2009年7月23日木曜日

大隠は朝市にあり、小隠は丘岳に入る

 
市中であれ、岳林、山林であれ、俗世(間)から「遁れる」とか「隠れる」というのには 、世間に対するなんらかの異和感、抵抗、諦念、敗北感、復讐心、抗議、ひょっとしたら、闘争の意識―たとえあまり自覚的でないとしても―さえ場合によっては秘められているかもしれない。もしそうなら、それらを徹底して隠すことであらねばならない。徹底しなければ、隠すべき対世間への意識の一部が外にもれてしまう。一方もらすことでただ凡庸なだけの者、あるいはたんに風変わりな者でないとの表示―世間への対抗を示したり、スネていることを示して、隠者ぶる、スネ者ぶる、反体制ぶる手合いももちろんある。
(『隠者はめぐる』富岡多惠子・岩波書店)


先日読了した本だが、富岡多惠子の『隠者はめぐる』は、ああでもない、こうでもない、と、いわゆる「隠者」「隠士」をめぐり、エッセイの醍醐味を著者本人自身が味おうというような ゆるいスタイルで書かれた「隠者」論だ。私も眠りに落ちる前の読書として、布団のうえで気儘に読んだ。扱われてる「隠者」たちの中心は契沖である。そのことが私の興味を引いたことの主な理由の一つだった。大著『万葉代匠記』の学僧。このタイトルの「代匠」とは、師匠に代わって、という意味だが、その師匠格の下河辺長流が光圀の水戸藩から万葉の注釈を頼まれていた、全部はできなかった、それに代わって契沖があとの仕事を完成させたということから付けられた名前である。その二人の交流、長流は契沖より十六歳年長であったが、二人の詠み交わした和歌からみると、そういうことは感じさせず、二人の親密な友情(むしろ恋情というほうがふさわしい)がうかがわれる。富岡は二
人の歌などから、同性愛的なものを、そこに見いだすのだが、それは彼女が『釋迢空ノート』でやった信夫と無染のそれの追求を思わせるが、なにしろこれは江戸時代前期の人の話であって、そこまでは行かない。契沖という「隠者」、彼は僧侶だから、まず出家という形で、世間を離れ、そのあとやはり「世間」と似たようなものであったとどこかで覚悟したのか(これは秘められているが)、専門僧侶としての、住職などの仕事から離れる、というように最終的には「二重の遁世」をした人であるというのが富岡の考えだ。専門僧侶の仕事を離れて、学問と歌でどうにか生活できたのは水戸藩からの毎年十両のボーナスのせいであったというのも、富岡が言っていることである。つまり「隠者」を支えたものはやはり金であった。しかし、この十両のボーナスのことを死ぬまで契沖は恥じたらしい。それが契沖という人の特異なところで、富岡はそこに惹かれたのだろう。冒頭に引用したような「隠者ぶる、スネ者ぶる、反体制ぶる手合い」ではなかったというところが彼女のお気に入りの隠者ということである。なにかを「徹底して隠した」人でもあろう。次の歌は何の技巧もない、それ故契沖の長流に寄せる思いがよくわかる歌である。

我をしる人は君のみ君を知る人もあまたはあらじとぞおもふ

(日録)
昨日は久しぶりに禁酒した。その前、連日飲酒の機会があったので、楽しかったが結構疲弊した。ところが今日は一日空けただけなのに、飲みたくなる、で、ビールと黒糖焼酎。
雨か晴れるか分からない天候の中を、女房と八王子へ。夏の友人との旅行のための新幹線などの切符を女房購入する。この夏はお互い別々の行動という初めての経験。
クマザワ書店で新しく出た岩波文庫『対訳 イェイツ詩集 高松雄一編』を求む。
そのあと、花マル?うどんで、温玉うどんの冷たいのを食べる。すっかり雨。

先日、NYCの湯浅さんから、すばらしいメールを頂戴する。例によって、無断だがここに転載しておく。どうして、こういう英語が書けるのか、私はいつも感動しないではいられない。私のアメリカ旅行の計画に対しての返信。


Mr. Mizushima,

That sounds like a great plan. While you are in Texas, I hope you get to go to San Antonio and Austin. I love visiting Spanish missions in San Antonio (not just the Alamo mission) and Austin is my favorite Texas city (and the UT, one of my favorite campuses). When I lived in Dallas, I used to visit these two cities quite often. A tour of the Faulkner's South should be interesting too. The gentility and poverty, decay and neglect, a great deal of cruelty - looking back (in time and space), the South, the land of my youth, stirs within me a lot of fond memories but also a little bit of chill. But then, Atlanta has changed so much in last 15 years that I hardly recognized it on my last visit two years ago. (Only things that were constant were light that played on young leaves and the dark quiet water of the Chattahoochee River). The greater South may have transformed itself too-- with the old wounds of poverty and injustice less visible. The South I know is a beautiful place with large milky flowers of magnificent magnolia trees and millions of fireflies that dance summer nights away.

Have a great time with your daughter and your friends in Dixie.

Best,

Mashiho

2 件のコメント:

takranke さんのコメント...

banさま、

標題の、大隠は朝市にあり、小隠は丘岳に入る
とは、一体いかなる意味なのでしょうか。

お教えいただきたく。

ましほさんの英文、素晴らしい。わたしもそんな英文を書きたい。しかし、これは、こころの問題なのだな。ドイツ語で、そんな文章を書いてみたい。夢のまた夢か。

ban さんのコメント...

真の隠者は、実はこの朝市(市中)にこそ、そしらぬ風情で隠れ住み、偽の隠者ぶる連中(小隠)こそ、わざとらしく人里離れた丘や山などに隠れ住むものだというような意味だと思います。白氏文集のなかにある白居易の詩の一節らしいです。