2009年2月14日土曜日

紫のにほへる妹

「万葉から万葉へ」と題されたNHKのカルチャーアワーのテキスト。実際のラジオ放送はほとんど聞いたことはないが、この種のテキストは比較的に安価でまた内容もおもしろいものが載っているときがあるから、立ち読みで調べて、気に入ったものは買うときがある。これがそうだった。坂本信幸・藤原茂樹という学者が二人で担当して書いている。私はこの二人の名前も知らない。坂本は万葉の表記や言葉の専門家らしいが、彼が書いた「紫のにほへる妹」という初回の講義を読んだ。通説をききかじっていた素人としてはおもしろく、ある意味で痛快でもあった。

巻1の20番と21番の、額田王と大海人皇子との有名な贈答歌。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(額田王20)

紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(大海人皇子21)

この贈答は大海人(その当時は皇太子)の兄天智天皇主催の遊猟の後の宴席での作という説が通説になっている。その説の前までは、額田王を争う天智・天武の恋の葛藤、それがひいては壬申の乱の遠因になったというような読み方、それは江戸時代からすでにあったが、それにプラスして近代的な恋の三角関係までを想定するような読み方までがあった。

そういう読みをナンセンスとして葬ったのが折口信夫門弟の読みで、坂本の引用してある『万葉百歌』(池田弥三郎・山本健吉・昭和38年・中公新書)がその先駆であるということだ。以下、二人の解説。

 これは深刻なやりとりではない。おそらく宴会の乱酔に、天武が武骨な舞を舞った、その袖のふりかたを恋愛の意思表示とみたてて、才女の額田王がからかいかけた。どう少なく見積もっても、この時すでに四十歳になろうとしている額田王に対して、天武もさるもの、「にほへる妹」などと、しっぺい返しをしたのである。(池田)


「野守は見ずや」つまり、人が見てますよとたしなめてはいるが、見られて悪いわけではなく、宴席の座興であり、あけひろげた気持での戯れなのである。四十女の場馴れした気持が、そんな冗談を言わせるのである。
 大海人の和(こた)え歌は、相手の言った「紫」という言葉をそのまま取って、「紫の匂へる妹」と言った。当意即妙である。四十女の残りの色香を讃めるポーズをして見せた。真情を吐露しているように見えて、座興であり、仮構なのである。(山本)


今、書き写していて不思議に思うのだが、どうして、こういうテキストを全く無視した読み、とくに池田弥三郎の「宴会の乱酔」時などという設定が成立するのだろうか、それになんの反発ももたなかったのだろうか。万葉などに興味を持って読み始めたのは、私の場合、昭和四十年の終わりごろからだから、こういう考えは当時読んでいて知っていたし、それがもう通説になっていたからだろうか。それにしても、この二人の疑いのない快刀乱麻ぶりの読み方、今書き写していて、なにかとてもおかしい感じがする。笑ってしまうような。額田王を、二人とも「四十歳の女」(もちろんこれには想定する根拠があるけど)といい、何かお化けみたいな感じで扱い、そこからすべての読み、少なくとも大海人の反応(切り返し)を想定している。四十女の「からかい」に対して、大海人も、わざと「紫のにほへる妹」などと真面目な顔をして切り返してみせた、そこに宴席の笑いが生まれたというように。この説を受けて、決定的にしたのは伊藤博の「遊宴の花」という論文だったということ。「天智七年の頃初老40歳に近かった額田王を―紫のにほへる妹―といかにも艶な美しさをもった女性として歌うことによって、宴席に居る天智天皇以下、もろもろの臣下の者の笑いを買ったというのである。この伊藤説が大きく学界に影響を与えることとなった」と坂本は書いている。池田、山本、伊藤の通説に対して、坂本信幸奈良女子大大学院教授はどう反論するのか?

