2009年6月22日月曜日

その余はざつ音のみ

土曜日の、思潮社の「現代詩手帖創刊50年祭」のイベントで、吉本隆明は西行法師のことを語った。西行法師と高村光太郎が好きだと言ったのだが、西行法師のあるエピソードをとても楽しそうに話してくれた、そのことがずっと心に残っている。

『吾妻鏡』が伝える69歳の西行晩年の話だ。東大寺の再建勧進のために西行は再度の陸奥への旅に出る。彼の一族である平泉の藤原秀衡に沙金の勧進を願う旅だった。西行の絶唱、
 年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山

の詞書き「東の方へ相識りたるける人のもとへまかりけるに、小夜の中山見しことの昔になりけるを思ひ出でられて」の―相識りたるける人―とは秀衡のことと言われている。

この最後の旅の有名な逸話として、西行は鎌倉で頼朝に会う。というか、頼朝が一人の老僧に会い、不審に思い、梶原景季に確かめさせ、西行とわかり彼を招いて会談する。歌道と武道(弓馬のこと)について頼朝は質問したという。 西行は次のように答えたという。―弓馬のことは在俗当時の初めには、なまじいに家風を伝えていたけれども、保延三年八月に遁世した時に秀郷以来九代の家に伝えてきた兵法の書は焼失してしまった。罪業の因となることであるから、全く心底にとどめおかず、みな忘れてしまった。詠歌のことは、花月に対して動感の折ふしにわずか三十一文字を作るばかりであって、奥旨などは全く知らない、云々―と。

このあと頼朝は銀の猫を贈り物として西行に渡したのだが、明くる日の正午に西行は引き止められたが退出し、その贈り物の猫を門前で遊んでいた子供に投げ与えたという。

この話を吉本さんはなにか遠くを見やりながら、でもこれが今の自分にとっては一番切実だというような感じで話された。まあ、いろいろ吉本さんの、このときの講演についてはこれから言われるかもしれないが、私はこの西行のエピソードを吉本隆明がこの現在に話したということ、そのことの意味をゆっくりと自分なりに考えていこうと思う。

「その余はざつ音のみ」(吉本隆明の、このイベントに寄せられた言葉の中より、その文脈を無視して引用する)

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