験の意味を問われている五月雨の午後
犬追物は感傷に堕落している

不滅の愛を救う不滅の魂の不滅の物語
チャーリー・パーカーが
草と月から
ギアを入れ換えて
雨の空を
低く飛ぶ
鳥たちのために、ornithologyオニソロジー、鳥学を吹き始めた

きみが鳥になればいい
鳥になって月に向かって高く

2009年6月26日金曜日

ネバーランドの湖で

かもめ                            



     顔は見せるためにある
    鏡を決して覗かなかった少年時代の「にきび」の日々から
   きみは44歳になった
  復讐のためにもっと美しくなろうとして「きみの自然」と呼べるものを
 虐待してきた月日
 
バルコニーから悲鳴が聞こえ
きみの剥製が落下する
「世界中の子供たちが死んでゆく」
冬の午後
約束どおりにきみは
かもめのような白い命を露出させた

         落下する
            命の剥製
すべてが死に絶えたネバーランドの湖で
「わたしは一つ一つの生活を新しく生き直している」
冷たい岸辺に横たわり
巨大な鮫が空中をゆっくりと泳いでいるのを見る

人生と科学がわたしを置き去りにして行った日々
在ることと在らぬことの、在ることについては在ることの
            在らぬことについては在らぬことの
                 横たわる巣穴

「あなたは、尺度に照らして(かすかな光がここに届いている)
虐待はなかったというのですね(愛することは虐待すること)」
 きみの手がぼくの首をしめる正午
       羽毛が闇のなかを長い時間をかけて落ちてゆく
もう思い出せないその昼と夜のわずかなとき
ぼくの淡い青灰色の背中がきみの手を種族の漆黒に変えたのを
                          覚えているか?

傷ついた爪
雲にまぎれて飛ぶ かもめ
             ここからはきみの顔は見えない
         メランコリックなサングラスに隠された名声
             受精をまつ子宮のやわらかな喝采にかこまれて
       独裁者は
バルコニーから手を振る

  ベルリンの冬、ティアガルテン
                  アスファルトは大地の母のように泣き
                   ゴリラが檻の中できみを笑っている
         記憶のなかの坂道   なにかをつかんだ五本の指の記憶
             アリアドネの臥所がきみを誘う
                 ここで裸になる

          そしてインタビュー
     「12歳の少年と一つのベッドに寝て、あなたは何をしたのですか?」
      熱い息の下で織りあげられる声のない物語
     バビロンとバクダッドが、アッコとアラスカが
    きみの血を沸かすまで
  というより
「厳しい訓練を課した親に優しくすることはきみのなかにある
フュシスに反するゆえ公衆の面前では親たちに優しくし、一人になれば
一人の快楽に没頭するがよい、虐待の記憶そのものが彼らと彼らのノモス全体を
腐らせるまできみはぼくと遊ぶのだ」

深く退行して純白な仮面をつける
 「私はかもめ」
ニーナ
きみとともに在った日々をわたしは忘れない
  鵞鳥も雲も、水に棲む無言の魚も人生のめぐりを終えた
      空に浮かぶ鯨も
 
喝采のなか、わたしたちは「存在」することから退場する
       雲にまぎれて鴎が飛ぶ 
    


(2003/04/21 完成に近い未定稿・gip15号に発表) 

今日、マイケル・ジャクソンが死んだ。昔書いた彼についての詩を、追悼のために掲げておこうと思った。この詩は昨年出した詩集『樂府』にも入れてある。

 
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