坂本は次のように反問する。

…早く結婚して、早く子どもを作り育て、早く老いるのが古代の女性の実態だったろう。今日のような生命のリズムではない。とすると、額田王の年齢を35歳としてみても、今日の52、3歳ほどの感じとなる(一般に古代人の年齢は、1・5倍すると現代の人の年齢に見合う)。たしかに、そのような年齢の女性を、「むらさきのようにはでばでしいわが愛人よ」(『万葉百歌』の口訳)というのは、いかがなものかと思われる。そこに皮肉が込められていると考えざるを得ないであろう。
 しかし、本当にそう考えるべきであろうか。
 大海人皇子は、後に壬申の乱を勝利し、天武天皇として即位、帝紀及び上古諸事を記定させるなど、政治の基礎を固めた、いわゆる英主である。その大海人が、二人の間に十市皇女という子までなした額田王の年老いて容色の衰えたことを種にして、天智天皇を始め群臣居並ぶ満座の前で、笑いを取るというようなことをするであろうか。その場には、娘の十市皇女も十市の夫の大友皇子も居た可能性のある宴においてである。


坂本のこのような考え方(大海人皇子論)もテキストとは無縁といえば言えるのかもしれない。しかし、この反問を確かめるために、「紫のにほへる」という表現についての考究が坂本の論の根本になっている。なにをいまさらと思うのだが、まず彼は「にほふ」の語義の確定からはじめる。「にほふ」は、花や女の容姿の(主として赤系統に)照り映えることをいう、というのが小学館の『新編日本古典文学全集』の説、それに伊藤博の『万葉集釈注』では、赤い色が美しく照り映える意、となっている坂本は書く。そして「紫のにほへる妹」は「紫色の照り映える妹」として理解するものがほとんどであるという。とくに武田祐吉説をもとにした岩波の『新日本古典文学大系』では「『にほへる妹』は赤く照り映える妹。紅顔の美貌を言う」とまであるらしい。

坂本はこれらの「『紫のにほへる妹』についての、従来の諸注釈の解釈は間違っていると私は考える」。

まず坂本は集中から「むらさき」の表記の全ての例(仮名一例、難読一例の2例を除き)13例を検討する。

紫草を 草と別く別く 伏す鹿の 野は異にして 心は同じ(12・三〇九九)と
当該歌21番の
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも

以外の11例はすべて「紫」という用字であり、この2例だけが「紫草」となっている。この二つは「植物としての『むらさき』を歌ったものである」、それに比べて一字の「紫」の用例はすべて「色彩のムラサキを歌う用例」である。従って、ここは「紫色の照り映える妹」ではなく、「紫草の美しく照り映える妹」でなくてはならない、というのが坂本の考えである。

次に「にほふ」という表現と発想について坂本は調べる。特に、Xの「にほへる」Y、というときのXにあたるものは「実際に照り映える素材」が集中の用例にあたるとすべてであり、「紫色」などという色彩名に関わったものはないという。

つまり、「にほふ」という表現においては、その「にほふ」、つまり照り映えるモノを具体的に歌うのが、万葉人の発想であったといえる。
 蒲生野での遊猟が行われた天智七年五月五日は、太陽暦では六月二十二日にあたる。まさに紫草の開花している頃であり、そのまっ白な清楚な花が満開の「紫野」であり「標野」であったはずである。ニホフが赤い色に限るものでないことは、

たくひれの 鷺坂山の 白つつじ 我ににほはね 妹に示さむ(9・一六九四)
馬並めて 高の山辺を 白たへに にほはしたるは 梅の花かも(10・一八五九)
池水に 影さへ見えて 咲きにほふ あしびの花を袖に扱入れな(20・四五一二)

などの白の映発の歌々の存在によって明らかである。万葉人の表現と発想からして、紫草という素材が映発する「紫草の白い花が照り映える妹」と考えるのが正しい解釈であろう。
 そうすると、「紫のにほへる妹」という表現からは、「はでばでしい愛人」などではなく、紫草の白い小さな花が照り映えるように清楚な美しさの女性として、気品のある女性が立ち現われてくる。若い頃とはまた違った静かな美しさをたたえた額田王が想起されることになる。つまり、40近い女を「紫のにほへる妹」といってのけたところに満座の笑いがあったという論は、論拠を失うことになる。


というのが坂本信幸の結論であり、私はそれを肯うものである。

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