2011年10月11日火曜日

CARPE DIEM1

CARPE DIEM

教室にいる女子学生たちのなかで、去年出席不良で私が単位を与えなかった子がいた。私は恐縮しながら、どうして?と聞いた。彼女はきまり悪そうな顔をして黙っていたが、今年は、と呟いた。詩を書くことを手助けする授業だが、私は何を手助けしたのだろう? (CARPE DIEM 1)

水と光りと微生物を中心に考えるべきでしょう、古楽器の調律を専門とする人が静かに話す。菌を殺してきたことを反省しなさい。あなたの奥さんは亡くなった父親のためにベートーベンの全ソナタを今日まで弾いてきたのではないのか。すべては照らし合っているのです。(CARPE DIEM 2 )

だれの声、なんという楽器、吹いているのか、弾いているのか、わからないが、とてもなつかしい。ハーモニカ。ピアノ伴奏だから、管の響きに聞こえたのだ。Toots Thielemans 。Marian McPartlandと対話しながらの番組。前世紀初からここまで歩いてきた人の声の響きに鼓舞される。(CARPE DIEM 3)

そこからはじき出されている。発酵のところだよ…。そこまで待てないから腐食で終わるんだ。我慢と強情。秋は満ちてやって来る。教訓を聞き流して、芒が笑っている。セロニアスが単純率直に聞こえるように弾くstraight no chaserを呷る。(CARPE DIEM 4)

月の砂浜に寝そべって、遠くに輝く白い水平線を眺めていた少年の日からやり直すことができたら何をする?そのまま、そこでガジュマルの木に棲むケンムンになって、果てしなく忘れられてゆき、年老いて帰郷した誰かの流す涙に身を変えるだろう。(CARPE DIEM 5)

繰り返しのところで息継ぎをする。その草の萎れたところに眼が引きつけられる。近代文学が好きになったという体操好きの少女を好きになった。たとえば「ナイチンゲールはバークリー広場で歌った」など。欅の肌に触れた指先の消えた露。(CARPE DIEM 6)

静かな十月の朝の時をゆるめよ!坂道の金木犀から、反語の匂いが消えて何年になった?川沿いのコスモスが私の中で揺れなくなってから何年経った?静かな十月の朝の時をゆるめよ。そこに残っているかすかな夏の光りをおまえが愛し終わるまで。(CARPE DIEM 7)

綴れよ刺せよ、肩させ裾させ、と蟋蟀は鳴くという。明日の仕事の準備をしながら、耳を外に凝らしてみる。確かに鳴いている虫がいる。室内では、北村太郎のように言えば「刻々と生きている」わたくしが泣いているのである。  (CARPE DIEM 8)

2011年9月4日日曜日

久しぶりに(場所と問題)

朝、一ヶ月ぶりのウォーキング。湯殿川は思ったほど増水はしてなかったが、流れははやい。タイムラグで狂っている体内感覚をここのそれにリセットするのには歩くのが一番いい。稲穂が随分伸びている。空に黒雲の塊が流れている。フロリダの空をハリケーンの余波で黒雲が過ぎったときは、地平線が見えるような広大な公園だったから、世界中が暗くなるようで、おそろしくなったが、八王子の空は家々にくぎられて狭く感じる。颱風はもう過ぎたのだろうか、まだこれからなのか。風は強い。歩きながら考えたことがある。場所と問題、場所と主題というようなこと。「ある主題のために、場所を拉致するのではなく、きみにとっての主題や問題を、今ここの場所に置いてみることのほうが大切なのではないか」、置き方の問題もあろうが、まず場所の場所性ということを第一にし、そこに君の主体や問題などをありのままに置いてみること、そこから出発したらどうか、などと考えながら歩いていた。ゆくりなく沖縄という場所が浮かんできた。その前に、たとえば日本という場所、福島や他の場所、そこに「原発という問題」が置かれているということ。これは正しい言い方ではない、無理矢理、強制的に「原発という問題」が福島や他の具体的な場所を「拉致」したのだということが今は明白になった。その問題の危険性が露わになって初めて、それが置かれた場所の場所性が事後的に問われるようになった。青森や佐賀や鹿児島の場所性も原発という問題がやがて明らかにするのだろうか。私が言いたいのは、我々の今ここの場所性(それは我々の「主体」性とは違う)を具体化すること、それを大切に考えることからはじめようということだ。沖縄を考えることはここでいう場所を大切にすることの意味と同じである。沖縄という場所は様々な問題に絡まれて傷つけられているように見えるし、実際もそうであろう。しかし、その場所性は常にそれらの問題を明白にし批判しうるほどの具体性と強さを持とうとしている。問題の困難さに負けない場所というのがある。そこでは君の小さな主体性など何ほどのものでもないが、その場所はそれをも鍛え直してくれるだろう。散歩のときに考えたことがこれと同じであったかどうかは忘れてしまったが、いつもの湯殿川の散歩という日常が私の小さな理性を呼び戻したようでもある。




今日やりたいこと。

ヨシフ・ブロツキーのフロスト論"On grief and reason"を読み継ぐこと。ここでの問題の一つはアメリカの詩人とイギリスの詩人の「自然観」の違いということ、私はそれに日本の現代詩人のそれも付加して考えてみよう。後期の授業の糸口になればいい。


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2011年7月18日月曜日

なでしこの戦い

「なでしこ」の含意は様々だが、すべて歴史的なものだろう。とくにこれとヤマトが接続した大和撫子は、なにか特別な意味を持っているようだ。清楚、辛抱強さ、りりしさ、日本女性の典型。日本代表の女子サッカーチームが公募でその名を募集したときに選ばれたのが「なでしこJapan」という名であった。そのときに、この名のコノテーションが問題になることはなかったと思う。この名にまつわるもろもろの、作られ強制された無意識―変な言い方だが―(清楚、優しさ、母性、辛抱強さ、殉教など)を爽やかに打破してくれたのが、今回の2011 FIFA Women's World Cupにおける日本代表、すなわち「なでしこJapan」の優勝であると私は考える。このチームの戦いを私は今日未明のアメリカとの決勝戦しか知らない(テレビで観戦したのは、この一つ)のだが、見ていて深い感銘を覚えた。
 試合の前半ではアメリカの猛攻の前にいつ失点しても当然のような試合だった。素人から見たら、単に運のようなものが失点を免れさせたのだとしか思えなかった。ここをゼロゼロで持ちこたえた。後半には交代したばかりのアメリカのモーガンにドリブルで切り込まれ点を入れられた。ああ、と思った。でも、後半終了十二分前ごろにアメリカのゴール前でのもつれからすばやく宮間が蹴り込み、同点にした。このすばやさ、躊躇のなさ、しかも流れるような自然さに私は感動した。秘かに、Samuraiたちなら絶対に失敗したろうなどと失礼な感想を抱いたものだ。延長に入り、ワンバックの美しく強力なヘデイングで再び引き離されたが、後半に澤(なんという選手だろう!)の神業的なシュートで再び同点。決着つかず、PK戦にまでなり、日本が勝利を手にした。澤は得点王となり、MVPにも選ばれた。閉会式のセレモニー、その後の彼女たちのインタビューも見た。的確で無駄のない受け答え、しかも特筆すべきは、全然情緒的ではないこと、みんなが言いたいことを持っていて、しかも自分の頭で考えたことを、きちんとした日本語(スポーツ選手にありがちな、「"ら"抜き言葉」など一切なかった)で喋っていた、そのことを素晴らしいと思った。そして今までよくあった、こういう場合に、すべてにおいて扇情的なインタビュアーの質問もあまりなかったと私は思った。それはインタビュアーたちも、彼女たちの冷静で知的な応対に負けるしかなかったのだとも思う。
 
 それから朝刊を読んだ。当然ながら、このゲームの結果は載っていない。そこにある嫌な、胸がむかつく記事があるのを眼が捉えた。私は瞬間にその記事を読むまいと思ったのだが、やはり眼を通さざるをえなかった。石原都知事の定例の記者会見の記事で、彼の口調そのままに書かれている。私はむかつきをこらえて後世のためにこれを筆写しておく。

―「女は強いですな、つくづく。男はだらしねえけどね。結構なことじゃないですか。(中略)とにかく最後に、アメちゃんにだけは勝ってもらいたいな。そうしたら、やっぱり日本人は留飲下げるよ。(中略)俺なんか古い人間だから、65年の遺恨っていうのがあるわけだよ、戦に敗れてからの。君ら、全然痛痒を感じていないだろうけどさ」(15日の定例記者会見)。―
 
 夜郎自大、非常識、チンピラ、の発言だ。全力を尽くして戦ったアメリカの選手に対するこれ以上の非礼はないし、日本選手たちの栄冠も汚す発言だ。そういうことになるという想像力の一かけらもない人間。恥ずかしさを通り越して悲しくなり、やがてはこの男は道化かとも思わざるをえない、いや道化ではない、比べるのは道化に悪い。それにしても「アメちゃん」か、ぼくらをジャップと呼ぶようないかなるアメリカ人も私には想像できない。震災被害を深く悲しみ、あえて日本国籍を選ばれた老齢のキーン先生はどう思うだろうか。この老齢になっても、それ相応の叡智のかけらもない、今も障子破りのチンピラ作家都知事を。そしてこんなことを発言する男に五輪などを日本に招致する旗頭の役やその資格などつとまりもしないし、あるはずもない。都民の血税をまたドブに捨てて蛙の面に小便ですまそうというのだ。それにしてもなんとまあ、この男に寛容な事よ、都民たちは。

(結論)愚かな知事の発言や、これからなされるであろうメディアの虚飾に満ちた歓迎や扇情的な露出、また震災がらみの強制的な美談に取り込まれるのに抗して、「なでしこ」たちはこの試合のように冷静に、決してあきらめず、なによりも笑顔を忘れずに縦横に自らの道を切り開いてゆくであろう。そうであってほしい、最後のPK戦までになろうとも。

(教訓)私も、この知事のような考えと、それをよしとする勢力との戦いをあきらめることがないようにしよう。「なでしこ」の強さが教えたことを大切にしよう。

2011年7月14日木曜日

羽生槙子『花・野菜詩画集Ⅲ』を読む。

 羽生槙子さんの『花・野菜詩画集Ⅲ』(開成出版)を今朝読んだ。その絵と詩は、この世の地に根を下ろす「花・野菜」のみならず、生あるものすべてとの、常に更新される瑞々しく、まぶしい結びつきに満ちている。彼女は「いっしょに暮らしている人」羽生康二氏とともに、季刊詩誌「想像」を年4回発行されている。一番新しい号のナンバーは133号だから、単純に計算して33年にわたる詩誌である。その息の長さに驚くが、何よりもその内容のゆるぎなさに打たれる。それは権力や権威の強制や抑圧に抗して、一人の市民・人間として、それぞれが自立しつつ共生できる在り方を模索し鍛えてゆくものだと私は思う。私のもの言いは大げさに聞こえるかも知れないが、お二人の根本にあるものは槙子さんの詩集所収の次の詩からもうかがえるものと同じである。

