2012年3月27日火曜日

For indeed, the kingdom of God is within you.(Luke 17)

「悔い改めよ、神の国は近づいた」というのがヨハネの宣言なら、「神の国はあなたたちのなかにある」(ルカによる福音書17:21)というのがイエスの思想だと大澤真幸は述べ、次のようにいう。「「近づいた」(ヨハネ)ということは、神の国にまだ到着していない、ということである。「あなたたちの中に(あなたたちの手の届く範囲に)」(田川健三の解釈によるという)(イエス)ということは、神の国にすでに到着しているということを意味する。決定的な出来事を基準にして、ヨハネとイエスの相違は、「いまだ/すでに」の二項対立に対応している。問題は、このように認識の相違が、実践に関して、どのように違いをもたらすか、である。」


前者(いまだ)の認識は「最小限の余裕がある。救世主はまだ訪れてはいないので、これからがんばればよい」しかし、後者(すでに)は「一刻の余裕もなく、神の国にふさわしく生きなくてはならない。すでに到来している「それ」の意味を十全に現実化するような生き方をしないわけにはいかないのだ。それは「後で」という言い訳を決して許さない、逃れえない重責である。」という違いになる。
ここから(「神学」的な原発事故の把握)大澤真幸はどのような結論(このノートの最後に引用した)を導くのか。


「原子力」に関しての大澤のとらえ方をおさえておく必要がある。「二○世紀の中盤、平和利用された原子力の存在は、「神の国は近づいた」=「メシアはもうすぐやって来る」という福音、いわばヨハネ的福音として機能した。」だが今日の原発事故は「神の国(天国)」について何を語っているかと大澤は問い、次のように答える。「原発事故がわれわれに語っているのは、「あななたたちは神の国のはるか遠くにいる」、あるいは「神の国は存在しない」というメッセージであろう。原発周辺の共同体をそれこそ根こそぎにしてしまうほどの原発事故が何かを意味しているとすれば、…われわれが「地獄」にいることを含意する、…メッセージしかありえないように思われる。しかし、そうではないのだ。原発事故が意味しているメッセージ、それはあのイエス・キリスト的な福音、「神の国はあなたたちのなかにある」なのである。少なくとも、原発事故は、このようなメッセージを示している、と見なすこともできる」と。


原発事故のもつ、二つの対極的な意味をもう一つのイエスの言葉を大澤は引いて説明する。ヨハネに関して、イエスは激賞して「女から生まれた者の中で最も偉大な者」と述べたあとで「しかし神の国では最も小さい者もヨハネよりは大きい」と逆とも取られかねない一言を付加したという。「つまり、神の国では、地上で最も偉大な者が、最小の者に反転するのである。この反転は、原発事故のような最も悲惨な出来事が、神の国の到来を告げる最良の福音になる、という転回と対応している。」と大澤は書く。ここからどのような結論が得られるか。


(結論)「事故は否定的な仕方で―悲惨な災害を媒介にして―、「神の国」の到来を告知した。この場合の「神の国」とは、原発を必要としない社会、原発への依存を断った社会である。われわれは、今すぐに動き出さなくてはならない。…仮に、今すぐに原発をすべて停止したり、廃炉にしたりはできないとしても、停止を決断すること、明確な期限の付いた停止を決断することならばできる。「いつまでに停止する」ということ、できるだけ短い期限を設定した停止ならば、直ちに決定することができるはずだ。これがなすべき第一歩である。イエスは、こう言っている。「手を鋤につけてから後ろをふり向く者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)と。手を鋤につける、とは神の国に入ってしまった、ということである。もはや神の国に入ってしまったのだから、後ろを顧みるわけにはいかない。原発に未練を残すわけにはいかない。」


この結論にいたる論証のための具体的な例として、ヨブ記のヨブや、「江夏の21球」の江夏投手!などが持ち出される。言いたいのは、イエス・キリストがヨハネとは違い「革命家」にならざるをえないということ、「神の国に到着してしてしまったときの人間の重責の担い方を、身をもって示している」ということの例としてである。江夏は広島の優勝という神の国のただ中にいて、彼にしか投げられないウェストボールでスクイズをはずしたのだという。「江夏にとって「優勝」は、あらかじめ果たされている約束であり、これに現実という実質を与えるのが彼の使命であった。」江夏はイエスであったと大澤は言っているのだ。ヨブがイエスと類比的なのはすぐわかる。大澤真幸は、すでに、神の国が到来しているということ、「救世主はすでに来た」という宣言こそが、「まだ訪れていない…これからがんばればよい」という預言よりも「はるかにおそろしい啓示」であるという、彼の「神学」のポイントがここにはあるのだろう。


小島きみ子さんの「タッチ」という詩(エウメニデスⅢ)を読んで、そこに出てくる聖書のことばやリルケのことばに触発された。小島さんが出されている「空しさ」と「永遠」という問題は聖書的、神学的な問題のみならず、われわれの日常の生き方の問題でもあるが、それをどう考えていけばいいのかも「タッチ」を読みながら思ったこと。また大澤真幸の論旨とも深いところで呼応しているとも思った。「風にカラカラと戦ぐポプラのように」、わたしの「魂」に「届けられた」言葉にありがとうと言いたい。

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