2009年6月8日月曜日

軒の栗

芭蕉と曽良が白河の関を訪れたのは元禄2年、陰暦の4月20日、陽暦に直せば6月の7日である。昨日にあたるわけだ、そういうことに一々慨嘆するのは年のせいか。ここの文章も短い中に、古歌のコノテーションを十二分響かせている。引喩と「本歌取り」の文章。いよいよ陸奥の入り口であるという意味で、場所としては重要な所なのだが、一字一句たりともおろそかにしない彫塑された短い文章で、わりとあっさりとした感じでこの関所を越えてゆくという印象がまず私には強い。しかし、その短いなかで、直接言及される歌人・古人とその歌は五指にあまる。それらがまた様々な歌の「関所」を喚起するから「風雅」の広がりと連帯は時空を越えることになる。自句を載せないで、同行曽良の「卯の花をかざしに関の晴れ着かな」にとどめているのは、おそらく次の「須賀川」の項との関連対照を考えたのだろうが、松島でもそうだが、わざと自らを沈黙させることで言葉を越えた感動を表現したいかのようでもある。「白河の関にかかりて旅心定まりぬ」という言葉、古歌の洪水を芭蕉なりにしかと受け止めた一句である。

とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とヾめらる。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。

  風流の初やおくの田植うた
 
無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつヾけて三巻となしぬ。
 此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやと閒に覚られ、ものに書付侍る。其詞、
      
      栗といふ文字は西の木と書て、
      西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生
      杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

  世の人の見付ぬ花や軒の栗


須賀川の項を全文引用したのは、ここが好きだからという簡単な理由。裃をつけた全力投球の挨拶句という感じがする「風流の初やおくの田植うた」(これを出すために、白河での沈黙があったわけだ)よりも、拾遺的に書きとめられた後半部のアダージョの調子(詞書きがとくに好きなのだ)で書かれた「大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧」の話に惹かれる。これを読むと、「栗」という字を一生忘れることができなくなる。また「軒の栗」というモチーフが隠者のシンボルめいて表象されるのは歴史があるのだろうが、それはさておき、私はこの場面を描いた蕪村の絵の虜でもあることを告白しよう。芭蕉たちは元禄2年4月22日~29日までここに滞在した。
 

与謝蕪村筆「奥の細道画巻」(逸翁美術館所蔵)
        (隠者可伸と栗の木)

 
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