2008年7月29日火曜日

東京国立博物館へ行く

東京国立博物館へ行く。『対決―巨匠たちの日本美術』。運慶と快慶の地蔵菩薩の坐像と立像からはじまる展示は人の波にもまれながらも、たしかに眼福といえるものを享受した時間だった。この地蔵菩薩は両者とも神品というしかない、雑踏のざわめきを瞬時に凍らせるような静かで冷たい輝きがあった。漱石が『夢十夜』の第六夜で次のようなことを書いていたのを思い出した。

「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独り言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」と云った。

この「若い男」の言は、同じく展示されている円空と木喰の仏たちにもあてはまるものだろう。末世の、「対決」などという企画を、これらの地蔵や観音菩薩たちはどういう思いで彼岸から眺めているのだろうか。

私は解説を読むのをあきらめて、とにかく見ることにした。

雪舟の『慧可断臂図』に驚く。面壁の、人間離れした「達磨」に向かって、不退転の意を自ら切断した左腕を差し出すことにこめて慧可が弟子入りを乞う。二人を覆う岩窟は牢獄のようでもあり、人知を超えた時空、三千世界とカルパがそこに凝縮したかのような趣でもある。人と人が向き合うこと、その欠如に脅えている現代の娑婆は、この時空のどこに居場所を持つことができるのだろうか。青ざめた慧可の凛とした輪郭、でもその師よりも半分の姿態に描かれることによって、絶対的な区別が生まれ、関係の絶対性とでも呼ぶべき宗派のエネルギーのマグマがここに定着されている。

雪村の、魂を飛ばす男も心に残る。

永徳に対して、等伯の機略に満ちた繊細さ。

総合芸術家であり、芸術サロンの主宰者のような存在としての本阿弥光悦。宗達が下絵を書き、それに光悦が和歌を書いた巻物や断簡、これは宝くじに当たったら買いたいと思った。

一番、こころにとめたのは蕪村の作品。これらを見ることができてよかった、展示の場所では最後の方にあったから、やっとたどり着いたという思いと、でもこれに癒されたいなどとつゆ思わなかったけれど、どこかしら匂うこちらの私心を打ち砕く「労作」なのだ、ということが今日実物を見て分かった。当然のことだ。そう、『鳶鴉図』に痛棒を食らったのだ。しかし、鴉が二羽並び、舞い落ちる雪を眺めている、そこで時間は完璧に止まっている、というのは、すべての生が無言のうちにしずかにゆるされている、という詩人のメッセージなのではないか、「ほー」とつめていた息を私は吐いたのだ。

二時過ぎに、アメ横の食堂で、アナゴの天ぷら丼650円を食べて、片倉に戻った。


 
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4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

banさんの感想、読めてよかったです。雪舟の断臂図、すごかったでしょう? 暑い夏、ほとんどあの一角あたりだけ、冷え冷えしていた感すらありました。

ban さんのコメント...

暑かったけど、行ってよかったです。
女房は介護のために行けなかったので、今度は二人で行こうかとも考えています。

ほんとうに雪舟の断臂図はすごかった。

匿名 さんのコメント...

これ見たいと思っていました。
期間中に行きたいなあ。

ban さんのコメント...

mizさん

ぜひ行って見てください。なかなかのものです。俵屋宗達の「風神雷神図屏風」は、ぼくの参観したときは展示されていませんでした。たぶん8月からは展示されると思います。展示替えも期間中にあるということがわかりました。おそらく8月からは最後のクールなので、新しい展示などがあると思います。

夜の寝苦しさはようやく過ぎて、涼しいですが、日中の暑さはまだすごいです。健康に留意して働いてください。

先日asiaticさんから、ぼくの「片倉の夏」という詩に対する「返詩」がおくられてきました。そのうち、これもここに掲載しましょう。