 
 冬になって 庭の柿の木の葉は残り少な
 その中の一枚の葉が
 散る間合いを測っている とふいにわたしにわかった
 そう 微風が二度
 三度目の微風で 葉は
 枝からそっと手を離した ゆらゆらと
 ゆったり やわらかに 地に載った
 それは安心して眠りに入る形
 柿の葉 なんてすてきなんでしょう
 庭の草木はすべて神秘だと その時わたしにわかった
(「柿の木の葉」)

庭の草木に「神秘」を見る眼。「安心して眠りに入る形」を見守る眼。この眼を私も槙子さんから受け継ごうと思う。そして、「神秘」や「安心して眠りに入る形」を動揺させ、不安に陥らせる人の業、経済や競争の秤を見るだけの「眼」、それがもたらしたものこそ、この国の「原発」災害ではないだろうか。

  わたしは年寄りになった。原発を何としてでも今、いったん全部止めてほしい。そして生きている間に原発を持たない国になることを求めて人々の間に議論が起こり、政治が変わるきっかけになってほしい。この春、野菜を作るかどうか、少し迷ったけれど、4月、庭にピーマンとミニトマトの種をまいた。
詩集の「あとがき」だが、私もこの希望を同じく持つ。それとともに、槙子さんの蒔いた野菜たちの命が傷つけられることなく育ち、われわれの命との新鮮なまばゆい結びつきをこれからももたらしてくれるように祈る。

2011年7月13日水曜日

コロラドの奇岩


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こんな岩に登ってみたい。さぞ爽快だろうな。

2011年7月12日火曜日

毛羽鱗介の屠

 中尊寺供養願文のことを知った。藤原清衡の誓い。彼が作った鐘楼とその大鐘に託した願文。そのなかの次の一節「官軍夷虜の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介の屠を受くるもの、過現無量なり。精魂は皆他方の界に去り、朽骨は猶此土の塵と為る。鐘声の地を動かす毎に、冤霊をして浄刹に導かしめん」。

2011年6月29日水曜日

ホトトギスとコミュニティ

 賀茂へまゐる道に、「田植う」とて、女の、新しき折敷のやうなるものを笠に着て、いと多う立ちて、歌を唄ふ。折れ伏すやうに、また何ごとするとも見えで、うしろざまにゆく。「いかなるにかあらむ。をかし」と見ゆるほどに、郭公をいとなめう唄ふを聞くにぞ心憂き。「郭公、おれ、かやつよ。おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」と唄ふを聞くも、いかなる人か、「いたくな鳴きそ」とは言ひけむ。仲忠が童生ひ言ひおとす人と、「郭公、鶯に劣る」と言ふ人こそ、いとつらう憎けれ。     (二一〇段)




 八月晦、「太秦に詣づ」とて見れば、穂に出でたる田を、人いと多く見騒ぐは、稲刈るなりけり。「早苗取りしかいつのまに」、まことに先つ頃、「賀茂へ詣づ」とて見しが、あはれにもなりにけるかな。これは男どもの、いと赤き稲の、本ぞ青きを持たりて刈る。何にかあらむして、本を切るさまぞ、やすげに、せまほしげに見ゆるや。いかでさすらむ。穂をうち敷きて、並みをるもをかし。廬のさまなど。 (二一一段)



 朝、そして午後、自宅に居るときに、よく郭公の鳴くのを聞く。同じ郭公だと、私は鳴き声で見当をつけているのだが、その姿を見たことはない。清少納言も郭公が好きだったということが「枕草子」でよくわかる。また、この郭公が農事、田植えと密接な縁を持っていたこともわかる。平安女房は田植えの早乙女たちの作業をよくしらないというふうに書いているが、そんなことはあるまい。清少納言の面白いのは、田植えの女性たちが、郭公に向かって「おまえが鳴くから私は田植えをしなければならないのだ」という唄、労働歌だろう、それをちゃんと採集しているところだ。それを郭公好きの自分としては郭公を悪くいうようで嫌いだと書いている。鶯よりも好きだったのだ。田植えから稲刈りまで、彼女はきちっと観ていたのだ、知っていたのだ。「あはれにもなりにけるかな」という感慨は身にしみるものだ。彼女を「をかし」などとは誰言ひけむ。



 6月25日、真柄希里穂さんがコーディネイトしている研究会に出た。空閑(くが)睦子さんの博士論文の発表会。その論文のタイトルは「変化する価値観におけるコミュニティ創生の研究 ―グローカルな次元でみんながつながる、ウエルビーイングを求めてのコミュニケーション・コミュニティの発想―」。空閑睦子さんは「実践:田舎の探し方」(ダイヤモンド社)をはじめ、いわゆる田舎探しの本などを書いている。震災後ということもあって、コミュティの問題はこれからいっそう切実な問題として考えなければならなくなるだろう。とても刺激的で参考になる発表だった。彼女はこれで博士号を取得したということだった。その助言者(スーパーバイザー)として、中山和久さんという民俗(族)学、社会学の先生が来られていた。発表の後のまとめや、その後の懇談会での話が印象的だった。ぼくよりもちろんお若いが、今のテーマは「巡礼」ということ。お遍路の話などを聴いた。「日本における巡礼景観の構成原理」というお勤めの大学の紀要に書かれた論文の別刷を頂戴した。夏休みの読書の一冊として、楽しみにしている。真柄さんは日本福祉教育専門学校、精神保健福祉養成学科の教員であり、阪大の院生でもある。そして高校のときの私の教え子でもある。

2011年6月23日木曜日

エメ・セゼール「帰郷ノート」を読む1

「私が、私だけが、最後の津波の最後の波の最終列車の座席を差し押さえるのだ」(エメ・セゼール「帰郷ノート」ノート1)こういう詩行を発見すると、そこで立ち止まらざるをえなくなる。植民地主義という「津波」と自然のそれ。

2011年6月20日月曜日

親友交歓

 昨晩(6月19日)はフランスから一時帰国している中村夫妻と三軒はしごする。まず待ち合わせ場所の吉祥寺公園寄り伊勢屋で三時間近く飲み、それから西荻に移動し、教え子の「ソーヤー・カフェ」でラム酒。その後西荻で見つけた「新保」という飲み屋にゆく。そこで奇遇とも言うべき出会いあり。それは中村夫妻の知人だった。店が満員だったので、僕たちは隠れ部屋というか、屋根裏部屋のような所に通され、そこに「みやこうせい」という知る人ぞ知る(いや有名な人なのだが、ぼくは始めて知った)写真家でエッセイストの人がいたのである。みやさんと、その友だちの浅沼さん。みやさんはぼくより十歳ぐらい上だが、そうは見えない、若々しさに溢れたひとだった。ご両人とも岩手出身の人。菜穂さんもそうだ。盛岡。楽しい日だった。中村君、菜穂さん、ありがとう。




中村君は西荻の音羽館を知っていた。彼が本を買いたいというので、一緒に行く。店主のHさんとも久しぶりに会う。そこにあった「現代思想」06年・2月臨時増刊「フランス暴動」を中村君はあがない、ぼくに贈ってくれた。彼が訳したグリッサンとシャモワゾーの「遠くから」がある。ぼくは中村君に奨められてグリッサンの「関係の詩学」を買う。昔の高校時代の教え子の刺激的な話を聴きながら、彼、中村隆之が単著でグリッサン論を刊行する日も遠くはないなと思った。



今日、山の上の学校で、生徒たちに話す。ぼくの教え子はね、自慢できるすばらしい人間ばかりなんだ。だから、きみたちも必ずそうなるよ、自信を持ちなさいね。

2011年6月19日日曜日

Forget your sorrows and dance!

父の日、桜桃忌、仏滅、なにか三題噺のようだと、ツイッターで清水さんが書いておられた。

天候もぱっとしない。これから晴れてくるのだろうか。
昨晩は、息子夫婦から父の日のプレゼントとして、最近私が凝っていると知っているのだろう、Bob Marleyの"LIVE FOREVER"(1980年9月23日、ピッツバーグでのライブの収録)という二枚組のCDと"after Bob Marley"というDVDを貰った。今聴いている。知らない曲もあるからうれしい。

Forget your sorrows and dance!
Forget your troubles and dance!
Forget your sickness and dance!
Forgete your weakness and dance!

http://www.youtube.com/watch?v=F5kAxuye5xY&feature=fvwrel

2011年6月9日木曜日

I shot the sheriff

 最近はBob Marleyばかり聴いている。遅れてきたラスタマンを自認している。髪があれば、ドレッドヘヤーにする、絶対にする。70年代から80年代にかけて、今聴いても面白い、クラッシックではないポップスのジャンルですごい音楽が一杯あったのに、おれはそのころ何をしていたのだろう、と思う。くだらない文学などにつきまとわれ、さえない頭で酒の勢いにまかせてくだらない詩を書いていたのだと思うと、情けない。もっとそのころ同じ世代のすてきなミュージシャンたちの歌や詞を浴びるように聴いておくべきだったと思う。たとえばBob Marleyもそうだ。You Tubeの再生リストに入れた彼の曲を聴きながら書いているのだが、No woman no cryが今鳴っている。歌に反して、泣きたくなる。この歌の発表の時点での、挫折の歌だが、比べるものがないほどリアルでそれゆえ切ない希望の輝きがあふれている。
 "I shot the sheriff "はエリック・クラプトンがカヴァーして大ヒットさせ、レゲエという音楽を世界中に知らしめるきっかけを作った曲らしいが、なるほどクラプトンの演奏はこれ以上ない最高のもので、彼のハイドパークでのライブをYou Tubeで視聴できるが、まさに鳥肌モノである。しかし、どうだろう、クラプトンの重装備に比べると貧弱きわまりない本家Wailersの演奏は、陳腐な言い方だが、魂が叫んでいる、そのぎりぎりの叫びである点で、私はクラプトンに勝るとも劣らない演奏だと思う。両者とも素晴らしいと言えばそれでもいい。

2011年6月1日水曜日

連句雑俎

七部集輪読の日(5月28日・土)

 ぼくの発表。「猿蓑」の第一歌仙「鳶の羽」を読む。岩田氏は所用あって欠席。林氏とぼくのみ。いつもの会議室がとれなかったので、2階の和室。その半分は仕切ってあって、囲碁クラブのような集まりが使用している。碁石の音が気になったけど、次第に歌仙に集中していった。この巻は去来、凡兆、史邦、芭蕉先生の四名での興行。表六句を書いてみよう。

鳶の羽も刷ぬはつしぐれ      去来
一ふき風の木の葉しづまる     芭蕉
股引の朝からぬるゝ川こえて    凡兆
たぬきをゝどす篠張の弓      史邦
まいら戸に蔦這ひかゝる宵の月   芭蕉
人にもくれず名物の梨       去来

このはじまりはやはり今までの歌仙(「冬の日」などの)とは違っている感じがする。去来の発句は芭蕉の、この集の巻頭句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」を受けている。発句の味わいは蕪村晩年の「鳶」図にきわまると安東次男は述べている(「芭蕉七部集評釈」)。「濡れに立ち向かう者の身を引き締めた風姿」を蕪村の絵は伝えて余すところがないという。その絵を背景に安東は去来のこの句を読む。発句の読みの姿勢が定まると、全体の読みも調整されるというのがぼくの経験だ。安東のおかげで蕪村の絵のイメージがこの歌仙のガイドとなった。格調の高さ、「さび」や「かるみ」、門外漢にははっきりと分からないながらも、ああこういうところだろうなという感触。なかでもいいなと思った句がある、それは去来の「火ともしに暮れば登る峰の寺」という長句など。この句が心に残っていた。

