2008年7月10日木曜日

梅雨の果て

うすあかねして夕雲や梅雨の果て (原 石鼎)

この句を思わせるようなあかね雲が散歩の終りに見えて、梅雨も明けるのかなと思った。
あっという間に7月も中旬。答案の束をかかえて採点地獄が始まる。三十五年にわたり、こういうことをしている。
 
○ 大分の教育委員会の収賄事件。現場からの賄賂。それはしかしなんと悩ましい、やるせないものかとも思う。構図ができていて、その構図に載ることが死活問題になる。どういう構図でも、その構図が支配、権力のがわにあれば、それに乗る、載るかそうでないかの選択肢かしかない。その親玉の文科省が、結局はそういう構図を描いてきたわけだから、率先して支配してきたわけだから、このような事件は、事件としての明徴(賄賂・収賄)の違いはあれ、徴のない無意識のなかでも、教育委員会は「偉く」、なんでもでき、現場はそれに従わざるをえない、というような刷り込みができている。それは幻想にすぎないのだが、事実としてもそうだから厄介だ。ここ東京の委員会は収賄はやっているかどうかよくわからないが、もっとひどいことをやっている。現場を現場として認めないということを、職員会議では手をあげて採決するな、などという命令で実践しているからだ。「先生」とは、この「格差社会」のなか恵まれていて(だから賄賂も横行するのだろう)ワーキングプアーではないかもしれないが、精神的なその寄る辺なさでは同じではないかなどと思う。もちろん大分での管理職クラスの「事件」とは無縁に、日々生徒たちと格闘している本当の「先生」のほうがずっと多いのだが、彼らだって、敷かれ、強いられた幻想の構図から完全に自由であるということではないだろう。前のどうしようもない首相のときにどさくさにまぎれるようにして多数をたてに、基本法が「改悪」され、わけのわからない諮問委員会も作ったが、その答申の最悪のものは「教員免許の更新」というものである。免許証の更新のように、車検のように、こんなものを作ることで、それに群がる「権益」なるものが生じる、そして、そこではまた新たな「事件」が予感される。この制度の動機自体が、はなから現場の「教員」を虫けら同然に線引きすることでスティグマ化したものである。「教育」は、そうでないあらゆるものと二項対立的に意識化されることで、都合よく理想化されたり、ゴミダメ化されたりを、ここ何十年とやらされてきた。明治以来というのが正確だが。もうすこしみんなが肩の力をぬいて、「先生」が目前の生徒たちとゆっくり語りあうことを許してもいいのではないか。そこからしか「論語」のような世界は開けないのだから。これも幻想にすぎないが。

○ サミットが終わった。航空機を使用したテロが行われた場合を想定して、イシバくんたち防衛賞(省?)の面々が図上演習を行い、最悪の場合はその航空機を撃墜するというシュミレーションだったという。公共放送を名乗る某局が7時の全国ニュースで得々と発表している。「アホか」というのが、私の最初の発声である。この局のいつもの「刷り込み」に対して。次に、本当にそうだったら、この面々の「お遊び」を「公共」のものとして聴かざるをえないわが身の奴隷状態に対して。税金など払いたくないとつくづく思う。某局に対するお足も。他にやることが一杯あるだろう。

○ 数句。

We must love one another or die. ( W.H.Auden)

サミットなぞ梅雨の晴れ間のたわごと

頂きと自らを呼ぶ醜さよ

アイヌピト(人間)殺しつくして温暖化

ポチセ(子宮)思い洞爺湖凍らず黴雨もなし

梅雨けしと一人泣きつつ千年紀

アチャ(父)ウヌ(母)ポ(子)ミッポ(孫)イルワク(兄弟姉妹)
生苦き

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