2008年10月10日金曜日

糞尿の丘

三回目の、立教大の授業。今日は、前々回の課題作品の合評を、授業の前半に行うというのが僕の予定。しかし、80名という受講者を考えると、すべて出来るわけが無い。前回に提出してもらった作品のすべてにコメントを書いたが、そのなかの7作を選び披露することにした。コピーをずいぶんした。

その7作品のなかでも、傑作はというと、それが「糞尿の丘」という奇異なタイトルの作品であった。私は、教室で、これら7作の詩の作者に、自作詩についてのコメントと、朗読を求めた(実際は、朗読が最初で、コメントは後)。その一番に「糞尿の丘」を取り上げたのだった。以下その作品を、作者には無断で、しかも横書きで全文引用する。

糞尿の丘

国道沿いの坂の上から 桶の中の糞尿を垂れ流しますと、
その流れる音の口真似を 母は時々するのでした。
坂は今では おおよそ薄の群生に おおわれております。
ほかには 何だかよくわからぬ 草がぼうぼう生えております。

その坂を上がって 私はピアノのお教室に 通っておりました。
冬になると 凍った坂道を下るのが とうても恐ろしい。
山なみの近くに迫った 灯りの少ない夜道を 川音に沿って下っておりました。
一本足の白鷺が 川べりの岩の上に佇んで 私のゆく先を指し示しておりました。

水音が ごおごおと唸っています。
その下を走るは 糞尿の流れ。
そして 色々のかなしみ または 生命。

幸せな時代になったと かつて糞桶を担いだ母は言います。
幸せな時代になった。
それでも 尻から垂れ流れるものは 昔と少しも変わらず、
足元でうねる 生と死の気配は 常に私の靴の裏をなぶる。

人気のない夜の道を 私は歩いておりました。
道沿いの民家の明かりは すでに消えており、
住人は すでに眠っているか 死んでいるかをしております。
眠っていても 死んでいても どちらでもよいのです。

冬の夜の満月は すべらっこく 凍りついた白さです。
東のお山の上空から 霜枯れた糞尿の丘を 静かに照らしておりました。


この詩の注釈をベンヤミンがブレヒトの詩について行ったやり方で、そういうやり方しかこの詩については出来ないから、やってみたいのだが、今日はタクランケ氏と相原の立ち飲み屋で飲んだので、出来そうにないからやめておく。しかし、この詩を眺めていると、私でなくとも、だれかが「注釈」をなすであろう、そういう詩であると私は考える。

ところで、この詩の作者は女性であり、しかも、この「糞尿」の話は、母から実際聞いた話だと言う。これには吃驚したが、この「糞尿」のイメージ、そのもののイメージについて、この詩の詩人と私には大きな違いがあるのかも知れない。しかし、たとえ、そうであれ、この詩はいい詩である。「異国の丘」という歌があることを、この詩の作者は知っているのだろうか?無意識でなした、反逆の美しい詩として、これを読むことも可能である。これは今日、教室では言わなかったが。

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