柳田國男は繰り返し俳諧の魅力について書いている。自分でも折口信夫などと一座して歌仙をいくつか巻いているのは有名である。彼が英国にいたころ(たぶん、国際連盟の委員としての仕事であろう)の話。
「大震災の時にはロンドンにいたが、家郷の音信を待つ間、その愁ひを忘れるために、西馬校本の七部集を携えて北の海岸を巡歴し、車中であの付合の大部分を暗記して来たのが、今でもまだ切れ切れに、寝らぬ夜の楽しみに残っている」(『俳諧と俳諧観』)と昭和24年ごろに書いている。3・11を経験した現在に照らして含蓄があって忘れがたい一節だ。

もう一つ『七部集の話』では次のように書いている。
俳諧、芭蕉についての本が「この頃」(昭和・戦後)までにあまりなかったということを述べたあとに、
「私などの場合をいふならば、明治32の末にホトトギス発行所から、俳諧三佳書といふ小形本が出たのを早速買い求めて猿蓑だけを読んだ。子規氏の解釈は主として発句をほめていたが、私などの楽しいと思ったのはやはり連句の方であって、たとへば、
  火ともしに暮れば登る峯の寺
とか、又は、
  茴香の実を吹落す夕嵐
とかいふやうな付句を、間もなく暗記してしまふほど吟誦したものであった。しかしこれがただ七部集といふものの一篇であることを知るだけで、…(中略)…十何年もしてから始めて西馬の標注七部集といふ二冊本を手に入れた。…(略)人を馬鹿にしたやうな、わかりきったことしか註釈して無いといふつまらぬ本だったが、それでも縁が有って今に持ち伝へているのみでなく、私はこれを携へて二年余り、西洋の諸国をあるきまはり、あの大震災直後の愁ひ多き数週間を、これにかじりついて暮らしていたこともおぼえて居る。今となっては棄てることのできない記念の書である。」

ここでも大震災のときに、七部集にかじりついて我が身を支えたというようなことが述べられているのが興味深い。これを引用したのが、柳田がまず覚えた付け句が去来の「火ともしに」であったこと、それが私の好きな句であること、その同一を「記念」せんがためでもある。どうでもいいことだが。ちなみに「茴香の実を吹落す夕嵐」も去来の付け句で、これは三名(去来・凡兆・芭蕉)の巻いた「猿蓑」第二歌仙「市中は物のにほひや夏の月」にある句。

柳田の先程の『俳諧と俳諧観』は寺田寅彦に捧げたオマージュのような文章だが、ぼくはこの文章ではじめて寺田が並々ならぬ俳諧・連句の鑑賞・批評家であり、また実作者であることを知った。「寺田寅彦随筆集 第三巻」(岩波文庫)を早速求めて所収の「連句雑俎」を読んだ。その面白さは最近のわが「愁ひ」を払うほどのものだった。連句俳諧を「寺田さんはあたり構はずに、これは西洋に無いから、日本独特だから大いに復興させようと言はれるのである。それを私は知らないばかりに、正面に立って拍手を送らなかったのが残念でたまらない」と柳田は書いている。寺田の、連句と音楽との対比には目から鱗が落ちる思いがした。寺田の「連句雑俎」の「一連句の独自性」の章から、

「…南洋中の島では一年じゅうがほとんど同じ季節であり、春夏秋冬はただの言葉である。ここでは俳諧はありえない。またたとえばドイツやイギリスにはほんとうの「夏」が欠如している。そしてモンスーンのないかの血にはほんとうの「春風」「秋風」がなく、またかの地には「野分」がなく「五月雨」がなく「しぐれ」がなく、「柿紅葉」がなく「霜柱」もない。しかし大陸と大洋との気象活動中心の境界線にまたがる日本では、どうかすると一日の中に夏と冬とがひっくり返るようなことさえある。その上に大地震があり大火事がある。無常迅速は実にわが国風土の特徴であるように私には思われる。」と書き、このことを知るには俳諧連句を読むに如かずという。
「試みに「鳶の羽」の巻をひもといてみる。鳶はひとしきり時雨に悩むがやがて風収まって羽づくろいをする。その姿を哀れと見るのは、すなわち日本人の日常生活のあわれを一羽の鳥に投影してしばらくそれを客観する、そこに始めて俳諧が生まれるのである。旅には渡渉する川が横たわり、住には小獣の迫害がある。そうして梨を作り、墨絵を書きなぐり、めりやすを着用し、午の貝をぶうぶうと鳴らし、茣蓙に寝ね、芙蓉の散るを賞し、そうして水前寺の吸い物をすするのである。このようにして一連句は日本人の過去、現在、未来の生きた生活の忠実なる活動写真であり、また最も優秀なるモンタージュ映画となるのである」(昭和6年3月 渋柿)

寺田寅彦の連句論について書いてみたいと思っている。

2011年5月22日日曜日

A toast to Mr Barenboim.

A toast to Mr Barenboim

ダニエル・バレンボイムがボランティアのオーケストラを率いて、最近ガザでパレスチナの人たちのために演奏会を開いたということを藤永 茂先生のブログで知った。本当に、このブログの知的なレベル、その情熱の深さ、凄さははかり知れないもので、いつも勉強になる。オバマの最近の声明でパレスチナ国家の樹立とか、イスラエルの侵入の後退などが保証されるだろうか?歴代のアメリカ大統領の避けてきたこと、ユダヤロビーストとの対立までオバマが進んだかどうかはわからないが、この演説はそれなりの影響をこれから及ぼすものだと思う。しかしこれでパレスチナ問題、イスラエル問題が解決することは、やはり簡単ではない。この対立の根にあるものを我々が理解するには、政治や「国」というような考えから退却する、あえて言うのだが退く必要があるように思う。バレンボイムはイスラエルの新聞のインタビューに次のように答えている。

And from Israel? (イスラエルからは何を期待しますか?ban注)

I don’t know how well informed they are. I, for example, was not aware of the 12 universities. I did not know that there is such a thirst for knowledge. So maybe this will bring some people in Israel to think that this is a people worth having a dialogue with. Again, I’m speaking on the civil level and not the political level. I was not on a political mission and therefore I do not expect any political results. (なんとガザには12もの大学があるのだ、そのことにバレンボイムは驚きと期待を寄せている。)
The Palestinians have a right to a state of their own and to self-determination. We have to [allow] them to understand that we realize that our conflict is not a political conflict between two nations, which fight about borders or water, but it is a conflict between two peoples, which are convinced that they have a right to live in the same small piece of earth. Our destinies are inextricably linked.

I told the Palestinians in Gaza that I believe that the ambition of the Palestinian people to have the right to self-determination and an independent state is a very just cause. But in order for the just cause to be realized, it must avoid any kind of violence. Because the use of violence for the just cause only weakens it.

本当に"but it is a conflict between two peoples, which are convinced that they have a right to live in the same small piece of earth. Our destinies are inextricably linked. "ということを思う。

藤永先生は次のように書いている。
―インタービューの中で、バレンボイムが最も驚かされたのは、大きな野外監獄といわれるカザ地区に12もの大学が運営されていて,150万の人口の85%は30歳以下の若さであり、ガザは知識欲に燃える若者たちで溢れていた事だとバレンボイムは言っています。 ドイツに住み、昔からパレスチナの事に強い関心を持っているバレンボイムでさえ、この事実を知らなかったのですから、今の仰々しいマスコミが私たちに与えている情報が如何に偏向したものであるかが分かります。バレンボイムはこの若者たちにこそパレスチナの未来があると考えます。「いまから10年たてば、この、極めて豊かな知識を持ち高い教養を身につけた世代が多数派になる」と…(略)。
 私たちもガザのこと、パレスチナ人たちのことをもっと良く知らなければなりません。今回の大震災慰問の使者としてズービン・メータの訪日があれだけ盛んに報道され、感謝された一方で、バレンボイムのガザでの演奏会のニュースが事実上無視される理由にも思いを致さなければなりません。―

こういう状況がオバマの今回の演説で少し変化すればいいのだが。

もう一つ、藤永先生のブログから引用する。本当はこれだけを伝えたかったのかもしれない。以下の私はもちろん藤永先生、

― バレンボイムにも私はずっと以前から好意を持っていますが、バレンボイムとサイードの共著『Parallels and Paradoxes』(Vantage, 2004)を読んでなおさら二人が好きになりました。おまけに、「追悼:エドワード・サイード」と題するバレンボイムの文章が付いていて、これが何と2003年10月29日に私の住む福岡で書かれているのです。丁度、福岡でバレンボイムの率いるシカゴ交響楽団の演奏が夕方7時から行なわれた日でした。4頁の文章ですが、これだけでもこの本の値段(約千円)の半分の値打ちはあります。
 それによると、サイードの死の三ヶ月前、彼の要請でバレンボイムはバッハの平均率クラヴィア曲集から第1巻第8番の変ホ短調前奏曲をニューヨークのサイードの自宅で弾きました。サイード自身、プロ並みにピアノが弾け、グレン・グールドの熱烈なファンであったそうです。彼の忌日9月25日はグールドの誕生の日です。ここ数日、この変ホ短調前奏曲をグールド、リヒテル、アンドラス・シッフ、フリードリッヒ・グルダの演奏で繰り返し聴いています。リヒテルに最も惹かれますが、グールドから聞こえてくるのがピュアなバッハかも、と思う瞬間もあります。私のような者が、平均率曲集の中の曲の品定めをしても意味はありませが、この変ホ短調前奏曲はとりわけ胸の奥までしみわたる音楽です。福岡でこの文章を書いたバレンボイムの胸の中でもこの音楽が鎮魂の曲として鳴っていたに違いありません。―

というわけで、影響を受けやすい私は先ほどから、シフの「平均率クラヴィーア曲集」のcdの8番のプレリュードとフーガの両方とも何回も聴いているのである。すばらしい夜。
まさに「胸の奥までしみわたる音楽」。

2011年5月20日金曜日

家常茶飯

何週間ぶりかに、歩いた。
欅の緑の濃さに驚く。

源氏物語を読む幸せ。何も読めなかったけど、古典は、とくに源氏は少しだが読める。
鷗外訳ゲーテのファウストを読みたいと思ったが、家にはない。そのかわり、リルケの戯曲、これは鷗外が付けたタイトルだが「家常茶飯」を読む。見捨てられた日常の光り。これを当時は、因習破壊の過激なものとして読んだというから驚く。おそらく日本で最初のリルケの紹介だろう。

クレマチスの濃紺に
わが血の色と来歴が
一挙に変換する朝

 
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2011年5月18日水曜日

五月の「誤読」-倉田良成『小倉風体抄』の読みについて

―「誤読」のないことろに「文学」はない。「詩」はない。(詩はどこにあるか・谷内修三の読書日記)―と谷内修三は倉田良成の『小倉風体抄』の感想文を結ぶ。書いている当人が推奨する「誤読」を実践して行けば、こういう感想にしかならないという代物に陥ってしまってはいないか。「誤読」以前の誤解や、丁寧な読み(ここに収録されている谷内の膨大な詩集評のなかには、丁寧で深切なものも一杯ある)に欠けた断言が多すぎるというのが私の谷内評を読んでの感想である。

