2010年8月5日木曜日

旅人あはれ

 今日のテレビのニュースから。nhkの7時のニュースだったが、トップニュースになっている最高齢者たちの「存在の不確かさ」についてのものだった。今朝の新聞の川柳欄(朝日川柳・西木空人選)に「宿六は確か隣に昨日まで」(茅ヶ崎市・齋籐富枝)という傑作が載っていた。長寿不明者について語られるすべての文脈は、煎じ詰めれば「共同体」の崩壊 、社会の相互補助のシステムの崩壊に帰結される。これとは現象面は異なるが、子どもへの虐待でも次のように語られる、江戸時代を見よ、あれほど子どもたちが大切にされた時代はなかった、それに比して「共同体」「社会」そのものの崩壊が帰結しているひどすぎるネグレクトとそれにも増す社会や行政のネグレクト(いやイグノア)を見よ!そういうところに落ち着くだろう。私は長寿で有名な奄美の出身だが、考えたとおり、今日のニュースでは、百歳の美しい奄美の女性とその娘を出して、日本国で今流行の「長寿不明者」の、それをつくるにいたった家族間や社会のモラルの欠如を暗に批判するような演出の仕方で放送された。つまり、奄美では長寿の人々は、みな尊敬され、その人々に会うことは「拝む」ということばで表現されるほどのものである云々。私もこれには経験がある。私たちは確かに「拝む」と言ったし、そして年寄りを尊敬していた。

 私は何を言いたいのか。死者を生者と見なす究極の平等?逆に、生者を死者と見なす究極のネグレクト?いや生も死も差別はなくみな平等なのだという超越的な観念?それらから見れば、行政の無策もどうということはない、ということを言いたいのか。家族と社会一般の問題にしようとしているメディアの、あるいは行政のやりかたには同意ができないだけだ。それはトートロジーになるかもしれないが、家族や社会が崩壊していることの痛みを、これらの解説者・告発者たちは抱えていないからだ。「30年来、母には会っていません」!

私は何を書こうとしているのか。国谷裕子さんの番組(「クローズアップ現代」)も見た。ここでは広島原爆の「黒い雨」の被害地の拡大が、科学的な研究によって実証されつつあることが説得的に述べられていた。後続の若い科学者たちの地道な研究によってだ。原爆の被害と残虐さの「語られ方」の飛躍的な向上(あえて書く、もっと適切な言葉もあるかもしれないが)を私は見た。明日は、「敵」を殲滅しようとして、「敵」の国の一部である広島に未曾有の無残きわまりない破壊力をもった原爆を「アメリカ合衆国」が落とした日から65年になる。

年寄りたちは行方不明を望み、若い人たちもモラトリアムを望むしかない……
そうではないだろう。

 自ら名を隠さざるをえない理由をかかえて、それがたいしたことでもない場合があったかもしれないが、「社会」から出奔し旅に死んだ人々もいた。現在の役所はそういう人を「行路死亡人」というカテゴリーでくくっている。ホームレスの人たちか?「旅に死んだ」というのは、故郷以外の土地に死んだという意味が原義である。しかし、今や、故郷も、旅も、その意味と含意をことごとく失ってしまった。
 
 万葉集に聖徳太子の歌がある。これは推古紀の説話と同種のものである。

  家ならば妹が手をまかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ (V3・415)

 すべては、こういう真率なシンパシーからはじまるのではないか、その欠如の地獄図もふくめて。

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