2008年11月17日月曜日

そこのみにて光輝く

昨日、西荻窪の古書店のネットワークみたいなもの、Nishiogi Bookmark主催で行われているイヴェントの第27回目というが、「そこのみにて光輝く―佐藤泰志の小説世界―」というものに参加した。1990年に亡くなった佐藤泰志の小説の好きなものたちだけが集ったというようなintimateな集まりだった。福間健二の、文壇ジャーナリズムと泰志の作品の関係、泰志の病と医者との関係、それをどうとらえるかが泰志の伝記を書く上でのアポリアだという話は切実だった。泰志の友人代表として木村和史も話したが、泰志に絶交を宣言したこともあるという話だった、彼の泰志を大きくとらえて離さない視点の暖かさは独特のもので、福間の話ともども心に残った。それから佐藤泰志の作品が世に埋もれることを憂い、泰志の作品はだれかがきっといつでも読みたくなる作品であるということを信じて、分厚い『佐藤泰志作品集』を昨年出した、今時珍しい、志の出版人、クレイン社の代表である、文 弘樹さんの話も素敵だった。岡崎武志さんの軽妙な司会もよかった。泰志の遺児で長女の方も来ていた。その話は一番衝撃的だった。作家としての父の存在、父の作品、そして父の自裁の意味、それらは現在、彼女がたどりつつある物語のようでもある。

そのあと9時から福間健二監督の映画『岡山の娘』のレイトショー。東中野のポレポレ。ここは何回か行ったことがある。福間のこの映画は始めて観た。和史と一緒に観る。これまでにいろんな情報も耳にし、監督当人や出演者の何人かもよく知っているのだから、初めて観たような気はしなかった。佐藤泰志の長女と、この『岡山の娘』の娘さんをどこかで重ねて観ている自分に気づいた。二人とも、世俗的には、だらしない、どうしようもない父親をもったが、そこから逃げるのではなくて、どこかでその父親のだらしなさも含めて、もっと言うなら、旧式の彼らの虚勢や弱さを、あえて背負って恥じない「若さ」の質、新しい若さとでもいうべきものを、この二人は自然に湛えていたのである。そういうことを感じた。また映画に先立って行われた、若松孝二監督と福間のトークショーもよかった。私は初めて若松孝二という稀代の反権力のカリスマのような監督の謦咳に接して、いやただマイクを通してその声を聞いたに過ぎないのだが、すっかり好きになってしまった。それは、今までの文脈にからめて言えば、泰志や『岡山の娘』の父たちとは截然と異なり、インテリではなかったからだ。乱暴な言い方かもしれないが、若松監督の佇まいがしめすのは、日々の労働そのものに打ち込むこと以外なにも考えない人間のあり方だった、そういうあり方を、実は泰志の小説も、福間の映画も求めていたし、もとめているのではないだろうか。

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