―倉田のこの詩集は「百人一首」と向き合わせる形で作品が書かれているが、何も向き合っていない。ことばが向き合っていない。倉田のことばが百人一首のことばを批評していない。「誤読」してない。
 たとえば「めぐり逢ひて」。紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれとも分ぬまに雲がくれにし夜半の月影」を題材にしている。その内容は、恋愛とは無関係のことである。
 昔の友だちと久々に会った。(めぐり会った、という題材が使われている。)その友だちは、実は病院に入院するために「わたし」の街にやってきて、そこで「わたし」と会っただけなのだ。―

という谷内の批評から、彼の読みの「誤解」(「誤読」以前の)を指摘してみよう。①「百人一首」と向き合わせる形で書かれているが、何も向き合っていない。ことばが向き合っていない、これはどういうことだろうか?②「百人一首」のことばを批評してない、「誤読」してないとはどういうことだろうか?これについて谷内は―「文学とは、特に文学を題材とした文学とは「誤読」でなくてはならない。…あることば--それを強引にねじ曲げ、原典のことばではたどりつけないところへ行かなければならない。そして、そこには「祈り」が入っていないといけない。倉田の作品には、そういう「誤読」がない。ただ、百人一首と重ならないだけなのだ。これでは、なぜ百人一首を題材に選んだのか、さっぱりわからない。」―と理由らしきことを述べているが、これは単に評者の「文学観」めいたものの披瀝にすぎない、従ってこの当為めいたもの言いが倉田の詩集を批評しているということにはならない。①に戻って、そもそもこの詩集は「百人一首」と向き合っているのではなく、百人一首中の35首の歌をエピグラフに配した35篇の散文詩の集まりである、というのが正しい。そこから読解は始まるべきだ。「百人一首」というようなものはない、それぞれの「歌」があるだけだ。倉田は別に彼が私淑する安東次男の「百首通見」をもくろんだのではない。彼がことさら「誤読」するまでもなく、その肉体にまで染みこんだこれらの35歌をいかに縦横無尽に、彼の「青春」の「体験」などと向かい合わせているか、その飛躍の妙に私は引きつけられる。

たとえば、ここで谷内が引用している紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かげ」をエピグラフにした「めぐり逢ひて」という作品について考えてみよう。谷内は倉田のこれらの作品が「ストーリーに従事しているから」面白くないという。もう少し遠回りして、谷内の「ストーリー」観をながめてみよう。


ストーリーといっても「現代詩訳」ではないから、そのストーリーは百人一首のストーリーではない。むしろ、倉田は元歌のストーリーからは離れてみせる。つまり、まったく(違うという意味だろうが、ママ・水島註)ストーリーをぶつけ、百人一首から離れる。百人一首から離れるために、百人一首が書いていないストーリーをぶつける。
 そこに、なんともいえない「退屈」が入り込んでくる。
 ストーリーから離れるのに、別のストーリーに頼る--というのでは、詩は生まれない。いや、どんな文学も生まれないのではないか。―

これは無体な批評というものだ。彼は「百人一首」の「現代詩訳」が欲しいのだろうか?そんなもの私は読みたくもない。「元歌のストーリー」とは何か? 「歌」にどういう「ストーリー」があるというのか?「歌」と「ストーリー」は截然と異なるものではないか。その歌の成立事情などを書いた「詞書」ということなのだろうか。ここでこの詩の批評に戻ろう。谷内は次のように書く。前の引用とダブルところもあるが、

― 紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれとも分ぬまに雲がくれにし夜半の月影」を題材にしている。その内容は、恋愛とは無関係のことである。
 昔の友だちと久々に会った。(めぐり会った、という題材が使われている。)その友だちは、実は病院に入院するために「わたし」の街にやってきて、そこで「わたし」と会っただけなのだ。その最後の部分。


入院なら毎日おみまいにゆくよと言ったら、来ないでほしいからこうして会いに来た。お願い、そこに来るなんてことかんがえないで。もうあたし、誰にも会うことのないところへ行くの。とささやいたあの夜の声を、わたしはけっして忘れない。


 「雲隠れ」は「死」に置き換えられている。「雲隠れ」の「隠れる」は「死」をさすことばとしても使われることがあるから、ここにはどんな「批評」もない。どんな批評もせずに、「隠れる」を借りてきて、「死」と言い換えているにすぎない。
 これだけのことを書くなら、紫式部の歌を作品の冒頭に掲げることなど、必要ないだろう。だれも、この倉田の作品を読んで、これは紫式部の歌と関係があるとは思わないだろう。だれも何も思わなかったら、それは紫式部の歌を利用して新しい作品を書いたということにはならないのだ。
 文学を材料にして文学を生み出すには、原典と強い関係がなくてはならない。
 強いつながりがあって、そのつながりが強いからこそ、そのことばを振り切るようにして新しいことばが、新しい運動をしなければならない。―

谷内の誤読ではない誤解をいくつか指摘してみよう。「その内容は恋愛とは無関係のことである」というのは、式部のこの切ない「友情」の歌が「恋愛」と「誤読」されていないということへの不満から来る言及か。可笑しいと思うのは、その次の「雲隠れ」云々のところ。どうでもいいことだが、「雲隠れ」は「死に置き換えられている」とは何を言いたいのか?そして「隠れる」は「死」をさすことばだからどんな「批評」もない、とは?。まったく見当ちがいの「誤読」としか言いようがない。語のレベルでの批評の対応が「原典」とそれによった「作品」との間で求められているということなのか。(誤解のないように言っておけば、式部の歌での「雲隠れ」は立ち去った、消えたという意味だ。それが貴人の死を意味することもある。倉田はそんなことは先刻承知のことだ。)

「これだけのことを書くなら、紫式部の歌を作品の冒頭に掲げることなど、必要ないだろう。だれも、この倉田の作品を読んで、これは紫式部の歌と関係があるとは思わないだろう。だれも何も思わなかったら、それは紫式部の歌を利用して新しい作品を書いたということにはならないのだ。」

どうしてこういうもの言いが成立するのか、ほとほと首をかしげざるを得ない。これは言いがかりであって、谷内自身の論理で言えば、むしろ「だれも…思わない」というところにこそ、彼の推奨する「誤読」のラディカルさはあるのではないかとも思うほどだ。私は次のように思う。これは谷内の言うような事態ではない、つまり文学の「原典」などというカノンがあり、それに対して抵抗しなければ「文学」ではないなどという範疇の問題ではない。そういう「体勢」に無意識かもしれないが読みを導いてはならないと私は思う。
式部の歌と「ストーリー」としての散文は相互に照らし合っている。倉田の言葉を使えば彼の詩と「歌」の―秘かに符合する「切所」― 、それを読者としても発見する歓び、その歓びを、切ない「現代」の「青春」の「回想」の数々に古歌の「風体」を合わせることから生み出そうとした、そこにこの詩集の新しさがある。古歌に引きずられてではなく、古歌の新しい「風体」を今ここで私たちは倉田の「ストーリー」と一緒に発見するのである。

2011年5月6日金曜日

a soldier of ideas

「ものを考える一兵卒」というのは"a soldier of ideas"の藤永先生の訳だが、これは確か今年カストロがすべての役職から身を引いたときの言葉ではなかったか。それを藤永先生が英語で訳して紹介したのだと思うけど、そうでなくてもとてもいい言葉で、またいい訳だと思う。

政治家ではないが藤永先生もそうだし、カストロもそうだし、藤永先生がそのブログで教えてくれた今はなき70年代のカナダの首相、Pierre Trudeauもそう呼ばれていい人々だ。彼らは自分の仕事を懸命にし、その道や、社会や、人々のために尽くし(人々を不幸にするのではなく)、引退してからは功名を思わず、陰険な権力を使うことはしない。そういう人しか"a soldier of ideas"にはなれないのだ、というのが正しい。平岡敏夫先生もそのなかの一人として数えることができる。日本近代文学の幅広い研究に尽くされ、今は詩も書く。平岡先生の書くものから、私は一度もその道の「権威」としての重苦しさや抑圧を感じたことがない。いつでも初々しく、感情と知性のバランスがとれ、しかも現状に甘んじることはない。まさに"a soldier of ideas"だ。

2011年4月27日水曜日

My Favorite Things

My Favorite Things

pasta and udon on table for lunch
when get yelled at for asking it
standing between Dad and Mom
licking cleanly a plate with cream
after Mom ate strawberries

always calling for feed on my kind parents
They would gladly do like a servant
fresh water, flesh of freshly fish
crisp sand for my peeing

lying on my back in winter warm room
purring is all that I can do in return
stinging beard and soft chest
the blue of clematis outside of window

Is this the way one lives and dies?
watching over their delights and sorrows
the whole thing my loved ones do
from the transparent sky

父と母との間で背伸びして食べるうどん、パスタ、そーめん、らーめん
小さな手を出しては父に叱られる
母が苺を食べた後の
練乳の残った皿をピカピカになるまで嘗めること

決まって、朝と夜、優しい父と母を呼ぶこと、
そのとき彼らは私の召使い
水と食事を私に用意し
私のバスルームを掃除する

冬の日に、暖かい部屋でおなかを上にして寝ること
父と母の愛撫に喉を鳴らして応えてやること
痛いひげと柔らかな胸
窓から眺めるクレマチスの緑

こうして私は生き
こうして私は去る
でも、空の上から眺めている
彼らの歓び、悲しみ、彼らのすべてを

2011年4月25日月曜日

In memory of our cat called"Atom."


In memory of our cat called"Atom."

Some two inches from my nose
The frontier of our family lies motionless
Breathless, once that blows you like blazes.
Yet he beckons you to fondle himself,
Beware of rudely crossing it:
He has no gun, but he can scratch on your heart.

(note)
Atom is dead today. He was 21 years old.
There are some quotations in this poem. But I don't specify it.

