2009年1月12日月曜日

CHE

1月10日(土)

村上龍が編集長をつとめるメールマガジンを読んでいたら、映画「チェ・ゲバラ二部作」(以下この映画に言及するときは”CHE”)の推薦のために配給会社から依頼されて村上が書いた文章が掲載されていた。私はそれを読み、いたく感動したので、先日の授業のなかで紹介した。以下の通り。

― 08年9月のいわゆるリーマン・ショックで始まった世界的経済危機だが、循環的なものではなく、歴史の転換点だとわたしは考えている。金銭的利益だけを優先する企業戦略が破綻したと見るべきで、求められているのは景気回復などではなく、価値の転換であると思う。チェ・ゲバラが、生涯を賭して求めたのは、まさに金銭的利益以外の価値だった。人間の精神の自由と社会の公正さ。シンプルで、そして間違いなくもっとも重要なものだった。社会主義イデオロギーを世界に広めるために戦ったわけではない。イデオロギーはツールに過ぎない。どのような苦境にあっても向上心を忘れず、読み書きできる素晴らしさを仲間に教え、負傷した同志を決して見放すことなく、病気を患った住民を親身になって治療した。喘息の発作を起こしながらもキューバとボリビアのジャングルを行軍するチェ・ゲバラを、この映画は初めて現実化した。それは人類の希望そのものだ。わたしはその姿を、決して忘れることがないだろう。―

授業のあとに、受講者のS君に、今日この大学で、この映画の無料の試写会がありますよ、と言われた。10日が一般公開だったが、その前日9日の金曜日の話である。一挙に2部ともやるのだろうか?などとぼくは反問したが、S君もよくわからないようだった。風邪気味だったし、しかも、ない知恵をしぼりきった授業のあとで、ぐったり疲れているので見る気力はなかった。近くの映画館で見ることにします、ありがとうということで別れた。(立教にはラテンアメリカ研究所があるから、そこでこの映画に関係した人たちの筋で試写会が行われる、行われたのだろうと、これは後で考えたこと。)

村上の文章に戻れば、現下の世界不況を「循環的なものではなく、歴史の転換点だとわたしは考えている。金銭的利益だけを優先する企業戦略が破綻したと見るべきで、求められているのは景気回復などではなく、価値の転換であると思う」と言い切ったところ。小手先の景気回復だけが論じられているなかだったので、心に残ったのである。そして、こことゲバラを結びつけたところ。なるほど、そうだよなと思った。しかし、ゲバラの時代から遠く隔たったのも事実、その経過のなかで、壁の崩壊をはじめ変化のメルクマールとなるべき事はいろいろあった。あったが、その「変化」や「改革」の、たぶん最初の志にはあったもので、なしくずしにされたものやこと、いやむしろその挫折をこそ商売に変えてしまうようなやり方の限界(資本主義の限界といってもいい)を考えたときに、ゲバラの生き方とその精神をいつでもあらためて探求したくなるのはきわめて健全な精神の在り方だとぼくは思う。「革命」的な生のシンボルというのではない。ゲバラの生き方、精神をある種のシンボルと考え、そうしてしまうことほど思考の怠惰を表明するものはない。この映画は、そういう意味で、きわめて冷静にハバナ進行への戦闘と、「革命」後の国連でのゲバラ演説とをオーバーラップさせながら、ゲバラを具体的・歴史的に探求してゆく映画のようである。ただし、この映画の公開の仕方に対しては異論がある。その不満は、なぜ、2部を一挙に見せないのか、ということに尽きる。彼の栄光と悲惨、その両方をこの映画は志向しているのではないか。

橋本のMOVIXで映画を観終わったあとに、カタログのようなものを買った。そこには次のようなことが書かれていた。

― …2008年、生誕80周年の期に、“ある男の半生”を描く1本の作品が、カンヌ国際映画祭を「悲鳴と喝采」で沸かせた。愛と情熱の革命家、チェ・ゲバラの生と死を描く『CHE』2部作である。総上映時間は約4時間30分。20分の休憩時には特例の「キットカット」と水が配給された。上映会場は、PART1『チェ28歳の革命』で若き革命家のヒロイズムに酔いしれ、PART2『チェ39歳 別れの手紙』では、その革命家の劇的な死の瞬間に悲鳴があがる―。
そしてスティーヴン・ソダーバーグ監督とチェ・ゲバラを演じたベニチオ・デル・トロの、「チェを映画化する」ことに対する一切の妥協もない姿勢と、他に類を見ないスタイルによって完成した「新しい映画の誕生」に、惜しみのない拍手が贈られたのだ。 ―

