2009年10月27日火曜日

センチメンタルジャーニー

「…少なくともぼくが詩を書きはじめた頃は、詩の世界に一種のコンセンサンス、あるいはオーソリティがあったと思う。それは戦後もじつに性懲りもなく続いてあった。それが七、八年前から崩れたという気もする。しかし根底から崩れたかというとこれも疑問で、マス社会、オーディオヴィジュアル社会に変わったことは認める。それならばいまは詩は瓦礫の時代なのかというと、そうともいえない。もっと壊すなら徹底的に壊れてしまったほうがいいんじゃないかと思うこともあるんです。たしかに瓦礫は大袈裟だけれども、そこまではまだいっていない。
 詩というのはどんなマス状況になっても一人一人に向かう。詩は一種の直撃力ですから、受け取る人がいるか、いないかということです。詩というものはわずかな人に向けるメッセージであるわけです。同時に、やはり一般大衆、マスに向けられている。そういう矛盾した二面性をもっているのが詩です。すべて絵画も音楽もそうですが、ことさら詩というのはその二面性がおもしろい現れ方をする芸術ではないかと思う。ポップなものであると同時に、やはりパウル・ツェランではないけれども、壜の中のメッセージで、どこに流れつくかわからないという面もある。」

1990年、その死の2年前に、詩人は上のようなことをテープにむかって語っている。ここで語られている事情は、2009年の今はどうなっているのか。同じだろうか、それとももっと瓦礫化は進行しているのだろうか。詩という「芸術」の二面性は健在だろうか?変わらぬことは「詩は一種の直撃力ですから、受け取る人がいるか、いないかということです。詩というものはわずかな人に向けるメッセージであるわけです」という覚悟にも似た詩の本質のとらえ方であるようにも思える。

この本『センチメンタルジャーニー』(草思社)の詩人、北村太郎の命日は昨日10月26日(1992年)であった。近くの図書館から借りて、昨晩読み終わったところで、そのことを同書所収のの年譜によって偶然発見したのであった。この不完全な自伝をベースに、ねじめ正一の『荒地の恋』も書かれたのだろうが、北村太郎という人の自らを遠慮無く語る力にはねじめの小説は負けていると思った。それほど明晰で容赦ない自己解剖の試みの自伝である。

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