2011年4月24日日曜日

Climb Every Mountain

16日、娘夫婦を心配して、こんな苦難の時に来日してくれたDonとDoloresを囲んでささやかなパーティを我が家で開く。二人は21日にテキサスに帰る。




21日、国立市公民館の古典講座「源氏物語の世界」(各月1回で全5回シリーズ)始まる。30名余りの受講者。終わった後、呼び止められる。非常勤で行っている高校の卒業生で、今上智大独文の3年生だというKさん。市の広報で見て(木曜日は大学の講義のない日だったし、先生の名前を見て懐かしかったから)受講者として申し込んだら当選したという。
びっくりしつつもうれしかった。この講座の前に、「奥の細道」を2年がかりで読みあげたが、そのときの受講者の男性陣も5名ほどいたので心強い。

23日、大佑(東高の卒業生)の結婚式。長駆、那須塩原まで、と書きたいのだが、新幹線で1時間余り、八王子から乗り換えなどを含めて3時間足らずで到着した。沛然たる雨。
塩原駅に待機していた送迎用のバスに40分ほど乗り那須高原のセント・ミッシエル教会という式場に着く。主イエスの前での結婚式である。そのあと披露宴は、降り止まぬ雨の中会場のミッシエルガーデンコートというイギリスのマナーハウスを模した館へバスで15分ほどの移動。雨のために視界は全然きかない。披露宴での大佑の挨拶に「下野の国、一宮の二荒山神社の龍神を招いたような雨で…」といような即妙の言葉があった。荒れ狂うかに見える龍神の神慮はすべてを癒し豊年を予告するものに他ならない。研ぎすまされた鋼鉄のような肉体を真っ白の礼服に包んだ現職の自衛隊員、終始笑みを絶やさぬ31歳の大佑を見つつ、そこに龍神の化身を感じたのは酔いのせいだったろうか。この男は式が終わればまた、被災地の支援に赴くのである。



知性高く美貌をも兼ねそなえた新婦については、大佑の高校時代の友人たち、中村哲也、佐久間隆介、豊田秀秋などの、「あいつにこんな美人が、ラッキーなやつだ、…」という言葉にならぬため息交じりの羨望の様がすべてを語って余りあるものだ。

隆介は余興で斉藤和義の二曲を玄人のような素晴らしいギターの弾き語りで歌ってくれた。彼はこの演奏のためにノンアルコールビールで控えていたから、式が終わって塩原駅前のいかにも田舎の定食屋という風情の店で二人で地酒の熱燗を傾けていろいろ語り合ったのも深く思い出に残ることになった。

 
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私は挨拶で、大佑が高校1年の時の文化祭でミュージカルsound of musicのトラップ大佐を演じたことなどを紹介し、彼の人となりについて、苦労をいとわぬ、そして悩む力を持った人間であるとまとめたが、思うことの半分も言えなかったような気がする。よせばいいのに、これこそがsound of musicのテーマソングだと私が思う次の曲の詩を朗読した。この二人のこれからの「生」にふさわしいと思ったからだ。

Climb Every Mountain

Climb every mountain
Search high and low
Follow every byway
Every path you know

Climb every mountain
Ford every stream
Follow every rainbow
Till you find your dream

A dream that will need
All the love you can give
Everyday of your life 
For as long as you live

Climb every mountain
Ford every stream 
Follow every rainbow
Till you find your dream


すべての山に登りなさい
高い所も低い所も探しなさい
知っているすべての脇道や
あらゆる小道をたどりなさい

すべての山に登りなさい
すべての流れを渡り
すべての虹を追いかけなさい
あなたの夢を見つけるまで

その夢をかなえるには
あなたの愛すべてが必要だから
来る日も来る日も与え続けなさい
あなたの命がある限り

すべての山に登りなさい
すべての流れを渡り
すべての虹を追いかけなさい
あなたの夢を見つけるまで

(以上、イースターの日に記す)

2011年4月14日木曜日

柳田國男の発言

朝日新聞に「社説余滴」というコラムがある。今日は駒野剛という人が書いているが、それを読んで溜飲が下がる思いがした。我が都知事、石原慎太郎批判である。批判と言うよりは揶揄か。私は彼のことをを「我欲の人」と呼ぶことにしているから、以下そう書く。

さて、このコラムの内容を適宜引用もまぜながら紹介してみよう。
「己の気分を天や神に仮託する政治家」として駒野は「我欲の人」と前大阪府議会議長の発言、もちろん3.11の大震災へのそれを取りあげている。前者の「天罰」、後者の「天の恵み」。後者は橋下が構想する府庁舎移転先が地震で少し壊れた故に、反橋下である自分にとって「惠」だというような意味での発言だったと弁解したらしい。これは取りあげるに値しない。しかし「我欲の人」は4選を果たし、後者の前議長は可哀想に落選した。これも「天意か、はたまた天の配剤か」と駒野は書いている。私がこのコラムで注目したのは、天変地異などに遭遇したときに「天罰」などの、所謂「天譴」説発言は昔からあり、そのことを痛烈に批判した柳田國男の発言が紹介されていたからである。関東大震災のとき、柳田はロンドンにいたのだが、デンマークで開かれた万国議員会議に列席した日本の代議士たちがロンドンに立ち寄った。そして林大使宅に集まり「悲しみと愁いの会話を交えている」時のことだった。ある年長の議員が「もっも沈痛なる口調をもって、こういうことを言った。これは全く神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流れていたからだと言った」と、柳田は書いている。(これらは柳田全集25巻所収の「青年と学問」の「南島研究の現状」という節から、仮名遣い漢字などを適宜変えて私が引用していることを註記しておく)。これを読むと、この長老議員の「もっも沈痛なる口調」と「我欲の人」のそれとは大いに異なるが、発言の主旨はほぼ同様だ。さて、これに対して柳田はどう反論したか。このコラムに載せられていない部分も含めて引用しておく。
 
私はこれを聴いて、こういう大きな愁傷の中ではあったが、なお強硬なる抗議を提出せざるをえなかったのである。本所深川あたりの狭苦しい町裏に住んで、被服廠に逃げこんで一命を助かろうとした者の大部分は、むしろ平生から放縦な生活を為しえなかった人々ではないか。彼らが他の碌でもない市民に代わって、この残酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこにあるかと詰問した。


私は柳田の「他の碌でもない市民に代わって」という部分を「我欲の人」やその他の同類の政治家などに変更したいほどであるが、それはさておき、柳田の発言にはさすが「常民」の研究に一生を捧げた人の発言だと改めて感じ入ったのである。この発言を知っていれば、「我欲の人」の「天罰」発言をもっと根底から批判できたのにとも思った。駒野は最後に次のように書いている。

 さて都知事選結果を見ると「天の声」は、発言を忘れたか、大したことではないと判断したのだろう。それとも、まかり間違って共感したか?
 忘れたと言えば、新銀行東京や五輪招致騒動も、はや忘却の彼方か。そんなに忘れっぽいと、忘れたころにやってくるという「天」の動きにはひとたまりもあるまい。


いや、「天の声」は、この結果こそ「天罰」と正しく言ったのだと、私は思う。柳田のこの発言をネットで調べたところ、石原の発言にからませて最初に言及していたのは「琉球新報」社の4月8日付けのコラム「金口木舌」であった。これにも脱帽する。

2011年4月11日月曜日

One month since the quake

One month since the quake,

However many aftershocks still have been jolting Japan.
We welcome flowering of Sakura, having no resentments against the merciless circle of the seasons.

The poem that follows is one of the most famous in the Japanese canon.(in the Heian period)
"Is not the moon--
or the spring,
the spring of the past?
Alone I remain
my selfsame self."

Must I say I feel the same way?

2011年4月8日金曜日

「想像」臨時号から

昨晩は脳天気なことを日記に書いていたら、突然揺れ出した。前回のことがあるから、少しは余裕があったけど怖かった。東北沿岸の被災地の人々はやりきれないだろうと思う。水と電気がなんとか復旧したと思ったら、わずか2日ばかりで、また断水と停電、疲れ切った顔で話している人々をテレビ画面で見ている。原発の無事故を喧伝しているニュース。 鎌倉にお住まいの羽生康二さんは、いつもその個人誌「想像」を送って下さる。今日はその132号と臨時号の二冊が届いた。臨時号に「とうとう原発大事故が起きた」というタイトルで書いていらっしゃる。その終わりを引用しておく。

 

 1号機から4号機までの事故が報じられたとき、わたしは心配しおびえながらも、これで日本の原発はすべて廃止することになるだろう、と思った。日本中の人々が、原発のおそろしさを悟り、原発即時廃止という世論がわき上がるだろう、と思った。ところが、わたしの考えは甘かった。メディアには原発廃止の意見はほとんど見られず、世論も盛り上がる気配はない。電力確保のためには原発は必要だから安全対策をしっかりやってほしい、という声が大部分だ。
 日本がこのまま原発を運転しつづけたら、必ずまた大事故が起きる。こんどと同様に地震が引き金となる可能性が大きいが、人為的なミスによることも充分ありうる。もし浜岡原発が地震でこわれたら、関西も関東も放射能まみれになるだろう。福井県には十数機もの原発があり、高速増殖炉もんじゅもある。これらのどれかが事故を起こしたら?と考えるとおそろしい。
 「想像」を読み返してみると、1981年3月の12号から原発反対を主張してきた。1986年のチェルノブイリ原発事故以降は、JOCなど大きな事故があるたびに特集を組んで原発反対を訴えてきた。反原発運動の、高木仁三郎(原子力資料情報室)、山口幸夫(同)、小出裕章(京大原子炉実験所)、中嶌哲演(原発銀座・福井県小浜市の明通寺住職)などの方々に依頼して書いてもらった。「想像」で30年間原発反対を訴えてきたことが無駄だったとは思わないが、今は無力感でいっぱいだ。福島第一原発の大事故を機会に、日本中の人々が原発のおそろしさを悟ってほしいと願っている。(2011年3月29日)


羽生さんのように30年間の長きにわたり反原発を主張してこられた人の「今は無力感でいっぱいだ」という嘆きはこのうえもなく重い。他にもこのような嘆きを抱えている人は多いと思う。未来に向かって日本は(エネルギー政策を含めて)どのような選択をするかが問われている。その議論が次のような利益がらみのやり方で封殺されてはならないと思う。広河隆一氏のツイッターでの発言から。

広瀬隆と広河隆一を起用したとして、電事連(電力業界の宣伝をになう)が、上杉隆さんのやっているニュースターから広告を引き上げました。東電を批判したということで他のラジオ局からも引き上げたそうです。

2011年4月7日木曜日

パラピリプルペレポロ


 
 先々日、久しぶりの山の上の職場での打ち合わせ。研修会なるものあり。NHK放送研修センター日本語センターの講師で、もとNHKのアナウンサー花田和明氏のワークショップのような講演を3時間聴く。書き言葉に対して「音のことば」という観点から様々のことを教わる。国語教師として長年やってきたが、ほとんどは読解や小論文などの分野で、「音のことば」話し言葉の特性を理解して、生徒たちに考えさせたことはあまりなかった。60過ぎの手習い。

○「千葉の石山さん?滋賀の西山さん?」「岡山県?和歌山県?」ちゃんと言えますか?言えません。

○次は、「耳で聞いて一度でわかるようにはなしてください」という問題の一つ。ちゃんとできますか?
【あなたは出張先の静岡から教務主任の田中先生へ電話をしましたが、不在のため、電話に出た先生に伝言を頼みました】
「あすの11時から1時間ほど、静岡で打合せが入ったので、午後3時からの研修会には少し遅れるって、教務主任の田中先生に連絡しておいてください」

○「天気予報です」を一息で何回言えますか?というのは発声・発音の基本としてやらされたことの一つ。これは「息は声のエネルギー」という主旨での練習。「天気予報」は約1秒、小さな声や早口にならないよう、4~5m先に声を届けるつもりで、目標は15回、一回の息でです。退屈なときやってみてください。朗読などが好きな人は特に。

○パラピリプルペレポロ    マラミリムルメレモロの発声練習
唇を使う音と舌を使う音との練習。

話し方のポイントや情報の整理の仕方などを押さえてグループに別れて発表もした。久しぶりに何も考えずに楽しく声を出した時間であった。

2011年4月4日月曜日

さへの神のい添ひまもらさん岩手

正岡子規の明治三十四年(彼の死の一年前だが)の短歌、例の有名な「瓶にさす藤のはなぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」の連作がある年だ。次のような連作もある。前書き(詞書)を含めてすべて書き写す。


