2009年5月16日土曜日

五月十六日

「ことし、元禄二年にや、奥羽長途の行脚ただかりそめに思ひたちて」と、とうてい「かりそめ」ではない周到な推敲・斧鉞の末の作品『おくのほそ道』のための「行脚」に芭蕉が出立したのが、今日を遡ること丁度320年前であった。元禄2年、弥生も末の七日(陰暦の3月27日)は太陽暦では1689年の5月16日にあたる。日数百五十日、全行程6百里(2400キロ)の旅の始まりの日が今日である。芭蕉46歳、曽良41歳。終着地である大垣に着いたのは8月20日(10月3日)。
その出立の今日の日、見送りに来た門人たちとの別れの句として作品『おくのほそ道』に掲載されるのが、

行く春や鳥啼き魚の目は涙

今朝、散歩の途中で、この期日のことを思いうかべた。帰ってから、こうして記念に書きはじめたが、これ以上書くこともない、……

最近考えたのは、芭蕉という人間とその書きもののことだが、この二つが(切り離させないけど)もしなかったとしたら、日本の文学は今とは全く異なった景観を呈していることだろう、というようなこと。その強さと鮮やかな輪郭を今ぼくは勉強しているつもりだが、読んでいてこちらの頭がはっきりしてくる気がするほどだ。こんな長大な旅(これだけではない)をやってのける人だから、強さは当然かもしれないが、そのエクリチュールの輪郭線の広がりと深さとしなやかさと、ぼくの言語では言い尽くせないほどのフィギュールの多彩さなどの、要するに「自然」と「巧みさ」との渾然一体としたあり様に、その姿のただならぬ様にひかれる、というようなこと。

夏にアメリカに行く。7月の終わりに出発して、8月の終わりまで。その旅を、「おくのほそ道」のようなものに変えるエネルギーと知識はないけれど、なんとかアメリカを詩の世界からとらえてみたい。アメリカと芭蕉を結びつけて考えたい、というようなこと。

キーン先生は、芭蕉の旅日記について、次のようにまとめている。
「…芭蕉の日記に見られる情報の空白は、数々挙げられる。だがそれをいったところで、私たちが当初から知っていたこと、すなわちこれらの日記は、単なる旅の記録ではなく、文学作品として書かれたのだ、という事実を、それは証明するのみなのである。なぜ日記を書いたか、またいかなる読者を念頭に置いていたか、芭蕉はどこにも言っていない。だが、彼がそれに気づいていたにせよいなかったにせよ、芭蕉は、すべての時代、そしてすべての人のために書いていたのである。」(「百代の過客」)この「すべて」は、もちろん日本、日本人だけではないということだ。

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