2012年3月13日火曜日

喜劇

大阪府立高の卒業式で、教員が君が代を歌っているかどうか迄を監視するという喜劇が演じられた(起立、不起立の監視が主たるもののはずだが)。この高校の管理職は例の市長に報告し、お褒めの言葉を頂戴したという。03年に都立校で強制されたことが、もっとひどい、品性を疑うような仕方で行われている。卒業式はだれのためにあるのか?維新の会のために?生徒たちの高校最後の日に、3年間の様々な経験や思い出をかみ締めている生徒や教員、保護者などを前に府議などが来賓席でそれこそ自己宣伝にすぎない君が代関係の「政治」的な話をする(米長が都の教育委員をやっていたとき、園遊会で雰囲気を読めずに、全国で君が代起立や斉唱で頑張るなどという発言を天皇の前でして、天皇にたしなめられたことがあったが、恥ずかしさはそれより少ないというものではないだろう)。こういう議員は何の権利があって卒業式をぶちこわすことができるのか。君の議員生活より、長い伝統のある式を。
いつも考えることがある。それは教育というのは、三流政治屋どもの恰好の自己主張、宣伝の場であるということ。言いかえれば屑のような発言のゴミ捨て場のようなものである。カラスのように日の丸・君が代でなきわめけばいいということだ。彼らの君が代はだれのための君が代か。自分だけの君が代に決まっている。次にちょっと才気があるふりをしたいなら、「経営」者風の言説ですべてを切ればいい。その底にあるのは、「現場」の息や、生徒たちと教員がつくりあげてきた、その学校独特のスタイルに対する嫉妬と敵意に他ならない。ほんとうに、ほっといてくれよ、と言いたくなる。
「強制」、一度目は悲劇だが、二度目は喜劇だ。でもその喜劇は「きなくさい」。東北に目を向けねばならぬときに、その悲惨さにまぎれて、もっともエゴイスティックな連中が台頭してきている。

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