岩手の孝子なにがし母を車に載せ自ら引きて二百里の道を東京まで上り東京見物を母にさせけるとなん。事新聞に出でゝ今の美談となす。

たらちねの母の車をとりひかひ千里も行かん岩手の子あはれ
草枕旅行くきはみさへの神のい添ひ守らさん孝子の車
みちのくの岩手の孝子名もなけど名のある人に豈劣らめや
下り行く末の世にしてみちのくに孝の子ありと聞けばともしも
世の中のきたなき道はみちのくの岩手の関を越えずありきや
春雨はいたくなふりそみちのくの孝子の車引きがてぬかも
みちのくの岩手の孝子文に書き歌にもよみてよろづ代までに
世の中は悔いてかへらずたらちねのいのちの内に花も見るべく
うちひさす都の花をたらちねと二人い見ればたぬしきろかも
われひとり見てもたぬしき都べの桜の花を親と二人見つ


後の三首は子規自らの母への思いも(孝子になれず、かえって母と妹とに看護されるしかない病牀の人としての)潜めていよう。
三陸岩手を思っているとき、子規集をめくって「岩手の孝子」の歌を目にすることができたのも何かの縁だろう。明治29年の大津波、昭和8年のそれを思い、そして今回の激甚なる被害を見るとき、「いのち」の不条理な変転を思わずにはいられない。「子」としての、「親」としての「いのち」の。
「さへの神」は旅の安全を守る神であるとともに悪霊の侵入を防ぐ神でもあるという。子規の歌のように、被災地の人々の「いのち」の「旅」を、どうか「い添いまもらさん」ことを。

2011年3月31日木曜日

After 3.11

3月11日から20日経過した。3月はいろんな意味で「最も残酷な月」になってしまった。自然のすさまじい力と、結局は自然を破壊するしかない「原子の破壊の力」による二重の「災厄」に打ちのめされている。前者では全てを失ったが、希望だけはある。いや希望しかない、そう考えて生き抜く、「存在」していく。後者は、そもそもそれ自体が「自然」の破壊そのもののうちにしか築かれえない「文明」、そのもっとも悪魔的な側面の申し子のようなものだったのだ。これを「安全」と言いくるめてきた言説がどれほど非自然的なものなのかがよくわかったということだが、その代償はその言説によってはとうてい埋められない。永遠に続く「絶望」に他ならない。

自衛隊にいる教え子のことを考える。去年の終わり頃に、「先生、出てくれますか?」と電話があった。新婦の故郷の那須で結婚式を挙げるという。ぼくはすぐに「おめでとう、行くよ」と答えた。今年31歳になる。彼が高校一年のときに、担任した。思い出に残っていることは数々ある。一年の時の文化祭で、「Sound of music」の劇をクラスでやった。無理矢理、担任のぼくがやらせた。そのときトラップ大佐を彼がやった。町田から学校のある八王子まで自転車で通学する剛直な子だった。不器用だが、何事にも懸命に打ち込む子だった。さまざま悩むことにも懸命だった。鮮明に残っているのは、人がだれもしないようことをだれにも気付かれずに、しかも「自然に」することが特意だった。文化祭の膨大な後片付け、頭だけいいような子がさっといなくなる場面だが、彼は逃げた連中のことをとやかくいうわけでもなく、笑いながらいつでも最後まで残って片付けた。ハーハー言い、逃げた連中を呪いながら片付けをいやいやしている担任のぼくににこっと笑いながら。理科大に進学し、そしていろいろあって自衛隊に行った。しかも一兵卒の自衛隊員として、絶対に進級?などしない人間として、それだけは頑なにかれは生きている。なぜか?ぼくにはよくわからない。この前の電話、「先生、式やめようと思ったけど、みんながやってもいいというので4月23日、予定通りにやります、来てくれますか?」。「行くに決まっているよ」。彼は今、連日連夜被災地の復旧に働いている。大丈夫か?大丈夫です。

3・11の後の「言説」でぼくらの指針になったり、せめて勇気づけたりしたものはなにもなかったといっていい。この国のリーダー(政治家)からはじめて新聞(人)、大学(人)などのこれといった論説は無だったと言っていい。何があり、何がわかったか。名もない自衛隊員の一人、名もない消防隊員の一人、名もない警察官の一人、名もない東電の社員、その下請けの「作業員」の一人、そして津波によって流された当該自治体の生き残りの名もない公務員、それらを助ける名もないボランティアの一人、そしてそこに奇跡的に存在している名もない年寄り、中年、若者、少年少女、赤ちゃん、犬猫たち、それらすべてを思う名もない今回は被災も「被曝」もしなかった運のよかった(市・町・村)民たち、すべての努力と連帯しかないということだ。たがいに救助を真に組織しあえ、たがいの心に寄り添えるのはこういう人たちだけだということだ。

(最低の言説を挙げておく、許せない言説だ。

「天罰」石原慎太郎、「無常」山折哲雄。とくに後者にはがっかりした。日本人にはこういう考えがあって危機を脱してきたというが、震災直後の発言としてよくもこういう高みの見物のようなことが言えるものだとぼくは思った。石原の馬鹿さ加減はいうまでもない。「無常」について瀬戸内寂聴はもっとアクティブな考えを述べている。「変化」へのエネルギーというような考え。こっちの方が山折よりずっと寄り添える。)

2011年3月29日火曜日

なれとわれ




昨日は何十何回目の、はるけくも積み重ねたりしものよ、と言祝ぐしかない結婚記念日でした。これと言った感慨などあるわけはないのですが、よくも様々な天災・人災(これは私自身が引き起こしたものが過半)を越えて、気がつけば我ら二人と老猫のみの時間と空間をさびしく生きているのでした。お互いに顔を見つめて、などということはなく、ただこの長い年月をともに生きえた感謝の念を言わず語らず肝に銘じた一日でした。
… 夏草の道往く  なれとわれ
歳月は過ぎてののちに
ただ老の思に似たり

伊東静雄「なれとわれ」より

2011年3月27日日曜日

On the Beach

 ネビル・シュートの「渚にてOn the Beach」を再読してみた。50年代の「冷戦」の時期の作品だが、スパイとか、そういう話ではない。第三次大戦が勃発すべく勃発して、この地球上で4千7百個以上の水爆とコバルト爆弾が使用され、北半球は異常な放射能濃度の高さにより、そこに住む全ての住人、動物は死滅する。この物語の人物たちは南半球のオーストラリアのメルボルンで生き残っている市民たち、そしてこの地球の海に運航できる原子力潜水艦として唯一残っているアメリカのスコーピオン号(アメリカ合衆国のすべてはこの時点で絶滅しているので、オーストラリア軍下にあるのだが)の船長を含めた人物たちだけである。こういう設定ではじまるこの物語のポイントは、すべての登場人物たちが、主人公格だけではなく、巷の人々も自らの「滅びの日」をよく知っているということにある。あと三ヶ月すれば、9月には、ここメルボルンにも風によって高濃度の放射能が確実に襲来し、北半球でのようにすべてを(兎は放射能には強いというから、それを除いて)死滅させるのである。はじめは嘔吐、下痢、すこしの回復、その後の悶絶。それに抗して自らの尊厳を守るために、ほとんどの市民は自殺用の錠剤を所有している。そういうことが何ら過激でもない普通の叙述で最後まで語られる。恋がはじまりそうだが、そうはならない。デカダンスに陥ってもよさそうだが、決してそうはならない。

この物語を再読して、思うこと。登場人物たちの徹底的な受動性、言いかえれば世界は確実に滅びるのだという実感のリアリティ、それゆえ何を煩うことがあるのかという強さ(ただ、それだけなのだが、ヒューマニティの古風な信頼だと片付けることはできない、と私は思う、しかしそれはもちろん問題ではある)。そこから照らしてみるときに、現下の状況、とくに「原発」の災厄下における、欺瞞的な能動性、同じことだが、能動的な欺瞞性には疑問を持たざるをえない。隠蔽は全然必要ないということなのだ。君たち管理・統御するものより、われわれ市民の臨界は果てがない(その燃料棒は心中深く沈んでいる)。

2011年3月23日水曜日

町へ

 昼すぎから、八王子に出る。歩いて行く。途中の片倉郵便局で、今回の被災地への義援金を日赤経由で送る。われわれ(私と女房)にできることはこれぐらいしかない。統一地方選の看板を見て、選挙で金を使うよりも、被災者、被災地復興のために金を使ってほしいものだと思う。この立候補者たちはどれだけ義援金を出したのか、あるいはそれに見合う活動をするのか。とにかく政治家というものほど、石原のことがいつも念頭にあるのだが、「我欲」にかたまったものはいないものだ、特にこの日本には。鳩山などはどうだろうか?十億ぐらい可能なのではないか?あるいは政治家はそういう行為をしてはならないというような法律があるのか。もらうだけでいいということか。

 松岡書店で、一冊200円の本を五冊購入する。すなわち、「日本の詩歌17・堀口大学他」(中公文庫)、同「24丸山 薫他」、「俳諧問答」(岩波文庫)、「王安石」「梅堯臣」(ともに岩波・中国詩人選集)。

 そしていつものごとく大いなる失敗。予感はあったのだが、最後の二冊は書棚の奥にすでに鎮座していました。家で分かったのだが、購入したこの二冊には某大学の研究図書という判子が押してあったのには驚いた。

 八王子の町、計画停電がなかったせいかも知れないが、久しぶりの賑わいであった

2011年3月22日火曜日

千々に

2009年の3月に松島、平泉、花巻を訪ねた。松島の雄島で「奥の細道」の「そもそも、ことふりにたれど…」と松島の条を朗読したことを思い出す。どうなったのだろう。心が痛む。

松島や鶴に身を借れほととぎす

これは曽良の句で、自らの句は載せなかった。それにしても、芭蕉自身の

島々や千々に砕て夏の海

という句が、いろんな意味でおそろしくも切なくもある。

2009年 春三月 瑞巌寺門前掲示

 
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2011年3月21日月曜日

ゆき暮れて

震災10日目。しこりのように福島第一原発の状況が胸につかえている。地震と津波による被災地支援と復旧・復興は完全ではないが、その緒につきはじめたようでもある。それに対して「原子力」と「放射能」の問題は依然としてその、「災厄」の始まりに留まっており、その終息は見えない。レスキュー隊や自衛隊、現場で働いている東電その関係の人々のまさに献身的な努力とこの人たちの無事に対しては深い感謝と祈りを捧げるしかない。しかし、「いまのところ…ではない」とか「ただちに…するものではない」などという日本語特有の言い回しで世論を繕う、あるいは作るメディアや御用学者たちの無責任な言説ではなく、そこで起きている真の「事実」の開示と、それに基づいた(たとえそれが最悪の事実であれ)責任ある「避難」を含めた「指示」がもっとも今望まれている、と私は思う。

彼岸の中日、春雨料峭。閉じこもるのみ。解酲子にならって私も「方丈記」を再読してみた。
やはり、今から826年前、元暦2年(1185・7月9日)の大地震を記述したところが印象に残る。

…山は崩れて河を埋め、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出て、巌割れて谷にまろび入る。…地の動き、家の破るる音、電(いかづち)に異ならず。家の内にをれば忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるはただ地震(なゐ)なりけりとこそ覚え侍りしか。かくおびただしくふることは、しばしにて止みにしかども、その名残しばしば絶えず、世の常驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどほ)になりて、或いは四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたその名残三月ばかりや侍りけむ。


余震の回数、それが三ヶ月ばかり続いたというところなど、実際に経験した人でないと書けない。

ゆき暮れて雨もる宿やいとざくら     蕪村

2011年3月19日土曜日

Oloron-Sainte-Marie

美しい春の朝の光り。でも、そこここに不安が潜んでいるような気もする。身体はいつも揺れている、これが生あるものの根源的な感覚を突きつけられているということだろうか。

昨日、四時頃から散歩にでかけた。月が出ていた。ジーパンのポケットに小さな紙切れがあった。なんだろうと思って、それを引きだして見た。どこかの大学の過去問だ、それも全部ではない、その一部を切り取ってポケットに入れてあったのだ。いつ、こういうことをしたのか、またなぜジーパン(職場では当然着はしない)のポケットなのか、すべては自分自身にも不明である。

二 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。
 生きている人間は、今にも倒れそうによろめいている。だが死者は、静かな足どりで歩いている、とジュール・シュペルヴィエルはいう。そして、以下のように続けている。
  死者たちよ
  君たちは血液から癒えた


ここで私の紙切れは途絶えている。「後の問い」がないのだ。




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2011年3月16日水曜日

ocean joins us

I've read this message(Book VIEW CAFE BLOG )written by Ursula K. Le Guin and very encouraged.

