2010年10月17日日曜日

私の病んでゐる生き物

昨日(10/15)の授業はプリントした詩が多かった。急いだが90分でも足りないくらいだった。反省。的確なコメントを寄せられると、作者は何も言えなくなる、そういう応酬があり、聞いていて面白かった。自作詩を発表させた後、作者にすぐコメントさせ、その後2、3名に批評させるやり方だと、作者の解説に縛られて、それですべてが終わってしまうという意見があったので、昨日は反対にしてみたのだった。でも両方のやり方で試みるのがいいと私は考えている。山村暮鳥、蔵原伸二郎、リルケ、ツェラン、(梶井基次郎、田村隆一)などの詩を紹介する。梶井は「ある心の風景」のなかの、

川の此方岸には高い欅の樹が葉を茂らせてゐる。喬は風に戦いでゐるその高い梢に心は惹かれた。稍々暫く凝視つているうちに、彼の心の裡のなにかがその梢に棲り、高い気流のなかで小さい葉と共に揺れ、青い枝と共に撓んでゐるのが感じられた。
「あゝこの気持」と喬は思つた。「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分或ひは全部がそれに乗り移ることなのだ」
喬はそんなことを思つた。毎夜のやうに彼の座る窓辺、その誘惑―病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、此処の高い梢にも感じられるのだった。

という大好きな部分をコピーして配布するつもりだったが忘れていた。こうして書き写していても、日本近代文学のなかで私小説が純粋詩に最も近づいた、いや最近のはやり言葉で言えば、クロスカップリングしたあとに生まれた未知の結晶体がここにあると言える。この感覚の切ないほどの凝集の頂上の不可視の部分に、女郎買いの陰惨な現実、性病の憂鬱が潜んでいる。(視ることと見えないことの対比、視ることの新しさの席捲と見えないこと、見ないこと即ち性の触れることの古さとの対比etc.)

授業を終えて、5号館から外に出たところで、千石先生に二年ぶりにばったりと遭った。
彼は今から授業。終わってから飲もうという話になって、私は図書館で時間をつぶした。ディープ池袋の片端を堪能した夜だった。それにしても千石さんのとびきり面白い話をサシで、しかもおいしくてチョウやすい居酒屋三福のホッピーや料理を堪能しながら、6時半から10時過ぎまで聴くことができたのは近来稀なる痛快事であった。そしてだ、私は千石先生の講義を来週から聴講することを許されたのである、というより私の方からそう決めたのである。講義が終わったあとの池袋居酒屋探訪の愉しみは言うまでもないが、次回はフォークナーの「八月の光」と小島信夫の「墓碑銘」を対比していろいろと考えるというのだから、その壮大さにまず眩暈がする。(千石さんによれば、その講義に出ている院生たちで、私の2008年の授業に出席していた連中が結構いるということだった。)
                     

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