これはだれが書いたか知らないが、この宣伝子は、自らがこの映画や、その「原作」たるべきCHE(個人的には、ぼくは、いやぼくらの世代はと信ずるが、チェという革命家の、愛称より、ゲバラという名字を言うのを好むはずだ。きれいな高校生の女の子のようなモギリ?嬢に、3時20分からのゲバラの映画を一枚、シニアでと購入時に言ったところ、彼女は、当映画館にはそのような映画はかかっていません、というような、あわれむような目つきでぼくを見たので、チェと言い直したのだった。)の精神を明らかに裏切っていることを知るべきである。

きみの好きなチェが一番嫌ったのは、「特例」を作って、この観客たちにはすべてを見せる、そうでないものには見せない、そういうことではなかったろうか。いわんや、休憩時間の「キットカット」などにおいておや。訳知り顔に、いい加減なタイトルを二部作のそれぞれにつけて、観客には「若き革命家のヒロイズムに酔いしれ」などと、おそらく行動する人間としてのゲバラが一番抑制しようとした心の在り方に酔えと言うかのようでもある。着飾ったカンヌのセレブたちが酔いしれた4時間半を、ゲバラはどう思うだろうか?

ぼくが一番、この映画で感動したこと。それはスペイン語の響き。ゲバラを演じたデル・トロのスペイン語は、ゲバラとどう違い、どう同じなのか。そういうことを、とても知りたく思う。同じであることをもちろん、求めているのではない。デル・トロという俳優の面白さやソダーバーグ監督の面白さは、これら宣伝の扇情的なパンフレットの域をゆうに超えている。水村美苗は英語を「普遍語」と規定し、そこから、あられもない物語を紡ぎだしたが(その作業自体を否定はしない)、ここではスペイン語が「現地語」として、しかしきわめて「普遍語」的に響く、そしてそのことを作り手たちがあえて選んでいることがとても大切なことである。どういうことか?いつの世でも、「現地語」と「普遍語」の対抗を生きるしかなく、「普遍語」の圧政やその便利さによって「現地語」は死ぬはずもない、ということだ。そして水村の言う「国語」を拒否するのが「革命家」ではないか。

再度書く。スペイン語の美しく強い響き。この映画はそれがすべてだ。ぼくの友人に小松さんといって、スペイン語の堪能な、高校の世界史の教員がいる。小松さん、この映画のことについて今度一緒に酒でも飲みながら語り合いましょう。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

村上龍は、私の記憶に間違いがなければ、90年代、株式投資の技術のひとつも習得しなければこれからの世界はやってゆけない、ゆえにフリーターには未来がない、という意味のことを盛んに発言していたと思います。さいごのフリーター云々というところは当たっていなくもないが、それをもたらした金融資本主義の側に彼が居たことは確かなことで、まったくよく言うよ、という感じですね。変わり身の速さとは、こういうことをいうのでしょうか。

ban さんのコメント...

ぼくの感動も、留保の必要があるのかも。

でも、その彼の変わり身のはやさに感動したこともあるのでしょう。

匿名 さんのコメント...

昨夜は存分に語り合えて、楽しかったです。
私はスペイン語「堪能」ではなく、「中級クラス」の劣等生で、アップアップしながら学んでいるのですが、スペイン語の響きは素敵ですよね。
昨年、ガルシア=マルケス原作のコロンビアを舞台とした映画を見たときに、監督がイギリス人で、映像その他は素晴らしいのに、台詞が英語でかなりがっかりしました。「Che」を見るのが楽しみです。
ゲバラのアルゼンチン弁と、カストロのキューバ弁では相当発音や言い回しが違ったはずですが、それでもお互いの母語で語り合え、理解し合えたということ。国際語たるスペイン語がなかったらキューバ革命はなかったでしょうね。

匿名 さんのコメント...

友人にすすめられ明日見に行きます。
龍は結構工ファンです。
エッセーを読むと同じ怪しげな場所に出入りしていたりして・・・・むふふと思います。