To My Japanese Readers:

There is an ocean between us, yet that ocean joins us.
The great tsunami that struck Japan travelled on, growing weaker, until it came to the west coast of America. Here it did little harm. But with that wave came to us the great wave of your grief and suffering.
I hope you know that there are many, many people here who are thinking of you now, and crying for you, and praying that the worst will soon be past.
I admire, more than I can say, the quiet courage the ordinary people of Japan have shown amidst so much loss, suffering, and fear. Your strong and patient faces are beautiful to see. I look at them and cry. I wish you strength and the hope of better days.

With love,
Ursula

2011年3月14日月曜日

Notorious governor

Notorious governor Ishihara Shintaro of Tokyo said that this disaster of earthquake and tsunami was a comeuppance for the Japanese people those who could only pursue a personal agenda.Not that these dishonorable statements is anything new. I want to say who are you. "Govenor, who are you?"
In the middle of devastation and suffering, who can say "comeuppance."? Govenor, you are the man of self-interest . Or sickly likeness of populist you dislike. I dislike you, old man.

2011年3月12日土曜日

condolences,assistance

condolences,assistance

相模原に住んでいるアメリカの友人がfacebookに、地震に遭ったこと、その後の余震のことなどを書いている。
"With every tremor the adrenaline pumps and your heart beats fast so you can't tell if the ground is still shaking or if it's just you."
まさにこれと同様で、家の中で、いつも地面が震えているような感じがした。思い立って散歩に出かけた。午後四時前。住んでいるところ八王子は、昨日の地震の目に見える被害はなかったようだ。建築中の家やアパートがあり、地震の後の土曜日だが変わることなく仕事をしている人がいる。

風が強い。湯殿川の堤防などを注意して観察したが、どこも決壊しているところはなかった。

昨日の地震とそのあとの津波のすさまじさが、この地震国の経験した最高度の強力なものであることなどが発表され、一夜あけて被害の拡大とその悲惨さがより明瞭になった。言葉も出ない。被害を受けた東北の各県、なかでもリアス式の美しい沿岸を持つ岩手、宮城、福島の津波による被災は想像を絶するものであった。青森も茨城もダメージを受けた。

アメリカの友人が心配して、メールなどで安否を問い、励ましてくれる。東京と東北との区別もつかず、すべて同じところで起こったことと思っている友人もいる。怖かったけど、東京の被害は少なかった。あらためてこの地震で被害を受けたすべての人に心からのお見舞いの言葉と励ましの言葉を送りたいと思う。東京のぼくが友人や親戚から受けた言葉と同様な。

The trail for blue is like a transparent sorrow.

 
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2011年3月7日月曜日

誰のことか?

最近は加齢とともに、少し穏和になったと思っていたが、次の記事には切れた。アメリカ国務省のメア日本部長(前在沖縄総領事)というのが、昨年末、アメリカン大学の学生ら14人(この学生たちは東京、沖縄への2週間の研修旅行を前にして、このメアさんから講義
を受けたということだ)に対して以下のようなレクチュアをしたらしい。

―沖縄は日本政府に対する「ごまかしとゆすりの名人」である。「怠惰でゴーヤーも栽培できない」など。そして、普天間飛行場は住宅地に近い福岡空港や伊丹空港と同じで特別に危険ではない、だから日本政府は沖縄の知事に対して「お金が欲しいなら(たぶん、辺野古移転にということだろう、この共同通信発の記事はここを省いているから、私が補うのだが)サインしろ」と言うべきだと述べている。云々―

ゆすっているのはアメリカだということは密約問題露顕からの、いやそれ以前からの厳たる事実だ。しかし、メアさんの発言で妙に心情的にそうだよなと思うのがある。それは、この記事の記者(署名はない)の考えが入っているのかも知れないが、ことさらに「沖縄」といい、「日本政府」というように対立的に分けて書いているところである。180度転換して考えてみれば(いや、このメアの発言を私なりに読み替えてみれば)、「沖縄は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人」というメアの言葉を沖縄の底知れぬ闘い(まさに対「日本政」、対「アメリカ」)のエネルギーの発現、きわめてすぐれた戦術的なその発現の仕方とも取れるのではないか。もちろんメアの意図とは全く異なるが。

しかし、いかように解釈しても腹が立つことには変わりがない。盗人猛々しいとは、こういうことを言うのだ。

2011年3月6日日曜日

God Be with You till We Meet Again.

 非常勤で出講している高校の卒業式。45回生。中高一貫の私立女子校だが、この期の生徒たちとは、三年前、私が初めてこの学校に勤めて主に授業を受け持った生徒たちだったので格別に思い出が深かった。その最後の、答辞と聖歌「神ともにいまして」の合唱には久しぶりに涙がにじむ。なによりも一番いいのは、「日の丸」と「君が代」がないこと。都教委の役人がいないこと。

そのあと京王プラザホテルで卒業生主催の集まり。こういう集まりは嫌いだったが、初めて出席した。すばらしかった。ありがとう。

卒業生たちを見ていたら、自分の昔のこの頃のことがかすかに思い出され、同時に蕪村の次の句が重なるように浮かんできた。これは卒業生たちにとっても、私と同様に未来のある時点での「懐旧」の思いを代弁するものになるのかもしれない。しかし、この「遅き日」の季感と実感はもうだれも感ずることはあるまい。すべてが早すぎる。

 遅き日のつもりて遠きむかしかな

2011年2月25日金曜日

This is America. Who are you?

藤永 茂先生のブログでRay McGovernという元CIAの情報アナリストだった人のことを知る。 http://www.opednews.com/articles/Ray-McGovern-Assaulted-B...

ヒラリー・クリントンのスピーチのときに、この老アナリストは、ヒラリーの欺瞞的な在り方に抗して、彼女に背を向けて、黙って立っているというスタイルで抗議をするのだが、このスタイルを彼は"silent witness"(静かな目撃者とでも訳しておこう)と名付けていて、他のところでもやったことがあるという。ところがこのヒラリーの演説会ではすぐさま手荒に逮捕された。

you tubeにも彼の逮捕(彼はなにも警告もうけずに暴行されるように逮捕される、ちょうど中国の公安がやるのと同じだ)に顔色も変えずに、演説を続行する神経の太いヒラリーの様子が映っている。

Rayは部屋から手錠を食い込まされて血だらけになりながら連れ出されるが、"This is America" "Who are you?"と叫ぶ、おそらくヒラリーへ向けて。

中東の民衆の蜂起を受けて、ヒラリーがさも偉そうに演説しているときの話、この2月15日の火曜日のこと。

2011年2月24日木曜日

麗しき果実

 出光美術館、「転生する美の世界」と題された江戸琳派、酒井抱一、鈴木其一らの展覧会に行く。これは―酒井抱一生誕250年「琳派芸術」―の第二部の特別展で、酒井や鈴木の作品が第一部の時よりも多く展示されているということだけで、私は見に行ったのだが、ただ、ただ素晴らしかった。門外漢としてそれだけしか言えないのが残念なのだが、二時間ほど美術館で魂を奪われていた。抱一は言うまでもないが、私はその弟子の鈴木其一の秋草図屏風や藤花図などにも惹かれた。抱一の秋草図や燕子花図屏風の鮮烈さは圧倒的である。風神・雷神図もはじめて関心を持って視た。文化・芸術というものは発展などという概念とは無縁であって、いつでもその極点で輝いているものがそうで、とくに江戸美術の爛熟はもうそれ以上はありえないものだということを今回も思った。それに比べて…はなどという必要もない。
 乙川優三郎の新聞連載小説『麗しき果実』に出てくる実在の人物、原羊遊斎、酒井抱一、鈴木其一たちの実際の作品に出会えたわけだ。原羊遊斎の蒔絵もあった。抱一や其一の図案帖も。たしか乙川の作品ではヒロインの女性が蒔絵の世界で苦闘して行くというものだった、そこに原羊遊斎や酒井抱一の大物がいて、鈴木其一との淡いロマンスもあったような記憶がある。単行本になっているだろうから、暇があったら読み返してみたい。乙川の丁寧な文章にひかれて、新聞小説、まして歴史小説などを自分自身が毎日期待しながら読んだのも珍しいことだった。何かの縁だろう。
 妻と二人で、有楽町のガード下の居酒屋で飲んだ。私は金陵の熱燗二本。おでんなど。いい気持ちで東京駅始発の中央線に乗り帰宅す。

2011年2月20日日曜日

渺たる滄海の一粟

―「嗚呼噫嘻(ああああ)、我れ、これを知れり。疇昔の夜、飛鳴して我を過りし者は、子にあらずや」と。道士顧みて笑う。予も亦た驚き醒む。戸を開いて之れを視るに、其の処を見ず」―というのは、蘇東坡の「後赤壁賦」の最後の数句なり。赤壁の下の江流にて客と遊びし折り、大いなる孤鶴の舟を掠めて西に飛去せるあり。その夜、夢に一道士現れ、「予に揖して言いて曰く、『赤壁の遊楽しかりしか』と」。「予」は件の夢なる道士の姓名を問ひしも、うつむきて答へず、とあり。その後に、冒頭に掲げたる、「予」の「ああああ、あなたは昨晩私の舟を過ぎった鶴ではないですか」という感嘆の問いの発せらるる場面。

頃日、「蘇東坡詩選」(岩波文庫)を読み、その簡潔率直なる文意に甚だ打たれき。中国宋代の変転きわまりなき(怪奇なる)政治場裡にて、かくのごとき詩人政治家、まさに大いなる孤鶴のごとき博大なる人間のありしに驚嘆すとともに、若干の希望をも抱けり。

19日、息子夫婦とその岳父母と、我ら二人を入れ計六人(三家族)にて飲む。愉快なり。
20日、日曜のnhkの囲碁トーナメント。秋山次郎が趙治勲を中押しで破る。痛快なり。

2011年2月17日木曜日

いざ雪見、いざ行む

あっという間に、2月も終わりに近づきつつある。この間のことを少し書いておこう。

10日、白井明大、阿蘇 豊、木村和史と西国分寺の西国村という居酒屋で飲む。古くていい居酒屋なり。下戸の和史が、これまで付き合って一緒に行った居酒屋で一番感じがいいと言明した。阿蘇氏とは初対面だったが、その山形県人としての風格が、私の先輩の一人とそっくりだったので、すっかり打ち解けてしまった。白井君と和史はカメラの話で盛り上がったようだ。

12日、福間塾。「さかえ屋」、「奏」久しぶりに。

13日、中国の長春で教えている元同僚が休みで帰国している、彼を囲んで元同僚たちの集まりが八王子であった。それに出る。元同僚は66歳だが、その精悍な感じは昔と変わらない。今年一年はまた中国で教えるという。彼のいる間に訪問できたらなどと思った。

尾形 仂『蕪村の世界』(岩波・同時代ライブラリー)が、私の最近の枕頭の書である。

○いざ雪見容(かたちづくり)す蓑と笠
○雪の旦(あした)母屋のけぶりのめでたさよ
この二句の詳しい尾形先生の鑑賞は省くが、最後のまとめを引用しておこう。
「同じ雪の題によって、一方では都会の風流人の雪見にとおどける風狂の心に古人への思いを重ね、一方では深い根雪を友に一冬を送る雪国の生活者の雪に安堵し心勇む生活実感を詠出する。一人で大きく隔たった何人分もの生を生きる、蕪村の詩的連想の多様さには毎度ながら舌を巻かざるを得ない。」

2011年2月9日水曜日

Now is the winter of our discontent

昨日63回目の誕生日。ディラン・トマスの「10月の詩」のフレーズ、It was my thirtieth year to heaven
を真似てIt was my sixty-third year to heaven yseterday と言ってみようか。ディラン・トマスは1953年39歳の若さでアル中のために死んだ。30や39歳ならまだ天国と言えるかもしれない。63ではちょっと苦しいが、願望をこめて。

今朝、雪降る中を学校に行く。模擬試験の監督が終わると雪は止んでいた。昼前には帰る。妻は用事で外出。光が射し込み、気温も上がる。気持ちを奮い立たせて散歩に出かける。10㌔余り歩く。湯殿川の源流を探りたいのだが、それはまたの楽しみにとっておこう。館(たて)町の浄泉寺という曹洞宗のお寺まで歩いてみた。

帰途の城址公園で、いつものメタセコイアの木の枝にいつものカワセミがいるのを発見。池の上を優雅に旋回し、この世ならぬその背の緑を惜しげもなく見せてくれるのだが、私の技術とカメラでは撮影不能。ひたすら静止しているところしか写せないのが残念である。五時過ぎに帰宅。

沙翁の「リチャード三世」の有名な冒頭の台詞、

Now is the winter of our discontent
Make glorious summer by this sun of York.

(やっと不満の冬も去り、ヨーク家にも輝かしい夏の太陽が照りはじめた)
というのをなんとなく思い出した。季節は確かに変化している。不満も輝きも人間が付加するに過ぎない。

 
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2011年2月7日月曜日

Politics

イェイツの詩に、"Politics"というのがある。
以下に原詩と訳文(高松雄一「対訳 イェイツ詩集」岩波文庫)を引用する。

How can I, that girl standing there,
My attention fix
On Roman or on Russian
Or on Spanish politics?
Yet here's a travelled man that knows
What he talks about,
And there's a politician
That has read and thought,
And maybe what they say is true
Of war and war's alarms,
But O that I were young again
And held her in my arms!


あの娘がそこに立っているのに、
どうしてローマやロシアや、
スペインの政治などを
気にしていられる?
だがこちらには自分の意見をしっかりと
心得ている旅慣れたお方がいるし、
そっちには書物を読んでものを考える
政治家もおいでだ。たぶん、
戦争や戦争の危険について
この人たちが言うのは本当なのだろう。
だが、ああ、私はまた若返って
この腕に娘を抱くことができたらどんなにいいか!

1939年1月に発表された詩、ファシズム、スターリン、スペイン内戦、そして、この年の9月にはヒトラーのポーランド侵攻に始まる大戦が迫っている。この年の1月28日にイェイツは亡くなる。最晩年74歳のときの詩ということになるのだろう。

これは政治に対するあきらめなのか、絶望なのか、アイルランドの詩人としての独特の思いもあるのだろうか。そういうことを一切出さずに、わずか二つのセンテンス(訳は3つの文にしているけど)に一挙に、素早く、軽く願望を述べて終わる。とても読みやすく、朗読しやすく、生き生きとした詩だ。しかし、ここで言われている politician、イェイツが揶揄の対象とするpoliticianなどは死にたえて、今ここにはいない。大衆の人気をとることに長じた政治家は依然として健在だけど。そういうことから考えても、なんと品のいい詩だろう、これは。

2011年2月4日金曜日

RIP エドゥアール・グリッサン

中村君のブログ、OMEROS http://mangrovemanglier.blogspot.com/2011/02/blog-post.htmlで知ったのだが、エドゥアール・グリッサンが昨日亡くなったということだ。マルティニックの出身で、島やクレオールとしての存在の幅を深く大きく広げた作家、詩人だった。2009年のフランス海外県でのゼネストの際には旧宗主国フランスへの抵抗の精神的な支柱として、「島」の経済的な回復のみならず、詩的な回復を目指したゼネスト支援のマニフェスト(従来のマニフェストの概念を打破する、瞠目すべき詩的マニフェスト)「高度必需品宣言」の主要な書き手の一人でもあった。
New york timesのobituaryを調べたら、AP通信の以下の記事があった(だけ)。

PARIS (AP) — France's prime minister says celebrated Martinican poet Edouard Glissant has died. He was 83.
In a statement, Francois Fillon paid homage to Glissant's work, which "marked several generations of thinkers and writers far beyond" his native French Caribbean island. Le Monde newspaper said Glissant died Thursday in Paris.
Born in Sainte-Marie, Martinique, on Sept. 21, 1928, Glissant was among the generation of French Caribbean poets who came to prominence in the 1950s and included the late Aime Cesaire.
Glissant published more than 20 books, including collections of poetry and critical analyses.
A graduate of La Sorbonne university in Paris, he taught at both Louisiana State University and at the City University of New York.

2011年2月3日木曜日

独り歌へる

 昨晩、詩を書き上げて送る。いつも不出来。
「酒井抱一生誕250年 琳派芸術 ―光悦・宗達から江戸琳派―」をやっている
出光美術館へ行こうと思ったけど、秋川さんの書いたものや、美術館のホームページなどを見ているうちに考えが変わる。2月11日からの第二部の展示を見ることに決めて、百草園に出かけることにした。坂道を登りつめて、平日であまり人気のない園内に至る。かぐわしい「蝋梅」や、梅、早先の「あやめ」や水仙などを見て歩く。見晴台の「すだ椎」の巨木群に圧倒された。
 その後高幡不動駅まで歩いて、バスに乗り日野駅に出る。寿司を食べたくなって、日野駅から20分ほど歩いて(空気の悪い、幹線道路と工業団地の道路歩かなければならないが、それを我慢して)、「日野寿司」という昔から名前だけは知っていて、行ったことのなかった店に入る。魚介サラダというのを、まず頼んだ。その大きさに思わず「一人前ですか?」と念を押す。しかり。美味なり。次にヤリイカ煮、生たこ、などをつまみにして「会津ほまれ」の燗酒2合瓶で700円を頼む、癖無く喉こしよし。寿司ネタの大きさに驚く。妻と二人で一つの寿司を食べる(私は呑んでいるから)ことにしたが、これが大正解。最後に頼んだメバルの煮付けの美味しかったこと。久しぶりに、外食の満足感を得ることが出来た。

 百草園には牧水の次の三首の掲示と、ご長男の旅人さんの書による歌碑(若山牧水生誕百周年建立歌碑)がある。その歌碑の説明に云う。「明治四十一年春、恋人園田小枝子と共に百草園で楽しい一時を過ごし「小鳥よりさらに身かろくうつくしくかなしく春の木の間ゆく君」と恋人に対する親しみと憧れの心を詠み、翌年夏この歌を加えた歌集「独り歌える」を編纂し歌人としての名声を得ることになりました。ここに生誕百周年を迎えるにあたり、歌人若山旅人氏(牧水の長男)の選歌揮毫による歌碑を建立し記念するものであります。」これには昭和61年11月吉日というクロニクルが付されている。

山の雨しばしば軒の椎の樹にふり来てながき夜の灯かな

摘みてはすて摘みてはすてし野のはなの我等があとにとほく続きぬ

拾ひつるうす赤らみし梅の実に木の間ゆきつつ歯をあてにけり
                 
(旅人書による歌碑の一首を改めて書く。旅人さんには個人的な思い出がある。いつか書いてみたい。)
小鳥よりさらに身かろくうつくしくかなしく春の木の間ゆく君



すだ椎はスカイツリーを睥睨す
蝋梅の黄なる色香をめで歩く  
牧水の一人歌へる百草苑    ― 蕃 ―

 
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2011年1月31日月曜日

2011年1月28日金曜日

冨士残照

 
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湯殿川、稲荷橋から午後5時頃に撮影する。

この週は、ちょっと鬱状態で過ごしていて、出来ることと云ったらただ歩くことだけであった。そのときにデジカメも携行した。歩いて、鳥たちと風景を映してさえいれば、いろんなことを忘れることができた。今日の冨士山を見て、少しずつ気分も晴れて行くようだ。

2011年1月27日木曜日

路次の細さよ

 
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今日の散歩でカワセミを三度目撃す。生まれてはじめて、この美しい鳥をデジカメで撮影することが出来た。杉の木の枝と二度目の遭遇時の土手の写真である。興奮した。三度目は高速で川面をなめながら飛行していった。この眼に恵まれた幸せだけでいいと思った。

ダイヤモンド冨士などと喧伝するから、撮ってみよう思うのだが、昨日も今日も冨士はその姿を見せなかった。ただ、その近辺の残照の美しさは今が最高である。

蕪村に「桃源の路次の細さよ冬ごもり」という句がある。尾形 仂の鑑賞はこうだ。
「…桃源境に到達するまでの途中の道の何と狭いことだろう、と嘆じたものにほかならない。一句は、冬ごもりを極め込んではみたものの、世間の俗用が立て混んで、容易に桃源の安楽な気分には浸らせてくれない、というのである。」

「路次ロシ」は「路地ロジ」ではないという読みから、尾形先生はちょっと日常につきすぎた読みをあえて出しているのだが、それはこまごまとした日常そのものを桃源と読む読み方を行き過ぎであろうと思ったからにちがいない。

今の私はどらかといえば尾形説に与したい。日常を非日常に化するエネルギーの減衰と、しかしそれゆえ美なるものへの敬愛の強さを最近とみに感じているからである。